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光の道行
06.解けない方程式

 シャトルが停止して重力が戻ってくる、はずだった。立ち上がると床を踏みしめる感覚が希薄で、私はアダムにしがみついた。少し貧血を起こしていたのかもしれない。
 到着ロビーには人がごった返していた。搭乗時と変わらない光景。違うのは、看板に書かれている単語。私はアダムの腕へ顔をうずめた。単語を理解することが出来なかった。吐き気さえ感じていた。

「ようこそ。」

 しっかりとした女性の声だった。顔を上げた私は、探すまでもなく声の主を見つけた。輝くような金の髪。深くそこの知れない青い瞳。私たち以外に見た事もない白い肌。目立ちすぎるくらいの女性が、まっすぐに微笑を浮かべて私たちを見ていた。その時私たちは褐色の肌に黒い髪という姿でいたから、彼女はもっとも人目を引く存在だっただろう。
 けれど、彼女をすぐに見つけた理由は、目立ちすぎる容姿だけではなかった。私は、アダムも、同時に『声』を聞いていた。

『月へようこそ−−神よ。』


 世界最大のバイオ関連企業の解体。一月が経過した今でも、マスコミはこぞってこれを取り上げていた。何度も何度も同じ映像が流される。同じ台詞が繰り返され、その度に見覚えのある場所が映る。ほんの一瞬の、愛しい顔も。
 必ずと、言っていた。すべてが片付いたら迎えに行く、と。ここからでは遠すぎて、『声』も届かない。

「イブ、食事に行こう。」

 前触れもなく声が降ってきた。ドアが開いた気配はなかったが、ドアの前にアダムが立っていた。アダムもTVを気にしていた。私はほんの少し頷くと、抱き枕を置いてベットから降りた。


 早々とパンとサラダを食べ終え、金髪の女性…クリスはにこりと微笑んだ。

「あなたたちが欲しいの。」

 がちゃん。アダムがナイフを落とした。
 ごと。私はグラスを倒した。

「あら、私、変なこと言った?」

 真っ先に反応したのはクリス本人だった。ボーイを呼びとめ、布巾を取ってこさせる。テーブルクロスを伝い水がスカートを濡らしたが、私は気にしなかった。

「それ、どういうこと。」
「怒らないでよ。遺伝子を解析させて欲しいの。」

 アダムが大きく息を吐いた。私は、目頭が熱くなった。私の声は震えていたかもしれない。

「やだ、イブ、泣かないで。」

 ボーイが布巾を持って来て、テーブルを拭き始めた。
 クリスはハンカチを取り出し、手を伸ばして来た。私はその手を逃れて、自分のハンカチを出した。部屋へ帰りたかった。何度も流れる地球のニュースでもいい。ユダの姿を見たかった。けれど…アダムを一人にしたくはなかった。

「情報が欲しいのよ。あなたたちの遺伝情報が。」
「そんなもの…」
「研究所のは古いのよ。」

 クリスはアダムの言葉をさえぎって、スープに取り掛かかった。適度に冷めたスープをすくい、一口流し込んだ。

「古いも何もないじゃない。」

 私はクリスから目をそらした。平然としたその様子を見たくなかった。

「それは、調べてみないと。」

 含むように、クリスは言った。


「私、予言者って呼ばれているのよ。」

 メロンは嫌いなのよ。そういうのとなんら変わりない様子で、いたずらっぽくクリスは笑った。なにも神がかり的なことをしているわけではなく、計算ですべてを導き出すのだと彼女は言った。

「世界はありとあらゆる情報で出来ているわ。エネルギーの挙動から、人々の行動。気象のようなマクロな現象も、今では計算が可能なの。ある程度の関与も可能だわ。株価の操作、政治活動の調整…。コーヒーの味も。私はそれを知ることが出来る。」

 冷えてきたコーヒーにクリスはクリームを注ぎ込んだ。白くきれいな螺旋はクリスの手で拡散され、きれいなカフェオレ色になった。
 でもね、とクリスは続けた。

「世界そのものをいじることは出来ないわ。決められた物事は変えられない。一が一でしかないように。最初から解けないものを解くことは出来ないの。だから…。」

 神が欲しいとクリスは呟くように言った。目は、薄く笑ったままだった。
 私は席を立った。話はもう終わったと思った。

「アダム…」

 行きましょうと、続きを言う事が出来なかった。

「アダムは了解してくれたわ。」

 アダムではない、アダム…『彼』が静かに、笑っていた。
 私は全てを了解した。人の途切れることのない地球の宙港で、私の腕を引いた手。それが誰のものだったのか。案内人が目を離したわずかの間に、月行きの列に紛れ込んでしまった理由を。
 私は二人から目をそらすと、食堂を後にした。




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