星羅棋布





忘憂草

東雲明日香    【2/5】 




 「すまなかったね、蕾」
 傘は蕾に差させて、東雲はまた濡れて歩き出した。
 「出掛けに透に傘を借りてくれば良かったね。考えが至らずに君をあんなことに巻き込む事になってしまって」
 相合傘なんて言葉をすっかり忘れていた。私とした事が……
 「俺の事はいい。大体お前が女に気を持たせてばかりいるから要らぬ恨みも買うのだろうが。――しかし彼奴は何者だ?何で俺がお前なんかとデキてなくてはならんのだ?」
 恨めしそうに見上げる蕾の瞳を受け止めて、東雲はハイハイと誤魔化してみせた。
 「高校のクラスメイトですよ。大丈夫、幻散霧を放っておいたから、下手な噂は立たずに済むはずだよ」
 「幻散霧?なんだそれは」
 聴いたことがない言葉だった。緑仙の秘伝か何かだろう。
 「人間の意識や記憶を一時的に混乱させる効用があるのだよ、麻薬の一種でね――だからあまり使いたくはないのだが、人間として暮らして行くには誤魔化さなくてはならないことも多いのでね」
 思い当たることもなくはない。蕾はうなづきながらも、ふと浮かんだ言葉を口にした。
 「そうか。――自分もそうして、誤魔化しているのか?」
 「蕾?」
 怪訝そうな声が降ってきた。蕾は首を振ってみせた。
 「気にするな、言葉の綾だ。」
 「誤魔化してなどいないよ。私は……当事者にはなれないだけの話だ」
 言葉の意味を解そうと蕾は東雲を見やったが、雨の滴を含んだ長い前髪のおかげで、その表情を読み取ることは出来なかった。

 「蕾さま、おかえりなさいませ」
 蕾を迎えたのは、透ではなく薫だった。思いがけず蕾はうろたえた。
 「薫ッ?寝ていたのではなかったのか?」
 「蕾さまがお戻りになられるようでしたので、お待ちしておりました」
 「よ、おかえり。結構時間掛かったじゃねーか。あ、また濡れてやんの。もう一本持ってけって言おうとしたらいないんだもんな東雲。」
 先に洗面所に寄った透があきれた顔で二人にタオルを投げて寄越した。
 「そうだね。おかげでとんだ目にあったよ」
 東雲がそれに応えて、自嘲気味な笑みにも似た表情を浮かべた。
 「どうしたんだ?」
 「仁藤君に会ってね」
 「仁藤?あいつも明日から追試だろ。俺みたいに東雲当てにする気だったのか?」
 東雲の挙げたクラスメイトの名を意外そうに繰り返して、透は目をぱちくりさせた。自分はともかく、東雲とは縁のなさそうなタイプだからだ。あるとすれば、先日追試の件で一緒に担任に呼ばれたくらいだ。
 「そうじゃないよ。樋口さんの一件でご挨拶を頂いたのだよ」
 「樋口って、樋口加奈ちゃんか?テニス部の。」
 しばらく前、東雲に告白したにも関わらずこの堅物の前に涙を飲んだと専らの噂の女子部の生徒である。清楚で可愛げで妹にしたいタイプの可憐な少女だ。
 「そう。どうやら彼氏、ずっと気があったらしいね。」
 「あぁ……そうだな、でも奴は身分不相応だって思っててさ――ちょっと待てよおい、だからこそのご挨拶なんだぜ?分かってるんだろうなぁ」
 いけしゃぁしゃぁと言ってのける東雲に、透も最初は普通に応えたが、論点に気づいて語気が荒れた。
 「分かってますって。グラマー、落ち着いたのかい?」
 「あぁおかげさまで。かーっ、明日の追試は妙に緊張感みなぎってそうで俺やだなぁ」
 「そうだね、そこまではフォロー仕切れてないから……」
 フゥと息をついてみせて、拭い切れない水滴を払うように東雲は頭を振った。
 「する気はあるのか?」
 一通り雨だれを拭った蕾が口を挟んだ。居間に腰を落着けながら東雲はさらりと応えてみせた。
 「ない訳ではないよ。でもまずは、明日の対策をしなくてはね。古典は八十六ページからっと……」
 付き合っておれんわ、と蕾は床のビーズクッションに身を投げ出した。透は古典の教科書をめくりはじめたが、挟んであったプリントに気が付いた。
 「わりぃ、これ渡すの忘れてた。こいつも多分試験範囲だ」
 「参考資料のプリント?……ありがとう、確かにここも範囲内だね」
 試験期間に入る直前に渡されていたために、東雲は受け取っていないプリントだった。ざっと走らせていた目が止まり、その表情を透が目に留めた。
 「どうした?」
 「いや……兄上が昔聞かせてくれた歌に似ているのだよ。」
 珍しく、物想うような瞳だった。
 「へぇ……お前兄弟がいるんだ」
 「あぁ。尤も聖譜は地上人の歌とは韻律が異なるから、歌の色が似ているに過ぎないのだけどね」
 「五百重さまは、詩歌をたしなんでおられますものね」
 ハーブティーを入れ直してきた薫が、その東雲の言葉に目を細めた。この場にふさわしい東雲の兄といえば、薫の師でもある上条宗司 五百重であろう。
 「上条宗司さまだけでなく皆立派な方々だ。なんで東雲が兄弟なのか理解に苦しむわ」
 薫から受け取ったハーブティを口に含んで、蕾はどこかでいつもの虫が騒ぐのに任せた。案の定東雲がつっかかってくる。
 「言ってくれるね。どうせ私はまだ未熟者だよ。君ほどではないけどね」
 「何を言うか、その物言いが未熟の証左だろうが」
 「まぁまぁ、お止めくださいませ。」
 薫がたしなめるのへ、東雲はいつになく殊勝にうなづいた。
 「そうですね。いつまでもこんな調子では、申し訳がたちませんからね」
 「東雲……?」
 誰に対してのものなのか、東雲は口にしなかった。

