星羅棋布

冬の帰り道

 【2/2】 



 程なく、若島津はミルクを抱えて戻ってきた。
 その戻ってきた時間からして、彼が自分の食事をろくに取っていないだろうとは、日向にも想像出来た。
 だが、甲斐甲斐しく小犬の世話をやく若島津を眺めているうち、うるさい事を云う気もしなくなった。こんなに楽しそうな彼を見る事は滅多にない。
 必死でミルクを飲んでいる小犬を、若島津はベッドに寝転がり身を乗り出して眺めている。そんな彼が本当に幸福そうで、日向は彼のこんな表情を自分の中の記憶と重ね合わせてみた。
 同じようで、違う…結局そう思うのだが――日向は不思議な感慨を持って、その光景を眺めていた。


『一年の時は俺も知らなかったから、何も出来なかったでしょ。彼奴の喜ぶ顔、見たいと思いませんか?』
 悪びれもせずそう云ったのは反町だ。このお調子者のチームメイトにとって若島津が別格だ、と感じるのはこういう時である。
 若島津の真似で始めた、自分に対する敬語とは週類を異にしている。もっと素直で自然なのだ…。
『誕生日? そういやあ、冬だったな』
『29日ですよ、知らないんですか』
『女じゃあるまし、一々そんなもん覚えてるかよ』
 呆れた風に聞く反町に、日向は不機嫌に言い訳めいた事を云った。
『まあね、日向さんらしいですけど。とにかく、彼奴のパーティの日にち、決めといて下さい』
 当然のように云う反町に、日向は素朴な疑問をぶつけた。
『俺に聞くより本人に聞けよ。確実だぜ』
『それじゃ意味がないじゃないですか。驚かせたいのに』
 なんでわざわざそんな面倒な事を、と日向は思う。それが顔に出たのか、
『理由なんか日向さんは考えなくていいんです。ただ若島津に内緒にしててくれればいいんですよ』
 反町の被せるように云った。
『彼奴は不意打ちをくらった時のの方がずっと良い顔するんですよ』
 そうも云った。
 その時は適当に相槌を打つだけだったが、今は少し反町の云う事が解る…ような気がした。

(もったいない)
 不意にそう思った。
 自分一人が若島津のこんな表情を知っている事が…。わるいは、それが小犬だけに向けられた物であるからか…。後者は嫉妬である。しかし日向がそれと知るには、まだ十分に幼かった。
「よし!」
 日向は一人で頷くと、両肘をついて寝転んでいた自分のベッドからおもむろに立ち上がる。若島ズのベッドの足元で、満腹で微睡んでいる小犬の首根っこをつかみ上げた。
 ベッドにうつ伏せて頬杖をついたまま、日向のその動作を若島津の目が追った。
 重がが手で彼を端に寄せる仕種をする。その意図が解らず、それでも若島津は半身を起して壁際に身を引いた。
 日向にぶらさげられた小犬が、眠りを邪魔された事に唸る。それを若島津の手に渡すと、彼は隣に滑り込んだ。
「ちょっと狭いよ、日向さん」
 ちゃっかりと上がり込んでくる日向に、若島津は非難めいた云葉を返したが、その声音に抗議の色はない。日向は気を良くして、彼も布団に引き込むべくそのニの腕を掴んだ。
「少し寒いな、もうちょい詰めろ」
「………」
 若島津は少しの照れと居心地の悪さを覚え、困ったような顔の後に彼の癖とも思える苦笑を浮かべた。
 きっと日向は小犬を構いたいのだろう…と、勝手な解釈で納得した若島津は、日向の行動を抵抗も無く受け入れた。
「しょうがないな。毛布、蹴飛ばさないで下さいよ」
 改めて日向と自分の真ん中に小犬を寝かせ、布団を整えて自分も潜り込む。
 視線を感じて若島津は小犬越しに日向に向き直った。
「何ですよ。さっきから、恥ずかしいじゃないですか」
「いや……、お前こいつどうするんだよ」
 云われてみて、日向も相手の息遣いが間近にあるのに、急に思いあたった。だから、別の話題を切り出した。
「今度の休みにでも家に連れて行きます」
「いいのかよ」
 若島ズはそれと分からないくらい、少しだけ目を伏せた。日向も若島津があまり家に帰りたがらない事は知っている。
「親父は良い顔しないだろうけど。まあ、なんとか…」
 話し声に起きたのか、小犬が二人の間でモゾモゾと動いた。若島津が口に人差し指を当てたので、日向も声を落した。
「面倒がわかってて、どうして拾ってきたんだ」
「気紛れですよ。ただのね」
 日向はその答えに、不満そうに若島津の髪を引っ張った。
「痛いなぁ、だって本当ですから。成り行きでそうなったんです」
 文句の後に、クスッ…、と何故か喉の奥で声を立てて笑った若島津は傍らの小犬を左手でそっと撫でる。
「こいつね、こんな風に頭撫でたら、俺の手を舐めたんです。何か、嬉しくなっちゃって……後先考えないで、拾ってきちまったんです」
(ああ、そうか。あの時と一緒なのか)
 ようやく日向は、記憶の底から掘り起こした。


