日本支社誕生3

 
 

 翌週、イヴァノフ大佐から「レポートを提出しなければいけないから先週の作業内容を簡単でいいから教えてくれないか?」という電話が有った。
 「先週の作業って何ですか?私何もしてませんよ。小野さんから連絡もないし」
と笑子が応えると大佐は「そんな!ミスター・オノは『全て順調だ。既に具体的作業に入っている』と先週言ってたのに」と声を震わせて言った。
 「すみません」笑子が思わず謝ると「いや、君が謝る理由は無い。私からプッシュしておく」と言って大佐は電話を切った。
 その2日後、小野から「明日の朝9時に川越市役所に来てくれ」と電話が掛かってきた。
 「はい、分かりました」笑子が応えると「言っておくが君は日本人だ。その事を忘れるな。米軍の連中は外国人であるという事を良く肝に銘じておけ」と言って小野は切った。
 「なあに〜!感じメチャわるっ!!」
 笑子は受話器に向かって言った。
 翌朝、笑子は母親に借りた自転車に乗り川越市役所に出向いた。
 (車は父親がゴルフに出掛け朝から使用中だ)
 小野は現れず、代わりに真新しい紺のスーツ姿の若い女性職員が2人で笑子を出迎えた。
 「杉原といいます。普段は国宝の管理の方の仕事をしています」
 背の高い女性は名刺を両手で、ぎこちなく笑子に差出しながら言った。
 「島野といいます。小野の下で学校法人の認可の仕事をしています」
 笑子と同じか、少し背の低い栗毛に染めた女性が同様にぎこちなく言った。
 「どうも、ご丁寧に、恐れ入ります」
 笑子も恐縮して何度もペコペコ頭を下げながら名刺を受け取りながら言った。
 「小野から『今後しばらく河村先生の研究の手助けをしろ』と言われました。作業場所は地下に確保してあります。昨日急に言われたので秋葉原でパソコン3台揃えるのが精一杯だったのですが、他に必要なものがあれば言っていただければ用意します」背の高い方の女性が言った。
 案内された地下には数件の飲食店が立ち並んでいる。
 2人は居酒屋隣のカレー専門店に入って行った。
 「えっ、朝からカレー!?」
 笑子は店に入るのに躊躇した。
 「どうぞ、中へ」
 栗毛の彼女がガラス製のドアを開けて言った。
 「私昨日から、ちょっとお腹の具合が悪くて」
 笑子が申し訳なさそうに言うと彼女は不思議そうな顔をした。
 丁寧ではあるけれど有無を言わさぬ態度に笑子は少し「むっ!」としたが朝寝坊して朝食抜きで出て来たので逆らう元気もなく言われるままに従って店に入った。
 「ナンでも注文して齧ればいいか!」
 笑子はそんな事を考えながら店に入った。
 狭い店内にはカウンター、テーブルは揃っているものの笑子たち以外客も店員も居ないし、第一カレーの匂いもしない。
 床にはパソコンの入った段ボール箱が積上げられている。
 「先週ここを借りていたカレー屋さんが借金払えずに夜逃げして、次の日債権者たちが金目のものを持っていったんですけど、これだけは残ったみたいで。ガスと水道は、まだ通っているのでコーヒーくらいは入れられますよ。ティーバッグでよければ紅茶なら直ぐ入りますよ」
 杉原が白いコーヒーカップを手にとって笑子に見せながら言った。
 横田基地に置いている機材は到底置けそうも無い狭い店内を見渡しながら笑子は溜息をついた。
 「河村先生はメディアの研究をされているんですよね」
 島野が業務用の大きな給湯器で沸かした湯をブリキのヤカンに入れながら尋ねた。
 「えっ!」
 笑子は答えに詰まった。
 「小野から、そう聞いていますが」
 島野が不安そうに言った。
 笑子は何をどう説明していいのか分からなかった。
 「ところで、お二人は理数系の知識はありますか?」
 笑子が恐る恐る尋ねた。
