修行僧ハッサン2

 
 「カーンプルの話をいたしましょう。あの老夫婦は若い頃あそこに住んでいた知的障害者の若者を誑かして追い出し(実は殺して近くの古井戸に捨てたんですよ)居座ったものです。
 その件については今更とやかく言う積もりはありません。だって、もう40年前の話ですから。あそこには近々市の庁舎が建つ予定となって買収が進められていたんです。そこでひと儲けを企んだ不動産屋が老夫婦に『昔の話をバラすぞ!』と脅して、はした金で追い出そうとしていたんです。工事は止めることができませんから立ち退くのは仕方ないにしても無一文で放り出されても困りますよね。そこで私が不動産屋と掛け合って市が支払う金額から手数料5%を差し引いた金額で売らせたんです。恐らく、その話は不動産屋から出たものでしょう。可なり頭に来たようでしたから」
 ハッサンは淡々と話した。
 「そんなデマカセを誰が信じる!それじゃデリーの貴金属商から巻き上げた2万ルピーは、
どう言い訳するんだ?」
 それは不渡りを出した貴金属商が以前寄付した金を負債に充てようとして起こした訴訟である。裁判所は事情を精査し不当な訴えと判断し貴金属商の訴状を受け取らなかった。
 その件に関して債権者の一部がなんとか損失を埋めようと様々な手段を講じて寺院に請求しているのだった。事情を知る地元の人たちは彼らの話には耳を貸さなかったが事情を知らぬ近隣の人たちの中には誤解している人も少数ながら居た。噂は1人歩きして約1千キロ離れた、この土地まで伝わっていた。
 ハッサンは事の仔細を簡潔明瞭に説明したが彼ひとり、どうしても納得し難い様子だ。
 「もう、このへんで、この話はいいですか?こんな話は恐らく余り聞きたくないでしょうから」、「逃げるつもりか!」若者が叫んだ。
 「ここで幾ら話しても無意味だと言っているんです。もしお望みなら寺院にいらっしゃい。
 いつでも事の仔細を証明できる証拠をお見せしますよ」
 周りの人たちも若者ひとりに振り回されるのに苛立ち彼を非難し始めた。
 「疫病で両親を亡くした幼い3人の兄弟の話ですが、彼らは亡くなる間際の父母の教えを忠実に守り共に仲良く助け合い富も苦しみも分かち合い、やがて村の長となりました。厳しい環境で作物も満足に育たぬ土地でしたが3人の長の教えに従い村人は創意工夫して良い肥料、良い作物の苗を作り上げ痩せた土地でも良く育ち収穫できるようになりました。そういう時代が2百年ほど続き村も豊かになり収穫の際には先祖に感謝する祭りを行うようになりました。
 しかし噂は近隣に広がり王の耳にも届きました。王は、ひと目その土地を見ようと村に出掛けた時隣国に攻め入られてしまいました。それから再び流浪の日々が始まりました。
 そして皆さんの先祖が、この土地に辿り着いたのは今から2百年前でした。
 当時この土地は3人の兄弟が居た土地同様に痩せて石ころだらけでしたが今では、ご覧の通りです。ところで1年前娘さんを轢いた男は、ここから5百qほど離れた農村で僅かばかりの土地を耕して暮らしていましたが妻が身籠ったことを知り少しでも豊かにと隣町に出稼ぎに来ました。ところが彼を雇った製糸工場の経営者が約束通りの金を支払わないばかりか宿泊代と食費を逆に請求したのです。怒った男は工場のトラックを盗み売り飛ばそうとしましたが免許を持っていない彼は思うように動かせず橋の欄干からトラックごと落ちて溺れ死にました。
 娘さんは、その途中にひき殺されたんです。妻は僅かばかりの畑を耕し飢えを凌いでいましたが凶作で食べるものも無くなり夫を頼って隣町に行く途中で、その先にある公園で亡くなられました。更に男は、あなた方の先祖を3500年前に追い出した王族の最後の子孫です。
 もし今救世軍に預けられている彼の娘を(全てを洗い流して)引き取るなら3500年の因縁は即座に消えうせるでしょう」
