修行僧ハッサン1

  照りつける陽射しは痩せたハッサンの体を容赦なく痛めつける。
 辺りは乾いた荒野が広がり延々と続くトラックの轍が町への道標となっているほかには何もない。
 昨夜泊めてもらった商店の主人の話では10kmほど行ったところに、ささやかな市場が出ているらしいのだが、痕跡すら見当たらない。
 「太陽を背にして自分の影を追いかけるようにして歩けば間違いなく着きますよ」
 そう言った主人の言葉を疑うわけではないが、もう10km以上歩いている。
 暑さに疲弊した意識は曖昧になりはっきりとしない。
 「まだまだ修行が足らんな!」
 ハッサンは呟いて苦笑いした。
 時折通るトラックは黄色い砂埃を高々と舞い上げる。
 路傍に積み上げられた古いトラックのタイヤに腰掛けて”フッ”と短い溜息をついたハッサンは恨めしそうに空を見上げた。
 町までは、まだ20km以上ある。
 もし行き着けなければ野宿となる。
 そして食事も期待できない。
 この暑さのなか飲まず食わずでは身が持たない。
 だから市場に行き着かなければならない。
 この20年幾度とも無く、こういう目に遭ってきた。
 しかし今までなんとか生き抜いてきた。
 だからといって楽観的な気持ちにはなれない。
 ふと足元を見るとコブラの屍骸が転がっていた。
 この辺りにコブラは生息していない。
 恐らく見せもの用のコブラが死んだのを捨てたのだろう。
 良く見ると微かに動いている。
 まだ死んではいなかった。
 ハッサンは着ている粗末な衣を脱ぎ落ちている枯れ木を柱にしてコブラのために日除けを作り手で扇いで風を送ってやった。
 暫くするとコブラは時折赤い舌をペロペロと出した。
 ところが数分後全く動かなくなった。
 本当に死んでしまったのだ。
 ハッサンは衣をまとい空に向かって神々を賛辞する詩を諳んじ始めた。
 彼はコブラが死の直前に、ひとときの安らぎを得たことを悟った。
 1台のトラックが彼の前で止まった。
 「お坊さん、どこ行くだ?」
 ターバンを巻いた運転手が良く通るドラ声で尋ねた。
 「この先に市があると聞いて向かうところです」
 ハッサンは立ち上がりながら応えた。
 「ああ、それは来週に延期になったよ。なんでもイスラムの連中が地雷をばら撒いたって噂が有って警察が今週一杯村の連中を避難させて調べるらしいよ」
 「それじゃあ村には入れないんですか?」
 「まあ、『行け』と言われても行かない方がいいと思うけどな。そんな事より乗っていけよ。次の町までは40km以上有るぜ。お坊さんが法力使ったって、これから日が暮れるまでには着かない距離だぜ」
 ハッサンは彼の言葉に甘える事にした。
 「この辺りじゃ見掛けない顔だね」
 運転手はタバコに火を点けながら言った。
 「デリーから来ました」
 「ほう、デリーねえ。アナンダ師知ってるかい?徳が高いってこっちでも随分評判だけど。
 俺は難しい事は良く分からないけど何かい?法力なんかで民衆を救ってくれるんだろうか?
