星羅棋布





花の宵、月曇り

鈴蘭    【2/2】 




 カタリ、
 数刻の後に聞こえたかすかな物音に、妙香花仙達かと思い振り返った東雲はすぐさま居住まいを正した。
「御無沙汰しております。錦花仙帝さま、今度はお招きありがとうござます」
 それは全ての花を統べるこの華恭苑の主人、錦花仙帝その人であった。従者の一人も連れず、壮麗な姿に圧倒されたように東雲は膝を折った。彼は緑仙の末皇子として、行き過ぎるほど行き届いた躾を受けていた。それゆえにこんな場にも淀みなく挨拶の言葉が語れた。
「そのように堅苦しくなさらずともよろしいのですよ東雲さま。私こそお会い出来て嬉しゅうございます」  涼やかな声。鈴を鳴らすような、という形容はまさにこの女性に相応しい。ただでさえ女人の少ない神扇山に育った東雲には眩しいほどに華やかなお方であった。
「兄上さま方にお手を引かれていらしたのはついこの間のことですのに、すっかりご立派になられて、さぞ永輪樹帝さまもご自慢でございましょう」
「いいえ、私などはまだ勉強中の身です……」
 深々と礼する彼の肩に、しなやかな彼女の手が優しく置かれた。思わず顔を上げた東雲を慈愛に満ちた瞳が見つめていた。
「本当に、お楽になさって下さいませ。それより……お顔の色が優れないようですが、何かお心にかかることがおありなのですか」
「………いいえ――」
 否定の為に口を開き、顔を上げた東雲は、すぐに俯いた――
「いいえ、少し……気が鬱ぎがちなだけで、何も………」
 心配をおかけするようなことではない、と首を振る。
「この時期は、いつもなのです。すぐに治りますから……」
 兄上たちにも話せなかったことを何故に告げてしまったのか?それは彼に背伸びをしなくても良いと、暗に示してくれる彼女の母性に屈したからかもしれなかった。
「この頃には、いつも、なのですか。―――そのようにご気分が………?」
 答える彼の肩に置かれた錦花仙帝の手に力がこもる。見上げた東雲は無言のまま、ゆっくり頷いた。
「全て私が未熟なせいなのです。……兄上さまたちがご立派にお役目を果たしておりますのに、我が身が余りに情けなくて――ですから気の鬱ぎなどという泣き言を……」
「東雲さまはまだお小さいのですから、お兄さま方のお年におなりになればお役目も頂けましょう。そのように気負わずともよろしいのですよ」
 宥める錦花仙帝の美しい形の眉が微かに歪む。何か痛ましいものを見るかのような彼女を彼は不思議に思う。
「ですが、……弟は、同じ年でありながらお役目を与えられていると聞きます」
 そう彼が口にした時、錦花仙帝の眉が一層に歪んだ事を自分の思いに捕らわれていた彼は気づかなかった。
 東雲が双子の弟のことを知ったのは、そう昔のことではない。従者達の噂話が耳に入り、五百重に訊ねもした。その時兄は『大事なお役を果たしている』と教えてくれたのだ。
「それに引き替え‥‥私だけ幼いなどという理由で――――錦花仙帝、さま……?」
 誰にも打ち明けることの出来なかった胸中を吐露する彼を、良い香りが一杯に包み込んだ。不意に抱きしめられた驚きに、東雲は躊躇いがちに彼女の名を呼んだ。
「良いのですよ。――こうして、東雲さまがお健やかにお育ちになられることも、どなたにもお出来にならない大切なことなのですから。……永輪樹帝さまやお兄さま方もそう思っていらっしゃいます」
「……………」
 錦花仙帝の包容と、心に沁みいる声音を受けながら彼は何と答えて良いかわからない。耳元でシャラ……と、彼女の冠の飾りが音を立てた。
「ですから、お心を強くお持ちになって下さいませ、いつでも皆が心をかけていらっしゃることを。もちろん、私もですよ」
 美しい面を上げて東雲を見つめ微笑む。彼がおずおずと呼びかけた時、
「…………錦――」
 バタン……!
「蕾、なんと乱暴な………失礼ではありませんか」
 大きな扉の下に仁王立ちになる花の皇子は、母上の咎めも聞こえぬかのように大股で近づいてきた。まだ、錦花仙帝の衣を掴んだままの東雲の前に止まる。と、
「………っ!」
 無言のままに彼を突き飛ばした。 「東雲さま………! 蕾、そなたは何という――お怪我はございませんか?!」
 何の心構えもない行為に尻餅をついた東雲を抱き起こす錦花仙帝は、息子を叱責した。東雲は理由もわからず彼女に手を引かれて立ち上がった。
「はい、……大丈夫です」
「お謝りなさい、蕾。私はそなたにそのような礼儀は教えておりません」
 錦花仙帝の不興はますます強まるが、蕾は唇を固く結んで平然としている。慌てたのは東雲の方だ。
「私は何ともありません。ですから錦花仙帝さまも……」
「何故、貴様が怒らない」
「えっ…………」
 今まで無言でいた蕾が、挑むように東雲に問う。
「オレは貴様に乱暴を働いたのだぞ、女人に庇われるままで良いのか?」
 言い捨てた花の皇子は、それで彼への興味をなくしたのか錦花仙帝の前に跪いた。
「お邪魔いたして申し訳ありませんでした母上、お客人」
 一転して礼をつくして見せ、彼女に何もいう隙も与えずに立ち去った。
「蕾……!」
 呼び止める声が届かぬと知り、彼女は深くため息をついた。
 その一連のやりとりに東雲は呆気に取られていた。彼は父や兄たちとこのように接したことはないし、多分これからもないことだろう。その遠慮のなさに少々羨ましい気さえ覚えた。



