天武天皇の年齢研究

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 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇の年齢 てんむてんのう 

First update 2006/06/20 Last update 2012/05/13

 

614推古22年生〜686朱鳥年崩御 73歳 神皇正統記など

622推古30年生〜686朱鳥年崩御 65歳 本朝皇胤紹運録など

631舒明 3年生〜686朱鳥1年崩御 56歳 川崎庸之氏、現行通説

644皇極 3年生〜686朱鳥1年崩御 43歳 本論

 

若くは大海人皇子(おおあまのみこ)、大海皇子とも書く。

皇弟、大皇弟、東宮、皇太子とも言われた時期がある。

 

父  舒明天皇

母  皇極天皇

叔父 孝徳天皇

兄姉 天智天皇

   間人皇女(孝徳皇后)

義兄 古人大兄皇子

   蚊屋皇子

妻子 后妃        子                

   鸕野皇女      草壁皇子 

   大田皇女      大伯皇女   大津皇子 

   大江皇女      長皇子    弓削皇子 

   新田部皇女     舎人皇子 

   氷上娘       但馬皇女 

   五百重娘      新田部皇子 

   太蕤娘       穂積皇子   紀皇女    田形皇女 

   額田王       十市皇女 

   尼子娘       高市皇子

   穀媛娘       忍壁皇子   磯城皇子   泊瀬部皇女   託基皇女

 

 

 蘇我馬子――法提郎媛

 田村皇女   ――――古人大兄皇子

  ├――――舒明天皇

 押坂彦人   ├――――天智天皇―┬―――――――――阿閇皇女(草壁皇子夫人)

  大兄皇子  |         ├―――――――――山辺皇女(大津皇子夫人)

        |         ├――大田皇女―――大伯皇女、大津皇子

        |         ├――鸕野皇女―――草壁皇子

        |         ├――大江皇女―――長皇子、弓削皇子

        |         └――新田部皇女――舎人皇子

        ――――――――――――天武天皇

        |    中臣鎌足―┬――氷上娘――――但馬皇女

        |         ――五百重娘―――新田部皇子

        |    蘇我赤兄――――太蕤娘――――穂積皇子、紀皇女、田形皇女

        |    鏡王――――――額田王――――十市皇女

        |    胸形徳善――――尼子娘――――高市皇子

        |    宍人臣―――――穀媛娘――――忍壁皇子、磯城皇子、

        |                   泊瀬部皇女、託基皇女

 茅渟王    ――――間人皇后  

  ――――皇極天皇   |

  ―――――――――孝徳天皇   

 吉備姫王

 

 

 

天武天皇の年齢説はまとめると歴史順に次の4つに分類されます。

 

1.一代要記の65歳説、後に本朝皇胤諸運録もこの65歳説を支持しています。

2.神皇正統記の73歳説、仁寿鏡や如是院年代記にも影響を及ぼしています。

3.現在、川崎庸之の56歳説。65歳を56歳の誤記としたものです。学会も誤記云々は別としても矛盾がないとして学会に広く利用された一般説です。上記表の<現行通説>にあたります。

4.分類としては65歳説ですが、天智天皇の年齢は現在承認されている46歳説を用いて、天武天皇は天智天皇より年上と兄弟を倒置させた説です。小林恵子氏を始めとして、大和岩雄氏など注目されている異説です。

 

しかし、本稿では上記のどの説にも賛同せず、天武天皇は天智天皇の年の離れた弟と考えました。

次の理由によることを今までに語りました。

 

1.大海人皇子こと天武天皇が政治の世界に顔を出す時期が、兄の天智天皇と比較してかなり遅いこと。

二人の初期の記録を簡略的に一例として述べると、

  天智天皇 641舒明13年 16歳、舒明天皇の霊前で誄(しのびこと)を読まれた。

       645皇極 4年 20歳、乙巳の変。蘇我入鹿を殺す。

  天武天皇 661斉明 7年    、夫人大田皇女が大伯皇女を出産した。

       664天智 3年    、詔により、官位の階名の増加、変更など告示する。

 

2.天武天皇は兄の天智天皇の娘4人の夫となり子をもうけていること。

              天武天皇

                ├――――――大伯皇女

                ├――――――大津皇子

       天智天皇―┬―大田皇女

            |   ├――――――草壁皇子

            ├――鸕野皇女

            |   ――――――長皇子 

            |   ├――――――弓削皇子

            ├――大江皇女

            |   ├――――――舎人皇子

            └――新田部皇女

 

3.天武天皇の皇子達(15名)の死亡年が天智天皇の皇子達(13名)の死亡年が単純平均で13年遅いこと。

4.家臣達は蘇我赤兄を除き天智天皇と天武天皇との双方に娘を納めていないこと。

5.万葉集に残る天武天皇と額田王との情熱の恋愛歌は20歳代の歌としたほうが相応しいこと。

また同時に額田王の年齢もずっと若いと考えられること。

6.天武天皇の皇子達の生年は天智天皇皇子と比較して草壁皇子を筆頭に皆若いこと。

  長女、十市皇女も大伯皇女の少し前に生まれたぐらいでほぼ同じ年齢と考えられること。

  十市皇女、大伯皇女、阿閇皇女は同世代の3人娘であり、齋王大伯皇女を伊勢に訪ねるほどの仲の良い姉妹であると考えられること。

  長男、高市皇子も九州への行幸のなか、宗像氏が捧げた娘が伊予朝倉の地で生んだ子と思われること。高市皇子、草壁皇子、大津皇子が天武紀に三皇子と書かれるほどの近しい雰囲気を持っていたこと。日本書紀に登場する壬申の乱での高市皇子はその表現が、幼さを示していること。

7.母、皇極天皇の年齢は夫となった舒明天皇よりかなり若い後妻と考えられること。

8.皇極天皇の弟、孝徳天皇も若く、少なくとも、舒明天皇の息子、古市大兄皇子より年下であること。

9.天武天皇の政治的業績は少なく未完成で終わり、皇后、推古天皇がこれを引き継ぎ完成させているたこと。

 

そして次の理由により天武天皇の年齢を定めました。

 

 

1.天武天皇の社会人としての自立は21歳

 

天武天皇における壬申の乱以前の数少ない消息の中で、日本書紀の記述によれば、664天智3年「天智天皇は弟、大海人皇子に詔して、官位の階名の増加、変更ことなどを告げられた」とあります。このとき天武天皇こと大海人皇子は21歳を迎えていました。天智天皇39歳はこの弟に、始めて政治に参画させます。官位の階名変更と増加の通達です。18歳年下の21歳を迎えたこの若者にふさわしい仕事を与えたのです。

 

当時の社会通念上、大海人皇子とて例外の人ではありませんでした。すなわち当時の21歳は大人と認められる大切な節目だったからです。当時の家族構成からして年の離れた兄が幼い弟の面倒をみることはめずらしいことではありません。その後、世の慣例が養老令などに生かされ21歳が初授位認定基準の指針になります。

 

しかし、この大海人皇子の初仕事は671天智10年、太政大臣になった24歳の大友皇子の宣命という形で奪われ施行されることになります。天智天皇はこの年亡くなりますが、最後まで、弟、大海人皇子を殺すことはありませんでした。数多くの邪魔者を亡き者にしてきた天智天皇です。大海人皇子が一切の政務を置き、吉野宮に退いたとき、人に「虎に翼を着けて放てり」と言われようが、天智天皇は大海人皇子を最後まで「太皇弟」として保護し続けたと、私は考えています。

 

天武天皇が大海人皇子として日本書紀にはじめて登場するのは、653白雉4年「中大兄皇子は、孝徳天皇の許しを得ぬまま、皇極上皇、間人皇后を奉り、大海人皇子らを率いて、難波宮から倭の飛鳥河辺仮宮に遷った。公卿大夫・百官の人々など、みなつき従った」とある記事です。母に手をひかれた大海人皇子、当時まだ10歳のはずです。通説の23歳の皇子では自意志の乏しい男の不甲斐ない行動となってしまいます。

 

また、男性として、661斉明7年、大海人皇子の妻、大田皇女が瀬戸内大伯の海の船上で子供を生みました。夫婦二人ともに18歳のときのことです。母、斉明天皇の喜びの大きさは日本書紀に記載されたとおりです。大田皇女は天智天皇の長女です。斉明天皇にとって、息子と孫娘との間に生まれた子です。生まれた場所から大伯皇女と名付けられました。実はその前年に十市皇女が額田王を母として生まれています。天武天皇の通説年齢31歳、大田皇女18歳の出産記事とはとても言えない新鮮な香りをもつ記録です。