 若島津が小学生の時に助けた狗を、やはりこんな嬉しそうな顔をして見つめていたのを思い出す。
 若島津がトラックに跳ねられて道に倒れていた時、手や顔に触れたのはこんな犬の舌であったろう。
 その時の柔らかい舌の感触を若島津は薄れる意識の中で感じたのだと、云っていたことがあった。それを聞いた自分は――
『舐められたのが、そんなに気持ち良かったのか』
『ちょっと違うけど――。まあ、そうかな』
 病院のベッドの中で、包帯だらけの若島津は穏やかな笑顔で応えた。
『舐めてやろうか』
 若島津はキョトンとした顔をしているだけだったが、周りにいた彼の家族がギョッとした顔をしていたのを思い出す。
『だってよう、そんなに気持ち良かったなら、俺の舌のが大きいぞ』
 そう云ってアカンベをするみたいに、舌を出した。
『あんたって、変な奴』
『そんな事ないぞ』
 好意を無にされて、少なからず気分の良く無い日向にやっぱり若島津は笑って、『ありがとう』と応えた。  それが心無しか引き攣った彼の家族の顔と対照的だった――と。今考えると赤面物だが、あの時は自分も若島津も子供―今でもそうには違いないが―だったのだ。

「日向さん、何赤くなってるんです」
 物思いに耽っていた日向を若島津の声を引き戻した。そこには思い出の中より、少しだけ大人びた容貌の彼がいる。シーツに広がる、あの頃より少し伸びた髪と、変わらぬ微笑みを浮かべて…。
「何でもねえよ! もう寝るぞ、明日も練習あるんだからな」
「そうですね。明日はきっと晴れますよ」
 そう云った若島津はもう一度微笑んで、日向の肩に布団を引き上げた。
「おやすみなさい」
 眠りに落ちる直前、掛けられた若島津の穏やかな声。それはとても自分を安心させる物だと、日向も幸福な気持ちで眠りについた。



 すぐに寝息を立て始めた日向と違い、若島津にまだ眠りは訪れなかった。日向と、そして隣の小犬を見る。
 病院からの帰りは何時も気が滅入るけれど、今日はあまり感じなかったのは、きっとこの温もりの所為だと思う。雨の日には必ず痛む肩も、今日は何だか控えめで若島津の気分を引き上げる。
 若島津はすぐ近くにある、良く陽に当った日向の髪に触れた。
(あんたって、小犬より日なたの匂いがするんですね)
 これほど近い距離に誰かを感じる事はあまりなく、他人を間近にする事を嫌う自分がどうして日向にだけは場所を空け渡してしまうのか…その答えは若島津にも出せはしなかった。

「もう、寝ろ…よ」
 若島津の動きが止まる。思わず引っ込めかけた手を止めて、しばらく待ってみる。と、日向はそれきり無言で、どうやら寝言であったらしい。
 若島津は微笑み、布団に潜った。
(ええ、おやすみなさい。日向さん)
 そう呟き、今度こそ日向の眠りを追う為に若島津は瞳を閉じた。



 外の雨は何時の間にか止んでいた。
 雲が晴れ、冬の張り詰めた空気の中に浮かぶ冴えた月が、その下広がる―陽が上るまでの短い休息に眠る―街を照らしていた。
 一雨ごとに寒さ増し、また少し冬へと季節は移り変わってゆくのだ。



GOOD NIGHT




END

(1989.12 脱稿分を改訂)

 【2/2】 



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後書き

定番ネタからまずは小犬です(今後も定番ネタは色々登場)。そしてほのぼの…。昔の私は「これ(ほのぼの)しか書けないし、書かない」とかほざいていたような気がする。人は変わってゆくのですね…。今じゃ物足りないけど…。昔過ぎて直せないし、直したくない感じ。こんな優しい(?)、なんの含みもない話は今はもう書けない気がするし…拙いけど、これはこれでいいかな――という気がする。
これには続編…というかオマケの「冬の朝」があったりします。合わせて読んでやって下さい。

 鈴蘭 



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