 会場のあちこちからすすり泣く声が聞こえてきた。
 老人も若者も泣いている。
 その夜ホテルの経営者が「是非うちのスイートで泊まって下さい」と申し出たが何か胸騒ぎを感じたハッサンは彼の好意に礼を述べ彼の屋敷の敷地内にある厩舎(彼の所有する競走馬を飼っている)隣にある秣小屋に泊まった。
 久し振りに満足な食事をとり少しばかりの酒も口にしたハッサンは直ぐに眠りに落ちた。
 そして夢を見た。
 子供の頃の夢だ。
 どこかの川岸で父が大物を釣り上げハッサンが興奮して騒いでいる。
 大きなパラソルを真ん中に差した丸いテーブルでは生まれたばかりのサリーを抱く若く美しい母、黒塗りのロールス・ロイスに付いた埃を毛バタキで払っている難しい顔をした運転手の
パーカー。今のハッサンよりも若い父は彼に釣り上げた魚について色々説明している。
 一言一言にうなずくハッサン。
 その時、眠りをも覚ますほどの異臭に目を覚ました。
 それは強烈な腐敗臭だった。
 暗闇の中に何か白いモヤのようなものが浮かんでいるのが見える。
 やがてモヤは人の形になり昼間の乞食女へと変わった。
 「娘の命を救っていただき感謝いたします。このように何も持たぬ乞食ですので、せめて夜伽でもと思います」
 女は、そう言って衣服を脱ぎ始めた。
 その体は子供を産んだとは思えぬ瑞々しい若い女のものだった。
 先ほどまでの悪臭は消え僅かながら淫臭が感じられた。
 「失せろ、魔物め!」
 ハッサンは大声で怒鳴った。
 女は「キャッ!」という叫び声を挙げて姿を消した。
 隣の厩舎では馬たちが騒ぎ始めた。
 その声を聞きつけた主人が小屋に来た。
 ハッサンは今起こった事を主人に説明した。
 主人は何か災いがある事を懸念したがハッサンに「これは私の因縁ですから、どうか気になさらずに」と説得され安心した様子だ。
 2週間の修行から帰ったハッサンは山積みになった書類の整理で丸1日潰した。
 昨年からパソコンを入れたのはいいが使えるのはハッサンひとりしか居らず経理処理や各方面からのメールの返事などの他に若い連中にパソコンを教えなければならない。
 これがまた、一苦労である。なにしろ読み書きもロクにできないような者から大学を出た者まで様々でコマンドひとつ説明するにも読み方からOSに直結した高度な質問まで様々で説明しているハッサン自身何を話しているのか分からなくなる。
 ちなみにハッサンは最後までパソコン導入を反対し若い修行僧たちから「時代遅れ」と散々非難された。だからハッサンはいつも複雑な気持ちで教えている。
 夕方、アナンダ師が隣国ネパールから帰って来た。
 80才の高齢にも拘らず月一度の海外遊説を欠かさない。
 ハッサンはアナンダ師に自分の旅の報告をした。
 「あれは女の腹に宿る回虫の化身であるのは確実です。しかし私が路上で見た女は確かに生きていました。でも体は既に腐敗が始まっていました」
 「なぜ、あの時回虫は自らの命を顧みずに赤子の命乞いをしたか不思議なのだろう」
 「ええ、夜現れた姿は明らかに悪霊そのものでした。それが昼間の慈悲に満ちた姿とは」
 「『なにゆえ、畜生の分際で』と言うのか?その問いは何度目だ?」
 アナンダ師は笑いながら応えた。
 ハッサンは、それ以上は何も言わなかった。
 彼が入門以来何度もした質問だった。
 そしていつもアナンダ師が最後に「命に上下は無い」と笑って終わる。
 ハッサンは別に命に番付けをする積もりは無いのだがアナンダ師の巧みな話術に操られてしまう。
 「気にせずとも良い。その因縁は消えた」
 アナンダ師は、そう言って笑った。
 ハッサンは、アナンダ師の体を気遣い、それ以上は話を避けた。
 翌日、街へ托鉢に出掛けたハッサンは至るところで仕事や娘の婚礼その他税金まで様々な相談を受け予定の時間を大幅に過ぎてしまい寺院での法話会には間に合いそうも無い。
