星羅棋布





忘憂草

東雲明日香    【4/5】 




――それは、夏休みに入ってすぐの頃。梅雨も明けて懐かしい青空の午後、橙色の百合に似た花の群落を眺めながら、加奈は誰に言うともなくつぶやいた。
 「綺麗ね……まるで夏の夕陽が落ちてきたみたい」
 実際には、木陰にいるであろう東雲を意識しての言葉だった。加奈の目論見は正しく、当番だった東雲が加奈に応えた。
 「そうだね。忘れ草だよ。これからの季節の花さ」
 「えっ?忘れな草って青い小さな花でしょ?これって全然違うじゃない」
 「勿忘草じゃなくて、忘憂草。憂いとか恋心を忘れられると言われている花だよ。尤もこれは古い名だから、最近はヤブカンゾウって呼ばれてるけどね」
 東雲は、やんわりと訂正してみせた。加奈はやだ、と声を漏らして舌の先を見せた。
 「私ったら聞き間違えちゃったのね。ごめんなさい……田科東雲くん、だったよね」
 何せ、女子部では男子部の生徒の中で一番人気の東雲である。聞かなくても知っていることは多いけれど、まずは聞くのが基本よね。
 「あぁ。君は、テニス部だったよね?」
 植物園に来るのに横を通るから、この可憐な少女は何度も見掛けている――その瞳の先が、よく自分に向いているのも。
 「えぇ。樋口加奈っていうの。よろしく」
 「こちらこそ。」
 とびきりの笑顔に、あの優しげな微笑みが返ってきて、加奈は内心飛び上がりたい気分だった。東雲はそうそう、と辺りを見渡すと、言葉を継いだ。
 「勿忘草はそろそろ終わりなんだけど、こっちにまだ少し咲いてるよ。見てみるかい?」
 東雲が先に口を開いたのに加奈は有頂天になりそうだった。浮つきそうな足取りを必死に押さえて、東雲の指す方へ赴く。
 「ほんと?わぁ嬉しい……大好きなお花なの」
 薄青の小さな花が、薄の群の緑に映えていた。確かにもう数は寂しくなっていたが、加奈の思い出の花がそこにあった。
 「子供の頃にね、絵本で見て好きになったの。そしたらね、同じクラスの男の子が一生懸命探してくれて、摘んできてくれたの……懐かしいわ」
 言って、加奈はその可憐な花を撫でようとするように手を伸ばしたが、小さな声を立てて手を引いた。細い赤い筋が、その指に伸びていく。
 「薄の葉で切ったんだね、ちょっと見せてみて」
 「たいしたこと、ないから……」
 「結構深く切れてるな。あそこに水道があるから、指を洗っていて」
 用具入れの小屋の方を示して、東雲は隣の植え込みの方へ歩を向けた。加奈が指を洗っていると、蓬の葉を摘んだ東雲がやってきた。
 「指を出してみてくれるかい?血止めをしておくから」
 揉んだ蓬の葉をあてがうと、不思議と痛みも引いていくようだ。ハンカチで押さえて止血をする東雲の手際に、加奈は見惚れた。
 「どうしたの?」
 東雲がぽーっとしている加奈に尋ねる。
 「えっ?ううん、ありがとう。もう痛くないわ。凄いのね、東雲くんって」
 「そうでもないよ。たまたま知っていただけだから。それより、利き手を怪我したのでは、部活にも障るだろう?」
 照れているのだろうか?穏やかな表情はあまり感情を語らずにミステリアスな雰囲気を醸し出す。それも、人気の所以なのだが。  「そうね、本当にありがとう。助かったわ」

 この日をきっかけに、加奈は東雲の当番の日を狙って植物園に来るようになった。そして、あの日草の汁で染みをつけたハンカチの代わりにと、勿忘草の刺繍をしたハンカチを東雲に渡したというのである――

 「だから、樋口さんはちゃんと君のことを覚えているのだよ。それに君が渡したのは勿忘草であって忘憂草じゃない――いつか、通じるさ」
 「……そうなのか?」
 東雲は仁藤に微笑んでみせた。
 「勿忘草の花言葉は『私を忘れないで』というのだよ。恋人達の花でもあるし……君が本当に彼女のことを思うのなら、あの花も力を貸してくれるさ」
 仁藤は透の顔を覗き込んだ。透がうなずいてみせると、仁藤はやっと東雲に向き直った。
 「そうなのかも知れないな。東雲、それに透も……すまなかったな」
 「いいってことよ。それより、頑張れよな、仁藤」
 「応援しますよ、仁藤君」
 透と東雲が応えると、仁藤は照れくさそうに頭をかいて、じゃ、と短く応えて植物園を後にした。
 
 仁藤の背を見送って、東雲と透は顔を見合わせた。
 「助かったよ、透」
 「なぁに、追試対策とチャラってことさ。」
 そんな透の応えを聞いて、東雲の面から苦笑混じりの笑みがこぼれた。
 「じゃ、そういうことにしておきましょう。ま、君がちゃんと『忘れ草』と答えられたのか気にはなるけどね」
 後半のいつもの揶揄する口調に透はちぇ、と吐き捨てた。
 「そーゆーとこが一言多いって言うんだよ手前は。あの欄はちゃんと埋めといたよ。おかげさまでなっ」
 「分かりましたよ。"A friend in need is a friend indeed."というけど、そんな相手はもう少し信用しなくてはね」
 「そりゃそうだけどよぉ……今何て言った?」
 透は目をぱちくりさせた。
 「『まさかの時の友こそ真の友』だよ、最終日のリーダー試験範囲にあったじゃないか?」
 「そうだっけ?」
 「そうですよ」
 「まっ、お前がそう言うんだから信用すっか」
 透はにこっと笑った。東雲もそれに応えてみせた。
 「光栄ですね」
 友人だ、と言ってくれているも同然の言葉なのだ。

