天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇の業績 

First update 2012/10/13 Last update 2015/01/01

 

天武天皇は何を成し遂げた人なのか。

本稿では、日本という国を統一し、国の形を定め、内外に宣言した天皇と考えています。

自らも手がけ邁進したその仕事量はあまりに多く、一生涯という範疇を超え、皇后や子供達、孫にまでに及ぶ壮大な事業だったはずです。一つずつ時間をかけ、まとめて参ります。

 

目次

1.国史編纂

2.「倭」から「日本」へ

3.「天皇」宣言

4.新城藤原京、新都構想

5.飛鳥浄御原律令

6.近江令と大皇弟

7.天智紀の重出記事

8.意見具申

9.八色の姓

10.神々の統合

11.天文遁甲

 

「倭」から「日本」へ 670天智9年 

669天智8年、(しょう)(きん)(ちゅう)(かわ)(ちの)(あたい)(くじら)らが大唐に向かいました。翌年唐暦、(かん)(こう)元年に遣唐使として訪れた使節団に対し、「日本」に関するあらゆる質問が投げかけられています。自らを「日本国使」と名のったからと思われます。現在、「新唐書」に書かれたこの事実を見過ごすのは、何故なのでしょう。朝鮮史書「三国史記」にもこのとき「倭国は国号を日本と改めた」とはっきり書かれているのです。結局「旧唐書」はこの使節を信じず「日本国は倭国の別種なり」と切り捨てています。

このときは天智天皇の時代です。しかし、参謀の中臣鎌足はこの世にいません。皇太子である大海人皇子(後の天武天皇)がこの使節団を送り込んだ可能性は大いにあると思われます。翌年、天智10年に天皇が崩御されると、壬申の乱を自ら起こし、天武天皇として即位します。その際にこの「日本」を名乗り利用したことは大いに考えられるのです。

 

天智紀の重出記事 671天智10年1月6日他

日本書紀、天智の巻には同じ記事がダブって別の箇所に書かれることが多くあり、昔から問題視されていました。原因として、多数の文献を集約するなかで紛れてしまったとか、暦法の違いで同じことが違う年号に書かれたとか、ひどいものになると、当時の天智紀執筆担当の怠慢と言いたげな文章もあります。今更本稿ごときがとも思ったのですが、本当の原因は、編纂過程で天智紀編纂者以外の実力者による加筆があったからはないか、と考えてみました。本論はその証拠集めです。

 

近江律令と大皇弟 671天智10年1月6日

天智3年に冠位の詳細が大皇弟大海人皇子(後の天武天皇)によって公表されました。同様に天智10年に近江律令が、天皇の命を受けて、東宮太皇弟大海人皇子が奉宣され、施行されました。この二つは重出記事と言われています。兄天智天皇の時代に、弟大海人皇子が登場しているのです。近江律令と浄御原律令を対比させながら、天武天皇との関わりを調べました。

 

天皇宣言 673天武2年

日本古来の「治天下大王」は列島君主の「王中の王」「天下を治める大王」でした。「天皇」号は本来、対外的に使用された名称です。倭訓「すめらみこと」は天武2年に天武天皇が即位したときに、「日本」号とともに初めて使われました。「天皇」号は中国唐の高宗が「天皇」を号する天武4年まで待たなければなりませんでした。その後、飛鳥浄御原令で法制化されます。最初、皇后が「天皇」と天武個人を呼んでいましたが、大宝律令の頃には「天皇」は「神が天下り統治するもの」と「神」に変化していったのです。

 

飛鳥浄御原律令 681天武10年2月25日

律令体制構築に欠かせない法令の整備は、日本の歴史上、近江律令―飛鳥浄御原律令―大宝律令―養老律令と改訂が重ねられていきました。ところが大宝、養老以降当たりから、飛鳥浄御原律令は抹殺され消えてしまいます。そんな律令はなかったことになっていました。ようやく近年、飛鳥浄御原律令は復活しますが、現在、またしても飛鳥浄御原律令は近江令の延長にすぎないとか、近江令とともに飛鳥浄御原令とされ、律は作成されなかったと定説化されつつあります。新説を目指すはずの本稿の目的が逆に、飛鳥浄御原律令の存在を守る側として弁護しなければならなくなってしまいました。

 

国史編纂 671天武10年3月17日

古事記と日本書紀の関係を見据えます。

古事記に、天武天皇は諸家が持つ帝紀や本辞がそれぞれに異なり、多くの虚偽を含むので、帝紀を選録し旧辞を調べ正すと宣言しました。日本書紀にも帝紀および上古の諸事を校訂する同じ詔を発したとあります。天皇崩御の後、30年後、古事記が完成、その8年後に日本書紀が完成しています。どちらも天武天皇が企画したことが、なぜ二書になったのでしょう。

古来、いろいろな解釈がなされてきました。このことを調べ直すと、この話題が、無意味だと言われ始めていることがわかりました。記紀二書の間で内容を比較し、合成したり、どちらか一方を選択したりしていたことが、記紀は独自の書物内のことであるから、安易な比較はすべきでないと否定的です。

本稿の考えは、むしろ逆で、古事記と日本書紀の比較研究をもっとすべきだと思います。同じ狭い宮廷内で同じ天皇が企画し、結果、ほぼ同時に出来上がった書物です。規模や制作者が異なっていたにしろ、互いに意識しないはずはないと考えました。制作事情を中心に調べてみました。

 

意見具申 681天武10年10月25日

天武天皇は参内したすべての冠位有る者に、意見を述べる自由を与えました。

問題は現代のこの解釈の仕方です。後の養老公式令にこのことが規定されているというのです。令集解にある解釈はむしろ後の淳仁天皇の勅から定められたもので、天武天皇の規定とは違います。淳仁天皇の勅令は宮外からも広く意見を聞くものですが、その意見が天皇の元に届くことは難しく、しかも従五位以上の官位を有する者と限定的です。天武天皇のそれは、宮廷内ですが、冠位あるものすべてに直接意見を求めたものです。その事例は天武15年正月の「無端事(あとなしこと)」にあると考えました。古来より続く古い考え方を一つ一つ、つぶしていきます。

 

新城藤原京、新都構想 684天武13年3月9日

現在行われている、藤原京発掘調査により、その巨大な全貌がわかってきました。

(にい)()」とは「地名」を指すものではなく、「新しい宮」という普通名詞と考えられます。

このことは、自動的に、天武天皇は即位して早い時期から、藤原の地周辺を見据えており、「宮」ではない巨大な「京」、飛鳥浄御原宮をも包み込むような「都」構想を進めていたことがわかります。生前には工事は着工されており、崩御によりこれを引き継いだ持統天皇らによって完成され、藤原京が実現したのです。

 

八色の姓 684天武13年10月1日

八色の姓(やくさのかばね)といわれる、天武天皇の氏姓改革です。

天武天皇の八色の姓は単なる律令制度における身分制度の確立ではないと思います。そこには、古い身分制度そのものの解体が目的のようです。例えば「真人」は天皇系譜に連なるという意味だけではありません。天武を助けたものたちへの「真人」姓の授与であり、天皇家に連なる者にまで身分を引き上げて見せたのです。

しかし、この制度は志半ばで頓挫します。天武天皇自身が病を得たためと思われます。

天武天皇らしからぬ計画のなさは、彼自身がこんなに早く自分の生が終わるとは思っていなかったことの証しです。この時代の平均余命を過ぎた老年の天皇なら当然考えていたはずの若い皇子たちへの業務引継がなされていません。

天武天皇の死後、目指す方向ではなく、旧体前のさらに強固な身分制度となっていくのです。

 

 

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