声がする。これは祭。私が『私』になるための。兵器、破壊、陰謀、教祖、差別、政治、癒着、支配、悪魔…。ありとあらゆる『声』の中で、湧き上がるようなそれは、徐々に強くなっていく。 頭が痛い。吐き気がする。耳をふさいでも声は聞こえて来た。何処に居ても。夢遊病者のようにたどり着いたその場所で、しかし扉を叩くことは出来なかった。戻ることも出来ずに、私は廊下に座り込んだ。 空気の抜けるわずかな音は気のせいかとも思えた。漏れる明かりが現実なのだと教えてくれた。 「イブ。」 聞きなれた声。けれど、それを発しているのは。 「入れ。」 腕を引かれた。私は逆らわなかった。 部屋に入った途端にふっと『声』が止んだ。聞こえるのは、薄く漂う空調の音に低く響くコンピュータの稼動音。部屋の中は静かだった。 「少しは楽になっただろ。」 『彼』は私をベッドに座らせ、カップを片手に戻ってきた。軟らかい香りは、私の好きな紅茶だった。私は俯いたまま頷いた。目を正面から見れなかった。 受け取った紅茶を一口含んだ。少し熱い液体が、胃に落ちていくのがわかる。かたり、とわずかな音がした。デスクの椅子が引かれたのだ。デスクには、端末が置かれていた。めまぐるしく変わる画面には赤と黄の色が多かった。警戒色だといつか聞いた。 どれほどの間、静寂が続いたのだろう。私のカップには、まだ半分ほど紅茶が残っていた。 「珍しくクリスは必死になってる。人の端の噂は操作できないからね。」 「一体…」 「マスコミさ。」 −これは祭。 声がよみがえる。好奇と憎悪と怒気と当惑の中で、生まれるそれ。それの周りを取り囲む感情は、耐えられないほどに重く。 「これ以上の騒ぎは…まずいな。」 カタカタとわずかな音。収集の手をとめようとしない。『彼』は知っているのだと感じた。『声』の洪水を。形作られていく、それを。いつから? どこから? そして。 「何をしたいの?」 私は顔を上げた。『彼』は背中を向けていた。背筋はまっすぐに伸びていた。 「元を断たなくては。」 視界がにじむ。カップの水面が揺れた。 「泣くな。」 かすかな音がして、横に体温を感じた。そっと肩を引き寄せられる。それでも涙は止まらない。 「…イブには笑っていて欲しかった。」 オブラートに包まれたように、『声』が聞こえ始めた。『彼』の、アダムの聞いているものだと分かった。それは私のものより広く、大きく、雑多で、…悪意に満ちていた。 −これは祭。無限に広がる思いを糧に『私』は形作られていく。 「!」 「見るな!」 ぐらりと視界が傾いた。引き剥がされる感覚。私はベッドに手を突いた。『声』は消えていた。荒い息が、私にまで届いていた。 「アダム!」 「だめだ。」 「あれは…!」 聞こえたのは銃声。クリスがいた。大きな目を見開いていた。反動を受けた警備員。弾道を追う、もう一人の警備員。そして。少しやつれたその、顔。 「ユダ!」 視界が、変わった。何故かなど、どうでも良かった。大切なのは、目の前に彼が居ること。ユダは僅かに目を見開き、そして、柔らかく笑んだ。 「やっと…。」 会えたね。ユダの唇は、そう単語をなぞらった。 私は大きく頭を振った。わずかな単語の端々から、生命が流れてしまう。…そう感じた。 「…」 笑って。震える手が私の頬へ伸ばされた。冷えた手が、触れる。 影が私たちの上に落ちた。 「クリス!」 アダムの声。傷口へ伸ばされる手。 私は微笑もうとした。涙はとまらなかった。ユダは、そんな変な顔を見て笑って…目を閉じた。 血の気のない、その手が離れる。 「どいて。」 アダムは私を押しのけると肋骨の上を押し始めた。時折様子を見ては、同じ動作を繰り返す。硬い靴音と、平たい靴音。クリスは白衣の男性をつれていた。アダムが離れて、男性がかがみこむ。起き上がって、ゆるく、首を振った−−。 「いやーっ!」 何かがはじけ、それが形を成すのを感じた。 シャトルの中には僅かな機械音が満ちていた。それ以外は何の音もなく、静かだった。まだ『声』は聞こえていたけれど、いずれそれも聞こえなくなるだろうと思った。 『彼』は目を覚まさない。巻き込まれた誰もが二度と目を開けることはないと、分かった。 目を開けた私は、アダムに抱きしめられていた。目の前にはなにもなかった。床も、壁も、クリスも、医師も、…ユダも、消えてた。アダムの戒めは、蝶結びよりもたやすく解けた。鼓動は聞こえていたけれど、それだけのように感じた。 月には『悲鳴』が満ちていた。『悲鳴』は私を通り過ぎ、何処かへと散っていった。 散っていく『悲鳴』を聞きながら、私はささやかな選択をした。喜ぶべきだろうか。悲しむべきだろうか。それはとても簡単な操作だった。私たちはそもそも何処にも存在しなかった、と…。 「ねぇ。神はいると思う?」 『質問意図不明。』 生真面目なAIは応えた。くすりと私はわらう。 「人は神になれるかしら?」 『定義不明。回答不可。』 くすくす。私は嘲笑い続ける。 人の世は残ったけれど、私の世界は壊れてしまったのかもしれない。神になり損ねて堕ちた天使のように。 |