星羅棋布





忘憂草

東雲明日香    【1/5】 



    

 一、 雨の日

 低くたち込めた雲から、天の涙がぽつりぽつりと落ちてきた。頃は夕暮れ、勢い暗くなった路地に街灯が灯りはじめている。青みを帯びた蛍光灯の光に照らされた色白の面を空へ向けて、東雲はしばらくそこに立ちすくんでいた。出掛けに英子に渡された折り畳み傘は鞄の中にあるが、川原田透のマンションはもうすぐそこだから出さずともよいだろう。それよりも、この雨を受け止めていたい……そんな感慨に捕らわれていたのだ。

 「よぅ、東雲。遅かったじゃんかよ」
 透が玄関を開けると、傘も差さずに来たらしい東雲が濡れそぼった様を見せた。
 「すまなかったね。雨が降ってきたものだから、」
 濡れていたんだ、などと続けられる訳もなくそこで言葉を切ると、透はうまく誤解してくれたらしい。
 「雨宿りでもしてたのか?にしちゃしっかり濡れちまったな。今タオル持ってくるから待ってろよ」
 言って透はタオルを取ってきて東雲に渡すと、居間へ上がるよう促した。

 東雲は東皇使――地上に春をもたらす天の使い――である。天界の聖仙でありながら、留学ということで人間界で暮らしてもう数年になる。そんな東雲が訪ねた高校のクラスメイトの透は、このマンションで一人暮らしをしていた――過去形だ。今では同居人が二人いる。東雲と同じく天界の聖仙である蕾と薫である。ふとしたことから透に事情を知られることになり、透が二人を引きとって(?)暮らしている。東雲自身は以前から田科という植物生理学の博士のもとで暮らしていて、東皇使としての役割以上に人間界に慣れ親しんでいるという状況である。

 「いらっしゃいませ、東皇使さま」
 こんな日には具合を悪くしているのが常である薫が、居間へ上がった東雲に声をかけた。やはり顔色が良くないようだ。
 「薫どの……起きていてよろしいのですか?」
 「えぇ、もう休ませていただこうかと思っているところですが、蕾さまがお戻りにならないので……」
 今日の薫の不調は、天候のせいというよりも蕾の不在によるものらしい。東雲はやれやれとため息をついた。
 「相変わらずですね。でも大丈夫ですよ、じきに戻ってくるでしょう」
 「そうでございますね。あ、お茶でもおいれしましょう」
 東雲の根拠のない予測にうなづいて、薫はキッチンへ入っていった。
 「あーいいよ薫さん、俺やるから座っててよ」
 声を掛ける透と、その言葉に甘える薫を見て、東雲はこの不思議な共同生活がうまくいっているらしいと実感する。事情を知った上での状況なのだから当然ではあるのだが、それよりも透という人間の素の部分に、蕾も薫も――そして自分も――居心地の良さを感じてしまうのだろう。

 居間に戻った薫は、ソファに腰を降ろして東雲の所作を見守った。東雲は鞄から教科書やファイルを取り出して並べている。
 「今日は、どうなさったんですか?」
 東雲はくすりと笑って、
 「追試なんですよ、透もですけどね。それで一緒に試験勉強ということになったんですよ」
 「追試?東皇使さまがですか?」
 薫はさも意外そうな顔をする。幼い頃から聡明な皇子として天界に名を馳せていた東雲らしくない。
 「先頃、天界へ戻っていたでしょう。丁度試験期間に当ってしまっていて、欠席になってしまったものですから。透とは事情が違いますよ」
 「それはそれは……。透さまは、どのような事情で?」
 「ハイ薫さんお茶。ひでーな東雲。理由なんて別にいーじゃんかよ。俺だって、初日は欠席なんだぜ」
 ハーブティーを入れてきた透はまず薫にカップを渡すと、東雲の分は多少乱暴にテーブルに置いた。東雲は上目遣いに片目をつぶってみせた。
 「それは失敬。じゃ、お茶を頂きながら始めますか」