こういうふうに」
 運転手は片手で印を結び呪文を唱える真似をしながら言った。
 「あはは、法力では人は幸せにはなりませんよ。幸せかどうかは考え方次第です。ただそれだけですよ」
 「じゃ何かい?病気で死にそうな奴も考えようによっちゃ幸せなのかい?」
 運転手は子供が親に聞くように言った。
 「ひとつ尋ねますが何故あなたは働くのですか?昨日だって深夜まで働いていたにも拘らず
朝から雇い主に散々文句を言われ、さっき立ち寄った客からは『品物が壊れている』と難癖付けられて運賃を値切られるし(その分自腹でしょ?)全然良いことなんか無いのに」
 ハッサンの問い掛けに驚いた様子で「なんで知っているんだ?今会ったばかりなのに」と聞き返した。
 「予知能力ですよ。これがあなたの言う法力です。私が、あなたの身の上を幾ら知っていてもあなたの救いにはなりませんよね?私にだって何の得にもなりません」
 「なんだか分かったような分からないような。でも働いているのは生活の為さ。どんなに苦しくても家族を養うためには喜んで働くさ。例え火の中、水の中」
 「同じですよ。今死に掛けている病人でも、今まで生きてきた人生に悔いが無ければ、これで人生の終わりだとしても苦しくても問題じゃありません」
 「いや実は俺の親父がガンで死にそうなんだ。俺は、この通りの貧乏人だから高価な薬も買ってやれないし病院にも入れてやれない。上の娘が来月挙式だから何かと物入りで、それを気にしているらしくて『ワシの事は構うな』と苦しさに顔を歪めて言うんだ。幾ら貧乏人だって結婚式にはそれ相応の事はしなければならねえ」
 彼の目には涙が光っていた。
 「分かりませんか?あなたの父上は自らが苦しむ事によって可愛い孫娘が幸せになるという
思いがある事を」
 「でも、それじゃあんまりじゃあねえか!」
 「娘さんは父上に花嫁姿をひと目見せてあげたいと願っています。父上も、それを願っています。彼女だって挙式を取り止めれば一時楽になる薬を買う事ができるのは重々承知しています。父上が激痛に耐え切れず悲鳴を挙げる度に娘さんは『明日婚約者に婚約破棄を申し込もう』と何度も考えているんですよ。ご存知ですか?」
 「本当かい?全然そんな素振りは見せないが」
 「自分が幸せそうな姿を父上に見せる事で喜ばせようとしているんですよ」
 運転手はトラックを止めた。
 彼はハンドルに顔を埋め体を小刻みに震わせて泣き出した。
 ハッサンは彼を優しく見つめている。
 「すまねえ、いろんな事思い出しちまってついつい、みっともねえとこ見せちまった」
 運転手はギアをセカンドに入れゆっくりと発進しながら言った。
 「今夜は決まってるのかい?良かったらウチで、まあ汚くて狭っこい所で食うものもロクなのはねえが」
 「ありがとうございます。もし市が見あたらなければ、この辺りで野宿かなとも考えていました。願ってもないことです」
 トラックが市街地に入ると運転手は「すまねえが、この辺りで少し時間を潰してもらえねえか?荷を降ろしたら今日は終わりだから直ぐ戻ってくる」と言ってベンチのある小さな公園の前でハッサンを降ろした。
 トラックが立ち去るとハッサンの目に路肩で座り込んだ赤子を抱く乞食女の姿が飛び込んだ。女は虚ろな目をして遠くを見ているようだ。赤子は空腹のためかしきりに泣いている。
 ハッサンは1qほど先に救世軍の施設があったのを思い出した。
 女に近寄り「この先の救世軍で何か食べ物を…」ハッサンがそう言い掛けた時女の体はゆっくりと傾き始めバタンと倒れた。赤子は路上に放り出され尚激しく泣き出した。
 女は死んでいた。
 ハッサンは赤子を抱き上げ近くにいたタクシーに乗せてくれるよう頼んだが「勘弁してくだせえ、車内が臭くなっちまう!」と断られたので、赤子を抱いたまま救世軍まで走り出した。
 元々体力が無いうえに、ここ数日ロクに食べていないハッサンは眩暈で倒れそうになりながら必死の思いで走った。
 「もう少しで、あの子も危ないところでしたよ。よく助けてくれました」
 救世軍の若い医師はトラックを運転しながらハッサンに言った。
 「あの親子は、どうしてそちら(救世軍)に行かなかったのでしょうか?前から、あの辺りに居たようですが」
 「簡単ですよ、我々が異教徒だから。単純です」
 医師は吐き捨てるように言った。
 「あなたは、どうですか?」
 「私は確かにカトリックですが決してイスラムも仏教も、そしてブードゥだって否定しませんよ。そしてあなたのようなヒンドゥの方も」
 「私の家は、あなた同様カトリックです。私も20才まではそうでした」
 ハッサンの言葉に彼は驚いたように「なんか信じられないな!」と言って笑った。
 女の居た場所に戻ると既に死体は無かった。
 「役所の連中ですよ。生きているうちは何もしないで死んだらさっさと片付ける。全く!
