「松下なら、終業したとたん飛び出していきましたよ」 「松下の若造か? ほらそこに…また食い逃げかっ!?」 「隆介さん!? 今私のお尻を触って行きましたよっ。毎度毎度会うたびにそうなんだからっ」 鞄の紐が肩に食い込む。僕は道ばたでため息をついた。 * 「隆介でしたら今出かけたところですわ。お手紙でしたら私がお預かり致します」 「結構です。直接届けるよう指定されておりますので」 懸命に笑顔を作る。営業スマイルが引きつっていなければいいけど。 みなりの良さそうなその婦人は怪訝そうな顔をした。僕は頭を下げて、あわてて玄関を出る。 「きゃっ」 玄関の直ぐ外には、若い女性が立っていた。えんじの袴に風呂敷包み。女学生だろうか。ちょうど到着したところに僕がいたので遠慮していたのだろう。いきなり出てきて驚いたようだった。 「あ、す、すみません」 軽く頭を下げて、女性へ場所を空ける。 「いいえ」 にっこりと女性は笑った。咲き始めの桜のような、可憐でかわいらしい笑みだった。 「あら、かなえさん。いらっしゃい」 「おばさま、ご用があると伺ったのですが」 清楚な女性同士の会話。石畳を表門へ向かいながら、はしたないと思いつつ耳を傾けていた。 「そうそう。かなえさん、お見合いしてみない?」 「え?」 「あの放蕩息子のことなんて気にすることないのよ」 さほど長くない石畳を抜けて門を一歩踏み出すと、かろうじて届いていた二人の声は、そこで途切れた。 二七連敗。三回目も不達。完膚無きまでの敗北感。 門を出て、少し歩く。角を曲がると脱力は一気に襲ってきた。ため息とともに地面に手をつき、肩を落とした。…この仕事について、短いわけではない。不達も初めてではない。けれど。 ふと僕を見下ろす子供の視線に気がついた。ちょこんとしゃがみ、僕をのぞき込んでいる。 「気分悪いの?」 町の騒音が押し寄せてきた。僕はあわてて立ち上がった。今更ながら、周囲の視線に気が付いた。 立ち上がり、埃を払う。それだけで、人の目は僕から離れていった。 「大丈夫。ありがとう」 子供の髪の柔らかさを手のひらに感じて、僕は僕の時へ戻った。 * 目には青あざ、口からは出血。仕立ての良さそうな着衣は所々が破け、どす黒い染みも浮いていた。 「やぁ。また会ったね」 青あざの主はにへらと笑い、僅かに顔をしかめた。口元に新たな血が滲んでいた。 先ほどより青あざが増えていた。それでも笑える彼は大物なのかもしれない。それとも、鈍いのか。僕はため息をついてがまぐち鞄を開けると、手紙を取り出した。 「松下さん、不達です」 「あぁ、やっぱり届かなかったんだ。そうだろうと思ったんだ」 「僕もそう思いました」 届いていればこうはなるまい。いやだから不達なのか。 僕は手紙を渡そうとして迷った。男の両の手は背中に回されたままで、ごろりと床に転がされていた。渡そうにも、受け取れそうになかった。 「郵便屋さんてさ、本当に配達するだけなんだねぇ」 「当たり前です」 男はのんきにつぶやいた。責めてる感じは全くなく、世間話をされているようだった。 「届かなかったじゃない?」 「受け取る気があるんですか?」 僕はどうしたものかと手紙に目を落とした。『松下隆介』…子供が書くより下手な字が封書の表で踊っていた。 最初は出会い茶屋の奥座敷だった。ふすまの向こうから、野太い声と艶めいた声が聞こえていた。男は着物を着崩しただけで、困ったような顔をしていた。…あまり困っているようには見えない笑顔だったが。しばらく悩んだ後思い出したように、前日の自分へ手紙を渡して欲しいと言い出した。紙もペンも僕が用意した手紙を預かった。 二度目は賭博場の物置だった。寒い季節だったが、下帯一枚の姿で同じように転がされていた。僕は同じように手紙を預かった。後ろ手で書いた、同じ手紙だった。 三度目は一刻ほど前、ヤクザの屋敷の座敷牢だろうと見当をつけた。どこか嫌なにおいのする場所だった。 あれ。僕は気づいた。封筒の中に、もう一つ封筒が入っていた。 「だってほら、昨日の俺は今日のこの状況を知らないし。そもそも受け取れたらここにいないわけだし。あれ? そうしたら俺は手紙を書けなくて…」 ごろん。男は明後日の方向を向いて転がった。僕は悪いと思いながら、二通目の封筒を抜き出した。 『かなえ江』そう書かれていた。 「手紙を渡せたら、俺ってばどうなるの?」 僕はあわてて手紙を持った手を後ろへ回した。再びごろんと男が向き直っていた。…いたたと僅かにうめきながら。 「さぁ。僕にはわかりません」 僕は手紙を何気なく鞄につっこんで、男に手を貸した。転がっているより座っている方が楽そうだった。 「ただ、一つだけ言えます。僕が届けなくても、確実に届く方法がありますよ。未来の自分へ」 「なにそれ。本当?」 「そろそろ懲りてください」 男は肩をすくめた。 * 懲りそうもないなと思いながら、僕は男の元を去った。いや、そうでもないかもしれない。無事に帰れたら、今度こそ懲りるだろう。 不達の手紙は、結局返しそびれた。僕はちょっとだけ考えて、手紙に屋敷の住所を足した。警邏の目に留まるところに置いておけば、後は彼の運次第だ。 もう一通の手紙は、宛先不明の扱いにした。返信用住所も書かれていないから、これは時空の隙間に消えてしまうわけだ。警邏詰め所に手紙を置いて、僕は通りへ出た。人はざわめき、馬車が通り過ぎる。日は傾き始め、町は色づき始めていた。 ふと人混みの中に、幻を見た気がした。ざわめきの中に幻聴が聞こえた。それは隣り合った時間から漏れ出す独り言のようなもの。 白髪にシルクハット。燕尾服を着込んだのモボ風の老紳士が、清楚な老婦人を連れていた。 −かなえ、今日の芝居は浅草の…。 −また活劇ですか? 僕はしばらく幻を見送って、何度目になるか知れないため息をつきつつその時代を後にした。 四回目はなかった。 |