 「私は理数系が苦手だったので国立は諦めて早稲田の法律の方を出ましたが杉原の方は御茶ノ水ですから私よりは数学は出来るかと」
 島野が言った。
 「駄目!ダメ!!私センター試験の自己採点35点だったんだから」
 杉原がレモンを輪切りにしている手を止めて言った。
 予期していた最悪の応えに笑子は打ちのめされた。
 笑子は立ち上がり入口の上にあるブレーカーに歩み寄り契約電力を見た。
 「50アンペア!全然足りない!!」
 笑子は思わず呟いた。
 「もし必要なら契約し直しますよ」
 杉原が言った。
 「最低でも、この10倍は必要なの」
 笑子が切ない表情で言った。
 「じゅ・・・、10倍!」
 杉原と島野は顔を見合わせて言った。
 「だって、通信設備だけで100アンペア必要だし、アナライザーとインバーターで200にカルロスが開発したオリジナルのプロセッサーで50だし…第一LANケーブルも通っていないようだし、それに…」
 次から次へと出してくる笑子の要求に2人は目をパチパチしながら聞き入るだけだった。
 「どうしよう」
 島野が杉原に言った。
 「『どうしよう』って言われても、河村先生済みませんが必要なものを書き出していただけませんか?上司の小野に掛け合ってみます」
 杉原が戸惑いながら言った。
 「分かったわ。ところで、その先生は止めてくれませんか?私ただの研究員ですから」笑子が申し訳なさそうに言った。
 笑子は2人に自分が研究・開発しているシステムの戦略上の意味を説明したうえで実際に、どういうものかは後日横田基地で実際見てもらう事にした。
 「それじゃ今すぐ、ここでやれる事は?」
 杉原が尋ねた。
 笑子は暫く考え込み「無いわね。強いていえば私が必要な設備・機材・環境をまとめることくらいかしら?でもそれだって便箋1枚で充分だから、ものの10分も掛からないわ」と言った。
 笑子が必要なものレポート用紙に書き出して杉原に渡して解散した。
 市役所を出て直ぐに携帯電話が震えた。
 相手は聞き覚えの無い男性の声だった。
 「武蔵国際大学の篠原といいます」
 若くはないが良く通る声で妙な安心感を覚えた笑子だったが「間違い電話?それとも何かの勧誘?」と改めて身構えて話を聞いた。
 「明日の研修会なんですけど、今会場で渡すプログラムを作っている最中でして、もう少し早く連絡を差し上げるべきだとは思ったんですが何しろスタッフが少ないもので申し訳ありません。ところで明日発表されるテーマを教えていただけないでしょうか?」今日は水曜日だった。
 「忘れてた!」
 笑子は思わず呟いた。
 「えっ!?」
 電話の向こうで問い返す声が聞こえた。
 「何でもありません。それじゃ『プリズムの光学的再検証と相対性理論』とでも、お願いできますか?」笑子は咄嗟に応えた。
 「プリズムですか、中々鋭いですね。結構です。助かります」
 彼は、そう言って電話を切った。
 「本当に分かってるのかな?」
 笑子は少々不安を感じながらも「その程度のレベルの集まりなのかな」と妙に安心したりもした。
 それよりも今明日の準備を何もしていない現実に気付いた笑子は一瞬目の前が真っ暗になった。第一パソコンすら持たない笑子は真っ先に大型家電店に自転車を走らせた。
 とりあえず一番安いノートパソコンとプリンターを購入し、自転車の荷台に縛りつけて家に帰った。
 自分の部屋で梱包を解きセットアップを始めようとした時、家にはISDN回線しか通っていない事に気付いた。「駄目だぁ!」笑子は肩を落としながら言った。
 会社のデーターベースから必要な情報をダウンロードするには丸3日掛かる。
