小泉内閣以前の米百俵の故事
平成12年2月315日衆議院予算委員会
○栗原博久委員
私ども新潟では、誇るべき米百俵という精神の運動がございます。これは、戊辰戦争の戦禍で、約二百五十年の間に築き上げました長岡藩という藩がありますが、その藩が戊辰戦争で敗れまして、わずか一年の間でこの長岡の町が荒廃いたしました。
そして、荒廃をすると同時に、やはりそこに住んでおります武士あるいはまた一般の方々は飢えておったわけでありますが、そこに近くの支藩から米百俵が送られてまいりました。
この米百俵は、本来、当時の長岡の方は、それを一刻も早く食べたい。しかしながら、当時の小林虎三郎という偉い方が、その米の百俵は食べないで教育に使おう、教育の施設を、あるいはまた本とかを買うということで、長岡藩が見事に復興したわけであります。
その中で、私は、教育というものは何物にもかえがたいものだと思っています。
平成9年6月6日衆議院外務委員会
○東祥三委員
司馬遼太郎さんの有名な小説「峠」というものがございます。その主人公である長岡藩の家老河井継之助、有名な方でございますが、出処進退の大原則にかかわる名言を、外務大臣、御存じだと思いますが、彼は次のように言っています。進むときは人任せ、退くときはみずから決せよ、と言っております。なぜやめるときに人に相談したらいけないのか。やめない方がいいと言うにみんな決まっているわけです。
平成9年5月26日衆議院決算委員会
○坂上富男分科員
新潟と福島県境には八十里越えという通称の場所があるわけでございますが、これは八十里あるというわけではございませんで、八里しかないのでございますが、大変難所でございますからその十倍かかるということで八十里越え、こういうことを言っておるわけでございます。また長岡の、長岡藩時代でございますが、河井継之助氏が、落城をいたしまして会津に逃げ延びられたわけですが、この県境を通っていったという、大変これまた歴史的な場所でもあるわけでございます。 また、会津の殿様もこの場所をお通りになったというようなこともあるわけでございます。
そんなことで、今は全く道路がございません。もう本当にやぶでございまして、私は、ちょうど十年ぐらい前でございましょうか、歩きました。歩きまして、全く道がないものございまするから、私は滑って落ちました。
平成9年3月10日参議院予算委員会
○高橋令則君
私はこの際少し古い話を申し上げますが、戊辰の役の後、越後の長岡藩で米百俵の話がございます。
御存じのように、長岡藩が戦いに敗れて、そしてあれは十二万石が三分の一ぐらいになったんですか、もう塗炭の苦しみを味わうような苦しみの中で当時の大参事であった小林虎三郎という人が、その支藩でしたか、三根山藩から贈られた米百俵の処置をめぐって、今食べてしまったのでは何にもならない、これは教育に投じよう、学校を建てようということで、その後の同藩の人材輩出の因をなしたというふうに感動的に、これは山本有三先生の本ですけれども、書いてあります。
私は、相当前に読ませていただいて、また確認をさせていただきました。
私は、今非常に我が国は厳しい状況、行財政環境の中にありますが、やはり古人のこのような見識といったものに学んで、そして厳しい中にあっても精いっぱいの努力をしなければならない、このように思いますが、総理の御見解をもう一度お示しいただきたいと思います。
○国務大臣(橋本龍太郎君)
幕末から維新史を見ましたとき、越後長岡藩というのは独特の人材を輩出しております。河井継之助あるいは山本帯刀、そしてその山本家を継がれた高野五十六、後の山本五十六、その中に小林虎三郎も数えられる。私は越後の方々が、長岡の方々が誇られる人材であったと思います。
そして、将来というものに、人をつくるということにその投資を向けた、長岡藩独自のやはり士風の中からそのようなものが育った、私はそんな感じでこの話を受けとめておりました。
平成9年2月21日衆議院法務委員会
○栗原博久委員
先般、予算委員会で、私の同じ選挙区であります坂上富男先生が、我が地元で長岡藩の小林虎次郎大先生の米百俵の運動で、河井継之助の有名なあの長岡藩が、困窮の中にあっても後世のために百俵の米を教育に回す、そういう歴史的な事実を坂上先生が御披瀝されました。
平成9年2月18日衆議院予算委員会
○坂上富男委員
明治維新の前夜、官軍と幕府との壮絶な戦いの中で、幕府側を支持した長岡藩は、長岡藩というのは私の郷里の大事な藩でございますが、官軍に徹底的に叩きのめされ、藩は焦土と化した。こうした惨状を見かねた周辺の藩より、藩内の人々の飢えを救うために米百俵が長岡藩に寄付された。