 そういう我々だって来る者は拒まないけど町に出て積極的に奉仕できないんですよ。あの女性だって本当は助けて欲しかったと思いますよ。でも異教徒の施しなんか受けたら永遠に地獄の苦しみに遭うなんて本気で信じてるから。だから私が名乗りもせず食料を分け与えたなら喜んで受け取ったでしょう。そういえば名前を伺っていませんでしたね。私はベーカーです。
 出身はグリニッジで去年ここに来ました。【シティ オブ ジョイ】って知っています?あの映画を偶然見てここに来るのを決めました」
 「すみません、20年前から映画はおろかテレビも新聞も見ていないので。でも貿易センターの事件は聞きました。名前はハッサンです」
 「えっ!ハッサン?もしかして聖人アナンダ師の第1番目の弟子のハッサン師ですか?」
 彼は興奮して言った。
 「確かにアナンダ師は立派な方ですが私は取るに足らない俗物というか未だ悟れぬ未熟者ですよ。決してあなたが考えているような人物ではありません」
 ハッサンは恐縮して言った。
 「宜しければ今夜は私の所にいらっしゃいませんか?」
 「ありがとうございます。でも今夜は先約が有りまして、ここで待ち合わせをしているんですよ」
 ハッサンは申し訳なさそうに言った。
 「そうですか、うちのメンバーのなかにも、あなたの信望者は随分います(私も、そのひとりですが)できれば7時頃ここに来ていただけませんか?皆あなたの話を聞きたがっています」
 「ちょっと待って下さいよ。私はヒンドゥの僧侶ですよ。ましてや20年前にカトリックを止めた言わば裏切り者ですよ」
 「いいえ、法王様だって、あなたをお認めになるでしょう」
 ハッサンは強引に押し切られる形で彼の要望を受け入れた。
 彼が立ち去ると運転手が入れ違いに現れた。
 「お待たせ、急いでたんですが主人が一昨日の客のクレームで文句言うもんですから」
 「こっちも今着いたところです」
 ハッサンが笑って応えると運転手は不思議そうな顔をした。
 彼の家は救世軍の裏だった。
 丁度ベーカーが運転手の父親を診察に来ているところだった。
 「おや、先約というのは、ここですか。ヒンドラさん今夜は有り難い、お話が聞けますよ」
 ベーカーが笑いながら痩せこけた老人に言った。
 「知り合いですか?」
 運転手がベーカーに尋ねた。
 「アナンダ師の一番弟子といえば?」
 「まさか!」
 ベーカーの問い掛けに運転手の顔色は一瞬にして青ざめた。
 「そのとおりですよ」
 「そうか、だからアッシの事なんか全くの、お見通しだったのか!」
 その夜、ベーカーの手配で町の一流ホテルでハッサンの法話会が開かれる事に急遽決まった。そのついでに運転手の娘の挙式も今夜行うことになった。
 急ごしらえとはいえ豪華な料理が並び人々は大いに楽しんだ。
 宴たけなわの10時過ぎにハッサンの法話が始まった。
 「
 「私は昨夜夢を見ました。
 それは今夜の事です。
 所謂予知能力という訳です。
 皆さんの中には私のように予知能力が有れば良いと思う人も居るでしょう。
 そうすれば災難に遭わずに済んだり大儲けできると考えてしまいがちですが、それは大間違いです。
 予知能力で明日家の前で交通事故に遭い大怪我をすると分かったとします。そこで前日から家を開けていたとします。ところが泥棒に入られ金目のものを根こそぎ盗まれる。それも予知して至るところに鍵を掛けたとします。今度は腹を立てた泥棒に放火され全てを失う。だから家にずっと居たら泥棒に出くわして殺された。そういうものです」
 「でも、泥棒に入れられなかったら、それでいいじゃないか」
 体格のいい中年男性がハッサンの話を遮った。
