教授が握りしめていたのは、発掘した鍵と思しき鉄片だった。鉄片だった理由は簡単で、出来た当時は見事な鈍色で役割を果たしただろうその鍵は、長年土の下にいる間に見事に水と酸素と化合して、酸化鉄へと変じていたからだった。早い話がさびていた。 鍵と一緒に出土したのは石造りの一抱えもある大きな箱で、誰かの棺と言われても信じられそうだった。しかし、棺と言うには苦しい形状としていて、用途は不明なままだった。何せ鍵穴と呼ぶのにちょうど良さそうな穴が全面にぽつりと空いていて、棺にありがちな杭や宗教的意匠はどの面を取ってみても見つける事ができなかったからだった。さらに、人の手で運ぶには大きすぎ、大人3人がかりでもびくともしない重さがあった。もしこれが本当に棺だというのなら、大した盗掘防止だと言えるだろう。持って逃げる事が物理的にできない。 発掘した夜に簡単に確認を行った後、ブルーシートをかけて盗難防止に人を置き、我々は全員テントへ引き上げていた。重機の手配と明日からの発掘方針を打ち合わせた後で解散したのはたった2時間前の事だ。愛しい家族を国に残してきた助教授は早々に携帯電話の頼りない電波にすがりつき、彼女と喧嘩して出てきた俺は、手空きな現地の手伝いと外気温に慣れてしまった日本酒を一本開け終わった所だった。 警備に残してきた手伝いがテントに駆け込んできた。第一声は何を言っているのか分からなかった。動転していたのかも知れないし、そもそも、現地語だったのかも知れない。とにかく俺が聞き取れる英語ではなかった。とにかく落ち着けと渡した酒が効いたのか、俺しか『通報する相手』がいない事にようやく気付いたのか、コップ一杯ごくりごくりと音をたてて呷りきると、ようやく聞き取れる英語でしっかりと言った。 「教授、死んだ」 「はい?」 他にどんな言葉があったというのだろう? 端から見れば、相当マヌケ面だったかも知れない。それとも、懇意にしてもらった教授の訃報を聞いても、意地悪くせせら笑う悪魔のような助手だったか。砂漠の奥深くにまで同行するのにささやかな給料をもったいぶってくださり、懸命に書いた論文には早く世に出るようにと自分の名前を一番上に書くというなんともありがたい応援をしてくださり、考古学学会の権威のお嬢さんとのお見合いをいつの間にかセッティングしてくださり、いくら涙を流しても流しきれないような恩を売ってくださった方だったから、ショックのあまり小躍りしてしまっても誰も文句は言わなかったかも知れない。 「石箱の横で、動かない」 手伝いはもう一度、今度はかなりゆっくりと言った。 「教授来た。私、用を足しに離れた。バコス残った。戻る。バコスいない。教授動かない。息しない」 バコスは警備に残した手伝いの片割れだった。手伝い……ゴルバは用心深い大男だった。どんな細かい陶器の破片でもさぼらず丁寧に砂を払い、細心の注意を持って掘り出す、手伝いのプロのような男だった。付き合いはもう随分になるだろう。俺より高い給料をもらい、妻と子供と両親への仕送りと仲間のささやかな楽しみに使うという、嘘を言われる覚えも、嫌がらせを受ける覚えも無い男で、その人柄は俺も良く知っていた。なにせ、1人の女を泣かせた者同士だ。もちろん、正反対の意味で。 そして何より酒に潤み始めてはいたが子供のように白目の綺麗な真っ黒い目が俺をじっと見つめていた。仕事中一度も交わる事はなかった公私を分ける手伝いのプロの視線が、まるでそんな感情すらも置いてきたと言いたげに。 「……行こう。あっと、ゼンは残って警察に連絡、助教授が出てきたら伝えてくれ」 「分かった」 一番小柄な手伝いに言い付けるとテントを出て、ゴルバとその時テントにいた他の手伝い達と現場に着いたのがついさっきだった。 おそらく教授はゴルバが見た姿そのままだったろう。辺りは風がもてあそぶ松明の頼りない光があるばかりで、他に人の気配はなかった。バコスはやはりいないようで、手伝い達を探しに行かせても呼び声に応えるのは上空高く巻く風の音ばかりだった。 懐中電灯の闇ばかりを生み出すような小さな円の中で、なるほど教授は生きてはいないようだった。白目をむき、口からは粟を吹き、仰向けに倒れた胸から腹にかけて上下動が認められない。だらしなく伸びた手を辿れば、しっかりとその先にくだんの鉄片があったというわけだった。 「ふむ」 これは警察が来るまで動かさないほうが良さそうだった。全身辿るように懐中電灯を動かしては見たモノの、外傷らしきものはなさそうだった。一番考えられそうなシナリオは何らかのトラブルでバコスが教授を殺害して逃げたというモノだったが、外傷がないのでは(頭に血の後一つ見られないのだから)そう簡単なモノではないのかもしれない。口から粟を吹いているという事は薬物の可能性もあるか。