人々はこれを食べて飢え凌ごうとしたとき、小林虎次郎(ママ)という優れた教育者は、米を食べずに売却し、その得た代金で長岡藩の次の世代を担う青少年の教育の費用に充てることを提案した。
この説話は、現在でも「米百俵物語」として語り継がれ、小学校の国語の教科書にも取り上げられている。
私のふるさと、越後の長岡藩の「米百俵物語」は、我がふるさとの誇りでありまして、語り継がれているのであります。
平成8年3月10日衆議院予算委員会
○坂上富男分科員
明治維新のときでございますが、長岡藩の河井継之助という非常に偉い家老がおられまして、これが官軍と戦いまして会津に落ち延びるわけでございますが、これが八十里越道路を通ったと言われておるわけでございます。そしてまた、会津の殿様も参勤交代のときはここを通っていかれたという、大変ロマンのある道路でもあるわけであります。
しかしながら、ここは国道にはなっておりまするけれども、いわゆる国道としては不能の場所、通行不能というような場所でございまして、しかし、ここを今度は新潟県から会津へ抜けようというふうな計画があって、建設省から大変な御協力をいただいて道路の工事が今始まっておるわけでございます。
それで、これは単なる歴史ロマンの国道というのもさることながら、私たちにとりましてはもう生活にも大変重要にかかわるところの道路にもなろうといたしておるわけでございますから、一日も早くこの開設を実は願っておるわけであります。
昭和62年5月22日衆議院文教委員会
○馬場昇委員
それから教育財政のところで、第三次答申がありましたときに岡本会長が、例の越後長岡藩の小林虎三郎の故事を題材にした山本有三の「米百俵」の思想を説かれたわけでございます。
この山本有三が書いている小林虎三郎の、藩士が米を配れといって抜刀してきたときに、小林虎三郎がどう説得したかという部分について、この百俵の米をもとにして学校を建てて子供を育て上げていきたいのだ、この百俵は今でこそただの百俵だが、後年には一万俵になるか百万俵になるかはかり知れないものがある、いや米俵などでは見積もれないというものになる、こういうことを言っておられるわけでございまして、それで藩士も了解して、そして国漢学校ができて立派な人材が輩出したわけでございます。
これについて、中曽根さんの今やっている教育改革や行政改革、子供のための教育費をさっき言ったようにずっと削って、あるいはけちってと言っていいかもしれませんが、それで片方では防衛費なんかがどっとふえている、それで財政を黒字にしたい、こういうことで今行政改革なんかをやっておられるわけでありますが、この小林虎三郎の、国は腹が減っておっても教育に金を使う、そのことが日本の将来のためだ、こういう「米百俵」の思想と、中曽根さんの今の行政改革の思想、私はここに教育とは何かというものに対する違いがあると思うのですよ。
私は少なくとも、国の教育行政を預かる者としてはこの小林虎三郎の「米百俵」の思想というものを大切にし、その方向に近づく努力をすべきじゃないかと思うのですが、大臣、いかがでございますか。
○塩川正十郎国務大臣
今は財政の苦しいときでございますから、いろいろと財政窮迫の中で教育予算の削減ということは、これは確かに非難を受ける、またこれをはね返していかなければならぬと私は思っておりますが、しかし文部省が設置されまして百十数年になるわけでございますが、その間、文部省は終始一貫「米百俵」精神で通してきていると思います。現在もその気持ちだと思っております。
○馬場昇委員
やはり熱意の問題だと思うのですけれども、小林虎三郎がこういうことを決定したときの越後の長岡藩の状況というのは、もう御承知のとおり、明治維新のときの戊辰戦争で、あそこは戦場、焦土と化したわけです。だから長岡藩の窮乏というのは甚だしくて、藩士とかその家族が飢えのどん底にあったときに救援米として送られてきた米百俵です。
それをいつかいつかと藩士や家族が米を配給していただきたいと待っておるときに、これを売って金をつくって学校をつくるんだ。それを藩士たちは刀を抜いて何事だといって攻撃してきた。それを説得して国漢学校をつくったということですから、今の財政状況と比べますと全然違う。やはり小林虎三郎の「米百俵」の思想というものを文部省はまだ十分に発揮していないということを私は追及しておきたいと思います。
昭和59年6月27日文教委員会
○稲葉三千男参考人 東京大学の稲葉でございます。