 二人が欠席した初日の科目は数学Bと英文法と古典。実際の試験問題と教科書を見比べながら、東雲がヤマをかけていく。
 「優等生でもヤマかけるんだなぁ」
 透が感心したように東雲の手元を覗き込む。
 「私は別にどこを出題されたって平気だよ。でも出題傾向を」
 「勘ぐった方が楽でいいって?」
 「そうじゃなくて、どうせなら当ててみるのも楽しいじゃないか。」
 やはり、優等生というのは何を考えているのか分からない。
 「数学Bはこれでよしと。次はグラマーか、」
 東雲は英文法の教科書を手に取った。透はへいへいとぶっきらぼうに相づちを打って、珍しく持って帰った教科書を広げた。
 「グラマーちゃんとなら付き合いたいけどなぁ……」
 「馬鹿言ってないで、豊住先生は数で攻めてくるから大変だよ」
 「そなの?」
 「そうだよ。定期試験の方は山崎先生だったから追試は豊住先生だね。あの先生ならきっとこのあたり……」
 ぱらぱらと教科書をめくる東雲が本当に楽しそうなのを見て、透は妙に気が滅入るのだった。透がふと顔をあげると、
 「あ、」
 丁度東雲の背中にあたる位置のソファで、薫が寝入っているのだ。東雲は口元に指をやって声を立てないよう告げ、側にたたんであった毛布をそっと薫に掛けると、透に顔を寄せて尋ねた。
 「蕾は街へ行っているのかい?」
 「だと思うけど……あいつも傘なんて持ってないよなぁ」
 ため息を交えた憂い顔で窓の外に降る雨を見て、東雲は鞄から折り畳み傘を取り出した。
 「私が蕾を探して来るよ。君は薫どのを見ていて。グラマーのヤマは大体かけておいたから」
 「俺も――あぁ、そうだな。分かった。……しかしお前、なんで傘持ってたのに差して来なかったんだ?」
 透の言葉は後半あきれかえっていた。あんなに濡れてんのに傘を差さないなんて馬鹿じゃないか?
 「私はいいんだよ。しかし蕾はあまり雨に当たりすぎると良くないから」
 「花仙と緑仙じゃ違うってハナシ?」
 「まぁそんなところだよ。雨は草木には恵みをもたらすものだが、花を凍えさせるものでもあるからね。じゃ行ってくるから」
 言って東雲はまた傘を差さずに雨の中へ出ていった。

 「止まぬな……」
 少々の雨なら平気だし、いざとなれば翔べばいい。雨宿りするとかしないとかの前に、いつになく負けも込んでいるしそろそろ瀬戸際かと蕾が思っていた頃だった。
 「止めるのは君の方だと思うけどね、蕾」
 「――何しに来た、」
 背後から覗きこむ背の高い影に、蕾は毒づいた。どうしてこうこやつは人を苛々させる物言いが得意なのだ? 東雲はそんな蕾を意にも介さず、耳元に顔を寄せ、低く調子を落とした声でささやく。
 「薫どのが心配して待っていたのに寝入ってしまわれたよ。雨も酷いしそろそろ帰ってはどうかね?」
 今、そう思っていたところだ。そう言ってやりたいが言ってしまうのもなんだか癪に触る。返答を一瞬迷ったその隙に、
 「うわぁぁぁなんだこやつわッ! おのれ機械の分際で!」
 蕾がやっていたのは「落ちゲー」などと呼ばれるブロックパズルゲームだった。東雲に気を取られていたものだから、CPUにしてやられてしまったのである。必死に巻き返しを計るものの努力むなしく、CPU側のキャラが快哉を叫んだ。東雲はぽん、と蕾の肩をたたいて、
 「さ、キリもいいことだしここでお開きにしたまえ」
 「お前の所為ではないか! よし、いい機会だ勝負しろ東雲ッ!」
 「え?」
 蕾は手近な椅子を引き寄せると、無理矢理東雲を座らせた。
 「私はその、こういうものは経験がなくて……」
 「構わん、いいからデモを見て操作を覚えろッ」
 東雲は肩を落としてみせて、降参とばかりに両の手を挙げた。しかし、その瞳を何か違う色の光がかすめる。
 「分かったよ。……勝負と言ったね。では私が勝ったらすぐにでも帰ってもらうよ。いいね?」
 「あぁ」
 珍しく素直な返答に、東雲も何か思い当たるところがあった。口の端に笑みを浮かべて、ディスプレイを覗きこむ姿勢で蕾に横目を走らせる。
 「その言葉、二言はないね。では参りましょうか?」

