慈眼寺の歴史

慈眼寺山門
慈眼寺本堂
会見の間
河井総督 岩村軍監
真言宗智山派 船岡山慈眼寺
 船岡山慈眼寺は、小千谷市でも指折の古いお寺で、小千谷市平成2丁目280番地(旧寺町)にある。船岡山のふもとの、スギ木立に囲まれた静かな境内には、山門、船岡観音堂、慈眼寺本堂、庫裡、小千谷幼稚園などの建物と岩村軍監、河井総督会見談判所(本堂内)、同上記念碑の戊辰史蹟などがある。

 新義真言宗智山派、船岡山慈眼寺は、寺伝によれば、天武天皇の白鳳年間薩明大徳によって、国家鎮護の道場として創建されたといわれている。また船岡観音堂の本尊、聖観世音御菩薩は、大同年中たまたま教えを弘めにこの地にやってこられた弘法大師が、衆生済度を念じて、一刀三礼、これを彫刻したものと伝えられている。それからのちは、おいおいに堂塔伽濫も整備し後年、 船岡山観音院慈眼寺と称するようになり、代々高く法燈を掲げて、今日に至っている。

 元禄4年(1691年)には、本尊を江戸に奉じて、出開張したところ、参拝の善男善女が押しかけて引きも切らず、ついに開帳法会を行うこと、60日に及んだという。この盛んな評判を聞き、ときの五代将軍徳川綱吉も、わざわざ参詣して、供養料に和歌一首を書いた扇子を添えて奉納した。この扇子は、いまも寺宝として、この寺に残っている。

 岩村軍監、河井総督会見談判所は、本堂に向かって右側の上段の間である。岩村軍監は名は精一郎、土佐藩士で、北越追討山道軍軍監、当時23才の青年将校であった。一方、河井総督は、名は継之助、長岡藩家老上席で、軍務総督ときに42才の働き盛りの名宰相であった。

 この両者は、慶応4年(1868年)5月2日、当寺院の本堂において会見し、おおいに談判したが、不幸にして決裂してしまった。その結果、長岡藩は、予儀なく官軍に抗戦する羽目となり、ついに長岡城陥落という悲運を招くことになった。

 一口に談判といっても、長岡側としては、家老の河井継之助自らが、藩主牧野駿河守の歎願書を携えて官軍の軍門に出頭し、礼を厚くし辞を低くして、ひたすら陳情歎願したものであった。とくに、継之助は、この会見には、長岡藩の和戦向背、そのいずれかの運命を賭け、願わくば、栄光ある平和と藩の安泰とをかち得ようと、決死の覚悟で臨んだ。これに対して、岩村軍監は、長岡藩が、 これまで、出兵や献金の朝命にも応じなかった不都合な態度や、洋式兵器を大量に買入れ、日夜練兵に励んでいる不審な行動などを、いちいち数え上げて、激しく責立てるばかりで、少しも 継之助の苦しい立場などを推量してくれなかった。

 もともと、官軍は、京都を進発するときから、すでに長岡城と会津城とを二大攻撃目標に定めていた。それゆえ、いかに継之助から情理を尽くして説かれても、めったなことでは、 長岡攻めを放棄するわけにはいかなかった。最後には、「藩主の心事は、くわしくこの書状に書いてありますから、せめて、これを・・・・」と、継之助のさし出す歎願書などには目もくれず、岩村軍監は、 「従来、一度も朝命に従わなかった長岡藩の言訳が、いまさら、立つはずもない。願いの趣はきっぱりお断り申す。この上は、ただ兵馬の間に相見えるばかりだ」と、いい捨てて退席してしまったという、 まことに、継之助の痛恨は、いまからでも察せられる。

 この談判のもつ意義は、重要で、しかも、微妙な運命的な陰影を、戊辰史の上に投げかけているように思われる。もし、継之助の願いどおりに、事が運び、西郷、勝の江戸城明渡し談判のように、談笑のうちに成功していたらこの後の維新史は、もっと少ない流血と犠牲で済み、明るい、感動的なページに書換えられていたことであろう。

 岩村河井会見記念碑は、前記のように、慶応4年5月2日、この寺で、両者が会見し談判した史実を記念して、昭和14年(1939年)、当山先代住職船岡芳快の発願によって建てられたものである。碑文は徳富蘇峰の撰、篆額と書は、小千谷市出身の島田博の筆である。

 なお、同寺所蔵の戊辰資料の主なるものを挙げれば、岩村軍監越後出向太政官辞令、同上叙位辞令、同上自伝草稿、同書幅、同佩刀、河井総督写真、山県、黒田の書簡、小千谷附近の合戦図、分捕品大鍋など。

 小千谷幼稚園は、先代船岡芳快の宿願を、当主が、昭和31年に実現したものである。園舎は鉄筋二階建で、総面積396平方メートル。