星羅棋布





忘憂草

東雲明日香    【3/5】 



    

 二、 風の日

 ここ数日の雨も忘れた青い空の高さが秋を告げていた。放課後に行われる古典の追試のために居残った生徒は、対策個所を必死で見直している透と、それに群がる友人、そして余裕綽々と文庫本など読み耽っている東雲と、それを離れて見据えている仁藤達といった面々であった。前者のただ中にあって、後者の何ともいえない張り詰めた空気の理由を知っている透は、予想通りの光景に気が気ではなかったが、当の東雲が悠然と構えてみせているので、あまり気にしないことにした。がらりと扉が開いて教師が顔を見せ、追試が始まった。

 追試担当の教師が時計に目をやって、宣告した。
 「二十分経ったから、出来た者から提出して退室してよろしい」
 早速東雲が席を立ち、答案を提出すると荷物をまとめて退室していった。透は内心ため息をついたが、解答欄が埋まっているとも思えない仁藤がやや遅れて後を追うのを見て、胸騒ぎがした。かくなる上は自分も答案を出してしまえばよいのだが、東雲のかけたヤマはほぼ的中していたものの出題と解答まで分かっていた訳でもない。しかし、赤点さえとらなければ良いのじゃないかと邪な考えがかすめ、とりあえずあと少し解答欄が埋まれば提出してしまうことにして問題を見直した。

 『そういやこれ、東雲が気にしてた歌だよなぁ……』
 試験範囲に最後に追加された参考資料にあった和歌が問題になっていた。解釈とか品詞分解みたいな面倒なものはパスして、穴埋めだけでもしてしまうことにした。これならなんとか思い出せそうだ。

  住江に舟さし寄せよ(@)験ありやと摘みて行くべく
 
 なんだっけ? 畜生忘れちまった……ん? そうか、『忘れ草』だ。らっきー!などと頭の中ではしゃいで、透は解答欄に書き込んだ。そして空白の数を数えて、まぁこんなものかなと合点すると、いそいそと答案を出しに行った。別に本人の招いたことなのだから東雲がどうなろうと知った事ではないのだが、野次馬根性半分で先に退室した二人を追った。

 「何処へ行く気だ」
 野太い声がかけられるのへ、軽く首を巡らせて東雲は応えた。
 「生物部の植物園だよ。今日は当番なのでね」
 それに応えもせずに太い眉根を寄せて睨み付けたままの仁藤に、東雲は表情を殺して目を細めた。
 「用がないのなら行かせて貰うよ。追試のおかげで遅れているからね」
 言って向き直っていた東雲が踵を返すと、そのまま仁藤は後を付いてくる。やれやれと内心肩を落として、東雲は鞄を持ち直した。

 生物部の植物園は、キャンパスの端の川辺に面した一角にある。すぐそばが運動部の部室やテニスコートになっていて、小さいながらも植物園というだけに設けられた木陰は、運動部員達の休憩所にもなっていた。テニスコートの脇を通りすぎて東雲が顔を出すと、先に来ていた生物部員の相澤が声を掛けた。
 「お疲れ、東雲。」
 「遅くなってすまないね。後は僕が見ておくから」
 「あぁ、大体は終わってるから後頼むな」
 相澤は東雲にリストを渡しながら小声でささやく。
 「加奈ちゃん、また来てたぞ。」
 ちらと目配せした相澤の視線の先はテニスコートだ。
 「わかりましたよ」
 「じゃ、よろしくなっ」
 相澤は気を利かせるつもりらしく退散したらしい。それを見送って、東雲はリストを見ながら当番の仕事を片づけはじめた。高校の生物部などよりは、叔父の研究所の方が設備もあるし身になることも多いのだが、全員何らかの部活に籍を置かねばならないときては仕方がない。しかしこの川辺の一角はなかなかにこじんまりとしていて居心地が良いので、ここが気に入って籍も置いたものであった。花壇はそろそろ秋桜も盛り、土手の方にまで咲き零れる色とりどりの花の群が風にそよぐ様はなかなかに美しい。秋桜の花精たちも秋空の下で透明な歌声を競い合っている。東雲は思わず微笑して声を掛けた。
 「良い歌だな、清々しくて」
 秋桜の花精たちは、めいめい頬を染めた。
 (これは東皇使さま、ありがとうございます)
 (昨夜の雨が冷たかった分、こうして空へ歌っていられるのは、とても嬉しいのです)
 「そうだな。おまえたちの歌はきっと天にも届くことだろう」
 (はい。そのお言葉、励みになります)
 「あぁ」
 花精たちにうなづいて、東雲は別の花壇へ歩を向けた、その正面。
 「東雲くん……?」
 ラケットを抱えたままの樋口加奈が花壇に紛れ込んでいた。
 「樋口さん?こんにちは。どうしたの?」
 「こっ、こんにちは。いえね、美咲ったらまたホームラン打っちゃうんだからボールが飛んじゃって。ごめんなさい」
 加奈は泥だらけになったボールを弄びながら舌をぺろっと見せた。子供じみたそんな仕種が不思議と似合う少女だった。本当の所はというと、加奈が東雲を気にしてよそ見をしていたから松野美咲の打球を返し損ねたのだ。でもこんなことはこの出会いにはどうでもいい。
 「いや別に……あ、雨上がりだったから汚れてしまったね。水道使うかい?」
 ボールの泥がついて汚れた加奈の手に目を止めて、東雲が言葉を継いだ。加奈はぱっと顔を輝かせた。
 「ほんと? ありがとう!」
 その様を花が咲いたみたいだなと東雲は内心評しながら、加奈を手招いた。
 「こっちだよ」