すると俺たち全員危ないのではないのだろうか。 駆けつけては見たモノの何も出来る事がなかった。バコスの探査は任せるとして、俺はテントに戻るべきか、それとも警察がくるまでココで死人と共に待つべきか。月は太いが随分冷えてきた中でそれも勘弁と思わなくもないと考えている中で、唯一バコス探しに出歩かなかったゴルバが心底嫌そうに口を開いた。 「お前、どうする」 「放って置くわけにもいくまい? 警察と助教授にはゼンを置いてきたし」 切り取られた光の外で、かろうじて見える目がまた真っ直ぐに俺を見ていた。硬い表情だったように思う。だいたいにおいて現地の連中は表情が豊かで、消え去るのはよほど緊張している時ぐらいなものだった。好きも嫌いも実におおらかな連中だった。いっそ、大学に町に溢れる機械人形のような人混みの中にいるより人間らしく生きられると錯覚でも起こしそうなほどに。 「筺は見つかった。見つけてはいけない。そう言ったのに」 「あぁ?」 現地の連中はこれまた面白い事に、発掘に基本的には反対する。しかし、そうと決まれば真っ先に鐘を稼ぎにやってくる。今回も前回も毎年毎年、パブロフの犬よろしく繰り返される年中行事のようなものだった。いちいち聞いていては作業が進まなくなる。考古学ってもんは人の墓を家をゴミ捨て場を古代人のプライバシーを掘って見つけて評価する学問なのだから。 「見つかったもんは見つかったもんだ。明日には重機も来る。中も開けるよ」 「お前、懲りない。女神の裁き、受ける」 目だけ白い闇に溶ける姿がふっと消えた。あと思ったときにはゴルバの手は教授の硬くなり始めた手をこじ開けて握れば砂と消えそうな鉄片を掴みだしていた。寄越されれば人間てのは反射的に手を出してしまうモノだと俺は何度も味わってはいたが、今度も多分に漏れず光の輪が明後日の方向を睨みながら転がっていってしまうのを多少後悔しつつ目の隅で捉えながら、ざらりとした感触を味わってしまっていた。 「地獄の苦しみ、味わうがいい」 視界がスパークした。 目を開けたら、泡を吹いた自分の姿を上から眺めているなんてシュールな想像をしていたから、はっきり言って驚いた。俺の目の前に俺はいなかった。白い天上を見ていたわけでもない。何もなかった。上下左右何もなかった。見ているどころか目が無いのかも知れない。合ったとしても手も見えない足も見えない。それどころか手がある感触もない。身体が感じられない。視界を失った挙げ句、脊髄で全身麻痺に陥ったら、果たしてこんな感じなのだろうか。 「お前は」 「わっ」 声が聞こえて思わず頓狂な声を上げてしまった。目も見えない身体も感じなかったから『音』が聞こえるとはついぞ思いもしなかった。そして自分でも『声』を出せる事を知った。声は出るのか。 「お前は筺を開けた。これはその代償だ」 「……まだ開けてないし」 鍵を投げられて受け取ってしまったような気がする。でも開けてはいない。開けるのはもっと日が高くなってから、相応の設備の中でやるべきであって、あんな野ざらしの場所で、滅菌処理もせず開けるなんて言語道断だろう。あの教授が何を思ってあそこに行ったか何て知らないが。 「お前は地獄に堕ちるのだ。五感を奪われるなどまだ甘い地獄に。……それが忠告を聞かなかったモノの末路だ」 聞いちゃいなかった。若い女の声は、若い女が人の話を聞かないのと同様、一方的に言葉を押しつけると、こちらの答えなど知らぬとばかりに一方的に消えていった。 「おーい!」 もう、応えるモノはなかった。 次に気付いたときに、俺は驚いて良いのか真剣に悩んでしまった。ぼやける俺の目には知らないけれど何となく想像が付きそうな、平面で平坦でパネル状になった空が見えていて、ついで耳に飛び込んできた声はこれが地獄なのかと苦笑いしたくなるような、けれどそれも言い得て妙だと納得する、懐かしいわけでもないがよくよく知っている声だった。 知らず溜息をつこうとしてでかい硬いマスクが鼻と口を覆っている事に気付いた。そのマスクをつけたのは初めてだったがいったいなんだかは見当が付いたし、それで想像があたっている事も確信出来た。そこで、やっぱりとどこか納得して、喜んでいいのか残念がって良いのか、溜息をつけばいいのか腕を広げて飛び込んでくるだろう等身大の物体を受け止めればいいのか悩むハメになり、とりあえず一番被害が少なそうな腕を広げる選択肢を選んでみた。 案の定飛び込んできた物体はほの温かく柔らかく甘ったるい香水のにおいをプンプンとさせて、耳を塞ぎたくなるような声で叫び上げたのだった。 「よかった、目を開けたよぅ! ゴメンね、嫌いなんて言って。もう離さないからっ!」 ……声は『地獄に堕ちる』と言ったはずだった。 俺はこんどこそ、そっと溜息をついた。 |