慈眼寺からリンク
『会見の間』ゆかりの自治体 |
(自治体リンク) |
小千谷市 (新潟県) |
慈眼寺会見の間、東軍と西軍の激戦地である榎峠・朝日山、雪峠などの古戦場がよく知られている。司馬遼太郎の『峠』記念碑は越の大橋西詰めにある。 船岡山には薩摩、長州の戦死者墓碑も沢山あり、戊辰後、百数十年の間、同盟軍、新政府軍に対して、分け隔てのない、多くの小千谷市民により大切に守られてきた。 小千谷市から一つ山を越えた所が、長州毛利家や勝海舟の祖先の出身地である。 |
長岡市 (新潟県) |
武装中立をめざした越後長岡藩の城下町。牧野家累代の霊廟は蒼柴神社、初代忠成公菩提寺は普済寺、牧野家および継之助の墓は栄凉寺にある。米百俵、河井継之助邸跡などの戊辰史跡が市内には数多く残されている。 長岡は戊辰戦争、太平洋戦争で二度も灰燼に帰して、城跡や堀跡など何も残っていない不思議な街である。いまの長岡駅が威容を誇っていた長岡城の本丸跡である。 空晴れて家門を護る勝武太刀(山本五十六絶筆の句) |
巻町 (新潟県・ 現新潟市) |
慈眼寺での会見が決裂し、武装中立の夢が破れた長岡藩は奥羽列藩同盟に加盟、長岡城攻防戦、会津戦争に参戦した。会津鶴ヶ城が落城し、勇敢に戦った長岡藩もその3日後に降伏した。 三根山藩は、焼け野原になり極度に困窮した長岡藩に、救援の米百俵をおくる。長岡藩の大参事小林虎三郎は、明日の人づくりのために、この米百俵を学校設立に使った。この故事は小泉総理の所信表明演説のむすびに引用され、一躍全国的に知られるようになった。(2005年10月10日新潟市と合併) |
栃尾市 (新潟県・ 現長岡市) |
栃尾は上杉謙信の育った土地、大崎彦助は来伝村、外山寅太は小貫村の庄屋の息子、若い彼らは継之助に、地元の英雄上杉謙信の姿を重ねそして再来を夢見た。継之助は臨終の今際に寅太を呼び「寅や、おまえは商人になれ。
西洋事情に詳しい慶応義塾の福沢諭吉に推挙状を書いてある」、果たせなくなった自分の夢を託した。 阪神電鉄、朝日麦酒、大阪ガスなど、外山脩造と改名した寅太が創った。タイガースの名は社内公募により、工業都市デトロイトにちなんだとするが、初代社長の寅太から採ったに違いない。 (2006年1月1日長岡市と合併) 四十九年一睡夢 一期栄華一盃酒(上杉謙信辞世の詩) |
下田村 (新潟県・ 現三条市) |
八丁沖を渡る奇襲で長岡城を奪回したが、河井総督は負傷し、城も再陥落する。担架に乗せられた河井総督は会津を目指し、栃尾、葎谷を経て吉ヶ平に着く。ここからは一里が十里に相当する八十里越の難所。椿尾根、鞍掛峠、田代平を経由、木ノ根峠で一晩泊り、
只見の入叶津に抜けた。若き大隊長の山本帯刀は危険な殿軍(しんがり)で鞍掛峠を死守、藩士の家族や領民を会津に誘導した。(2005年5月1日三条市と合併) 八十里こしぬけ武士の越す峠(河井継之助) |
只見町 (福島県) |
戦いで負傷した河井総督は再起を図るため、八十里越を会津に向かったが塩沢の矢沢宗益宅で亡くなった。矢沢邸は電源開発のダムで水没したが、河井継之助記念館には、遺品や臨終の間が移設され保存されている。
近くの医王寺には村民が残った骨を拾い集めて葬った墓が残っている。河井総督は八十里峠を越えた只見の地で、いまも地元のみなさんに大切にされている。昭和49年に司馬遼太郎が訪れ、継之助が眠る地として最も相応しいと揮毫を残した。 山水相応蒼龍窟(司馬遼太郎) |
会津若松市 (福島県) |
幕末の激動期に登場した会津藩主が松平容保である。京都守護職として孝明天皇の信任が厚く、なぜ朝敵の汚名をきせられ、会津は悲劇を迎えることになったのか。 幕末の一時期、京都守護職を松平容保、京都所司代を長岡藩主牧野忠恭が勤めたことがある。会津藩は小千谷、長岡で多くの戦死者をだしている。また長岡藩も会津で勇敢に戦った。戊辰戦争後の会津藩が辿った道を思うと、慈眼寺での会談が決裂したことが残念でならない。 武士(もののふ)の猛き心にくらぶれば数にも入らぬ我が身ながらも(中野竹子辞世の詩) |
高梁市 (岡山県) |
備中松山藩の老中板倉勝静の城下町。河井継之助は佐久間象山、斉藤拙堂、古賀茶渓などの門に入ったが、継之助が終生の師と仰いだのが、備中松山藩の改革を実践した山田方谷である。上杉鷹山、徳川吉宗などが改革者として著名であるが、真の改革者として幕末の陽明学者山田方谷を押す人が多い。継之助は藩内改革を成し遂げ死の直前まで方谷の教えを忠実に守った。 2005年は方谷の生誕200周年のあたり、市内は各種行事で盛り上がり、方谷の偉大さが全国で見直されている。 碑文(いしぶみ)を書くもはづかし死に後れ(山田方谷) |
鹿児島市 (鹿児島県) |
戊辰をリードした西国の雄である薩摩藩のお膝元。河井総督と岩村軍監が慈眼寺で会談したころ、薩摩藩の参謀黒田了介は、まだ柏崎にあり北上の途上にあった。 河井総督の願いが黒田参謀を通して西郷隆盛に伝わっていれば、別の明治維新を迎えたかも知れない。慈眼寺での和平への会談が決裂したことで薩摩藩も多くの戦死者をだし、その霊はいまも遠く離れた北越の船岡山に眠り、やさしい小千谷市民の花が絶えることがない。 |
萩市 (山口県) |
鎌倉時代、大江広元の孫にあたる毛利経光が佐橋庄を治めていた。領地は柏崎西部から長岡市南部の一帯で、ここが越後毛利、長州毛利の発祥の地になった。勝海舟の先祖もこの地域の柏崎・長鳥の出身である。
河井総督と岩村軍監の会談が決裂したあと、代わって指揮を執った参謀山県狂介に待っていたのは、戊辰戦争の最大の激戦となる長岡城の攻防戦であった。会談が決裂した直後の朝日山、榎峠、妙見の戦いでは奇兵隊の盟友時山直八を失い涙にくれた。 仇(あだ)まもる砦のかがり影ふけて、夏も身にしむ越の山風(山県狂介) |
柏崎市 (新潟県) |
長州毛利家のふるさと。宝治合戦で相模毛利荘で一族は滅んだが、越後国佐橋荘に毛利経光が生き延びる。これが長州毛利家の繁栄に繋がる。勝海舟の先祖も柏崎。ここは会津藩主松平容保の弟で京都所司代の桑名藩松平定敬の領地。いよいよ海と歴史の宝庫柏崎が2008年、満を持してここに登場する。 |
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真言宗智山派 由城山慈眼寺 |