 ボールと手についた泥を落としながら、加奈は東雲に尋ねた。
 「東雲くんって本当にお花が好きなのね」
 「あぁ、そうだね」
 応えになってはいるが短いその返答に、加奈はこんなこと聞いてもいいのかしらと軽い危惧を覚えながら口を開いた。東雲くんと話していられるなんて、こんなチャンス、生かさずにすむもんですか。
 「歌がどうのって言ってたみたいなんだけど、お花って歌を歌うものなの?」
 東雲は微かに目を細めて、加奈の真意を探ろうとした。が、先ほどの花精たちとの会話の断片を聞かれたにせよ、加奈に解ろうはずもない。
 「……歌うよ。ほら、こんな風の日にはコスモスがそよいでいるだろう。歌声が聞こえないかい?」
 東雲は僅かに目を伏せて耳を澄ましたようだった。それを見て加奈も蛇口を閉じて耳をそばだててみた。白、赤、紅……咲き乱れる花片や色添える葉が風に応えてみせる「音」。それを東雲は歌と呼ぶのだろうか……加奈にとっては、東雲の言葉こそが音楽だった。
 「聞こえるかも、知れない」
 「なら、それが花の歌なんだよ」
 東雲は加奈に微笑んでみせた。加奈は先刻よりずっと頬を赤らめて、濡れたままの手で顔を覆った。
 「あらやだ。タオル、コートの所だわ」
 「ハンカチならあるけど、使うかい?」
 東雲はポケットから薄青のハンカチを差し出した。加奈はありがとう、とやっとのことで言うと、勿忘草の縫い取りに気づいて顔を上げた。
 「持っててくれたんだ、このハンカチ」
 東雲は一瞬面食らったものの、あっ、と合点した。
 「樋口さんに貰ったのだったね、おかげさまで、こうして大事に使わせて貰っているよ」
 「……ありがとう」
 加奈はいそいそと手を拭くと、東雲にハンカチを返した。
 「よかった。」
 風に吹かれて表面の乾きだしたボールを手にとって、加奈がつぶやいた。
 「何が?」
 「東雲くんとこうして話せて。……告白したって駄目だって美咲には言われたし、実際……駄目だったけど……こうして話せるなら、思い切って告白してよかった。そう思ったの」
 雨に濡れてうな垂れた秋桜が風の日に空へ歌うように――少女は天を向いているのだ。そんな心が分かるから、東雲の眼差しも優しいものになってしまう。言葉は、多くを語らないけれど。

