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天武天皇の年齢研究

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「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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日本書紀、最古の年代記録

「一百七十九萬二千四百七十餘歳」の解釈 

First update 2017/05/31 Last update 2017/05/31

 

(拙稿は『歴史研究』歴研 平成274月号に掲載された)

 

 日本書紀のなかで最初にあらわれる年数に「百七十九万二千四百七十余年」がある。天照大神の天孫、()()(きぎの)(みこと)が日向に降臨してから1,792,470年あまりの後、甲寅年(BC667)に神武天皇らが東征を開始したことを示している。

 

【日本書紀 神武天皇】

 「天祖の降跡(あまくだり)りましてより以逮(このかた)、今に、一百七十九萬二千四百七十餘歳。〜是年太歳

甲寅。其年、冬十月丁巳朔辛酉、天皇(みづか)(もろもろ)の皇子・舟師を(ひき)ゐて、東征したまふ。」

 

 遙か昔に神が日向に降り立ったとする話でもあり、この巨大な数字は「大きな時間経過を意味する」として、読み飛ばすのが普通である。しかし、あまりに具体的な数字なので、それなりの意味をもつと考え、昔からいろいろな解釈がなされている。ここでは次のように読み解いてみた。

 

   1792470 1340×1340 - 1800 + (-666-664)

この式は次のようにして求めた結果である。

   -666 - 1792470 664 - (1340×1340 - 1800)

 

 神武東征(BC667)の1,792,470年前に瓊瓊杵尊が降臨した年(BC1793137)は、儀鳳暦の基準年麟徳元年(AD664)の(1,340×1,3401,800)年前と一致する。儀鳳暦の「総法」と呼ぶ「1,340」の乗数、さらに「1,800」というきりの良い調整数字が使われているが、単なる偶然とも思えない。

 なお、以下では計算の都合上、BC667年を -666年のように表現する。西暦には紀元〇年がないためである。

 

古代中国の暦

 小川清彦氏によって、日本書紀には中国暦法が使用されていたことがわかっ((1))。神武紀以降の暦には儀鳳暦が用いられ、雄略紀の前年からは元嘉暦が用いられていた。唐であみ出されたこの(りん)(とく)(れき)は日本では()(ほう)(れき)と呼称され、持統天皇から採用された当時最新の暦である。基準年の甲子麟徳元年(AD664)の269880年前を「上元」として、その前年冬至朔日(十一月一日)から暦が始まるとした。これは「上元積年法」と言われる暦元を遠い過去に置いて計算する方法である。古代中国では『漢書』で示された「三統暦」以降、この方法が用いられてきた。

 表1は儀鳳暦の「上元」をエクセルで簡易計算した結果である。計算式は『日本暦日原典』など参照された((2))

 

 儀鳳暦以前の主要な中国暦の「上元」をピックアップすると次の通りになる。

 

儀鳳暦 麟徳 一年甲子AD664 269880年前は上元甲子  BC269217

戊寅暦 武徳 九年丙戌AD626 164348年前は上元戊寅  BC163723

大業暦 大業 四年戊辰AD6081427644年前は上元甲子BC1427037

開皇暦 開皇 四年甲辰AD5844129000年前は上元甲子BC4128417

大明暦 天監 九年庚寅AD510  51986年前は上元甲子   BC51477

元嘉暦 元嘉二十年癸未AD443   5703年前は上元庚辰    BC5261

 

 日本書紀も儀鳳暦を用いた関係上、これら「上元積年法」の数字を意識していたはずである。日本書紀編纂者は中国天文学の計算で得られた暦法の数字を巧みに利用し、次のように天孫降臨と結びつけ、意味を持たせたと思われる。

 

日本書紀 東征年甲寅BC6671792470年前は上元甲申BC1793137

 

 神武東征(BC667)から1,792,470年前の甲申年から日本の暦が始まった、と言っているようなものである。このように中国暦に置き換えてみると、特に唐突な数字表現でないことが解る。

 