 経験の蕾と応用力の東雲の勝負は、二勝一敗で東雲の勝ち。
 「何故なんだぁ〜」
 「私を甘く見て貰っては困るよ蕾。幾何は得意なんだ、コツさえ掴めばこんなものどうってことないものさ」
 はははと笑いながら東雲が席を立つと、頭を抱えていた蕾も潔く従った。東雲は店を出て傘を広げると、蕾に差し掛けた。尤も、径のそう大きくない折り畳み傘でこの身長差、東雲の半身は濡れることになる。蕾は、なるだけ東雲に身を寄せるようにして、傘の影で暗く見える顔を見上げた。
 「久しぶりに聴いたな、お前のそんな笑い声は。尤も、始終からかわれるのも癪に触るがな」
 「そうかい?」
 応えてはみたものの思い当たらないところもない。とくにこんな冷たい雨の日には――心を凍えさせるようなあの湖を思い出させる雨の中では――蕾をからかう気にもなれない。

 どちらからともなく言葉を失って路地裏を歩いていると、東雲と同じ制服を着た一団が、行く手を阻んでいた。
 「こんな所に珍しいな優等生。――はん、男二人で相合傘か?」
 「君たちは……何か僕に用でもあるのかい」
 どうやら彼らは東雲の同級生らしい。不穏な雰囲気を察したのか、その必要もないだろうに蕾を後ろ手に庇うようにして、東雲の声のトーンが下がる。傘を持たない方の手が、微かに空を切った。風が紛れ込んできたのか、水煙が流れたようだった。
 「なけりゃこんなところでお前なんて張ってるかよ。――おぃ、」
 体躯の良い男のその一声で一人が蕾の背後に近づくと、その手をねじ伏せようとした。
 「何をするんだ、用があるのは私の方だろう?」
 東雲の語気が珍しく荒れる。
 「かまやしねぇだろう、恋人の顔を拝ませて貰うだけなんだからよ」
 くぃ、と上げた蕾の面を確かめて、男の顔が凍り付く。
 「お前――透の弟分のクソガキじゃねーか」
 「後半は余計だ。」
 放してやれ、と指示をして、男はフンと息をついた。
 「女子部の上玉を泣かせ続けてる罪な男のイロがまさかこいつとはなぁ……」
 二人が言われた言葉の意味を解釈するのに一瞬時間が止まった。
 「何を言い出すんだね君はっ!」
 「どーして俺が東雲なんかの恋人になるんだッ?!」

 二人は同時にわめきだしたが、男は今度は東雲の顎を手に取った。残忍な光がその瞳に宿る。  「ま、そんなことはどーでもいい。とにかく、俺ぁ手前が気に入らねぇんだよ。そのお上品な顔を傷物にでもしてくれようか?」
 「一体……僕が何をしたというんだ?」
 東雲は、体勢の悪さから掠れぎみの声を絞り出した。
 「何をしたかって?はん、優等生でも判らないことはあるんだな。いや、だから判らないのか。」
 「樋口さんのことかい?」
 その名が東雲の口から出て、男は東雲の胸座をつかんだ。
 「判っているならどうして振ったりしたんだよぉえぇ?」
 東雲はともかくとして、何故かここでため息をついたのは蕾であった。
 「振ったつもりはないよ。ただ今は特定のひとと特別な付き合いをしたいと思ってはいないって言っただけじゃないか」
 「それが振ったっていうんだろうが!」
 この雨のおかげかすっかり語気は冷めている東雲と対照的に、東雲の胸座をつかみ直した男は頭に血を上らせた。
 「やっちまえ!」
 男の拳がまず東雲の頬をかすめた。辛くも直撃をかわした格好の東雲だったが、それがさらに男を逆上させたらしい。しかし、振りおろされた拳が東雲に届く直前、男の動きが止まった。出足は遅れたものの、背後から迫っていた別の男も、蛇に睨まれた蛙さながらに立ちすくんでいる。
 「蕾……?」
 「邪魔するのか、小僧ッ」
 「貴様には同情せんでもないが、殴ったところで東雲の性格は変わらん。今宵は引き取るがいい。俺もこれ以上遊んでいる暇はないのでな」
 言って自分はその面を少しも歪めもせずに、男の顔だけを引き攣らせる。力を入れていた手を離してやって、蕾は東雲の手放していた傘を拾った。
 「帰るぞ。薫と透を待たせているのだろう」
 「あぁ……」
 蕾に捕まれていた腕を押さえている男に一瞥をくれて、東雲は蕾の後を追った。



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