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超時空郵便〜外国紙幣

 赤い火がちろちろと踊っていた。 囲炉裏の端では、しわしわの堅い手が藁をつかみ、藁の間へ通していった。 時折火をかき回す他は、一定の拍子で作業を続ける。 一本の長く太く縒った藁を頼りに、丁寧に、丁寧に編まれていく。
 部屋には火の爆ぜる音の他に、低く、小さく音が流れていた。 艶を欠いたその音は、手の持ち主の口から漏れだしてた。 民謡。古くから伝わる土地の謡を、拍子代わりに謡っていた。
 小さな家に他に人の気配はなく、小さな小さな観音像が、部屋の隅の台の上に置かれているだけだった。
 たんとん。
 しっかりと閉じられた戸を風がたたいた。 雪に備えて打ち付けた板の隙間から、冷たい空気が入り込む。
 今夜は吹雪か。また膝が痛くなるねぇ。
 老婆はどこかで思い、謡の合間に小さなため息をついた。 こほんこほんと、ついでのように咳が漏れた。
 とんとん。
 老婆はふと顔を上げた。謡を止めて耳を澄ます。 戸を叩く音が、風の音とはわずかに違って聞こえた。
 とんとん。
「……山さん、村山長(ちょう)さ……」
 風の音に混じって、それは確かに人の声に聞こえた。
 あれまぁ、こんな日にわざわざ来るなんて。
 老婆は編んだ藁を起き、すっかり重くなってしまった腰をよいしょと持ち上げた。 わずかによろけて柱に手を置きながら、土間へ向かう。 勝手口は冷たい土間の先にあった。−−一人きりの暮らしになってから、表玄関はほとんど使われていない。
「はいよ」
 よいしょと力を入れて引き戸を引いた。風が舞い込み、雪の華が舞い込んでくる。 戸のすぐ前、雪を遮るようにして、笠をかぶった青年が立っていた。 闇のような丈のある洋服は郵便配達人の制服。蓑(みの)もまとわず、雪が肩に積もり始めていた。
「こんな日は来なくてもいいよ。せめて明るいうちに来りゃぁいいのに」
 老婆は青年の肩の雪を、手を伸ばして払った。 積もり始めのこの季節の雪は、重く、冷たく、全てのものにまとわりつく。
 老婆は戸の前を開け、青年に中にはいるよう促した。 青年はわずかに首を振ると、郵便配達人の印ともいえるがまぐち鞄から、厚みのある封書を取り出した。
「村山さん、お届け物です」
 老婆はちらりと封書を見、受け取らずに土間をあがる。
「はいっといで。こんなとこまでくるんだ、時間はあるんだろ? 暖まっていきな」
 郵便配達人はわずかに迷ったようだったが、諦めたように中へ入り、しっかりと戸を閉めた。 笠を取り雪を払うと、おずおずと居間へ上がる。
 老婆は配達人から笠と上着と脱がすようにして受け取った。大事に抱え、乾くようにと火にかざした。 溶けた雪がしみこんだ上着は、重く冷たかった。
「お前さんは『はわい』とやらには行ったことがあるのかい?」
 老婆は茶の支度をする。茶筒を取り急須へ入れる。 茶碗を用意しようとして、一つしか出ていないことに気づいた。 もう一つは観音像の下の台の中にしまわれていた。取り出し、愛おしげになでると、埃をすすぎに土間へ向かう。
「あります」
「そうかい。……東京の海のずーっとずーっと向こうにあるそうだねぇ」
 老婆は東京へ行ったことはなかった。 この小さな山村で生まれ、町と言えば半日ばかり歩いたところにある街道沿いの宿場町を示した。 東京のことは話に聞くばかりだった。息子から、娘から頼りが届いたという知らせを、羨ましく思いながら。 雪はほとんど積もらず、大きな大きな塩辛い湖−−海があるのだと。
 老婆は水気をふき取った椀を持ち、囲炉裏端へ戻って来た。 瓶にため込んだ水は凍えるほども冷たかったが、老婆はおくびにも出すことはなかった。 薬缶を取り、十分に椀を温める。急須へ注ぎ、茶を注ぐ。
「ハワイには冬がありません。雪も降りません」
「それはそれは、良い所なんだろうね」
 すっと茶碗を配達人の前へ置いた。直ぐ脇に封書が置かれていたが、老婆はそれを取らなかった。
「……息子さんですか」
