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光の道行
06.昇華前夜祭

 声がする。これは祭。私が『私』になるための。兵器、破壊、陰謀、教祖、差別、政治、癒着、支配、悪魔…。ありとあらゆる『声』の中で、湧き上がるようなそれは、徐々に強くなっていく。
 頭が痛い。吐き気がする。耳をふさいでも声は聞こえて来た。何処に居ても。夢遊病者のようにたどり着いたその場所で、しかし扉を叩くことは出来なかった。戻ることも出来ずに、私は廊下に座り込んだ。
 空気の抜けるわずかな音は気のせいかとも思えた。漏れる明かりが現実なのだと教えてくれた。

「イブ。」

 聞きなれた声。けれど、それを発しているのは。

「入れ。」

 腕を引かれた。私は逆らわなかった。
 部屋に入った途端にふっと『声』が止んだ。聞こえるのは、薄く漂う空調の音に低く響くコンピュータの稼動音。部屋の中は静かだった。

「少しは楽になっただろ。」

 『彼』は私をベッドに座らせ、カップを片手に戻ってきた。軟らかい香りは、私の好きな紅茶だった。私は俯いたまま頷いた。目を正面から見れなかった。
 受け取った紅茶を一口含んだ。少し熱い液体が、胃に落ちていくのがわかる。かたり、とわずかな音がした。デスクの椅子が引かれたのだ。デスクには、端末が置かれていた。めまぐるしく変わる画面には赤と黄の色が多かった。警戒色だといつか聞いた。
 どれほどの間、静寂が続いたのだろう。私のカップには、まだ半分ほど紅茶が残っていた。

「珍しくクリスは必死になってる。人の端の噂は操作できないからね。」
「一体…」
「マスコミさ。」


 −これは祭。


 声がよみがえる。好奇と憎悪と怒気と当惑の中で、生まれるそれ。それの周りを取り囲む感情は、耐えられないほどに重く。

「これ以上の騒ぎは…まずいな。」

 カタカタとわずかな音。収集の手をとめようとしない。『彼』は知っているのだと感じた。『声』の洪水を。形作られていく、それを。いつから? どこから? そして。

「何をしたいの?」

 私は顔を上げた。『彼』は背中を向けていた。背筋はまっすぐに伸びていた。

「元を断たなくては。」

 視界がにじむ。カップの水面が揺れた。

「泣くな。」

 かすかな音がして、横に体温を感じた。そっと肩を引き寄せられる。それでも涙は止まらない。
「…イブには笑っていて欲しかった。」

 オブラートに包まれたように、『声』が聞こえ始めた。『彼』の、アダムの聞いているものだと分かった。それは私のものより広く、大きく、雑多で、…悪意に満ちていた。


 −これは祭。無限に広がる思いを糧に『私』は形作られていく。


「!」
「見るな!」

 ぐらりと視界が傾いた。引き剥がされる感覚。私はベッドに手を突いた。『声』は消えていた。荒い息が、私にまで届いていた。

「アダム!」
「だめだ。」
「あれは…!」

 聞こえたのは銃声。クリスがいた。大きな目を見開いていた。反動を受けた警備員。弾道を追う、もう一人の警備員。そして。少しやつれたその、顔。

「ユダ!」

 視界が、変わった。何故かなど、どうでも良かった。大切なのは、目の前に彼が居ること。ユダは僅かに目を見開き、そして、柔らかく笑んだ。

「やっと…。」

 会えたね。ユダの唇は、そう単語をなぞらった。
 私は大きく頭を振った。わずかな単語の端々から、生命が流れてしまう。…そう感じた。

「…」

 笑って。震える手が私の頬へ伸ばされた。冷えた手が、触れる。
 影が私たちの上に落ちた。

「クリス!」

 アダムの声。傷口へ伸ばされる手。
 私は微笑もうとした。涙はとまらなかった。ユダは、そんな変な顔を見て笑って…目を閉じた。
 血の気のない、その手が離れる。

「どいて。」

 アダムは私を押しのけると肋骨の上を押し始めた。時折様子を見ては、同じ動作を繰り返す。硬い靴音と、平たい靴音。クリスは白衣の男性をつれていた。アダムが離れて、男性がかがみこむ。起き上がって、ゆるく、首を振った−−。

「いやーっ!」

 何かがはじけ、それが形を成すのを感じた。


 シャトルの中には僅かな機械音が満ちていた。それ以外は何の音もなく、静かだった。まだ『声』は聞こえていたけれど、いずれそれも聞こえなくなるだろうと思った。
 『彼』は目を覚まさない。巻き込まれた誰もが二度と目を開けることはないと、分かった。
 目を開けた私は、アダムに抱きしめられていた。目の前にはなにもなかった。床も、壁も、クリスも、医師も、…ユダも、消えてた。アダムの戒めは、蝶結びよりもたやすく解けた。鼓動は聞こえていたけれど、それだけのように感じた。
 月には『悲鳴』が満ちていた。『悲鳴』は私を通り過ぎ、何処かへと散っていった。
 散っていく『悲鳴』を聞きながら、私はささやかな選択をした。喜ぶべきだろうか。悲しむべきだろうか。それはとても簡単な操作だった。私たちはそもそも何処にも存在しなかった、と…。

「ねぇ。神はいると思う?」
『質問意図不明。』

 生真面目なAIは応えた。くすりと私はわらう。

「人は神になれるかしら?」
『定義不明。回答不可。』

 くすくす。私は嘲笑い続ける。
 人の世は残ったけれど、私の世界は壊れてしまったのかもしれない。神になり損ねて堕ちた天使のように。




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