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天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇の行動 

First update 2008/12/12 Last update 2015/01/01

 

天武天皇の行動力、実行力はそれを調べれば調べるほど、その緻密な計算から導き出されたこの計画性に舌を巻きます。ここでは天武天皇の若々しい行動を描くことで、天武天皇の年齢を間接的に検証します。

また、当時の出来事も同時に重要な要件です。

 

目次 天武天皇の行動とその時代 

    天武天皇の出生地

    熟田津と伊予温泉

    白村江の戦い前夜(斉明天皇崩御)

    白村江の戦い

    壬申の乱と高市皇子関ヶ原の戦い

    吉野会盟

    祥瑞

    天武大地震、大飢饉

    天武天皇の万葉歌

    天武天皇の博戯(賭博)疑惑

    天武天皇崩御の謎

    天武・持統天皇陵

 

天武天皇の出生地 644皇極3年3月

本稿では天武天皇の出生地をはじめから泉大津として推定してその証拠を積み上げてきました。

それは日本書紀に天武天皇が生まれたと思われる記述が存在するからです。

実際にその土地や神社を訪れることで思わぬ収穫を得ました。また、インターネットの膨大な天武天皇の記事をひとつひとつ読むことで天武天皇の勅願寺がこの出生地に多く集中していることに気が付きました。氏族の研究も重要でした。大海人氏から凡海氏へ、さらにはその本宗家である安曇氏から九州の地の意外な天武天皇の関わりが見えてきます。

 

熟田津と伊予温泉

熟田津と伊予温泉は「道後」にあるとするのが一般的です。本稿では高市皇子を追求するなかで「道前」にある越智郡高市郷に注目しました。調べるほどにその思いは深まるばかりです。そこに朝倉郷がありました。そこに国府がありました。とうとう我慢できずに当地にも行きました。まだまだ不十分な記録ですが今までの蓄積をまとめました。

 

白村江戦前夜(斉明天皇崩御) 661斉明7年7月24日

斉明天皇は朝鮮百済救済のため軍兵を整え、九州の地に渡りました。

3月末に九州の磐瀬行宮に到着した斉明天皇一行は意外にも、戦争に沸き立つ海岸線基地からほど遠い40km以上内陸の朝倉の地に行宮を移してしまいます。そして、その朝倉橘広庭宮で斉明7年7月24日に崩御されたのです。この危急の中、九州到着が伊豫の石湯滞在で2ヶ月も遅れ、なぜ、到着後すぐに、朝倉のような内陸地に引きこもってしまわれたのか。斉明天皇崩御の原因を推理します。

そこには、九州の民との意外な確執が見えてきたのです。

さらに判然しない朝倉橘広庭行宮と磐瀬行宮(長津)の地を推理します。

 

白村江の戦い 663天智2年8月28日

百済支援の名目で朝鮮に渡った日本朝廷軍は唐と新羅連合軍に大敗します。

天武天皇の愛妻、大田皇女20歳が大津皇子を九州の大津で出産した年に当たります。

この大きな出来事に記録のない天武天皇ですが、大田皇女と同年齢と考える本稿では、白村江の敗戦処理で天武天皇の果たした役割がやはり大きかったと考えました。

そこには白村江戦への醒めた中年の批判的態度ではなく、20歳になったばかりの青年が体験したあまりに大きなうねりの中で参画しきれない焦り、さらにそのときに味わう近親者喪失の悲しみがあったことを考えました。

 

壬申の乱と高市皇子 672天武1年6月24日〜7月23日

日本書紀は壬申の乱を一つの章を設けるほどに重要な記録として描かれました。

天武天皇らが吉野を脱出され、大津宮が陥落、大友皇子自殺するまでの壬申の乱の記録です。

天武天皇はこの戦いを征し、30歳の節目を迎え、天皇位に就くのです。

この大きな主題に対し、ここでは高市皇子に焦点を絞り、彼の役割は何であったのかを探ります。通説では19歳の高市皇子ですが、本稿では12歳としています。

 

