● チェコの場所
日本からの直行便はなく、今回は関空→チューリッヒ→ブカレスト→ブダペスト→プラハ。
入国:96.1.22
帰国:96.1.27
● 行った所
プラハ
カルルシュテイン
チェスケー・ブディヨヴィツェ
チェスキー・クルムロフ
● 航空会社
スイス航空
TAROMルーマニア航空
マレブハンガリー航空
● 目的
メインはルーマニアだった。
2週間の休みを取る事ができたので、ルーマニアを深く追求するか周辺の国にも行ってみるか考えて、中欧の国々の
中から、ハンガリー・チェコにも行く事に決めた。
ガイドを見ていると世界遺産という単語が載っていた。
今ではほとんど誰もが知っていると思うが、この時初めてその制度を知った。
最初は大層だなと思った。
この頃は1つの国で見たいものだけを見て行きたいとこにだけ行くのなら、4泊5日もあれば十分だと思ってた。
1日目
プラハ
相変わらず寒い。
プラハはブカレスト・ブダペストとは違って、ほとんど西欧と呼んでもいい位、観光地化していた。
ルーマニア→ハンガリー→チェコと、東欧→西欧化の過程を見ている感じがした。
文句を言う訳じゃないが、ヨーロッパの古くからある街というのは雪のよく降る地域なのに、何で石畳か?
慣れない旅行者はすっ転んでしまえという事かー。
プラハ市内の交通手段では路面電車が活躍してる。ここでも、路面電車はあるが路線が少ないルーマニア、
市内を縦横無尽に走っているが車体広告は見た記憶のないハンガリー、そしてチェコと資本主義導入の
ステップを見ているような錯覚に陥った。どの国も本当はそんな理由ではないと思う。
初日はプラハの町を色々と見て回る事に決めた。
ユダヤ教会。「旧新シナゴーグ」と地球の歩き方に載っていた。意味不明。新なのに旧?そして旧なのに新?
結論は何だ?
この辺りはあまり観光客がいなくて(オフシーズンだからか?)ガイド風に言うと普段着のプラハ?
という感じだった。
何の建物だか覚えてないけど、妙にツボにはまったので写真に。
プラハでは、ルーマニア・ハンガリーでは見る事のなかった日本人旅行者が大勢いた。
何人かと挨拶を交わしたけど、プラハで一番有名なカレル橋でこの旅1番の強者を発見したので報告しておく。
それは一人旅の女の子で、突然話しかけられたのだが、内容は「何となく南の方へ
行ってみる事にしたのだが、そっち方面の●球の歩き方を持ってませんか?」という質問だった。
彼女のしゃべり方があまりにも無防備で、日本にいたら間違いなく「天然」と言われるべき個性の
持ち主だったのだが、旅の進め方は豪快だった。
チェコに来るのにも、どこだかでチェコを通り過ぎて来た日本人旅行者からガイドをもらったらしい。
ガイド必要か?君の旅に。その豪快な旅の中で、そこまで地球の●き方を重要視する意味はわからなかった。
ハンガリー編とルーマニア編しか持ってません。と正直に申告すると、丁寧に突然声をかけてすみませんでしたと言われ、
少し話をして彼女と別れた。当時は若かったのだが、お父さんのように心配になったのを今でも覚えている。
彼女が無事に日本に帰りついている事を願っている。
もう1つショックだったのは、そういう期限を自分で決める事ができる旅行をしたいと思っても、俺にはもうできないんやなと
いう事だった。日本にいる時は毎年休みをもらって旅行ができる事を幸運に思ってるが、旅をしている時は欲張りになる。
日も暮れてきて、腹が減ったのでチェコで初めての夕食。
チェコの食事はなかなかいけてた。クネードリキ?という、もちとパンの中間のような主食の小麦粉ものは、味はついて
ないが、じゃがいもが練りこまれててボリュームがあり、料理と一緒に食ったりソースをつけて食うのに最適だった。
正直この旅行で初めて食物をおいしいと思ったかもしれない(失礼)。
ルーマニアでもハンガリーでもうまいものは当然あったのだが、俺が、積極的に食いたいぜー。と思う料理はなかった。
と微妙なフォローをしておく。
プラハは、安全な街だった(当時)。今はどうか知らない。恐らく当時より治安は確実に悪くはなっているのだろう。
俺の個人的な意見だが、プラハは夜どこかへ遊びに行くというより、昼と同じように街を散歩して街並みや建物を見てまわるのが
いい町という印象だった。高台からの夜景も綺麗だし、町全体がオレンジの街灯で彩られていて、昼の顔と全く違う独特な情緒が
あってよかった。
この辺は、ミッション・インポッシブル1で出てた辺りだと思う。もう記憶もあまり定かでないが、ミッションインポッシブル1
を観た時に、ここで歩いた覚えのある場所が何ヶ所かあったような気がする。あれはプラハで撮影していたんだよな?