天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
大津皇子の年齢 おおつのみこ First update 2008/08/06
Last update 2011/01/29 663天智2年生〜686朱鳥1年没(24歳)日本書紀、扶桑略記、一代要記 父 天武天皇 母 大田皇女 (天智天皇の娘) 667天智6年葬 24歳(本稿推定) 姉 大伯皇女 661斉明7年生〜701大宝1年薨去 41歳 妻 山辺皇女 (天智天皇皇女) 686持統1年薨去 24歳(本稿推定) 子 粟津王 大津皇子の変で父に連座して備前豊原郷に流される。 孫に豊原姓を賜り豊原公連を名乗る。(一代要記、皇胤紹運録) 舒明天皇 ├―――――天智天皇 皇極天皇 ├――――皇后 鸕野皇女(645年生) | ├―――草壁皇子(662年生) | 天武天皇 | ├―――大伯皇女(661年生) | ├―――大津皇子(663年生) ├――――妃 大田皇女(644年生) 蘇我山田石川麻呂――遠智娘 持統紀には「天皇第三子」とあります。高市皇子、草壁皇子、大津皇子の男子年順と考えるのが一般的です。この年順では忍壁皇子が抜けています。日本書紀の思想に従えば、男女の区別なく官位血統優先のはずですから、記載された天武2年に序列された表記に基づくと思われます。すなわち、日本書紀でいう「天皇第三子」とは第一は草壁皇子、第二は大伯皇女、第三がこの大津皇子を意味するはずです。 【大津皇子 関連年表】 663天智 2年 娜の大津(九州博多付近)で生まれる。 1歳 日本軍が唐、新羅連合軍に朝鮮白村江で敗戦。 朝鮮の百済滅亡。 664天智 3年 唐の郭務宗ら来日。 2歳 667天智 6年 斉明天皇埋葬に伴い、墓前に母大田皇女を葬る。 近江大津に遷都。 5歳 668天智 7年 天智天皇正式即位。 高句麗滅亡。 6歳 671天智10年 天智天皇崩御 9歳 672天武 1年 壬申の乱勃発。大分君恵尺の手引きで近江大津京を脱出。 伊勢国朝明郡で父天武に合流した。 10歳 673天武 2年 姉、大伯皇女を齋王とし伊勢に送る。 11歳 679天武 8年 吉野会盟に参加。 17歳 680天武 9年 高市皇子と飛鳥寺の僧弘聡の死を弔問。 18歳 683天武12年 国政に参画する。 21歳 685天武14年 爵位改定に伴い草壁皇子に次ぐ浄大弐を授かる。 23歳 686朱鳥 1年 8月草壁、高市皇子とともに封4百戸を加えられた。24歳 同 9月天武天皇崩御 同 10月大津皇子の変。謀反の罪で死を賜る。 600 66666666677777777778888888888 年 年 12345678901234567890123456789 齢 天智天皇――――40―――――46 天武天皇―――――――――――――――――――――――――崩 大田皇女QRS―――葬 大伯皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――26――――41 大津皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24 鸕野皇女PQRS―――――――――30―――――――――――42――――58 草壁皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25――28 大津皇子の年齢は日本書紀の持統紀によります。それによれば、大津皇子は24歳で亡くなった年が686朱鳥1年です。 他のほとんどすべての文献もこの24歳としており、現在まで確定された年齢です。 ただ懐風藻は大津皇子が天武天皇の長子としています。「浄御原帝之長子也」。草壁皇子が長男ではないことになります。人騒がせな一文です。ここでいう長子とはどういう意味なのでしょう。たぶん、草壁皇子だけとの比較で感情に押し流され漏れ出た言葉にすぎません。大津皇子は長子にふさわしいすぐれた人物という意味だけのものでしょう。年齢なら高市皇子、官位なら皇太子である草壁皇子が筆頭です。ここでは日本書紀の記述を尊重します。