(仮)

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−6−


 翌朝、バスにはぎりぎりで乗ることになった。 昼間のことを考えるとなかなか寝付くことができず、結果寝坊した。 風邪を引いたわけでもなく、当然母は遅刻も欠席も許さなかった。 ただ、ゲームでもして夜更かししたんだろうと言い、私をせかした。
 あわただしい朝食の席で顔をあわせたけれど、父は何も言わなかった。 そういえば、最近父と会話することがめっきり減った気がする。
 食事をして顔を洗って制服を着込んで、それで時間目いっぱいになってしまった。 カバンとお弁当を引っつかむと、私は家を飛び出した。
 バス停に着いたとき既にバスは到着していた。 すっかり上がった息を整えながら乗り込み、カードをスロットへ差し込むと、 さらに後ろから、飛び乗るように乗ってきた客がいた。 何気なく振り返ると、息を荒げた最後の客と目があった。
「オス。」
「お、おはよう」
 バスが発進し、加速度に押されるままに後部へ移動した。 最後の客は、鶴田だった。 私は思わずうつむいていた。つり革に手をかけ、バスの揺れに対抗した。 鶴田は私の横に立った。男の人らしい熱を感じた。

 昨日、泣き出して涙がとまらなくなってしまった私に、鶴田は付き合ってくれた。 泣いたまま家に帰れば母の詮索が待っていることは明らかで、 私は落ち着くまで公園にいることを選択した。 公園には子供たちが数人いたが、他に思いつく場所もなかった。
 公園の隅で忘れられたようなベンチに座り、私は黙って俯いた。 鶴田は私の横、子供たちに対して壁を作るかのような位置に、黙って座った。 鶴田にもなにか予定があっただろうに、小一時間ほどそのままだった。
 どうにか涙が引っ込んだ私は、水道で顔を洗い家へ帰った。 家の門を開けるまで、鶴田は何も言わず見守っていてくれた。
 6時を告げるチャイムが静かに鳴っていた。

「昨日は寝れた?」
「…うん。寝れた。」
 何事もなかったかのように、鶴田は言った。 少し驚いて、私の声は上ずってしまっていた。
「そか。良かった。」
 私は鶴田を横目で見上げた。鶴田は心底喜んでいるかのように、笑っていた。 私は慌てて目を戻した。頬が熱かった。
 交差点に差し掛かりバスは大きく揺れた。 たたらを踏んだ私は鶴田にぶつかってしまった。 鶴田はさほどよろけることもなく、私を支えていた。
「…ありがと。」
「ん?」
 昨日から、お礼を言っていないことに気づいた。 今更な気がしていた。声は少し小さかったようだった。
 バスの外、流れる景色を見ながら言い直した。
「助けてくれて、ありがと。」
「あぁ、うん。…間に合ってよかったよ。」
 信号だろうか。バスは速度を落とした。 つり革から柱に持ち手を変えて、私は姿勢を保った。
 そういえばと私は思い出した。 昨日も今日も、鶴田の利用するバス停は私が使うものと同じだった。 どこに引っ越してきたかを、聞いていなかった。
「鶴田君て、どこに越してきたの?」
「ん? あぁ、小学校の裏の方。」
 小学校はうちから見える程度の距離だ。思った以上に近い。
「近いね。」
「あ、う、うん。そうだね。グウゼンだね。」
「偶然に助けてもらったんだ…。」
 家の近所で誘拐や痴漢などの話は聞いたことがなかった。 しかし、その第一号になるかもしれなかったのだ。 近くに引っ越してきた鶴田。そして、帰る時間が重なったこと。 偶然に感謝するしかなかった。
「あの人たち、なんだったんだろう。」
 声に出すつもりはなかった。自分の声を聞いて、口に出していたことに気づいた。 だから、鶴田の言葉には驚いた。
「本当に知らない?」
「え?」
 反射的に鶴田の顔を見上げた。 鶴田の目を私の目がまともに合った。 鶴田は疑っている風ではなかった。ただ、文字通り疑問を感じて確認しているようだった。
「鶴田君までそんなこというんだ。」
 鶴田の疑問がどうであれ、私に言える言葉などなかった。 始業時間になれば、また、明日香からも言われるのだろうか。
「ごめん。」
「…いい。」
 そこで会話は途切れた。 私は黒コートの言葉を思い出していた。 私を指した指、病的にも感じられる白い顔、姉という意味、視界のブレ。 なぜ、私なのか、彼らはなんなのか。カラフルなヘルメットの連中。 わかることなど何もなかった。
 私はゆるく首を振った。わからないことを考えても答えは出てこない。
 バスは速度を落とし、停留所に滑り込んだ。 入ってきたときとは逆に、鶴田が先に立ってバスを降りた。 まだ生徒の姿はまばらな校門で、少し先を鶴田が歩いていく。
 鶴田は今、何を考えているんだろうか。 ふと、思った。