吉野会盟 679天武8年5月5日

天武天皇は鸕野皇后らと吉野に行幸され、皇后以下6皇子と盟約を結ばれました。

本当に吉野会盟の目的は50歳になろうとする天皇の後継者問題解決のためだったのでしょうか。

本稿では政権を樹立した若い36歳の天武天皇が自分の皇子らに自らの政権構想をここではじめて具体的に示したものだと考えました。

ここは天武天皇の自らのビジョンを明らかにし、その目的達成のため自らの皇子を重用していくこと、スムーズな運営を目指すために皇子達の序列を明確にする重要な場であったと考えます。

その7年後、天武天皇は崩御されます、43歳というあまりに若い死、彼の政治はほとんどが途中のもので達成されていません。あまりに多くの課題を残し、亡くなったものと考えます。

この崩御される最後の年頭にあたり、天武天皇は吉野会盟で誓ったビジョンを再度示し、その方策を個々に問うたのです。近年の学者たちはこれを「なぞなぞ遊びをして楽しんだ」と解釈しています。

 

祥瑞 683天武12年1月2日

祥瑞(しょうずい)は辞書で調べると「めでたいしるし」です。日本では「白鳳」「朱雀」などよく知られています。日本のことを「瑞穂国みずほのくに」と讃えています。調べると祥瑞は中国から伝わった言葉です。日本では当初、中国に書かれた大上中下の階級差はなく、日本に現れた祥瑞は中国の祥瑞とまるっきり同じではありません。しかし、祥瑞の考え方がこの頃から、おおきく変わっています。祥瑞そのものを喜ぶのではなく、祥瑞の出現は、その時の天皇が善政をしいているから祥瑞が現れると言われ、その天皇が偉大である代名詞に変化していきます。

 

天武大地震、大飢饉 684天武13年10月14日

津波を伴う大地震として記録された世界最古のものです。現在、日本地震学会として、南海トラフ沿いの巨大地震で、マグニチュード8¼の地震としています。2011平成23年3月11日東日本大震災は9.0でした。天武天皇在位期間中、この地震記録は極めて多く、また、異常気象記事も一番です。当然、多くの人々が被災したはずです。それにも関わらず、悲惨さが表だって表現されていません。それほど勢いのある時代だったと推測します。できるだけ客観的に史料を収集してみました。

 

天武天皇の万葉歌

天武天皇の心の内を知るには彼の歌を分析するのが一番です。ここでは、万葉集に残された天武天皇の作と言われる5首と、そばにいた皇后が見た天武天皇への挽歌4首を探ります。

本稿の思いとは裏腹に、天武天皇の歌は不可解なものが多くみられます。まだまだ不完全な解釈と考えていますが、書き散らしたものをここに集約してみました。

 

天武天皇と博戯(賭博) 685天武14年9月18日

「ギャンブルにはまった天武天皇」とあるニュース記事を目にしました。本当に、天武天皇は博打が大好きだったのでしょうか。皆を集めて賭博をして勝った者に褒美を与えたと書いてあるといいます。本当なのでしょうか。第一、天武天皇の為の日本書紀が天武天皇を批判するなど考えられません。彼らにとって、天武天皇は神そのものです。明らかに、現代の誤訳です。

不思議なのは、専門家たちがこうした記事を黙認していることです。まさか、彼らも、天武天皇がギャンブルに興じていたと思っているのでしょうか。

 

天武天皇崩御の謎 686朱鳥1年9月9日

本稿では通説の56歳を疑い、43歳で崩御されたとしました。

天武天皇の病没を疑う史料は見当たりません。では何の病だったのでしょう。

その一つの切り口が、天皇の和風諡号にあります。天渟中原瀛眞人天皇として、天文遁甲に精通していたとあります。これは何でしょう。本稿は道教から発展した「仙道五術」の一環と考えました。つまり、彼は仙道を極め、いわゆる不老不死を探求した形跡があると結論づけました。

天武天皇は仙薬の乱用により自らの命のみならず、皇后や子供、孫さらに曾孫にまでその命を脅かす原因を作ってしまったのです。

 

天武・持統天皇陵 703大宝3年12月26日 檜隈大内陵に合葬

(ひの)(くま)大内陵に天武天皇と皇后、持統天皇が葬られています。

この天武・持統天皇陵は数多ある古墳のなかでも数少ない確定的な天皇陵であることが知られています。

いろいろな疑問がありますが、ここでは、持統天皇がなぜ、自分を火葬し、天武天皇の隣に自分の骨壺を置かせたのかについて考えました。

 

 

 

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