もし、懐風藻が正しいのなら草壁皇子生年の日本書紀年表記が間違いとなりますが、すると草壁皇子の妻、阿閇皇女との年齢差が広がることになり、また、長女、氷高皇女誕生が草壁皇子の年齢ではあまりに早くなり、あちらこちらを訂正していかなければならず、ここに新たな歴史物語が誕生してしまいます。 大津皇子は九州で生まれ、娜の大津(福岡市博多港)が出生地名といわれます。この663年は朝鮮の白村江で日本軍が唐、新羅軍に惨敗した年です。天武天皇はこのとき九州にいたのです。 日本書紀は「威儀備わり、言語明朗で天智天皇に愛されておられた。成長されるに及び有能で才学に富み、特に文筆を愛されておられた。この頃の詩賦の興隆は、皇子大津に始まったといえる。」(宇治谷孟訳)と大津皇子の人柄を絶賛しています。なぜ、大津皇子は「天武天皇に」ではなく「天智天皇に」愛されたと書かれたのでしょう。 天智2年、大津皇子が博多で生まれた年、白村江の海戦で日本軍は大敗します。このとき天智天皇らは九州の地を離れたと思われます。天武天皇は九州に残ったのです。生まれたばかりの大津皇子と大伯皇女の二人を天智天皇に預けたのです。母の大田皇女は出産によりかなり衰弱しており動かすことができなかったからと推察します。両親不在の孫の面倒をそれから4年間、天智天皇がみたのです。天智天皇にとって大津皇子はそれこそ眼に入れても痛くない孫だったのです。天武天皇が明日香に戻ったと考えられる667天智6年、大津皇子が5歳になるまでは明らかに天智天皇だけの孫であったはずです。 大津皇子は確かに日の当たる道を一直線に走り抜けた男の一生のようにもみえます。 大津皇子が成人したころ、万葉集に石川郎女との贈答歌があります。兄である草壁皇子の妾であったと思われる石川郎女という女性を、大津皇子が奪いとったというものです。
大津皇子は待ちぼうけをくらったようです。でもこの頃の男子はめげません。あの手この手と愛の歌を贈り続けます。これが愛する者への礼儀です。女性の方もそうは簡単には落ちません。 こんなに待ったから服はずいぶんと濡れてしまったと歌を贈ったら、彼女はすぐに歌を返したようです。 個人的に好きな歌です。日本独特の湿度の高い風土を愛で満たしているように思えます。 この歌のあと、二人は結ばれたのでしょう。
兄草壁皇子は天下の皇太子でもあるのです。その女を自分のものにした大津皇子の無謀ともいえる大胆さは、奪われた皇太子側から見れば確かに許せないものでしたでしょう。 この石川女郎はその後、大津皇子を失いますが、その波乱に満ちた生涯を万葉集は刻銘に追跡しているという説がありこれに同意します。いずれにしろ、このことから大津皇子の室としての肩書きを背負い一生を生き抜かなければならなくなる女性です。 しかし、この二人はいつ結ばれたのでしょう。 大津皇子の変 持統天皇らの計画的な大津皇子抹殺のシナリオでした。 懐風藻では、大津皇子は新羅僧行心より、「あなたの骨相が人臣としての人相ではなく、このまま長く臣下の位にあれば、必ず非業の死を遂げるであろう」と告げられ、これを機に謀反計画を練り始めたといいます。 時の朝廷の発表といえる日本書紀によれば、9月9日に天武天皇が崩御されると、24日南庭で殯をし、発哀したとき、大津皇子が草壁皇太子に謀反を企てたと書かれます。10月2日には謀反の疑いで大津皇子が逮捕され、翌日3日には訳語田(おさだ)の舎(いえ)で早くも殺されたのです。30数名逮捕されたといいますが、舎人の礪杵道作(ときのみちつくり)と新羅沙門行心(しんらのほうしこうじん)がそれぞれ伊豆と飛騨に流されただけで他は皆ゆるされました。 一般的には、大津皇子の謀反は事実無根とはいいきれないが、持統天皇を中心とした草壁皇子の天皇擁立派が、それを事前に察知し大津絞殺のために利用したとしています。 懐風藻は河島皇子が朝廷に密告したと書いていますが、どうでしょうか。 真実は逆で、朝廷側の謀略を知った友人の河島皇子がこのことを逆に大津皇子に告げたのではないでしょうか。しかし、大津皇子は逃げませんでした。まっすぐな大津皇子の気性ならありえないことではありません。むしろ、このほうが自然です。 万葉集は、大津皇子が伊勢齋宮の姉、大伯皇女に秘かに会っていたことを伝えています。このことは自分の身の危機を事前に察知した大津皇子が姉に相談していたという形跡とみるべきではないでしょうか。 姉の大伯皇女はひとまずお逃げなさいとでも説得したようですが、大津皇子はそれには従わず飛鳥に一人戻って行きました。