 その日、三度目に顔を合わせた蕾はあからさまに呆れてみせた。
「懲りん奴だな、貴様も」
 庭園の草原に寝転がる花の皇子は、東雲を顔を見るなりそう言ったのだ。だが、そんな出迎えも覚悟していたことだったので、東雲は平静に続ける。
「蕾さまにきちんとご挨拶しておりませんでしたので。永輪樹帝 第八皇子、東雲でございます。本日は良い一日を過ごさせていただき、ありがとうございました」
 顔をしかめる蕾は、億劫そうに半身を起こして彼と向き合った。
「――嫌味な奴め、やっと帰るのかと思うとせいせいするわ」
「――はい、では失礼いたします」
 それだけを告げにきたのだと、踝を返そうとする東雲の耳にその呟きが届いた。
「母上も、薫も………永輪樹帝さまの末皇子はご立派だというから、どんな奴が来るかと思えば、」
「―――どんな奴がきたのですか」
 いい加減慣れてきた彼はむしろ面白がって訊ねていた。肩越しに東雲を振り返った蕾は、話の腰を折られて不快がっているように見えた。
「侮辱されても平気でいる、とんだふぬけだ――さぞや永帝の皇子として甘やかされたのだろう。――とてもまともに相手にする気にはならん」
 あまりに続く理不尽な物言いだが、不思議と東雲は怒りを憶えなかった。天界随一の悪童と、噂の高い蕾と組み合う喧嘩など端からする気もないし、
「そうおっしゃられても……今の私は第八皇子という立場でしか己の証を立てられません」
 自嘲気味に言う彼に蕾は思いきり鼻を鳴らした。
「気にいらん! 礼儀がどうの、証が何だの、そんなものは自分で決めれば良い。だからそんな生っ白い面をしておる」
 確かに、この花の皇子ならそうなのだろうが、人には向き不向きもあろう。東雲は苦笑せざるえない。
「貴様、人の話を真剣に聞かんか!」
 短気な蕾が、そんな彼を一喝する。東雲は慌てて口元を引き締める。
「承っております。……私がお役目を頂いた折りには、蕾さまに認めて頂けるのを励みに精進いたします」
「ばかめ、百年早い―――まずは、その気色の敬語をやめろ、貴様に言われると莫迦にされている気がするわ!」
 まったくもって勝手なことを吐き捨てた蕾は、再び横になり彼の存在を無視した。



「華恭苑はどうであった」
「はい、とても美しく、楽しいところでございました。皆様にもとてもよくして頂きました。それに――蕾さまには色々教えていただきましたし」
「ほう…? そうか。それは良かったな」
 弟の報告に意外そうな顔をする五百重に、東雲は無邪気に微笑んだ。


 その一日だけで、東雲の心はどれほどめまぐるしく変わったことか。日々、毎日がこんな有り様であったなら、気の鬱ぎなど感じている間などない。
 華恭苑での出来事をを思い浮かべるたびに彼の心は晴れ晴れとした気分に満たされた。
 もう彼は独りで心を曇らせることはないのだ、この怖しいほどに美しい月の夜にも――


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