 

同年7月、母斉明天皇が崩御されます。これまでの記事にあるとおり、大海人皇子は常に母と共にありました。その2年後、朝鮮の白村江で日本軍は敗北します。ここに大海人皇子の名は一切登場しません。大海人皇子20歳はおそらく、まだ死んだ母の元にいたのでしょう。そして、成人を迎えた21歳から大海人皇子は突然、表舞台に登場してくるのです。

 

日常の記録では、668天智7年、天武天皇25歳のときの出来事が3つの書物に残っています。

 日本書紀には、「天智天皇が蒲生野に行く狩に大皇弟大海人皇子等は従う」とあり、

 万葉集では、大海人皇子と額田王(26歳)との恋歌が情熱的に歌われ、

 藤原家伝書は、宴席の席で大海人皇子が長槍で敷き板を刺し貫く乱暴な振る舞いで大騒動になったことを記録しています。

 

この若い25歳の皇子は大活躍です。38歳ではさまになりません。ちなみにこの時、天智天皇は43歳です。額田王も26歳です。額田王の通説年齢38歳では恋歌が萎びて見えます。

 

そのとき、天智天皇の長男大友皇子に政治の座を奪われ、また才女の愛妻額田王を兄天智天皇に奪われおもしろくありません。この無念さが大海人皇子を若返らせるからこそ生き生きと蘇ってくるのです。

 

 

2.フクロウ伝説−天武天皇の生まれた年 644皇極3年

 

日本書紀に、フクロウの話があります。

皇極三年三月、休留、 休留芳鴟也 産子、於豊浦大臣大津宅倉。

「644皇極3年、フクロウ 休留(いひどよ)は芳鴟(ばうし)なり が豊浦大臣(蘇我蝦夷)の大津(泉大津)の家の倉で子を産んだ。

注:小文字は原文挿入文

 

岩波書店版「日本書紀」補注によれば、

「ミミズクやフクロウの類は内陸味やアジアや北方ユーラシアでしばしば聖鳥となっており、アイヌもフクロウ祭りを行い、中国では漢代まで、フクロウの鳴声を凶兆していたが、その後、唐代では吉兆としていた」とあります。

 

また、同書 注によれば、「新撰字鏡に

 伊比止与、又 与太加  いひどよ 又は よたか とあり、ふくろうの事」です

 

鴟=とび、ふくろう、みずく    休留(イヒドヨ)、芳鴟(バウシ)

フクロウ科の夜行性の猛禽類。一般に耳羽(耳角)のあるものをミミズク、ないものをフクロウとしています。

 

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 「字鏡集」より

 狩谷斎自筆校正本

 増補古辡書叢刊

 雄松同書店(国会図書館)

 

広辞苑によると、「よたか」=夜鷹、怪鴟。

@よたか科の中型の鳥。昼間は眠り、夕刻から活動して虫を補食。

A夜歩きをするもののたとえ。

B江戸で下等売笑婦の称。夜間、路たで客をひくもの。

 

和名類聚抄によれば、

休留 二音漢語抄云 伊比土利

   人截手足爪棄地則入其家拾取之

休留(原文はともに鳥造をもつ)=【休+鳥】【留+鳥】

 

梟  和名 布久呂不 弁也 梟 和名をフクロフという

   立成云 佐介     立成にサケと云ふ

   食父母不孝鳥也    父母を食う不孝の鳥なり

 

木兎、和名都久、或云美々都久。 木兎 和名をツク、或はミミツクと云う。

似鴟而小、兎頭毛角也。     鴟(とび)に似て小にして兎の頭にして毛角なる者なり

 

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「和名類聚抄」

 原順(他)

 古辞書叢刊

(国会図書館蔵)

 

このときの世情はいかがわしいかぎりです。皇極3年日本書紀にのる4つの歌の直訳、

「向こうの山に立っている男の人の、柔らかい手なら、私の手を取ってもいいけれど、誰がこんなひどいひび割れした手で、私の手を取るのでしょう。」

「かすかに話し声が聞こえてくる。(こんな人里離れた)島の薮原で」

「遠方の浅野の雉は声を立てて鳴く。自分は声を立てないでこっそり(彼と)寝たのに、人がみつけてやかましく騒ぎ立てる。」

「林の中に私を誘い込んで、犯した人の顔も知らない、家も知らない。」

 

日本書紀の編者は、この歌を蘇我入鹿の荒々しい暗殺事件を諷刺していると言っています。それだけではないのではないでしょうか。

 

このフクロウの話は、皇極3年正月、中大兄皇子婚礼の夜、蘇我身狭臣が中大兄皇子の新妻を掠った事件のすぐ後に記述されているものです。そして、その3月にフクロウが蘇我蝦夷の泉大津の倉の中で子供を産んだのです。私ははじめ、このフクロウはすでに、蘇我身狭臣の子を身ごもっていたと思われる蘇我山田石川麿の娘であると考えました。この皇極3年前後の年は乱れているのです。他にも、孝徳天皇が中臣鎌足に下げ渡した姫が生んだといわれる中臣鎌足の長男、貞彗(定恵)の例などがあります。貞慧の生まれた年が皇極2年にあたります。

 

フクロウ伝説。不義の子が生まれていると暗示させるもがあります。このあと681天武10年にもフクロウの話が出てきます。このことについては次項に譲りますが、こうした事例は実に多く、少し時代は下がりますが、源氏物語などはそんな話でもちきりです。

 

そしてもう一つ、履中天皇の子に飯豊皇女(いひどよのひめみこ)がおられます。孫ともいわれていますが、億計王、弘計王の兄弟が皇位を譲り合い、決着が付かないため、この飯豊皇女が一時天皇になっていたのではないかといわれる皇女です。この女性が妙な事件を引き起こします。

 

清寧紀3年

秋七月、飯豐皇女、於角刺宮、與夫初交。

謂人曰、一知女道。又安可異。終不願交於男。

此曰有夫、未詳也

 

「清寧3年秋7月、飯豊皇女が角刺宮(つのさしのみや)において、男とまぐわった。

人に語るには、『女の道を知りました。何も異ったことはないが、もう男と交わりたくない。』

このことは未だよくわからない。」

 

これについての追求はここではしませんが、事象としてのみ捕らえます。

飯豊皇女は忍海部女王ともいわれていますから、「いひどよ」のほうがあだ名のようです。宮中で秘かに誰かと関係したことが、フクロウ皇女と呼ばれていた由縁のようです。

 

日本書紀 仁徳紀 元年1月3日

初天皇生日、木菟入于産殿。   初め天皇生れます日に、木菟(つく)産殿に入れり。

「仁徳天皇が生まれた日にみずく(ふくろう)が産屋(うぶや)に飛び込んできた。」

 

父の応神天皇は翌日、武内宿禰をよんで「是何瑞也」これは何のしるしかといわれた。宿禰は「吉兆也」と即答したうえで、自分の妻も昨日子産んだとき鷦鷯(みそさざい)が産屋に入ってきたというのです。同時に起きたので不思議なこととして、鳥の名を交換したというものです。つまり、仁徳天皇は「大鷦鷯尊おおさざきのみこと」、宿禰の子は「木菟宿禰つくのすくね」となりました。平群臣の祖先とあります。

 

なんとも作為的な文章ですが、少なくとも二人ともふくろうの不吉な意味は知っており、忠臣武内宿禰の知恵でさっさと吉兆の鳥名に取り替えてしまったという事なのでしょう。

皇極天皇のふくろうと同じであり、偶然とも思えないのです。この応神天皇も父の死後生まれた子であることは周知のことです。母は神功皇后で夫の崩御後、妊婦ながらに朝鮮へ出兵、十ヶ月後に応神天皇を産んだのです。

 

常陸国風土記 茨城(うばらき)郡

「昔、国巣(くず)山の佐伯、野の佐伯があった。いたるところに土の倉穴を掘って置き、いつも穴に住んでいた。誰か来る人があるとそのまま穴倉に入って身を隠し、その人が去るとまた野原に出てあそぶ。狼の性(さが)と梟の情(こころ)をもち、鼠のごとく隙をうかがってかすめ盗む。」(吉野裕 訳)

つまり、ふくろうの情とは蔭に隠れる者を指し示すようです。

 

結局、この後に出てくる天武10年のフクロウの話にしても、天武天皇自身にまつわることであり、644皇極3年3月のフクロウは天武天皇が生まれたことを指し示していると考えました。そして、彼は皇極天皇の大臣蘇我蝦夷の館、泉大津で生まれたのです。