姉に会いにいくという行為そのものは、自ずと大津皇子のなかで一つの迷いがなくなっていたことを意味しています。 大津皇子は謀反が発覚したものとして、自宅で逮捕されそのまま翌日には殺されています。訳語田(おさだ)に押し入ったものどもはそのまま大津皇子だけを襲い殺していたのかもしれません。 日本書紀の例からも、一般的に重い病の者を皇子などがお見舞いに行った翌日にその病人は亡くなるのです。大津皇子の変は病死ではありませんが、翌日亡くなったという表現は逮捕と同時に亡くなり、翌日発表されたとも思えるのです。 大津皇子もこんなに簡単に手早く自分が殺されるとは思ってもいなかったのでしょう。反抗した跡はありません。30数名が捕らえられましたが、二人を除きすべて許されたのです。 妃の山辺皇女もあまりのことで吃驚したようで、「髪を乱し、走り出し殉死した」と日本書紀はその悲劇を伝えています。これも山辺皇女の留守をねらった反抗とも考えられます。事件を聞き、大津皇子のもとに走ったときには殺されていたと思われる表現です。無惨な姿を見たのでしょう。 翌日殺された後までわからなかったとも思えません。 殺す側の指示命令系統においても、翌日には殺す予定のものを、殺してはならぬ、捕らえろ、などと中途半端な命令はしないと思います。失敗は許されないのです。ここにははっきりした命令が必要です。訳語田の家を急襲し大津皇子を殺せ、刃向かう者も殺せ、であったと思うのです。 大津皇子の遺骸は初め本薬師寺跡に葬られ、後に葛城の二上山に改葬されました。 本稿は懐風藻のほとんどを信じていません。 ここでの懐風藻に書かれた感想はひどいものです。大津皇子の行動を、忠孝を軽んじ悪僧に近づいたものの落ち度であるとし、これまた懐風藻の作者らしく、大津皇子は友情などに溺れず朝廷に対し忠義を尽くすべきだったと、つまり友情より忠節が第一であると儒教精神論的冷たい批判をしています。 処罰された大津皇子を拐かしたという行心ですら流罪をその後赦されているのです。続日本紀702大宝2年4月の記録に飛騨国から神馬が献じられましたが、これを見つけたのが行心の子、僧隆観で罪が許され京に入ることが赦されたといいます。まだ大津皇子が殺されて16年しか経っていません。朝廷が本当に悪僧と烙印を押していたのなら、そんな神馬を安易に信じ、京入りを赦すとはとても思えません。 もう一人の処罰された舎人の礪杵道作については残念ながら何もわかりません。岐阜美濃国の国造系豪族土岐氏の祖先ともいわれています。 もう少し、詳細に天武天皇崩御後の大津皇子の行動を探ります。 まず、天武天皇崩御直後の模様です。 日本書紀 天武天皇(下)
実に詳細な記録です。9月9日、天武天皇の病癒えず、遂に正宮(おおみや)で崩御されました。10日の日は時間が止まったように宮殿全体が静まりかえったのです。11日にはじめて発哀(みね)が行われ、殯宮(もがりのみや)が南庭に建てられました。この11日の「始」(はじめて)という言葉がこの息の詰まる10日という日が過ぎたことがわかります。おそらく親族において泣いて哀悼の深さを示す儀式がここにスタートしたのです。遺体を安置する殯宮(もがりのみや)も同時に南庭に建てられます。また、内外に天皇崩御菟の通達が出され葬儀予定が発表されたと思われます。そして、24日そのスケジュールに沿って葬儀が始まりました。まず、親族が中心となって南庭に建てられた殯宮に対し発哀が厳かに行われました。このときに大津皇子が謀反を企てたと記録されます。27日、占いにより選ばれたと思われる甲子の日が壮麗な国葬の模様です。午前4時、大勢の僧尼が祈りを捧げ發哭します。奠(みけ)とよばれるお供え物が整えられ、誄(しのびごと)が始まります。故人の業績を称え、これからも万全であることを誓うのです。一人一人の名が丁寧に記録されています。4日間9月30日までにおよびます。 そして10月2日謀反が発覚したとして、大津皇子らが捕らえられたのです。 長々と葬儀の模様を述べたのには理由があります。万葉集にのる大津皇子の不可解な行動がいつ行われたのかが説明できないからです。
