天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇の出生地 

First update 2009/06/13 Last update 2011/03/01

 

愛知県(尾張国)   壬申の乱の際、尾張氏が加勢したことに注目した説

大阪府(河内国和泉) 泉大津市          本稿

 

目次

1.日本書紀に載る天武天皇が生まれた年の記録

2.大海人皇子の名前の由来

3.凡海氏のもとは安曇氏(阿曇氏)

4.他説―出生地をさぐる他の手がかり

5.地名―和泉と茅渟(ちぬ)

6.和泉郷から泉大津市への推移

7.今に残る神社、仏閣、遺跡、旧跡

付.写真集

 

 

天武天皇が生まれた年 644皇極3年3月の記録

 

本稿では、天武天皇の生まれた年と場所が日本書紀に書かれていたと仮説として別に述べました。

詳細は天武天皇の年齢参照。

再度その日本書紀に示された部分を簡単に示します。

 

皇極紀3

三月、休留、休留茅鴟也。   三月に、休留(いひどよ)、休留は茅鴟(ばうし)なり。

産子、於豐浦大臣大津宅倉。 豐浦大臣の大津の宅の倉に子産めり

 

3月、フクロウが豊浦大臣の大津の館の倉で子を産んだ。

 

644皇極3年3月にフクロウが蘇我蝦夷の泉大津の倉の中で子供を産んだのです。

フクロウ伝説。本稿はこの記述が天武天皇の誕生の記述、としました。

3月のこのフクロウは不義の子が生まれていると暗示させるもがあります。

 

この頃、皇極天皇の信頼するよりどころは大臣の蘇我蝦夷にありました。皇極天皇は密かに、この大海人皇子を大津で生んだのです。蘇我本宗家は協力を惜しみません。

 

それではこの大津の宅とは何処なのでしょう。

 

日本書紀通釈によると、

大津 和泉志に和泉郡大津とあり。これ大臣の別荘なり。

 また(延喜)式に河内国河内郡。同丹南郡等に大津神社見」 ()は本稿

 

日本書紀通證によると、

豊浦大臣 蘇我大臣を謂う也。倭名に河内国河内郡豊浦と鈔。

 大津 和泉国和泉郡に在り。

 

日本書紀集解によると、

産子於豊浦大臣大津宅倉 和泉志曰、和泉郡大津。按に蓋豊浦大臣の別荘也。

 

この日本書紀に記された場所はどの文献も泉大津であることで一致しています。

この本稿にとって重要な記述に基づき、この場所と天武天皇の接点を調査してきました。その報告がこの項になります。

蛇足ですが、蘇我氏はもと物部氏と同祖とみられる系譜が残っています。天智天皇は幼少のころは葛城皇子ともいわれ、物部氏=蘇我氏と関係あることが指摘されています。大阪府泉大津市と和泉市にかけて巨大な環濠集落、池上・曽根遺跡があり、泉大津市には「二田(ふつた)」の地名がある。そこには二田国津神社があって天足彦神と二田物部神が祭神として祀られているのです。現在は合祀され、この池上曽根遺跡横にある曽祢神社内に石碑として残っています。

推測の域をでませんが、案外、天智天皇と天武天皇の幼少の頃時期違えでも同じ泉大津の場所で過ごしていたのかもしれません。

 

大海人皇子の名前の由来

天武天皇の出生地を調べる前に、まず天武天皇の崩御時に現れた一人の人物に注目しなければなりません。

天武天皇は朱鳥元年9月9日に崩御されました。

日本書紀には、その葬式の模様が刻銘に描かれています。

2日後の9月11日にはじめて発哀(みね)を行い、殯宮(もがりのみや)が天武天皇の住まわれていた宮殿の南庭に建てられました。

24日、その南庭で殯の儀式、発哀(みね)があらためて行われました。

そして、27日午前4時頃から多数の僧侶による殯宮での発哀が始まりました。

大規模な国葬であったようです。

 

天武紀 下 朱鳥元年9月27日

 

是日、肇進奠即誄之。        この日、はじめて奠奉り即ち誄る

第一大海宿禰蒭蒲、誄壬生事。    第一、大海宿禰蒭蒲、壬生の事を誄る

次淨大肆伊勢王、誄諸王事。     次、淨大肆、伊勢王、諸王の事を誄る

次直大參縣犬養宿禰大伴、惣誄宮内事。次、直大參縣、犬養宿禰大伴、総宮内事を誄る

次淨廣肆河内王、誄左右大舍人事。  次、淨廣肆、河内王、左右大舍人の事を誄る

次直大參當摩眞人國見、誄左右兵衞事。次、直大參、當摩眞人國見、左右兵衞事を誄る

次直大肆釆女朝臣筑羅、誄内命婦事。 次、直大肆、釆女朝臣筑羅、内命婦事を誄る

次直廣肆紀朝臣眞人、誄膳職事。   次、直廣肆、紀朝臣眞人、膳職の事を誄る

 

まず、奠(みけ)という死者への供え物が奉られ、誄(しのびごと、死者への言葉)が次々と読み上げられていきます。

その先頭に立ったのが大海宿禰蒭蒲(おおしあまのすくねあらかま)という人物で、壬生(みぶ)の事が誄し奉ったとあります。壬生とは皇子の養育の役目とありますから、天皇をお育てした幼時のことが語られたことになります。このことから、大海人皇子の名はこの乳母といえる、大海氏に由来しているとして間違いないようです。

 

この天武天皇の若き頃の同じ名前をもつ大海宿禰蒭蒲という人物は何者なのでしょう。

岩波版日本書紀注には、凡海宿禰麁鎌にも作る、とあります。

続日本紀に大宝元年3月5日の項に、追大肆(従八位下相当)の凡海宿禰麁鎌が冶金のため陸奥に派遣されたとあるからです。

「原文「荒」、諸本によって菖蒲に訂す。菖はアラクサの意。よってアラと訓」。

つまり、日本書紀の大海宿禰蒭蒲と続日本紀の凡海宿禰麁鎌は同一人物であるわけです。大海宿禰氏は冶金技術を習得していた人物又は一族だったようです。しかしながら、この派遣は成功とはいえなかったといわれています。

 

なお蛇足ですが、岩波版の日本書紀の天武天皇(下)の冒頭の注に、

「大海人の名は、養育にあたった乳母が大海人氏であったことに由来するのであろう。

〜オホシアマは古写本にみなオホサマとある。これはオホシ(大)アマ(海人)の訳。

OFOSiamaOFOsama.今日はオホアマと訓が、オホサマという語はその中に母音連続を含むので、奈良時代の音韻法則の例外となるから、当時は発音困難でオホサマというのが普通であったろう」とあります。

 

岩波版続日本紀補注には

「凡海宿禰を海人宿禰とも。もと連(むらじ)姓で、(八色の姓の新位階制の年)天武13年に宿禰。

海部を管掌し、海産物の貢上を掌る伴造氏族。

姓氏録は右京・摂津の神別に凡海連を載せ、海神綿積命の後とする」とあります。

 

真人、朝臣に次ぐ宿禰姓であり、追大肆(従八位下相当)とあることなど意外に低い位とわかります。

いずれにしろ天武天皇崩御の後、この大海人宿禰はいなくなります。

恐れ多いとして、大海人宿禰を凡海宿禰と名を変えたとする通説があります。

天武天皇は即位以前、大海人皇子と呼ばれ、この大海人氏に育てられたと言えるようです。

 

凡海氏のもとは安曇氏(阿曇氏)

この凡海氏(おほしあま)を調べると、必ず行き着くのが安曇氏です。阿曇とも書きますが、ここでは安曇で統一して記します。

つまり安曇氏のなかに同族として凡海、安曇犬養、海犬養、八木の諸氏がいるのです。

 

新撰姓氏録(右京神別下)に「凡海連。同じ神の男(こ)、穂高見命(ほたかみのみこと)の後(すえ)なり」とあるからです。

佐伯有清氏によると、この「同じ神の男」とは「海神綿積命」もしくは「海神綿積豊玉彦神」のことで、穂高見命については同じ右京神別下の安曇宿禰条に同じ祖を持っていることだとされています。

 

安曇氏は海部を管掌した伴造氏族です。また、安曇犬養、海犬養の両氏は、安曇氏・海部氏から犬養部の伴造に任ぜられた一族とみられます。

 

本来九州の海人の長です。発祥地は和名抄に筑前糟屋郡から安曇郷にかけての一帯とみられ、その志珂郷に九州三女神を祭る志賀海神社があるといいます。

その後、摂津国西成郡安曇江に進出し、その勢力分布は西国に多く偏り、大和政権の朝鮮出兵コースや海部の分布地域と重複する場合が少なくなく、この氏の性格をよく示しているといいます。

「航海技術に秀で、水軍を率いることが可能であったことにもとづくと思われる、安曇氏の台頭は、おそらくはこの水軍力の掌握という点と無関係ではあるまい。」(日本古代氏族事典)

 

東国では近江、信濃(安曇野)にまで勢力が及び、美濃や参河の厚見・渥美の郡名を安曇の氏名あつみと関連つけて、その進出を説く見解もあるようです。

 

また、安曇氏は7世紀代には蘇我氏と親しい間柄であったといいます。

 

皇極紀1年1月

乙酉、百濟使人大仁阿曇連比羅夫、

從筑紫國、乘騨馬來言、

百濟國、聞天皇崩、奉遣弔使。

臣随弔使、共到筑紫。

而臣望仕於葬。

故先獨來也。

然其國者、今大亂矣。

 

二月丁亥朔戊子、

遣阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣、

遣百濟弔使所、問彼消息。

 

(1月)29日、百済に遣わされた安曇連比羅夫が、

(九州)筑紫国から早馬に載ってきて申し上げ、

「百済国は(舒明)天皇が崩御されたことを聞き、弔使を遣わしてきました。

私は弔使に従って筑紫まで来ましたが、

葬礼に間に合うようにと、

先立ってひとり参りました。

しかも、あの(百済)国はいま大乱になっています」といった。

 

2月2日、

(皇極天皇は)阿曇山背連比良夫・草壁吉士磐金・倭漢書直縣を

百済の弔使のもとに遣わして、その国の様子を尋ねさせた。

(宇治谷孟訳 ( )は本稿の補足)

 

この日本書紀の記事からも皇極天皇個人はこの頃からすでに安曇氏とかなり顔見知りになっていたことがわかります。

蛇足ですが、「安曇目」と呼ばれる入れ墨(黥面)の風習があったといわれています。魏志倭人伝に通じるものを感じます。

 

大海人皇子が生まれるとき、蘇我蝦夷は海人として泉大津を支配する新興貴族、安曇氏に依頼したのです。安曇氏はその一族なかで大海連(おおしあまのむらじ)を世話役として任命したのでしょう。

そして、彼は皇極天皇の大臣蘇我蝦夷の館、別荘といわれた泉大津で生まれたのです

 

 

出生地をさぐる他の手がかり

 

ホームページ上に載る次ぎのような一文を見つけましたのでご紹介します。

「天武天皇と舞鶴を結ぶ須岐田の謎」より引用します。

京都府舞鶴市「大浦半島一帯を昔は凡海(オオシアマ)郷と呼んでいました。

このオオシアマと、天武天皇になった大海人(オオシアマ)皇子とはどんな関係があったのでしょうか?

天皇の即位式の大嘗会(だいじょうえ)の儀には、夕に食べる”悠忌”(ゆき)と、朝に食べる”主基”(すき)がありますが、天武天皇即位の時には千歳村の主基田(すきでん)の米が使われました。

大海人皇子は、天智天皇の御子大友皇子と戦った壬生の乱で、尾張の海部の加勢を得て勝ち、即位した人ですから、丹後海部の斎田、千歳が重要な意味を持っていたことを示すのではないでしょうか?」

 

地元研究のすばらしい指摘と思います。

 

一方、「大海宿禰を安曇氏系でなく、尾張氏系とみる」横田健一・上田正昭の説があります。

大和岩雄氏「天武天皇論」によると、その「理由は、尾張連の祖が大海姫であるというものです。

崇神紀に尾張大海媛がみえ、崇神記では意富阿麻(大海)比売を尾張連の祖としていること、『旧事本紀』でも、火明(ほあかり)命(尾張氏の始祖)の七世の孫に、大海姫命が記されている」からです。

よって、「壬申の乱における尾張氏の協力は、尾張の大海である天武帝の乳母大海氏の媒介によるものと推測する」というわけです。

「安曇氏系とすれば、壬申の乱に、安曇氏系がかかわっていいはずだが、その形跡がないことからみても、尾張氏系の大海氏と推測できる」とされました。

 

しかし、考えてみると壬申の乱に積極的に応援しなかったからといって、安曇氏系の凡海(大海)宿禰が天武天皇の壬生を預かる乳母的存在ではないとはいいきれないと思います。

 

大海人皇子の幼少期を誰が世話をしたかではなく、誰が指示し、幼子を世話させたかのほうが重要な要素です。安曇氏自身の視線は幼い大海人皇子より母の斉明天皇や蘇我氏と共にあったと考えた方がよいようです。

 

確かに安曇氏族の大和朝廷への積極的関わりは663天智2年の白村江の戦いぐらいまでです。壬申の乱における、安曇氏の協力は書かれていません。九州という視点で考えれば、壬申の乱においては九州出身者の舎人の協力が大であり、高市皇子の母方の宗像氏に代表されるのです。

大海人皇子の興味は幼少期の安曇氏から青春期の宗像氏へと移行していったのです。そして、672天武1年の壬申の乱に突入していきます。

683天武12年の八色の姓(やくさのかばね)授与では、連姓の凡海氏・安曇氏は尾張氏と差別なく同等の宿禰姓を同時に与えられています。しかし、胸方君(宗像系氏族)はそれを超えて朝臣姓を一気に得ることになるのです。

 

その後、凡海連氏には、凡海連興志、凡海連豊成などが歴史上に登場しますが、宿禰姓としてはその後現れません。

凡海連姓は存続していますが凡海宿禰姓は消えてしまいます。本宗家ともいえる安曇宿禰一族に吸収されたと考えたほうがよさそうです。

 

つまり、大海人宿禰とは、もともとは安曇一族に類していましたが、天武天皇と関係することで安曇氏本体と同格に宿禰姓まで位が引き上げられました。しかし、天武天皇崩御後、自ら大海人宿禰から凡海宿禰と名を変えることで宿禰姓の一族は勢力を失っていきます。連姓の凡海連だけが安曇氏一族の一氏族として存続します。

 

 

和泉と茅渟(ちぬ)−地名から

 

茅渟は和泉国の旧名です。つまり、この地は皇極天皇の父、茅渟王の地でもあるのです。また、弟の軽王こと後の孝徳天皇はこの茅渟の宮(和泉国和泉郷)に住んでいたと言われています。

ちなみに允恭天皇の離宮、衣通姫茅渟宮は大阪府泉佐野市上之郷の地にあります。この地のすぐそばに和泉五社の一つ日根神社と天武天皇の勅願による慈眼寺があるのです。

また、茅渟神社が泉南市樽井にありますが、お守り袋は鯛の模様です。この地では茅渟鯛とも呼ばれクロダイのことです。つまり、淡路島と和泉国の間の海が和泉灘ですが、古くは茅渟海と呼ばれていたそうです。

皇極天皇の出産は父の故郷であり、弟の住む茅渟の里を選んだのかもしれません。

この弟は後に孝徳天皇となり、難波宮に住むことになります。この大阪西成区の難波津に隣り合うように安曇江があり、この野崎町に安曇神社があったとされる安曇氏の大和への拠点となったところです。

 

一方、この地出身の坂本臣財(たから)は、天武天皇に協力し壬申の乱に参戦しています。71日の大和での苦闘の姿は有名です。後の八色の姓の制定により胸方君とともに朝臣姓を得ることになります。

 

 

現地、泉大津の港

 

大津(おおつ)はもともと小津(おづ)と呼ばれました。

この小津は国津・国府津から転じたものといわれ、和泉国の国府の外港という意味を持つそうです。

小津の港は、古くから畿内地方の良港として知られていたようです。

 

神功皇后が小津の泊まりより上陸し、府中への御幸ましますとき通行したと伝える道が現在も残るといいます。なごりとして現在も御幸道、みゆき道、勅使道、おなり道などと呼ばれているそうです。

 

また、天武天皇の時代、ここは和泉国ではなくまだ河内国です。和泉国が河内国と分かれるのは、後のことです。

 

紀貫之は土佐日記の冒頭で、四国の土佐から京に戻る際、無事の旅を祈願した言葉に

(935承平4年12月)

二十二日に、和泉の国まではと、平らかに願を立つ。

 

とあり、本州、大和の入口を和泉国と考えていたことがうかがえます。もっとも、彼の紀氏は和泉国が地元であったようで、一概にすべての人がそう考えていたと即断はできません。

 

それにしても、当時、名付けた「小津」は何と比較して小さい港(津)と呼ばれたのでしょう。想像ですが九州博多の「大津」と比較されていたとも思われます。

 

「土佐日記」935承平5年2月5日

 

五日。今日、からくして、和泉の灘より小津の泊まりを追ふ

松原、目もはるばるなり。

これかれ、苦しければ、詠める歌

行けどなほ 行きやられぬは (妹)いもが(編)うむ 小津の浦なる 岸の松原

かくいひつつ来るほどに、「船とく漕げ。日のよきに」ともよほせば、

楫取り、船子どもに曰く、

「御船よりふせたなり。朝北の、出で来ぬさきに、綱手はや曳け」

といひて行く間に、石津といふところの松原おもしろくて、浜辺遠し

5日、今日、やっとのことで(泉南辺りの)和泉の灘より小津の港を目指して行く。

松原が目に見える限りに遠くまで続いている。

誰も彼もやりきれずに詠んだ歌、

行けども、なお行きつくせないのは、女たちが麻糸を紡ぐような小津の岸の松原

こう言うつつ来たところで、「船をもっと漕げ、日よりもよいのだから」と催促すると、

船頭が陸の水夫達に言った、

「御船の方よりご命令が下されたぞ。朝の北風が吹いてこないうちに綱を早く曳け」

そうこうする間に、石津(堺市)というところの松原、趣きはあるが浜辺は(まだ)遠い。

 

この「小津(大津)」の泊まり」は現在の大津神社辺りといわれています。

もっとも、小津は大津とは違う場所(泉南市小里)とする説もありますが、ここは通説に従います。

石津は堺市石津町、今の石津川の河口にあたります。

なお、「曳き船」は船からつないだ綱を岸沿いの人夫が曳いていたのです。河川だけと思っていましたが、平坦な海岸線でも「曳き船」が行われていたようです。

 

また、時代が100年ほど下がり1050,51永承5,6年の頃には大津といわれていたようです。「更級日記」44、45歳の女性著者が和泉国守の兄を訪れた後の帰りの記録でわかります。和泉国府あたりから京に上る通常コースのようです。暴風雨に遭った記述ゆえに寂しい場所に見えますが、この頃和泉国の主要な港である津であったと推測できます。

 

「更級日記」

冬なり上がるに、大津といふ浦に、舟に乗りたるに、

その夜風雨、岩もうごくばかり降りふぶきて、かみさへ鳴りとどろくに、

浪のたちくる音なひ、風のふきまどひたるさま、恐ろしげなること、

命かぎりつと思ひまどはる。

岡の上に舟をひき上げて夜をあかす。

雨はやみたれ、風なほ吹きて舟出ださず。

国の人々集まり来て、

「その夜この浦を出でさせ給ひて、石津に着かせ給へましかば、

やがてこの御舟名残なくなりなまし」などいふ。

心細う聞ゆ

冬に京に帰るので、大津という浦から舟に乗ったが、

その夜は風雨、岩も動かんばかりに降り、雷さえ鳴り轟き、

浪のくだける音、風の吹き惑うさまの恐ろしいさまは、

命もこれで終わりかと途方にくれておりました。

丘の上に舟を引き上げて夜を明かしました。

雨はやみましたけれど、風はまだ吹いており舟が出せません。

(和泉)国府の役人らが集まってきて、

「あの夜この浦を出発され、石津に着こうとされていたならば、

この御舟はあとかたもなくなっていたことでしょう」などと言う。

心細く聞こえた。

 

【泉大津 関連年表】

 716霊亀  2年 河内国の大鳥、日根、和泉三郡を割いて、和泉監を置いた。

 757天平宝字元年 和泉国は大鳥、和泉、日根の3郡が河内国から分立した。

 838承和  6年 国分寺を安楽寺に定めた。1574天正2年焼失。

 935承平  5年 この頃に書かれた土佐日記では「小津」と書かれた。

1059康平  2年 この頃に書かれた更級日記では「大津」と書かれた。

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1889明治22年 町村制により、泉郡(のち泉北郡)大津村となった。

1915大正 4年 町制により、大津町となった。

1942昭和17年 市制施行で、泉州の「泉」をつけて泉大津市となった。

          滋賀県に大津市があるためとのこと。

 