神武と天武を結ぶ「総法1,340

 儀鳳暦は、太陽と月の運行を次のように定義した。

  一太陽年= 489428/1340 365.2448

  一朔望月=  39571/1340 29.53060

 現在の元となるグレゴリオ暦は、一太陽年が365.2425日、天体実測値は、365.2422日だから、月の運行をも加味する儀鳳暦が高い精度であることがわかる。

 ここで注目したいのは、太陽年と朔望月の分母を共通の「1,340」にして、計算を簡略したことにある。「総法」と言われる。例えば一つ前の戊寅暦では

 一太陽年= 3,211,251,075 / 8,792,056 365.2446

 一朔望月= 384,075 / 13,006 29.53060

など、他の暦法では分母が異なる。

 

 儀鳳暦の総法「1,340」に意味を持たせるとすれば、表2で示すように、神武東征年(BC667)から天武即位年(AD673)1,340年間として見ることも可能なのではないだろうか。

 

 なお、計算上では、

  673 - (-666 - 1)1340 年 とする必要がある。

 

 「1,340」を最初に注目したのは有坂隆道氏であ((3))。儀鳳暦「総法1,340」を重視し、神武即位元年(BC660)から天武10年国史編纂記事の年(AD681)までが1,340年になると指摘した。

    681 - (-659) 1340

「麟徳暦=儀鳳暦の第一の特徴は、古来まちまちの数を使ってきた章・蔀・元・紀などを廃し、あらゆる周数を統一して総法1,340という数字を用いたことであります。これまで別々の数字でしか表現できなかった太陽や月の運行も、1,340という数字で統一して表現できることになったのです。『新旧唐書暦志』の麟徳暦=儀鳳暦の暦法を記したところをみますと、真っ先に一行、「総法千三百四十」と特筆してあり、まことに印象的であります。『書紀』編者には、この周数こそ宇宙と人間界を貫く最新の真理であり、いわば聖なる周数として強く印象づけられたはずなのでありま((3))。」

 

日本書紀の「太歳」と「甲寅」

 神武天皇と天武天皇の「太歳」は次のように書かれている。

神武東征 「太歳甲寅年十月丁巳朔辛酉BC667即位前7105

天武即位 「太歳癸酉年二月丁巳朔癸未AD673天武  2 227

 

 「太歳」とは木星の異名である。((4))古代中国では、12年で天を一周する木星を歳星として尊んでいた。日本書紀は全体でその「太歳」が45回ほど使われている。その多くが天皇即位年を示す太歳干支である。天武即位年も「太歳癸酉」とある。ところが、神武即位年は「辛酉」で、「太歳辛酉」とは書かれていない。神武天皇の太歳は、即位の7年前東征開始の年である。こと神武紀に関しては即位年より東征開始年の方が重視されているように見える。

 

 一方、「甲寅」とは『()()』(中国最古、漢代の頃に編纂された類語・語釈辞典)に「十干先甲、十二支先寅」とある通り、十干の最初は「甲」、十二支の最初は「寅」で、古来、「甲寅」が干支運行の初年と考えられていた。((5))その後、天文学の発達とともに60年干支の始めは「甲子年」に統一されていく。日本書紀が最初の干支に「太歳甲寅」を用いたのは当然といえる。

 

神武天皇と天武天皇

 水野惟之氏は、日本書紀の月朔干支は中国暦でない日本固有の暦とする考えに賛同しておられた。((6))その中で、表3のように、最初の干支日付記事となる神武東征年二月朔と天武即位二年十月朔が同じ「丁巳」であると指摘した。しかも八年先、天武十年四月まで、神武紀と同じ月朔干支が続いているとある。つまり、60年干支は循環数なので、この期間は六〇日の倍数で結び付いている。日付干支もすべて同じ干支になる。ただ、儀鳳暦で計算すると、神武紀の干支記述がないときに若干のずれが生じている。

 

 

 日本書紀のなかにも、天武天皇の壬申の乱を決断する詔に神武東征を連想させる言葉がある。

 

日本書紀 天武天皇(上)

(壬申年)六月辛酉朔壬午、(みことのり)して曰く、『〜(われ)、今(いで)()たむ』とのたまふ。

甲申に、東に入らむとす。」

 