弟の大津皇子が伊勢齋王の姉、大伯皇女を秘かに訪ねたのはいつなのでしょう。伊藤博氏らはこれを9月24日夜半から26日朝までのことであったとしておられます。日本書紀の記述とおりの発言です。劇的な大津皇子の変にふさわしい密会となります。しかし、私事ですが、肉親が亡くなる前はいつ亡くなるかわからず気がゆるみがちですが、亡くなった後は非常に忙しく考える隙などありませんでした。 都倉義孝氏は「大津皇子とその周辺」で述べています。 万葉集「巻一、二の配列は大略時の経過に従っている。この二首(A105,106大津皇子が秘かに大伯皇女を訪ねるの)は、次の石川女郎(A107,108,109、110)と大津・草壁の歌以前のものであることを前提として考えねばならない。大津が謀反の意を固めたのは、父天武が再起不能の病いに倒れてからでなければならない。『9月9日(天武死)より10月2日(大津刑死)までわづか20日ばかりのほどに伊勢へ下り給ふ暇はあらじ。』と、真淵が正しく指摘するとおりである。大津の伊勢下向は天武の死以前でなければその後の石川女郎との歌の応酬は時間的に不自然なものとなる。したがって、前年の9月天武が病いに倒れ、この年の9月9日に死に至る期間で、二首に『秋山』とあるのにふさわしいのもでなければならない。そうすると、真淵がいうように、この年の7,8月頃となる」。 確かに江戸時代の学者、賀茂真淵は「万葉考二」において「御姉齋王にも告給ふとて、朱鳥元年の八月の比、天皇御病の間に下り給ひつらん、天皇九月九日に崩まして後は下り給ふ間なし」としています。 この意見を重視します。本稿では大津皇子謀反説を完全に陰謀として考えています。都倉氏がいう「大津が謀反の意を固めた」という考え方は本稿では持っていません。また万葉集にのる大津皇子の歌すべてが仮託されたものであるとも考えていません。しかし、大津皇子の都倉氏の考え方に大きな力得たものであることも確かです。 それでは具体的にいつ、大津皇子は大伯皇女を訪ねたのでしょう。 亡くなる前年より病が治らないことが伝えられていました。そして、天皇が亡くなる年の5月24日にはじめて天皇の病が重いと発表されました。この月、全国の大赦により、獄舎がすっかり空になったとあることからも、なりふりかまっていられない状況がよくわかるのです。 しかし、5月の大患を天皇は克服されたようです。6月16日「この頃わが体が臭い。できるなら仏の威光で身体が安らかになりたい。」と痛ましい御言葉が残っています。克服したもののかなりつらい現状がわかる言葉です。 この辺から、天武天皇の政治は持統天皇へと変化していったようです。 7月2日、男は袴をつけ、女は髪を背に垂らしてもよいと、もとに戻す勅が発せられています。 7月8日、民部省の舎屋は焼失し、これが忍壁皇子の宮より失火と言われます。忍壁皇子も天武天皇崩御によりその地位を危うくした一人です。 7月15日、最後の勅として「天下のことはことごとく皇后と皇太子に申せ」とあり、天皇からの直接の言葉は聞こえなくなります。 7月20日、そして朱鳥と改元されます。 やはり、都倉義孝氏のいうように、7,8月ころのことだったようです。5月の大患を乗り越えほっとした皇后らは天皇からも信頼されことで自らの政治姿勢を露わにしていったのです。大津皇子や忍壁皇子らに注がれる冷たい視線を自ら敏感に察知するのもこの頃からでしょう。そんな折、大津皇子はよりにもよって皇太子草壁皇子の女に手を付けてしまうことになるのです。 懐風藻に「臨終」と称して大津皇子の最後の漢詩があります。しかし今日、これは大津皇子の死後、何者かによる中国で作られた別の漢詩からの転用とわかっています。淡海真人三船あたりでしょうか。 本稿の調査でも、捕らわれた後に大津皇子が心境を詩作したり、国を憂えたりする余裕はなかったと考えています。
金文京氏は『「本文批評と解釈」班研究報告A中国学 大津皇子「臨終一絶」をめぐる諸問題』の中で「大津皇子と陳後主の詩との関係は、後者の詩に基づいて、だれかが用語をより詩らしいものに変え、別の詩としたと考えるのが合理的である」と言っておられます。また、「懐風藻」江口孝夫全訳注(講談社学術文庫)によると「この詩には出典原拠があるという。江為の臨刑詩〜である。江為は五代五周(本稿注:950年前後)の人であるから大津皇子の方が古いのであるが、六朝ごろに先行する某人の臨刑詩があり、それを別々に伝承した。いわゆる兄弟関係にある詩だろうと、小林憲之博士は『上代日本文学と中国文学』下の中で述べている。」 これらは大津皇子自身の転用とみるむきがあるようですが、これは後世にこの詩を載せた懐風藻(751年序文)の作者により大津皇子の作品とする中国詩からの盗作と考えたほうがいいのではないでしょうか。 万葉集にも大津皇子の最後の歌が残っています。これも大津皇子自身の歌ではないようですが、後世の人が大津皇子を悼み、成り代わり詠んだ歌のようで少し救われます。 万葉集