 「実は、それも夢に見ました。オッと危ない、気をつけて!」
 ハッサンが言い終わらないうちに彼の左手に持っていたグラスにボーイがぶつかり手から離れて床に落ちて粉々に砕けた。
 「何しやがるんだ!」
 男性がボーイに食って掛かろうとした時ハッサンは「あなたが悪いんですよ」と嗜めた。
 「それも予知済みですか?」
 丸刈りの若者が言うと皆笑った。
 「はは、一本取られたな。でも現在から未来を予測する事はできます。この事の方が重要ですよ」
 「お尋ねしますだ」
 身なりの汚い痩せた老人が言った。
 その声は非常に小さくハッサンが手にしていたワイヤレスマイクが手渡された。
 「おらは身寄りのねえ貧しい年寄りだ。町の教会で庭の草木の手入れをして施しを戴いて暮らしてるだ。ベーカー先生が『立派な方の話が聞ける』というので来たらヒンドゥの坊さんじゃねえか。しかも以前はカトリックだったって言うじゃねえか。あんたは、なして神を捨てただ。あんたの信じる神は、おらみてえな何の役にも立たねえ老いぼれでも救ってくれるだか?おら以前はヒンドゥの神を信じていただ。でも1人娘は嫁入りの3日前に轢き逃げされ犯人は1年経った今でも分からねえ。妻は悲しんだ挙句病気になって半年後に死んだ。1人残されたおらは勤めていた工場を解雇されて自暴自棄になって盗みで捕まり前科もんとなってしまった。そんな時教会で神父さんから神の素晴らしさを教えて貰っただ。それまでのヒンドゥの神とはエライ違いだ。ヒンドゥの坊さんたちは、あんたみたいに『カルマだ、諦めろ』といって取り合わなかった。娘が死ぬのは避けきれねえカルマだというのかい?」
 老人の目は怒りに満ちていた。
 ハンサンは老人の訴えに涙を流し口を開いた。
 「なんという運命でしょう!今日あなたの娘さんを撥ねたトラックを運転していた男の妻の死を見取ったんですよ」
 その衝撃的な言葉に老人は全身を震わせた。
 「この因縁は遥か3500年前にまで遡ります。あなたの先祖はアムリツァーの近くにある小さな村で暮らしていました。僅かばかりの穀物が収穫できる程度で決して豊かでは有りませんでしたが数十人の村人が暮らすには充分でした。そんなことで村人たちは皆助け合い仲良く暮らしていました。
 しかし、北の王族が村の南にある都(この土地は肥沃で何を植えても他より早く大きく育ち、特に綿などは品質が良かったものですから高値で売れ町は非常に繁栄していました)を侵略しようと兵を送りました。
 そして村は通り道として僅かな田畑は踏みにじられ略奪に遭い何もかも(それは今口にはできません)無くして人々は一旦東へ逃れたのですが、そこでも地元の人たちから追い払われて仕方なく南下しました。やっと暮らせるような土地を探し当てても他の部族に奪われたり、突然作物が採れなくなったりして各地を転々として或る日ようやく辿り着いた土地で細々と暮らし始めました。約2千年前の話です。そこでは3人の…」
 「いい加減な事を言うな!」
 ハッサンが話している時、若者が立ち上がり叫んだ。
 会場は、ざわめき皆彼の方を向いた。
 「知っているぞ、お前がいろんな所で適当な事を言って貧しい人たちから金品を巻き上げていることを!」
 「なんて事を言いやがる!」中年の労務者風の男が怒鳴った。
 「皆さん、お静かに」
 ハッサンは穏やかに諭した。
 「カーンプルじゃ貧乏人の老夫婦を家から追い出して不動産屋に売り渡したそうじゃねえか」
 「まず人にものを尋ねる前に自らの名を明かすのが礼儀じゃありませんか?ディーバさん」
 「なんで俺の名を?」
 ハッサンの問い掛けに彼は驚いた様子で応えた。


前ページへ 次ページへ

ノイジーメニューへ   トップページへ