 それに空模様も怪しくなり今にも降りそうだ。
 町外れの教会に差し掛かった時とうとう振り出した。
 ハッサンが教会の庇の下で雨宿りをしているとドアが開き神父が顔を出し「中に入れよ
ニコラス」と声を掛けた。
 聖堂では聖歌を練習していた子供たちが突然現れた怪しい僧侶に驚いたようだ。
 「心配ない、私の友人だ。さあさあ続けて」神父の言葉に子供たちは再び歌いだした。
 ハッサンもかつては、あの子供たち同様に聖歌を練習していた1人だった。
 「昨日帰って来たんだって?アナンダ師」
 神父はティーポットとケーキを載せたキャスターを押し執務室に入りながら言った。
 「ああ、歳も歳だし、それに最近なにかと騒がしいので心配だ」
 ハッサンは壁に掛かった聖母マリアの絵を見ながら言った。
 この絵は10年前死んだ父が彼の誕生を祝って寄贈したものだ。
 「先週サリーに会ったよ」神父が言った。
 「先週もバンガロールで教会が襲われたらしいな」
 ハッサンはわざと話を逸らせた。
 「それなんだが」
 いつもは「話を逸らすな!」と怒る神父が今日は話に乗ってきた。
 「最近この辺りにもイスラムの過激派の連中が紛れ込んでいるらしい。もし怪しい連中が居たら連絡してくれ」
 「怪しいとは?」
 ハッサンはティーカップを口に運びながら言った。
 「うちもそうだが、そっちだって施しを目当てに来る連中の中には充分怪しいのが居るだろう」神父は皿に乗ったロールケーキをハッサンの方へ置きながら言った。
 「我々は来る者を選別する事は無い。例え相手がテロリストだろうとカトリック信者だろうと」
 「分かっていてもか?」
 神父はハッサンを問い詰めた。
 「そのとおりだ」
 「明日時限爆弾で多くの人々を殺害すると分かっていてもか?」
 「そんな事勝手に断定できんだろ?」
 ハッサンは笑いながら応えた。
 「はぐらかすな、他の人なら、いざ知らず、お前には分かるはずだ」
 「明日百人殺すだろうが明後日1万人救うかも知れないじゃないか!」
 ハッサンの言葉に神父は唖然とした様子で天井を見上げ、暫くして「聖職者の言葉か!」と嗜めるように言った。
 「ヒロシマ、ナガサキに原爆を落とし何万人もの民間人を殺したエノラゲイの機長は『これで多くの同胞の命を救うことができた』と言ったじゃないか?彼らだって1人の同胞を救うために百人の異教徒を殺すのをためらう筈がないだろう」
 「異教徒、異教徒って、お前もかつては同じクリスチャンだったじゃないか!しかも日曜の礼拝をサボッた俺を散々非難した事を忘れたか?」
 「皮肉なもんだな!そのお前が神父で私がヒンドゥ教の修行僧だなんて」
 ハッサンは無邪気に笑った。
 「とにかく、少しでも変わった事があったら連絡してくれ」
 神父は苛立ちを露わにして言った。
 雨もあがり教会を出たハッサンは寺の方に黒塗りの高級車が走って行くのを見た。
 案の定車は寺の境内に止めてあった。
 車の中には仕立ての良いスーツ姿の若い男が乗っていた。
 ハッサンは、その車の横を通り事務室へ向かった。
 途中の渡り廊下で、すれ違った若い修行僧が彼に客が応接室で待っている事を告げた。
 応接室では見知らぬ背広姿の東洋人が壁に掛けてあるサスマタを興味深く眺めている。
 「それは戒律を破った修行僧を打つためのものです。ただ余りにも非人道的であるという理由から40年前に廃止されました。アナンダ師によってです。でも戒めのために今でも、そうやって置いているんです」
 突然説明を始めたハッサンを振り返り驚いた様子でタカハシは見つめた。
 「初めましてハッサンです」
 「タカハシです。CIAの諜報員です」
 「自ら諜報員と名乗るとは随分怪しいですね。まあ、黙っていても充分怪しいけど」
 「参ったな!」
 タカハシは照れ笑いで誤魔化すように言った。
 「もう、お茶が冷えているようですね。新しいのを持ってこさせましょう」
 ハッサンは、そう言うと通り掛かった小坊主を呼び止めタカハシの湯飲み茶碗を手渡し新しいのに換えるよう指示した。
 「分かりました事務長」
 小坊主は真剣な表情で言うと立ち去った。
 「実は今アリゾナで研究中のシステムのリーダーが殺されまして」
 「それで私に代役をしろというのでしたら、お断りします」
 「参りましたね!すっかり、お見通しだ」
 「初めから分かってますよ、あなたの正体も」
 「そんな、人をまるでエイリアンみたいに言わないで下さいよ」
 タカハシは懇願するように言った。
 「そのものじゃないですか!」
 ハッサンは急に険しい顔をして言った。
 「私の話を聞いてください」
 「いいえ、お茶を飲んだら、お帰り下さい。寺が穢れます」
 ハッサンは、そう言って立ち上がり応接室を出た。
 入れ替わりに小坊主が茶を運んできた。
 「困ったな」
 タカハシは茶を飲みながら呟いた。
 そこへアナンダ師が来た。
 「ダメでしたか?」
 アナンダ師はタカハシの顔を見て悟ったようだ。
 「ええ、でも初対面ですから、いきなり言ってもダメな事は分かってましたし」
 「あれは未だ悩んでいるんですよ。本来長所である明晰な頭脳を必死で否定しようとしているんですよ。だから来た当初は、矢鱈と難行苦行に没頭し自らの肉体を苛めてばかりでした。
 何故そこまでして天より授かった能力を否定するのか私には測りかねるところです」
 アナンダ師は言い終わると深い溜息をついた。
 「惜しいですね、本当に」
 タカハシはアナンダ師の言葉にうなずきながら言った。
 「空振りでしたか?」
 車に乗り込んだタカハシに若い職員はエンジンを掛けながら言った。
 「妙に嬉しそうだな!」
 「ええ、あなたが交渉失敗するなんて滅多にないことですから」
 タカハシは彼の無神経な言葉に少し機嫌を損ねたが気を取り直して「君を楽しませたのなら無駄でもなかったかな?」と皮肉を込めて言った。
 車が町に入り、貧民街に差し掛かると夕暮れ時で混雑していたが彼は速度を落とさず右手で口を押さえて「たまらんな、この臭い」と言った。
 タカハシは臭いよりも彼の乱暴な運転が気になっていた。
 脇道から少年が飛び出した。
 「危ない!」
 タカハシは思わず叫んだ。
 だか彼は、そんな事には、お構いなくブレーキはおろか速度を緩めようともしない。
 少年は車のサイドミラーに弾き飛ばされた。
 「ああビックリした、脅かさないでくださいよ!」
 彼はルームミラー越しに言った。
 「何やってるんだ!早く車を止めろ」
 タカハシは怒鳴ったが彼は車を止めようとはしない。
 「早く止めろ!」
 「冗談じゃない!なんで止めなきゃならないんですか?悪いのは向こうですよ。下手に止めたら、こっちの命が危ない。勘弁してくださいよ」
 「早く助けないと死んでしまう!」
 「まさか本気にしてるんですか?あれはアタリヤですよ。慣れたもんですよ。なんなら明日の午後あそこに行けば同じようにあの少年は飛び出してきますよ。まるでビデオを再生するように今見たシーンをそのまま」
 「とにかく止めろ!私は降りる」
 「面倒は御免ですよ」
 彼は、そう言うと車を止めタカハシを降ろすと直ぐに走り去った。
 タカハシは駆け足で少年の許に急いだ。
 現場には人だかりができていた。
 「直ぐに病院に運べ!」
 「いやダメだ、動かしたら危ない」
 野次馬たちは口々に勝手なことを言っていたが何もできずにいた。
 少年は路上に倒れたまま動かない。


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