 おずおずとという様子で、配達人は口に出した。老婆は答えずに茶碗を口元へ運んだ。
 囲炉裏の中が小さく爆ぜ、とんたんとんたん、戸が鳴った。
「気にかけてもらえるだけ、ありがたいんだろうさ」
 二三度まだ熱い茶をすすると、ぽつりと言った。
 ふいと配達人は視線を湯飲みに落とした。短くいただきますとつぶやき、茶をすする。
 配達人の様子に、ほんの少しあわてて老婆は言い直した。
「あんたには感謝してるよ。毎月毎月こんな辺鄙なところまでわざわざ届けに来てくれて。 時には話し相手にもなってくれる。それに、こんな季節には……」
 老婆は配達人の鞄に目を移した。いつも変わらないがまぐち鞄には、サクラソウが一本差してあった。
 いつもかわらないねぇ。
 老婆は思った。配達人が初めて現れた二十年も前から、その花はいつもそこにあった。
「そんな花の色がうれしかったりするもんさ」
 咲く場所を探しているようだと、老婆は思った。日本中を訪れるという配達人と一緒に、ふさわしい場所を探しているのだと。
 たんとん。たん、とん。
 すっかり会話が途切れた中で、茶をすする音が響いた。雪は勢いを増し、戸が鳴り続ける。
「ごちそうさまでした。……もう行かないと」
「まだ上着も乾いていないのに」
 茶碗を置き、鞄を取る。老婆が手を出す前に乾ききらない上着を取った。
「まだ配達が残っているんです」
 配達人は素早く上着を着、笠をのせた。
「せめて蓑を持ってお行きよ。雪がひどくなる」
 配達人は首を振った。老婆が土間へ降りる頃には、勝手口を開けていた。
「待っておくれ。『はわい』に行くことがあるなら、息子へ渡して欲しいものがあるんだよ」
 舞い込む雪の華とともに、配達人は振り返った。ほっとして老婆は部屋の隅へ向かう。 老婆の手のひらに乗ってしまうような小さな観音像を取った。 埃一つないそれを一度だけ愛おしそうになで、老婆は勝手口へ向かった。
「これを?」
 老婆は一度だけ深く頷いた。
 今年も雪が深くなる。
 舞い込む華を見て老婆は思っていた。そして、雪は全てを閉ざし、隠すものであるということを思った。 痛み始めた節々に、すっかり言うことをきかなくなったからだ。それは予感だったのかもしれない。
「……承りました」
 配達人は観音像を受け取ると、雪の中へと消えていった。
 引き戸を閉め囲炉裏端へ戻った老婆は、封書をそのまま火の中へ投じた。 見知らぬ言葉の書かれた柄のそろった綺麗な紙ばかりが、火の中で踊っていた。

 *

 男は海を見つめていた。午後の一時を、大海原を見晴るかす木陰の下で過ごすのは、彼の日課になっていた。 海は穏やかだった。水平線と空の境をくっきりと見ることができ、時折大型の船がよぎっていった。
 土を蹴る軽い音が背後から聞こえた。男はうろん気に振り返った。妻は今頃は昼食の後かたづけに奮闘しているはずだし、 四人いる息子たちは少ない休憩時間をそれぞれに満喫しているはずだった。 使用人たちにはこの時間にこの場所へ近寄ることを禁じていた。 彼らにとって余所者でしかない主人が、望郷の念に駆られているなどと知れたら、どんな目で見られるかわからない。
 男が振り返った先には、折り目のつけられたスーツを着、官帽を目深にかぶった青年が立っていた。 スーツは妙に小綺麗で埃一つ付いておらず、その代わりにいくつもの包みを抱えていた−−ポストマンだった。
 通常、配達物を受け取るのは妻の仕事だった。妻が受け取り、彼宛のものはベッドサイドへ運ばれていた。 この場所は彼の所有する敷地のもっとも奥まった場所にあったから、間違えて迷い込むことも考えにくかった。 男はじっと目を細めた。近年めっきり視力が弱くなった。 妻には年を取ったのだとからかわれたが、多少時間をかければ生活に支障はなかった。
「こんにちは。今日は荷物をお届けに参りました」
 立ち振る舞い、この土地にはいない日焼けの少ない顔、そして、声。 男は先日一度だけ会ったポストマンだと気づいた。 日本へ、母への三十年ぶりとなる便りを託した相手だった。
「……届けてくれたのか?」