 最低でも通信速度が46mbpsのADSL回線でなければ、とても明日の研修会には間に合わない。「そうだ!和泉のところのパソコン借りよう」そう考えた笑子は早速和泉に電話を掛けた。「ゴメン!明日朝一番でクライアントに持ってく原画仕上げないといけないから今夜はスタジオでカンヅメだから家には帰れないの。家に電話入れとくから勝手に使って!」和泉は快諾してくれた。
 「ラッキー!」
 笑子はパソコンを自転車の二台に縛りつけて和泉の家に向かった。
 和泉の家には光が引かれており2時間足らずで必要な情報が取得できた。
 翌朝、指定された筑波大学に出向いた笑子は50才前後の紳士然とした身なりの篠原に出迎えられた。
 「むっ、武蔵国際大学理学部教授!」
 名刺を受け取った笑子は目を丸くして言った。
 「しがない物理屋ですよ」
 篠原は照れ笑いしながら言った。
 案内された講堂は千人くらい入れる大きなものだった。
 篠原から渡されたプログラムには関東にある国公立大学の助教授や助手といった人たちが名を連ねていた。講演内容も「ビッグバン直後の宇宙」とか「常温における超伝導」といった見るからに立派なものだった。そして最後に笑子の「プリズムの光学的再検証と相対性理論」だ。
 「一般の人向けの素人相手の公演だと思ってたのに!」
 笑子は心の中で呟いた。
 篠原の司会で公演は進められた。最初の人の公演が終わり質問を受ける段になって最前列に陣取っている(前から3列目まで人は居ない)中年の男性が真っ先に手を挙げた。
 「直後のエネルギーが無限大だというが、それなら今も宇宙には無限大のエネルギーが充満しているんじゃないか?」
 「いえ、私が言っているのは一兆分の一秒後の宇宙ですから、殆ど点のような大きさでしかないと仮定してのものです」
 「光速で一兆分の一秒といえば30cmだ。直径が30cmあれば立派に空間といえるんじゃないか?」
 彼は一歩も引かない。
 「議論も盛り上がってはいますが後が込んでいますので村上さんの質問は次回への課題という事で、お願いします」
 篠原が割って入った。
 次のパネラーにも村上の鋭い質問が浴びせられた。
 「どうしよう!?」
 笑子は困った。
 彼女の公演内容は専門家向けではなく素人相手のものだから専門家から見ればつけ入る隙は幾らでもある。
 とうとう笑子の番が回ってきた。
 オドオドしながら壇上に上がり所々詰まりながら説明をした。
 用意した原稿から目を上げれば村上の顔が直ぐ傍にあり、左右に視線を振り何とか目を合わさずに進めていた時「おい、失礼だろ!」と村上が怒鳴った。
 「済みません!」
 怯えきった声で笑子は言った。
 「居眠りなんかして、聴く気が無いなら出てゆけ!」
 村上は直ぐ後ろの中年男性に向かって言った。
 言われた方は「ふん!」と呟き(笑子には、そう見えた)立ち上がり退席した。「どうぞ、お続けください」村上が振り向きざまに笑子に言った。
 「ああ、ありがとうございます」
 笑子は訳が分からなくなり咄嗟に言うと原稿を棒読みして終えた。
 質問の段になると村上が真っ先に手を挙げ「それは音が見えるということを言っているんですか?」と尋ねた。
 「ええ、少し精度の良い光学機器を使用すれば可能です」
 笑子は自信タップリに応えてハッとした。
 今言った事は合衆国の国家機密に該当する内容だ。
 「もう一度、伺います。音を見ることは可能ですか?」
 「いや、それは…」
 笑子はヘビに睨まれたカエルのように体が硬直した。
 「残念ですが時間も押しています。この後ここで次の授業がありますので終わらしていただきます」
 篠原が再び割り込んだ。
 「ふ〜っ!」笑子は車に乗り込んだ時に深くため息をついた。




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