実はこの和泉郷は古くから茅渟と呼ばれたところです。すなわち、皇極天皇の父、茅渟王の故郷であり、弟、軽皇子の住む宮があるところでもありました。皇極天皇はこうして出産の地を定めたのです。

乳母は和泉郷の大豪族、安曇氏の中から大海人連が選ばれました。これにより大海人皇子と名付けられたものでしょう。

 

この頃、皇極天皇の信頼するよりどころは蘇我本宗家にありました。皇極天皇は密かに、この大海人皇子を生んだのです。こうして蘇我本宗家は協力を惜しまないことで、皇極天皇の弱みを掴み、ますます増長したでしょうし、逆に、20歳の中大兄皇子は突然の母の出産に逆上したことでしょう。このことは国家機密であり、父が誰なのか知らされていなかったのです。その翌年、中大兄皇子20歳は蘇我入鹿、蝦夷親子を殺してしまいます。あの乙巳の変は、思惑は別として案外こうした単純な動機からはじまったものかもしれません。

 

 

3.天武天皇と額田王の愛の歌

 

668天智7年、万葉集にのる有名な蒲生野での二人の愛の歌は25歳前後のものにすべきです。通説では二人は40歳ころの歌となります。誰もがこのことにびっくりしているはずです。

 

万葉集

天皇遊葛蒲生野時額田王作歌 (「葛」は、もの偏をもつ)

@20

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布流

あかねさす むらさきのゆき しめのゆき のもりはみずや   きみがそでふる

あかねさす 紫野行き 標野行き 野守は見ずや 君が袖振る

紫草生える野を行き、標縄を結う野を行き、番人に見咎めはしないだろうか、

君が袖振るお姿を

 

皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇謚曰天武天皇

皇太子の答へましし御歌

@21

紫草能 尓保敝類妹乎 尓苦久有者 人嬬故尓 吾戀目八方

むらさきの にへるいもを   にくくあらば  ひとづまゆゑに あれひめやも

紫草の にほえる妹を 憎くあらば 人妻ゆえに 我恋ひめやも

紫の色の美しく匂うような美しいあなたを憎いはずがありません。

人妻となったゆえに心惹かれるのです。

 

天才額田王が天武天皇の大胆な振る舞いを気遣う歌はさすがですが、天武天皇も天智天皇のいる宴席で額田王の美しさを堂々と歌い上げ、負けず劣らずすばらしいものです。

25歳ころの歌か40歳ころの歌か年齢を直視して判断してほしい。

天武天皇の最初の子を産んだ額田王は若い天武天皇に相応しい額田王のはずです。その額田王はその後天智天皇にも愛され、さらに中臣朝臣大嶋の妻として最後を尽くしています。その証拠の粟原寺鑪盤は額田王が715和銅8年までは生きた証であり、それにより天武天皇との愛の歌が40歳のものとすると額田王の年齢は80歳を超える大変な長寿者になっていまします。

 

 

4.天武天皇と初期の后妃との適切な年齢バランス

 

よく知られるように、兄、天智天皇の娘4人の夫となっています。

天智天皇には、日本書紀に記載されただけで、14人の子供がいます。そのなかで、女性は10人ですが、そのうち、4人が天武天皇に与えられ、おそらく他に3名は天武天皇の息子に嫁いでいます。

 

661斉明7年、天武天皇は18歳(31歳)、大田皇女18歳の時、大伯皇女を出産。

662天智1年、天武天皇は19歳(32歳)、鸕野皇女18歳の時、草壁皇子を出産。

665天智5年、天武天皇は23歳(36歳)、大江皇女     、長皇子 を出産。

676天武5年、天武天皇は33歳(46歳)、新田部皇女    、舎人皇子を出産。

                (   )内は通説56歳にした場合の年齢

 

豪族、官僚や身分の低い女性ならいざしらず、仮にも天皇の皇女です。身分の高い女性がこんな高齢の年のかけ離れた男との婚姻関係を私は知りません。天智天皇晩年の娘新田部皇女に至っては、天武天皇は46歳にもなり、皇女と20歳以上の年齢差があることになってしまうのです。ましてや65歳説73歳説など論外となります。

文献に残る身分のある皇后達を見ても天皇とは同年齢であるのが一般的です。年齢のほぼ特定できる鸕野皇后は実姉で先に嫁いだ妃の大田皇女と同年齢が相応しいものです。18歳です。

そして、最初に天武天皇の子を産んだ額田王はその前年に18歳であったと思われます。

 

次に兄天智天皇と弟天武天皇に娘を納れた官僚たちに世代相違が見られることです。

 

内臣 中臣鎌足は娘を天智天皇に納れていません。

          天武天皇に、氷上娘、五百重娘を納めています。

          大友皇子(天智天皇の長男)に面刀自(みみものとじ)

                を納めています。(懐風藻、皇胤紹運録による)

右大臣 蘇我山田石川麻呂は娘を天武天皇に納れていません。

          天智天皇に、遠智娘、姪娘を納れます。

          孝徳天皇(天智の伯父)に、乳娘を納れます。

左大臣 阿倍倉梯麻呂大臣は娘を天武天皇に納れていません。

          天智天皇に、橘娘を納れています。

          孝徳天皇に、小足媛を納れています。

蘇我赤兄大臣だけは両兄弟天皇に娘を納れています。

          天智天皇に、常陸娘

          天武天皇に、大蕤郎女をそれぞれ納れています。

 

このことから、天武天皇は天智天皇とより天智天皇の息子、大友皇子と年齢が近いこと、また天智天皇は天武天皇より母の弟、孝徳天皇と年齢が近いことが容易に考えられるのです。親は自分の娘と同世代の年齢の権力者に幸せな嫁入りをさせたいと考えるのが自然ではないでしょうか。

 

蘇我赤兄については、補足を要します。さいわい扶桑略記や公卿補任で蘇我赤江の年齢は天智天皇と同世代(天智より3歳年上)と知れています。すると、これこそ蘇我赤兄は天智天皇に、若い娘を父たる自分と同じ高年齢の男に納めたことがわかります。逆に天武天皇には同じ年頃の娘を納め、天武天皇に愛され二人の間に三人の子までなしたと考えたほうが自然です。

 

         天智天皇

    女      ├――山辺皇女(大津皇子妃)

    ├――――常陸娘

 蘇我赤兄(天智天皇より3歳年上)

    ├――――太蕤郎女

    女      ――穂積皇子

           ├――紀皇女

           ├――田形皇女

         天武天皇

 

 

5.天武天皇は最初の子供を何歳で作ったのか

 

はじめての記録は661斉明7年 大海人皇子の妻、大田皇女が大伯の海の船上で子供を出産したことです。このとき、大海人皇子こと天武天皇は18歳です。母斉明天皇にとって、二人の息子、天武天皇と天智天皇の娘の間に生まれた最初の子供だったのです。斉明天皇の喜びはひとしおだったようです。

そして、時代は下り、675天武4年、齋王になった15歳の大伯皇女を同年齢の少女二人が伊勢に訪問します。もう一人は天智天皇と姪娘の間に生まれた阿閇皇女です。後の元明天皇ですが、年齢は続日本紀で知れています。彼女も遠征中に播磨国加古郡阿閇津で、大田皇女に引き続き生まれたのでしょう。三人目が天武天皇17歳ときの最初の子で十市皇女と思われます。

この三人娘はさぞ宮廷内でも評判だったことでしょう。

 

     姪娘

      ├――――――――――阿閇皇女(661年生まれ)続日本紀

    天智天皇

      ―――――大田皇女

    遠智娘      ├―――大伯皇女(661年生まれ)日本書紀

            天武天皇

             ├―――十市皇女(660年生まれ)本稿説

            額田王

 

600 44444444555555555566666666667777 年

年   23456789012345678901234567890123 齢

天智天皇PQRS―――――――――30―――――36―――40―――――46

天武天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――― 43

持統天皇   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――― 58

大伯皇女                    @ABCDEFGHIJK 28

額田王  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――― 73

十市皇女                  @ABCDEFGHIJKLM 19

 

 

6.天武天皇の長男高市皇子と長女十市皇女は通説よりずっと若い。

 

特に、九州の大豪族宗像氏の娘、尼子娘との間に生まれた息子、高市皇子の年齢は長男とはいえ通説で言われるよりずっと若いのです。本稿では九州から朝鮮への遠征中に立ち寄った熟田津の地に近い高市郷で生まれたと考えています。

故に、壬申の乱の高市皇子の英雄的伝説はありえません。壬申の乱では19歳ではなく12歳程度ではなかったかと想像します。日本書紀の表記からは、高市皇子の幼い姿をイメージできます。壬申の乱の最前線で活躍する大神朝臣高市麻呂でさえ16歳です。高市皇子の息子、長屋王や鈴鹿王の年齢からも高市皇子が若いことが想像できます。35歳の若さで亡くなったからこそ高市皇子にはそれほどの業績が見られないのです。

 

また、長女、額田王の娘、十市皇女も若い。十市皇女が長女ですが、大伯皇女と同等の年齢であるはずです。15歳の齋王大伯皇女を見舞う同年齢の十市皇女と阿閇皇女の伊勢行きは印象的です。

万葉集の十市皇女の歌の処女姓は疑う余地はないものです。故に十市皇女が葛野王を生むことはありえないのです。つまり、葛野王が十市皇女の息子であるとする古代の年齢考証に大きな影響を与えた「懐風藻」に疑問を投げかけないではいられません。このことが、現在まで、天武天皇の年齢検証に水をさす元凶になったと思う次第です。十市皇女が葛野王を産んだとするから、その母額田王まで年寄りにされてしまいます。

 

またこの高市皇子と十市皇女が関係していたことを万葉集は証言しています。二人は同じ18歳程度でした。十市皇女ははじめて高市皇子という男性と関係したことで、処女でなければ務まらない巫女としての責任を全うできないと自分を追いつめ自死に至ったと考えました。

 

 

7.天武天皇皇子たちの若々しい年齢序列

 

そこで、あらためて皇子たちの年齢序列をまとめました。とくにここでは皇子と皇女を区別しません。日本書紀の精神に準じます。

 

1.日本書紀は妻の身分の順番に記載しています。第一が皇后で、第二が妃、天智天皇を父とする3皇女です。第三が夫人、官僚又は中央有力豪族を父にもつ3夫人です。さらに第四に地方豪族出身の3人です。

この4タイプの妻女を分類すると、この同タイプの身分内では基本的に后妃の記載順にその母の初子が生まれたと考えられます。

   草壁皇子                     A

   大伯皇女 >長皇子   >舎人皇子        B

   但馬皇女 >新田部皇子 >穂積皇子        C

   十市皇女 >高市皇子  >忍壁皇子        D

 

2.ただし、母が中央官僚の娘であるCタイプの3夫人の中では藤原氏が蘇我氏より上位の位置に記載されたと思われ、日本書紀の記述は以下のように修正されます。

   穂積皇子 >但馬皇女  >新田部皇子       C’

 

3.同母内の子供同士は生まれた順の記述です。(青木和夫氏などの説)

   大伯皇女 >大津皇子               E

   長皇子  >弓削皇子               F

   穂積皇子 >紀皇女  >田形皇女         G

   忍壁皇子 >磯城皇子 >泊瀬部皇女>託基皇女   H

 

4.日本書紀から、草壁皇子、大伯皇女、大津皇子の年齢がわかります。また、「初娶」の表現から、十市皇女が長女となります。

   十市皇女 >大伯皇女 >草壁皇子 >大津皇子   A’

         661年  662年  663年

 

5.日本書紀の記載、「高市皇子・大津皇子」「草壁皇子・忍壁皇子」「長皇子・穂積皇子・弓削皇子」「十市皇女・阿閇皇女」の表記から、これを年齢順として捉えます。また、天武8年の吉野会盟での表記順「草壁、大津、高市、忍壁」から、ここに現れない皇子は彼らより年下です。

以上のことから導きられる式は、

 

十市皇女>

   大伯皇女>

      高市皇子>

         草壁皇子>

            忍壁皇子>磯城皇子>泊瀬部皇女>託基皇女

               大津皇子>

                  長皇子>

                     穂積皇子>紀皇女>田形皇女

                        弓削皇子>

                           舎人皇子>

                              但馬皇女>

                                 新田部皇子

 

ここでは紀皇女、田形皇女、磯城皇子、泊瀬部皇女、託基皇女の正確な位置関係がまだ不明です。

 

上記年長者の生まれた時期に共通した名前の特徴として、その生まれた土地の名前が利用されたということが類推できます。

 

十市皇女 660斉明6年生まれ(通説)      奈良県橿原市十市町

大伯皇女 661斉明7年生まれ(日本書紀より)  岡山県玉野市大伯海上

高市皇子 661斉明7年生まれ          愛媛県今治市高市

草壁皇子 662天智1年生まれ(日本書紀より)  福岡県福岡市博多区

大津皇子 663天智2年生まれ(日本書紀より)  福岡県福岡市東区

 

また、叙位年代から年齢も推定でいます。天武天皇の場合には皇子が20歳になると仕事を授け、それを引き継いだ持統天皇は官位を与えています。

 

草壁皇子  681天武10年2月 皇太子となる。   20歳(日本書紀より)

忍壁皇子  691天武10年3月 帝紀および上古の諸事を記し校定する。20歳。

大津皇子  682天武12年2月 はじめて朝政を執る。21歳(日本書紀より)

      当初は天武11年に行う予定がこの年はじめ夫人氷上娘が薨去され、

      地震など天変地異が多く翌年に見送りになったと考える。

穂積皇子  691持統5年1月 浄広弐、五百戸を得る。20歳とした。

弓削皇子  693持統7年1月 浄広弐を授かる。   20歳とした。

長皇子   689持統3年草壁皇子薨去。       20歳とした。

      弓削皇子の兄、長皇子もこのとき同時に授与されたが長皇子20歳の

      年に草壁皇子が薨去され、授与が見送られたことによると考えた。

舎人皇子  695持統9年1月 浄広弐を授かる。   20歳(公卿補任より)

新田部皇子 700文武4年1月 浄広弐を授かる。   20歳とした。

 

本稿の主張

600 555556666666666777777777788

年   567890123456789012345678901

    斉斉斉斉斉斉斉天天天天天天天天天天天天天天天天天天天天

    明明明明明明明智智智智智智智智智智武武武武武武武武武武

    000000000000000010000000001 年

    123456712345678901234567890 齢

十市皇女     @ABCDEFGHIJKLMNOPQR    19

大伯皇女      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――41紀、続

高市皇子      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――35

草壁皇子       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―28紀、続

忍壁皇子       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―44

大津皇子        @ABCDEFGHIJKLMNOPQR―24

磯城皇子             @ABCDEFGHIJKLM―22

泊瀬部皇女              @ABCDEFGHIJK72

長 皇子               @ABCDEFGHIJK―46

穂積皇子                 @ABCDEFGHI―44

弓削皇子                   @ABCDEFG―26

紀 皇女                   @ABCDEFG―46

託基皇女                   @ABCDEFG―78

但馬皇女                    @ABCDEE34

田形皇女                     @ABCDE44

舎人皇子                     @ABCDE―60補任

新田部皇子                         @―55

 

 

8.母、皇極天皇の若さと美貌

 

父、舒明天皇はともかくとして天武天皇の母、皇極天皇は、宝皇女として舒明天皇の後妻であり、夫、舒明天皇とは年が離れていたと思われます。兄天智天皇は、舒明天皇が34歳のときの子であり、皇極天皇は天智天皇を20歳で生んだものと設定しました。それに続く、間人皇女は舒明1年位に生まれています。もしかすると、三人のなかで舒明天皇家の血を受け継ぐ唯一の女性であったのかもしれません。その上で天武天皇はさらに高齢のときの子となります。

 

日本書紀の検討を重ねるなかで、皇極天皇と神功皇后との類似性を強く意識してきました。そのなかで、夫、仲哀天皇の死後、応神天皇を生むというエピソードから、天武天皇も舒明天皇の死後生まれた子供の可能性があり、この伏線になりうると推論を進めてきました。

 

600 111111122222222223333333333444444  年

年   345678901234567890123456789012345  齢

舒明 S―――――――――30―――34――37――40――――――――49(扶桑略記など)

古人 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――34

皇極 EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――――――――― 55

天智               @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS― 46

間人                  @ABCDEFGHIJKLMNOP― 36

天武                                @AB― 43

 

天武天皇に関する年表

 

ここで年齢を大きく変動させた人たちの一覧

 

          本書     通説            差

天武天皇      43歳    56歳(川崎庸之氏 など) 13歳

斉明天皇      55歳    68歳(後胤紹運録 など) 13歳

孝徳天皇      39歳    59歳(興福寺略記 など) 20歳

高市皇子      35歳    43歳(扶桑略記  など)  8歳

額田王       73歳    83歳(梅原猛氏  など) 10歳

十市皇女      19歳    31歳(伊藤博氏  など) 12歳

中臣鎌足      50歳    56歳(公卿補任  など)  6歳

 

 

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