神社、仏閣、遺跡、旧跡

 

和泉国分寺 

839承和6年に安楽寺を国分寺としました。1574天正2年に焼失しています。和泉大津からは少し離れて居ます。

葛の葉姫の伝説あり。葛の葉神社が別にあります。

 

和泉国府 

現在まで発掘されていません。しかし、国府、府中、御館、南の端、北の端などの地名が残っていて、かつての和泉国府域を推定することは容易であろうとされるところです。

その国府域の中心に泉井上神社があります。和泉国府庁址の碑が神社近くの御館山児童公園の一角にあるそうですが見逃しました。

境内に、この和泉五社総社があります。和泉国の大鳥神社、穴師神社、聖神社、積川神社、日根神社のこの五社を国府の地に勧請し、国府の巡拝の便ならしめたとあります。本殿は国の重要文化財です。

五社のうち、穴師神社は天武天皇を奉り、聖神社は天武天皇の勅願により創建され、日根神社も隣接する神宮寺である慈眼院は天武天皇の勅願寺です。

 

泉井上神社

古くからこの地に鎮座し、独化天神を祀る。独化天神とは天地創造の神で天之御中主神、高産巣日神、神産巣日神とも云われる。(後世、日本書紀と結びついたか?)

神武天皇、神功皇后が軍征の途次立ち寄り戦勝を祈願したという。

このとき一晩のうちに霊水が噴き出した。以来この地を和泉と呼ぶようになったという。

現在は神功皇后、仲哀天皇、応神天皇が祭神である、

「和泉清水」霊泉。古くから「国府清水」「和泉清水」と呼ばれ、農業用水としても利用されてきた。水は清らかで、その味は甘露であり、豊臣秀吉も大阪城に運ばせ、茶の湯に用いたという。和泉という国名もこの和泉に由来する。

ここにも井戸というか霊水の伝説があったことになります。

 

(和泉)大津神社 

泉大津市若宮町4−12

日本書紀通釈に書かれた、蘇我大臣の別荘と記された大津神社とはここのことを指すのでしょうか。

 

泉穴師神社(あなし)

泉大津市豊中町700

祈祷 人生儀礼=命名式、初宮詣、生誕祝い 七五三、虫封じ

御鎮座 天武天皇 白鳳年間 孝謙天皇、村上天皇、崇徳天皇

主催神 当時は兵主神「八千鉾大神」ほか

    明治時代 天富貴神、佐古麻槌大神

    現在は

    農業の神 天忍穂耳尊 (あめのおしほみみのみこと)

    紡織の神 栲幡千々姫命(たくはたちちひめのみこと)

    ご夫婦二柱の神

天忍穂耳尊は天照大神の御子神で皇室の御祖神の系列にあらせられ、栲幡千々姫命は御名の通り、栲は古い衣服の原料となる麻・絹・綿等一切の繊維類の総称であり、幡は「繪」「服」の字に相当し、布帛の総称で、はたものは、織機の意味で衣服の紡織に種々工夫改良を加えられた姫神様であらせられ、泉州の地が今日農耕並に紡織を以って繁栄して居りますのも洵に御神徳のいたすところであります。

 

穴師とは北西の風をアナシと言ったとあります。「なしはいぬい也」。

中臣祗美解に「戌亥は風神の座する」。

兵主神である[シユウ]は風伯と雨師を自由に使う神のことです。風を支配する風伯の神の本拠は西北方にあり、西北の風をアナシと言い、その本拠の穴師で兵主神を祀るのは普通の事であったとあります。

金属の精錬には強い風が必要であり、兵主神と風神とは不可分なのです。

ここに大海宿禰蒭蒲という人物が冶金技術者でもあったことに結びつきます。

再度繰り返しますが、続日本紀に大宝元年3月5日追大肆(従八位下相当)で冶金のため陸奥に彼が派遣されたとあるからです。しかしながら、この派遣は成功とはいえなかったようです。

 

その他、級長津彦・級長津姫神を祭神と見る説、

ほかに天富命、大己貴命や御食津神説などがあるそうです。

4km南に和泉の兵主神社が鎮座していますが、奈良県桜井市の穴師坐兵主神社や穴師大兵主神社との関係が推定されるのは当然といえるでしょう。

佐古麻豆智命は小狭槌命とも書き、この神の子玉櫛命は八咫鏡を鋳るとされる。斎部(忌部)系と見える。忌部神社は四国徳島の国府当たりにあります。

 

大和の穴師と区別するため泉穴師と名付けたとあります。

以上のように少し思い込みにすぎのきらいもありますが、この穴師神社が大海人宿禰氏の氏神ではなかったかと想像しています。大海人氏は凡海(おおしあま)氏と名を変えましたが、その内の凡海連氏は名を残し続けましたが、凡海宿禰氏は没落しています。この「あまし」が「あなし」ではないのかと思うのです。また北西の冶金技術に必要な強い風も「あなし」と呼ぶからです。陸奥に派遣された大海宿禰蒭蒲の役目は冶金にあったのですから。

 

聖神社(ひじりじんじゃ)

大阪府和泉市王子町919(和泉国和泉郡)

「当神社は延喜式内の旧社にあって聖神を祭る。社は信太明神とも呼び、今から約1300年前、675白鳳3年8月15日天武天皇勅願により国家鎮護の神として創建されました。和泉国五社のうち三ノ宮に位し皇族武家の信仰があつく、殊に後白河法王の崇敬があつくその奉納されたと伝える勅額が社宝として残っているそうです。

安産、子宝の神、又長寿の守護神として知られ参詣者の多い神社です。

本殿は1604慶長9年、兵火に失われたのを豊臣秀頼が再建したので桃山時代の特質を示す雄麗精緻な建築美を持っていると書かれています。

なお本殿建造物は昭和13年解体大修理され、現在重要文化財に指定されています。」

(和泉市産業観光振興会より引用抜粋)

 

本稿ではここが天武天皇の出生地 誕生の地と仮定してみました。

ここは小高い丘の上にある景勝地で、気品溢れる静かな聖地にふさわしい場所です。

尚、高市皇子も伊予の高市郷に「聖神社」があり、ここに注目し高市皇子誕生の地としました。

 

この寺は天武天皇の勅願により信太首「しのだのおびと」が祀ったものとされるものです。

この信太首は百済からの渡来系氏族で、名前は和泉国和泉郡信太郷(和泉市王子町信太町一帯)の地名に基づいています。「新撰姓氏録」和泉国諸蕃に「信太首。百済国人。百千後也。」百千(はくち)の名は見えませんが「日本書紀」神功62年条所引の「百済記」にみえる百久至(はくち)と同一人物の可能性もあります。一族は須恵器生産の技術をもって信太郷の地に定着したと考えられます。信太首氏の一族の名は他にみえません。信太郷にある聖神社は「延喜式」神名帳に記載されているので信太首氏の氏神社と考えられます。和泉市上代町にある信太寺跡は信太首氏を含めた渡来系氏族の氏寺であったといわれるものです。

その後、この寺は859貞観1年5月7日に官社に指定されました。

同年8月13日に従五位下から従四位下の神階を受け(三代実録、延喜式)

927延長5年では神名帳にその名が記載されることになります。

中世の「和泉国神名帳」では神階が「正一位」となっているとのことです。

 

池上曽根遺跡

弥生時代の環濠集落といわれます。大型建物跡や井戸跡が発掘調査によって検出されました。

特に、大井戸が印象的で内径1.9mもの一本の楠をくり抜き使用したものというから幹周りは7m以上といわれ、ほとんど現在には存在しないものです。

 

淡路島

聖水信仰とも結びつき、淡路島にある瑞井宮などからもともと海人族、とくに安曇氏の拠点の一でもあり、聖なる水の信仰は海人族によって伝えられたのかもしれません。

この産宮神社は仁徳天皇の狩猟地として、磐之姫が反正天皇を産んだ地(淡路宮)と知られています。

 

「安曇(安曇)連氏が淡路の野嶋(兵庫県津名郡<淡路島>北淡町野島付近)の海人などを率いていたことが伺われる。」佐伯有清著、新撰姓氏録の研究(右京神別下)より。

産宮神社の北、淡路島の北に位置します。

 

さらに、淡路島の南端の西側に阿万という、海人族をイメージする土地とともに、淳仁天皇陵があります。

 

尼子浦

さらに「井戸」をキーワードとして話を広げると、淡路島を越え四国の徳島に渡ります。

現在の小松島湾があります。当時、尼子浦と呼ばれた地です。後年、源義経が高松の屋島を目指し、秘かにこの尼子浦に渡ったと平家物語にあります。ちなみに、宗像氏の尼子娘は天武天皇に嫁ぎ、高市皇子を出産しています。

吉田東伍氏の「増補大日本地名辞典」によると「余戸(あま)郷 和名抄、勝浦郡余戸郷。今小松島村の小松島浦。中田(ちゅうでん)などの地なるべし。中世は尼子浦云ふ。蓋海人の居邑なれば也。平家物語勝浦合戦の条に八間尼子浦とあるは此なり。八間は名東郡八万村を云ふ。」

 

井戸寺

この地に天武天皇の勅願寺が二つもあります。一つが井戸寺。当時は明照寺といわれていました。弘法大師がこの地の水の悪いことを憂い井戸が掘られたと伝わるものです。当時の阿波国分寺の近郊にあった寺です。

 

童学寺

二つ目が童学寺。白鳳年間の創建であると伝えられています。北方に位置する石井廃寺跡は当寺の前身と考えられています。一説には弘法大師幼少の学問修行の場所として童学寺と呼称するとも言われています。徳島県名西郡石井町城の内にあります。

なぜ、このような地に天武天皇の勅願時があるのか、不思議な気がします。

ここで本稿が一番重視することは、この和泉の地には天武天皇に関わる神社仏閣が非常に多いという事実です。

また、ここには吉野川という非常に大きな印象深い河川があり、これも海人族の地と言われています。

 

こうしてみると、天武天皇勅願の寺が集中していることがわかります。インターネットで調べた天武天皇勅願寺を一覧にしてみます。多少偏りがあるかもしれません。

 

【天武天皇勅願寺の一覧】

寺名      場所          時期   創建者など

聖神社     大阪府和泉市王子町   天武3年 信太首

往生院     大阪府泉南市信達牧野  天武9年 三蔵法師の弟子である道昭による。

慈眼院     大阪府泉佐野市日根野  天武2年 隣接する日根神社の神宮寺。

弘川寺     奈良県南河内郡河南町  天武6年 天智4年役行者によって建立。

童学寺     徳島県名西郡石井町   白鳳年間 北の石井廃寺跡が当寺の前身

井戸寺(妙照寺)徳島県徳島市国府町   天武3年 本尊の七仏薬師如来が有名。

桜本坊     奈良県吉野郡吉野町   天武1年 役行者の高弟日雄角乗

矢田山金剛山寺 奈良県大和郡山市矢田  天武5年 智通により開基。

室生寺     奈良県宇陀市室生区   天武9年 賢mにより開基。

長谷寺     奈良県桜井市初瀬    朱鳥1年 道明(天武天皇の病気平癒を祈願)

薬師寺     奈良県橿原市城殿町   天武9年 鸕野皇女病気平癒のため創建

勝持寺     京都市西京区大原野   天武9年 神変大菩薩、役の行者が創建。

永勝寺     福岡県久留米市山本町  天武8年 薬師寺を建立の勅願所。

石垣山観音寺  福岡県久留米市田主丸町 天武3年

 

その他、吉野や関東にも勅願寺が数寺ありますが、寺の名称が他の勅願寺と同じなどの理由から割愛しました。14寺のうち、6寺が天武天皇の出生地に近い場所となります。

また、九州にある二つの勅願寺は白村江戦での九州の朝倉宮に近い場所ですが、詳細は不明です。

 

さらに、天武天皇の幼少時の四国阿波との関わりがあるように思えますがよくわかりません。また、四国のこの地は妻、尼子娘との関わりも感じられるものですがこれも想像の域を出ません。

 

また、ここでは特に触れませんが、天武天皇の父親候補の一人、高向玄理の氏寺である高向神社がこの和泉大津市にそう遠くない河内長野市にあることをメモしておきます。

 

 

本稿のこの項では通常使用される、幾多の文献などから問題点を絞り込み結論を導くというような方法は採りませんでした、まず、推定としての結論が先にあり、それを証明するために文献や実地調査などにより、根拠を少しずつ拾い集め、証拠としてこれらを積み上げるという手法でまとめてあります。

それゆえ独断、暴言との誹りをまぬがれ得ません。勉強不足を痛感しています。叱正を得ることができれば幸いです。

 

 

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