 男は海へ向き直った。足音は変わらず続き、男の背後で止まった。
「無事、お届け致しました。そして……」
「そうか。」
 男は深く安堵した。届いたということは、相手が受け取ったということ。間に合ったということ。
 男は遙かな海へを目を転じた。広く遠くその先に、彼の故郷の島国があるはずだった。 三十年前、十八を数える前に飛び出した故郷。夢を抱えた東京で、若さのままに飛び乗った移民船。 がむしゃらに働き、周囲から猛反対を受けながらも妻を娶り、ようやく認められ、農園の主人となった。 雪深い村に残した両親のことを思い出す暇もなく。
 両親へ宛てるべき言葉は見つからず、せめてもと金を包んだ小さな封筒を託した。 寒く厳しい冬を、暖かな町で過ごせるように、と。
「これを預かって来ました」
 ポストマンは男の座るベンチを回った。男の正面へ立ち、腕を突き出した。 男からすれば皮も薄く頼りない平には、小さな木彫りの像が乗っていた。 いぶかしげに像へ視線を移した男は、目を僅かに見開いた。 何度も見返し、おそるおそる手を伸ばす。 長い年月使われることのない記憶の中に、しかしそれは確かにいた。
 −−悪ガキだね。観音様にいたずらするなんて。罰が当たるよ!
 −−ほら、観音様に感謝おし。
 −−大丈夫、父ちゃんはきっと無事さ。観音様が守ってくださる。
 −−母ちゃんの言った通りだろ! 観音様のおかげさ。
 −−こんなに安らかなんだから、きっと観音様の御許へ行ったんだよ。
 幾つもの声がよみがえった。声の主はどれもまだ若い母で、まだ幼い男を時には厳しく、時には優しく、叱っていた。 母が唯一大切にし、いつもどんなときでも手元に置いていた観音像だった。
 ポストマンの手から受け取った観音像は、記憶よりもずっと小さく、男の手のひらにすっぽりと収まってしまった。 造形は荒く、観音像と教えられていなければ想像もできないような代物だった。 それでも男はそれを大事に大事に抱え込んだ。 懐かしさに目が潤み、そして、それを母が手放したということに気づいた。
 男は顔を上げた。ポストマンは男をじっと見つめていた。 目が合った。表情のないポストマンのその目に、男は責められているように感じた。
 男は口を開いた、母はと言葉に出す前に、ポストマンは言った。
「あなたのお母様は、今から一月後、風邪をこじらせて亡くなられます。 発見は年明けになります。新年の挨拶に訪れた隣家のご夫婦が応えのないのを不思議に思って駐在を呼び、 床についたまま冷たくなっているお母様を発見します」
「な……」
 男は口を挟むことができなかった。流れるようなポストマンの言葉を理解することができないでいた。
 ポストマンは男の様子に構うことなく言葉を続けた。
「お母様はおおむね穏やかな一生を終えられます。 十年ほど前にご主人を亡くされてからも、小さな村の小さな畑で慎ましく農業を続け、 冬の間に作ったわらじやわら靴、笠などを売って暮らしていたそうです。 息子さんがいつか帰ってくることだけを信じ続けて」
「俺は……!」
 反論しようとした。男にも事情があった。帰るためには大枚が必要で、時間も必要だった。 危険も犯さなければならず、かつての男にはそれだけの余裕はなかった。 余裕ができた今は、主人という自由にならない立場にいた。
「俺は、像を届けただけです。お客様の望みの通りに」
 男は顔を伏せた。観音像を抱いたまま、顔を手で覆った。
「それでは」
 遠くで鐘が鳴り、土を蹴る音が次第に遠ざかっていった。 男はしばらくその場で動かずにいた。心配した妻が、様子を見に現れるまで。
「あなた、どうしたの? 昼休みは終わったわよ」
 心配げに肩に手を乗せた妻へ、彼は海を見つめながら、言った。
「一月休みを作れないか? 農園のことはジョンに任せて」
「なによ、急に」
「日本へ帰るんだ」
 僅かに潤んだ遙か彼方の空を、カモメが一羽輪を描いて舞っていた。



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