「雲隠る」とは貴人が死ぬことをいうことで三人称になることから、大津皇子自身の歌ではなく後人の仮託となるようです。しかし歌としては名歌といわれるものです。 ただし、訳語田の家が磐余の池と離れているから大津皇子の歌ではありえないという説もありますがこの意見は取り入れることはできません。正確な場所は諸説あるところですが、敏達天皇の宮を磐余訳語田宮と呼ばれていたことから桜井市の同じ所にあったと思われるからです。皇胤紹運録、帝王編年記、扶桑略記などにそうあります。 本稿では懐風藻のこの記述は、日本書紀の記録をさも見てきたかのように勝手に憶測、推測した記述であり、川島皇子の朝廷への謀反陰謀の密告や行心による謀反誘導の面相占いのような事実は無かったとし、あくまで純粋に朝廷側の策謀と考えます。 一般に言われているように、草壁皇子天皇擁立のため、持統天皇を中心とした草壁皇子の優秀で忠実な舎人集団が大津皇子謀反をねつ造し、大津絞殺の理由としたのです。 若い革新的な大津皇子なら現代の我々でもそうですが現政府に批判や不満はいくらでもあったと思います。それを利用したものです。 その上で川島皇子や行心らは友として、年長のアドバイザーとして大津皇子の姉大伯皇女と同様、殺された大津皇子に対し、死ぬまで大津皇子を守れなかった自分を責め後悔し続けたと思うのです。
万葉集に大津皇子の歌は4首掲げられています。二首は恋の歌であり、一首は辞世の句であり、これが残りの一首です。宴席で歌われたものと思われる秋の季節を愛でた歌です。都倉義孝氏は「自分の注意を妨げるものがあらわれないでおくれ」という意味にも解し得るという深読みをされていますがここでは取りません。何もかも大津の乱に絡めて考えを及ぼすことはないと思います。 ここからは本稿の空想の世界です。 このとき、大津皇子はこの歌に飽きたらず漢詩をも作ろうとしました。 天紙風筆画雲鶴 天紙(てんし)風筆(ふうひつ)雲鶴(うんかく)を描き 山機霜杼織葉錦 山機(さんき)霜杼(そうちょ)葉錦(ようきん)を織る ところが、あと2句が浮かびません。もしくは逆で漢詩を作りきらずに諦め和歌にした為、漢詩のなごりが上記万葉歌に残ったのかもしれません。上記の和歌と漢詩を契沖以来、発想の同一性を指摘されているものです。 大津皇子は惜しげもなくこの作りかけの漢詩を捨ててしまいましたが、これをそっと拾い寺に持ち帰り大切に保管した茶坊主がいました。ところが後日、その大津皇子が殺されてしまいます。それからさらに70年後、その寺に保管されていた大津皇子の未完の下書きを見たものがこれを完成させようと2句を継ぎ足しました。 後人聯句 後人(こうじん)の連句(れんく) 赤雀含書時不至 赤雀(せきじゃく)書(しょ)を含んで時至らず 潜龍勿用未安寝 潜龍(せんりゅう)用いることなく安寝(あんしん)せず 漢詩の善し悪しはよくわかりませんが、どの解説書もこの懐風藻にのる次句をひどいものだとしています。確かに素人目にも上句は大空に広がるような肯定的な句ですが、下句はいじけねじれた暗い句で結ばれているように見えます。 一般的に言われているのは逆で、懐風藻にのる大津皇子作の「七言述志」を第三者の仮託として和歌に移したものとされています。それが万葉集に採用されたと言うのです。またこの漢詩の後人連句によって謀反の意志を表明したとする説もあります。 本稿では和歌と漢詩の前2句は同じ大津皇子ものとしました。漢詩の後2句は「後人連句」とあるとおりで後の人が前2句を受けて継ぎ足したものです。 これが懐風藻の真の姿ではないのか、本稿ではこう考えています。懐風藻は寺に保管された皇子、公卿らの走り書き、習作などの漢詩をまとめたにすぎないとさえ思えるのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |