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光の道行
07.さすらいカルス

 紙に出来た染みに気付き、俺は顔を上げた。じりじりと僅かな音が耳についた。短くなった蝋燭の周りで、ハエが一匹飛び回っていた。
 額に手を置くと、汗が手を伝った。汗は肘まで流れると木製の床に落ち、半球状に留まった。

「アンボン、ブヘイ、バスラ。パンギヌーン、ディオス…。」

 俺は声に出してみた。言い慣れない硬い響きだった。それは現地の言葉だった。聖地の朽ちかけてなお威厳を保つ神殿と、同じ歴史を歩んだだろう言葉だった。長老の詠う様な昔語りで、それは幾度も繰り返された。通訳役の青年は言った。光、命、塵--。
 俺はノートに目を落とした。長老の昔語りはそれだけではなかった。神、光。闇、固まる、地面。生命、塵、成長。失敗、闇、塵、分ける。三回、生命、塵、失敗--。


『神様は、最初の命である塵を撒いた。三回失敗し、神様は出来損ないをその度に刈り取った。』

 霧に沈む神殿の前で青年はつぶやくように言った。彼にとっては自然な物語だったんだろう。俺は測定を続けながら、彼の話にも注意していた。

『四度目の最初の命は世界をまわり続けた。神様があくびを漏らす頃、ようやくこの島に着いた。』

 青年は、神殿の壁にそっと手を置いた。彼の手の下には、物語が綴られているのだと聞いた。俺にはまだ読むことが出来なかった。

『最初の命は、世界のどこにでも馴染んで、神様に似た形に成長した。』

 俺は石壁の物語をカメラに収めた。少しだけ、手が震えた。

『それが私達の祖先。』

 誇らしげに青年は笑った。俺も笑い返して、機器をしまった。


 俺は汗を拭って立ち上がった。蝋燭を消し、住処にしている倉庫を出た。風はなかったが大きな月が出ていた。ち。内心舌打ちした。酒でもあれば一杯やりたいところだったが、持ってきた焼酎は当の昔に飲み干していた。村の夜は早い。大きな月と、月の背後に控える数多の星以外、明かりは一つもなかった。

「三度の失敗。四度目の成功…か。いや。」

 俺は月を見上げた。彼らの神は、陽の光に乗って、月の光に乗じて、われわれを見張っているのだという。

「まだ実験は続いてる、と。」

 実験用の培地に育つ細胞と、それを観察し続ける研究者。そんな図式が浮かんだ。
 俺は口の端で笑っていた。得られたのはその結論だけだったが、俺は満足だった。そして、残念でもあった。

「はずれだった、な。」

 俺は一度伸びをして倉庫に戻った。熱帯夜が今夜は優しい気がした。




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