 東雲の帰り支度を待って、二人は一緒に下校した。道すがら、透はちらと東雲の顔色を覗うようにして尋ねた。
 「あのさ……加奈ちゃんを幸せに出来ないっていうのさぁ、あれどういう意味なんだ? いや、お前にその気がねぇっていうのは分かるんだけどさ」
 可愛い娘にモテまくりのくせに全然誰にもなびかねぇんだもんなこいつ。
 「透、君ならどうする?」
 東雲は歩を止めて透に向き直った。その瞳が真っ直ぐこちらを見据えているのに、透は気おされそうになった。質問の内容をざっと考えながら、透は歩き出した。
 「加奈ちゃんってさ、可愛いじゃん。明るくて、真っ直ぐで、元気で……だからいつでもわいわいやっていたいって感じだよな俺なら。大歓迎だけどなぁ〜」
 「君とならそうなのだろうね。私の前では至って大人しい娘だよ。些細な事に喜びを見出せるような、そんな娘だ」
 「へぇ……よくわかってんじゃん。」
 「そう。しかしね、彼女が一体私の何を知っているというのだね?」
 「そりゃ……」
 今度は透の方が先に歩を止めて、東雲の顔をまじまじと覗き込んだ。今自分の目の前にいる男は、自分や加奈と同じ人間ではないのである。それを知っているのは、この世界の人間では自分だけなのだ。
 「そういうことだよ。それにあの年頃の娘というのはあんなものだ、感受性の命ずるがままに他の事は見えなくなる……彼女が私に望んでいるものというのはそんな一時の気の迷いのようなものだ。季節が変われば忘れてしまうような、ね。彼女は恋に恋しているのだよ。」
 「お前なぁ……」
 何だか透は加奈が可哀相になってきた。乙女心を気の迷いだなんて言われて、弄ばれているも同然じゃないか。
 「だから私に出来ることといえば、そんな甘酸っぱい時期の心をできるだけ傷つけないように見守ることくらいなのだよ」
 東雲の横顔は表情を覗わせず、口調からは抑揚が消えていた。東雲の対処は当人にしてみれば最大限の譲歩なのだ。いつか通り過ぎていく季節に傷を残さないように……そして、憧憬だけではない本物の恋を見つけられるように。それは分からなくもないが、やっぱり傍目にはヤな奴だ。だから、透は言ってやった。
 「まったく、何様のつもりかね」
 透の瞳がいたずらっぽく輝いているのに、東雲も咳払いなどして目一杯威張ってみせた。
 「東皇使さまのつもりですよ、透君」
 しばらくじっとそのままの体勢でいて、二人は同時に吹き出した。

 「何やってるんだ、お前達」
 往来で笑っている二人組の面々を見て取って、蕾はあきれた声を出した。透は東雲と見合わせて、
 「何だ蕾か。どっかおかしいかよ?」
 「充分おかしいではないか。選りに選って何で東雲なんかと笑っておるのだ?」
 「君の知ったことではないだろう蕾。それでは私はここで失礼するよ。追試のおかげで研究所へも顔を出していないのでね。じゃ透、明日も頑張ってね。」
 透に先んじて応えると、東雲は曲がり角へ姿を消した。

 「で、一体何を笑っていたんだ?」
 「いや、取りたててどうってものでもないんだけどなぁ……」
 透は蕾と並んで家路を辿りながら、午後の出来事を語って聞かせた。ざっと説明を終えたところで、蕾が黙り込んだ。
 「どした? 蕾」
 「いや……そういう意味もあったのかと思ってな」
 「何がだ?」
 「仁藤と言ったか?そいつと少々やりあった後で東雲が『当事者にはなれない』と言っておったのだ。彼奴の事情だけではないということか」
 「何だよ、それ」
 蕾は透の瞳を覗き込んで、ややおくと口を開いた。
 「東皇使は春の宰主、人恋うる想いを司るものだ。それが恋愛の当事者になる訳にもいかないし、まして聖仙たるもの人間に懸想している訳にもいかん。その勝手で女を弄ぶなと言いたいところだが、あれはあれでちゃんと役目を果たしているということか」
 「ふぅん、色々あるんだな。しかしあいつの担当が色恋沙汰とはねぇ……世の中間違ってる」
 透は半分納得したものの後半は頭を抱えていた。蕾も大きくうなずいた。
 「お前もそう思うだろう透?あんな性格の悪い輩に任せるとは不条理だッ。あぁぁぁっしかしっだからと言って、東皇使の任期が切れて緑修天司になりおったら余計始末に終えんっ。くぅ〜」
 頭を掻き毟る蕾の言葉に、透は胸騒ぎを覚えた。いつか、季節は変わるのだ。今過ごしている日々はいつまでも続くものではない。花は移ろい、風は色を変えていくものなのだ。
 「透?」
 我知らず立ち止まった透に、蕾が怪訝そうに声を掛けた。蕾は笑ってみせて、うつむき加減の透の顔を覗き込んだ。
 「心配するな透。そうそう彼奴の任期が切れる訳じゃない。悔しいが、あれは切れる奴だからな。そう早くには御役御免にはならんはずだ」
 透は蕾の両肩をぽんと叩いた。
 「お前がそう言うのなら信じるさ、マブダチだもんな」
 今自分に必要なのは、思いを留める勿忘草なのか、憂いを忘れられる忘憂草なのか……透には分からなかった。


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