 加奈がテニスコートに戻ると、ようやく仁藤が姿を見せた。
 「加奈ちゃんと何を話していたんだ」
 「随分と単刀直入に物を言うのだね。他愛のない話だよ。花の歌についての話さ」
 その東雲の声の抑揚のなさに、仁藤の眉がぴくりと跳ね上がる。
 「他愛のないだと……?加奈ちゃんはあんなに楽しそうにしていたのに」
 東雲は用具入れを抱えて棚に仕舞うと、仁藤に向き直った。
 「……一体君は、僕にどうしろというのだね?」
 あの晩の続きをするつもりかい?そう東雲の目が語っているようにも見える。仁藤は殴り損ねたはずの右の拳に力を入れ――それをさっと抜いて、やおら頭を下げた。
 「仁藤君?」
 「頼む東雲。加奈ちゃんを幸せにしてやってくれ」
 「え?」
 東雲は拍子抜けして、仁藤の言葉の続きを待った。
 「加奈ちゃんはお前に惚れてる。悔しいがお前なら加奈ちゃんを幸せに出来ると思う。実際、あんなに楽しそうに話をしてるのを見せられるとそう認めるしかないしな。……俺じゃそうはできない。俺なんかには加奈ちゃんは眩しすぎるんだ……」
 「なのに『振った』というのが、許せないという訳ですか。」
 東雲は言わなくてもいいことを言った。しまった、と思った時にはもう遅かった。言葉の拳が東雲に降りかかった。
 「分かっているならなんでだっ!」
 返答如何によっては実際の拳が黙ってはいないだろうことが言外に見て取れる。東雲はまたそれを言わせるのかとも思ったが、幻散霧のおかげで記憶が混乱している証左だと知れて、今度はどうしたものかと言葉を捜した。
 「僕には樋口さんを幸せには出来ないのだよ。それが分かっているからこそ、彼女の望むような付き合いかたは出来ないと言ったまでのことだよ」
 そう、彼女の望むような人間ではないのだから、私は。
 「逃げる気か!?」
 仁藤がまた一歩東雲に詰め寄ったその時。
 「逃げてんのはお前だろーが!」
 もう見てらんね、とばかりに透が怒鳴り込んできたのだ。

 「手前には関係ねぇだろッ透!」
 仁藤の激昂の矛先は突然乱入した透に向いた。
 「あぁ関係ないね。だがな、逃げてる奴に他人をどうこう言う資格なんてねぇんだよッ!」
 「誰が逃げてるって!?」
 「手前だよ仁藤ッ。女に惚れたなら、その女に相応しい男になろうって努力もしてみるもんだろーが。それもしないで他人任せにしようなんざ、そりゃ本気で惚れちゃいないんだ。その女から逃げてるって事だろっ、違うか!?」
 「透……」
 唾を飛ばす勢いで捲し立てる透を、東雲が安堵半分当惑半分という面持ちで見つめた。透は、はぁと大きく息をつくと東雲に向き直った。
 「お前もお前だぞ東雲。大体頭が良すぎるから一言多いんだよ手前は。」
 「そうかも知れないね。……しかし、なら君は僕にどうしろと言うのだね?」
 東雲が真っ直ぐに見つめるので、透はまばたきをした。
 「そりゃ……自分で考えろよ、頭良いんだからさ」
 「それじゃ堂々巡りじゃないか……」
 やれやれと肩を落とすと、仁藤もうな垂れた格好のままである。
 「仁藤君、」
 東雲の掛けた声に、仁藤はぽつりとつぶやきだした。
 「俺は……ずっと加奈ちゃんが好きだった。加奈ちゃんのそばにいたくて同じ高校を受けたりもした。でも俺なんかじゃ加奈ちゃんを幸せには出来ないって……いつからかそう思ってた。それが、逃げだったっていうのかよ、透……。」
 「あぁ。……本気で加奈ちゃんが好きなら、自分が加奈ちゃんを幸せに出来るんだ、自分にしか出来ないんだって思えるはずだ。そう思わないのは、加奈ちゃんを好きだっていう自分の気持ちからも逃げてるんだ。違うか?」
 静かに説く透に、仁藤は向き直った。
 「お前なんかに何が分かるっていうんだ、俺だって加奈ちゃんが望む幸せを手に入れさせてやりたいと思ってるんだ。加奈ちゃんが東雲を好きだっていうのなら、東雲に頼むのも俺の望みになるんだ!」
 「それは……」
 そうかも知れない。透としては自分と夕姫のことを考えて喋ってみたつもりでも、仁藤と加奈のケースには当てはまらないのかも知れない。
 「でも、樋口さんが望む幸せを君が与えてあげられないと決まった訳でもないだろう。それに、彼女はちゃんと君のことも意識はしているのだよ」
 東雲はポケットから薄青のハンカチを差し出した。
 「何だ、それは?」
 「僕が彼女から貰ったのだよ。刺繍してあるのはね、勿忘草なんだ」
 あっ、と仁藤の顔の色が変わった。透はきょとんとして、
 「さっきの試験問題の……」
 「あれは忘れ草。君も樋口さんと似た事を言うのだね、透。このハンカチ自体はこの間貰ったものなのだけど、経緯があってね……」


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