しばしば教育を語るときに、それは国家百年の大計であると言われ、また一つの歴史的な事実として、長岡藩におけるいわゆる米百俵の例が出されるわけですけれども、そのときの小林虎三郎の論理というのは、まさに今ここにおける利益を追求するのではなくて、どう文化の論理あるいは教育の論理に立って人間を育てていくか、あるいは社会を築いていくか、こういう理念の表明であったと思います。それが米百俵の話を私たちに非常に感銘深いものにしていると思うわけであります。
昭和59年2月25日衆議院予算委員会
○山原健二郎委員
中曽根総理、米百俵という故事をお聞きになったことあるでしょうか。
○中曽根康弘内閣総理大臣
越後長岡藩の物語で、読んだことがあります。
○山原委員
さすがに博学の総理ですからおわかりだと思いますが、あの越後長岡藩ですね、くしくも新潟三区でありますが。
これは戊辰のとき二度にわたって焦土と化して、そこへ三根山藩から百石のお米を贈ってきた、藩士たちがそれを飯米として分けろと言うのに対して、小林虎三郎という家老職の人が、皆に配ったら二升しかないんだ、そうでなくて、これは販売をして学校をつくるという、これは山本有三の「米百俵」のという戯曲にもなりまして大変な反響を呼んだわけであります。
昭和54年12月6日参議院文教委員会
○宮之原貞光君
農林出身の大臣に申し上げて失礼かもしれませんけれども、山本有三さんの「米百俵」という小説がありますわな。御存じでしょう。
あの戊辰の役前後、長岡藩が焼かれて、米百俵を贈られた。これを何に使うか。そのときに、これをやはりその領民の皆さんが飢えておるというのでこれを配る、それは一時的には助かるかもしれない。それをやはり将来の日本をつくり上げるためには教育以外にないということで、教育の費用にこれをつぎ込んだという、ここのところですね。
私はこれは米百俵ですから、これは農林関係でも関係あることの一つの例だと思って申し上げておるんですけれども、この問題のやはり本質的な理解ということを、文部大臣がきちんと腹におさめておいて折衝に当たっていただかなければ、なまはんかなことでは私は解決できないと思うんです。
昭和52年11月16日衆議院文教委員会
○小川仁一委員
山本有三の小説の中に「米百俵」という小説がございました。お読みになっていただければ、これまた非常に苦しい時代における教育の必要性というのをおわかりいただいている、こういう前提の中で、まずこれは本年度の足踏み、そして来年度の五カ年計画の最終完結年度に対して最大の努力をお願いを申し上げたいと思うわけで、教育の現状をお考えになっておられる大蔵省としてどういう態度をおとりになろうとしておられるか、お伺いしたいと思います。
○小川仁一委員
あらゆる場合に教育が基本でございますけれども、持にそういう意味から先ほど山本有三の「米百俵」の話も申し上げました。ひとつ、お読みになっていなかったら後でお貸しいたしますからお読みをいただくことにいたしまして、教育というものに対する真剣なお取り組みをお願いを申し上げておきたいと思います。
昭和48年12月7日衆議院予算委員会
○竹本孫一委員
「米百俵」という小説がありますが、これは山本有三さんの有名な小説ですが、昔、米百俵を分けてやれば、みんながもらえる米は、二合か三合か、知れたものだ、これを、ほしかろうけれども預けてくれ、それを別にたくわえて、それで、あれは米沢藩ですか、教育資金にしたのですね。教育基金にして、それで人材が出てきたということは、歴史でも、山本有三さんの小説でも書いてあるが、いま政府に必要なことは米百俵」ですよ。
昭和36年12月15日衆議院地方行政委員会
○太田一夫委員
今の日本の国の一番大事なものは教育だと思います。
「米百俵」という小説がありますけれども、教育ほど国の運命に大事なものはない。今日民主主義が進歩してきていると思うのに、実はそれが崩壊の道をたどっておるとするならば、柏村長官は予算と人員のワク内で最大の努力をするとおっしゃるけれども、もしも何ともならないときが来たときに、私は最善の努力を尽くしましたといって腹を切ってみたところで、国民は救われない。そこで教育基本法の精神というものを文部省がしかと把握していらっしゃるかどうかという点を少々お尋ねしておるのです。
昭和34年12月8日衆議院災害地対策特別委員会
○竹内節雄参考人(津島市長)
私は、山本有三氏の小説であったと思いまするが、米百俵という小説を読んだことがあります。
越後の長岡藩では、大災害に見舞われたときに、見舞いにもらった米百俵を分けて食おうとしたときに有識の士がとめて、塾を開いたという意味の小説であったと思うのであります。
その塾からは、山本元帥とかなんとか、偉い人がたくさん輩出しておるということまで、その小説には書いてあったようであります。
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