 「さて、これでよしと。」
 古典の範囲をざっとみて終えて、東雲が教科書を片付けはじめた。薫は既に奥で休んでおり、蕾は透が広げたままの教科書を弄んでいる。普段見慣れないものなのだろう。透は追試の予定表を見直すと、猫なで声を出した。
 「なぁ東雲。もちょっと付き合わねぇか?」
 「事情の違う追試ですか?」
 相変わらず揶揄する響きのある声ではあるが、仕舞いかけたファイルを広げ直してくれた所を見ると、付き合ってくれるつもりらしい。
 「そそ、最終日の英語のリーダー。あとちょっとってとこで赤座布団食らっちまってよ。なっ」
 「仕方ないな、教科書かしてご覧。あ、答案用紙があったら見せてみて」
 「やだっていったら?」
 透はすねてみせた。赤点をとったと割れていてもやはり見せたい性質のものではないのだ。東雲は軽く睨んだ。
 「じゃあ、付き合ってあげない。」
 「つくづく性格悪いなお前……」
 「ったくもー、いぢめっこだなぁ東雲ぇ。ほらよ」
 蕾と一緒に大きなため息をついて、透はしぶしぶ答案用紙を差し出した。自分の答案用紙(という名の模範解答)と見比べてみて、東雲はへぇ、と感嘆した。
 「おやおや、これは本当に惜しかったんだね。ケアレスミスさえなければ赤点にはならなかったのに」
 「るせぇな、終わっちまったもんは仕方ねぇだろう」
 「確かに。」
 笑みで透の言葉を肯定してみせて、東雲は透の教科書をめくりはじめた。ほどなく比較検討も終えて、透に差し戻した。
 「こんなものでしょ。あとは透次第だね」
 「おーぅさんきゅ東雲。引き止めて悪かったな」
 「どういたしまして……っと、確かにもう遅いな。叔父上も帰ってきているかも」
 時計を見ながら荷物をまとめはじめた東雲を、透があまり見せない色の瞳で見やった。
 「叔父さん、心配してるんだ」
 透の表情を見て取った蕾に目線を返して、東雲は透に応えた。
 「しているだろうね。でも何処かで誰かが心配してくれているというのは、悪い気分ではないと思うよ。じゃ、明日ね。」
 「あぁ、おやすみ……っておい、傘ちゃんと差して帰れよ」
 家の人が心配するだろ、と透の瞳が告げている。東雲は微笑んでみせて傘を広げた。
 「そうするよ。おやすみ」


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