 音楽準備室には私たち二人だけだった。 思い思いの楽器の音が聞こえるから、音楽室には音楽部の部員たちが集まっているのだろう。 私を引っ張ってきた張本人は、お弁当の包みに手をかけたまま、考え込んでいるようだった。 話があると言っていたが、言い出そうかどうか悩んでいるようにも見えた。
 私は一人でお弁当を食べる気にもなれず、明日香を見ていた。 買ってきたばかりのホットドリンクのパックから、どんどん熱が奪われていく。
「明日香、体の調子でも悪い?」
 たまりかねて私は聞いた。 顔が赤いわけでも顔色が悪いわけでもなかったが、それならば納得がいく。 今朝から明日香はどこかおかしかったのだ。 ぎりぎりで入るはずが若干の遅刻。 授業中、当てられても答えられず、先生にまで心配される始末。 休み時間もずっとおとなしかった。
 明日香はゆるく首を振って呼吸を一つおくと、顔を上げた。 私をまっすぐに見る。 いつの間にか音楽室では軽いセッションが始まっていた。
「私、告白されちゃった。」
「へ?」
「どうしよう。そういう風に考えたことなかったし、彼氏ってよくわからないし、 麻衣ちゃんに聞いてみれば良かったのかもしれないけど、 変な風に騒がれちゃうかもしれなかったし。 いい人なのは間違いないし、お世話にもなってるけど、それとこれとはやっぱり違うと思うし、 だけど、お断りしちゃったなら、なんかギクシャクしちゃうかもしれなくてそれも…」
「ちょっと待つ!」
 よほど緊張していたか、一回口を開くと止まらなかった。 私は慌てて明日香の言葉をさえぎる。 明日香は大きい瞳で心底困ったように私を見た。
 私は買ってきた紙パックを差し出す。 明日香は素直に受け取ると、しかし視線は外さずにジュースを飲んだ。 すこし落ち着いたろうか。
「告白されたって、誰に?」
 興奮していた明日香の言葉から、抜け落ちていた内容。 今日一日ずっと考えていたのだろうが、考えの中の2人称は個人名ではなかったようだ。 明日香はパックを置いた。思い出したようにお弁当に手を伸ばす。
「…上原先輩。っと、音楽部の先輩。」
 個人名を言って、どんな関係なのかを言い直す。
 なんとなく、私には思い当たる人物があった。 いつも明日香を音楽室まで送っていくと、やさしそうな笑顔の上級生がいた。 メガネをかけて、誠実そうに見えた。
「メガネの人?」
 こくりと明日香は首を縦に振った。ゆっくりだけど箸が進んでいる。 私も自分のお弁当箱を取り上げた。 おかずに手をつけつつ、言葉を選ぶ。
「明日香、その、上原先輩のこと、嫌い?」
 明日香は首を横に振る。
「嫌いじゃないけど、考えたことがなかった、と。」
 今度は縦だ。
「彼氏とかってものも考えたことがない。」
 再び、縦。
「好きな人とか、言ってたことなかったもんね。」
 ゆるく、縦。
「付き合って、みたら?」
 明日香の動きが、止まった。 大きな目が、私を見つめる。 私はお弁当をつまみつつ、続ける。
「だってさ、わかんないじゃん? いつか明日香から好きになる人がいるかもしれないけど、そうならないかもしれないし。 考えたことがないなら、考えてみたらいいんじゃない?」
 そして、嫌いじゃないなら。物は試しというものだ。
 私は言葉を切って、お弁当の消費に専念した。残り時間はそう多くはなかった。
 明日香は机に向かって少しだけ俯いた。 明日香もお弁当の消化を気にしているようで、復活した箸の動きはゆっくりではあったが止まらない。 しかし、結わわずおろしたままの長い髪は、表情を覆うのには十分だった。
「…お付き合いしてみろって言うのよね?」
 ポツリと明日香は言った。相変わらず俯いたままだ。
「明日香が嫌なら、断るべきだと思うよ? でも、いい人なんだよね?」
 こくりと、首が縦に動いた。
「試してみないと、わかんないこともあると思うんだ。」
 再び首が動き、一番下で止まった。
 悩むのは仕方ないと私は思った。麻衣子なら、悩むなんてもったいないとでも言うのだろうが。
 昼休み終了を告げるチャイムがなった。あと十分で五時限目開始の本鈴がなる。 セッションが止み楽器を片付ける音が隣から聞こえた。
 ゆっくりと明日香は顔を上げて私を見る。 ほんの僅かに笑ったその表情に、私はどきりとした。 笑顔に近い形ではあったが、決してそれは楽しいものではなかった。 どこかで見た覚えがある表情だったが、どこでだったか思い出せなかった。
「…考えてみる」
「明日香…?」
 明日香はそれ以上何も言わずに私から目を逸らした。 瞬きを繰り返しながら空になったお弁当箱に蓋をする。 そのまま私の前を歩き始めた。 明日香は準備室の引き戸を開ける。教室へ引き上げる喧騒が強くなった。
「明日香、嫌なら断ったっていいんだよ?」
 私は少し慌てて、明日香の後を追った。 引き戸を開けたところで、明日香は立ち止まった。 私を待っていたのかと思ったが、違ったようだった。 明日香は行きかう上級生たちの中、誰かを目で追いかけていたようだった。
「…別に、嫌じゃないわ。」
「どうしたの?」
 明日香は今度こそ廊下へ出て、少しだけ振り返った。
「なんでもない。…いそがなきゃね。」
 ちょっとだけいたずらっぽく笑ったその顔は、ほとんどいつも通りに戻っていた。


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