 天武天皇は六月二一日に詔して、二四日に出発「東に入ろうとした」とある。実際は、吉野を脱出し、鈴鹿峠の東側山裾を密かに北上した。これを日本書紀岩波版は、注に「東海道伊賀以東、東山道美濃以東の諸国をさす広義の意」と漠然とした意味として説明する。このことから最初は「東」の尾張を目指したとする仮説が生まれるなど、不自然な「東」といえる。東に逃げると公言し、近江朝を欺く狙いがあったとも思えるが、ここは、日本書紀編纂者による神武東征を意識した同じ「東」という言葉が使われたのではないかと考えてみた。こうした表現は、天武天皇に神武天皇の姿が投影されていることを示すものと考える。

 

古くから続くさまざまな解釈

 伴信友などは日本書紀に載る1,792,470年の数字を重視せず、後から本文に紛れ込んだものとした。((7))また、原文注のように細字で書かれていたといわれるが、他の写本はすべて、同じ数字が本文として明確に書かれていることから、この説は認められていない。

 

 ここで、問題になるのが「餘歳」の意味である。当時、例えば「一二三歳」を「一二〇余り三年」と読む。このことから、1,792,470余年とは、七〇年から七九年の間を指すと解釈できる。「約1,792,470年」という意味になり、アバウトでも可とした説が成立する。本居宣長は天孫降臨から神武までを親子三代に分割し、合計が異なる説をいくつか紹介している。『皇代記』では、

 

   瓊瓊杵尊     318,542年

   彦火火出見尊   637,892年

   葺不合尊     836,042年

   三代合計    1,792,476年

 

合計が日本書紀の記述より6歳多いことになる。

 

 飯島忠夫氏は、参天台五台山記・簾中抄なども同じ数字であるとして、「余歳」をこの「+6歳」と仮定した。((8))こうすると表2のように、神武東征(BC667)の1,792,476年前が戊寅年(BC1,793,143)となる。

 

  8,792,056(60×7) 7,000,000+(1,792,4706

 

 戊寅元暦太陽年の分母+(60×7) が、神代七代+天孫降臨前の戊寅年を指すとある。結果、儀鳳暦の前の戊寅元暦を用いて天孫降臨の年を計算したのであろうと一案を提示した。

 中国暦法との関連を指摘したことは評価できるが、数字が近似するというものに過ぎない。

 

乗数が近いとする幾多の予測例

 江口洌氏は、神武東征(BC667)から天武元年壬申の乱 (AD672)までの1,338年間を2乗すると極めて近くなると指摘した。((9))

     1,338年×1,338年= 1,790,244

その差は、1,792,470年 − 1,790,244年 =2,226 

 残りの端数2,226を日付と考え、天武1年1月1日から即位2年2月27日までの2年2ヶ月26日間を示すと、強引に結び付けている。

 

 また、神武即位(BC660)から天武即位(AD673)までが、1年365日の乗数と一致することを示した。

    673 ( -659 ) 1,332

    (365×365 )/ 100 1,332.25

 

小数点以下の数字は合わないが、乗数を用いる可能性をいろいろ試算している。

 

 一方、ホームページを検索すると、東征開始(BC667)から天武即位(AD673)までの間が、

1,792,470年の平方根と、ほぼ同じとある。((10))

  AD673 - BC667673 -(-666) 1,339

  1,792,470の平方根  = 1,338.8316

神武東征から天武即位までの着眼点は興味深いものだが、少数点以下を日付と考えても合致しない。

 

甲申年の意味

 天孫降臨は表2で示したように甲申の年である。「甲申」の意味を探ると『漢書、律歴志上』に「歴数三統、天以甲子、地以甲辰、人以甲申」とある。これは古代中国「漢」、「秦」を遡り、「周」、「商(殷)」、「()」の三国を指す。

 現代語訳から拾い読むと、「人以甲申」とは「人統の首は甲申をもってし(人の(いとなみ)の数に合する)」とある。((11))「人統-()暦−は正月を(いん)の初めに受け、太陽が(ひこばえ)と成って黒く、(いん)の中に至って太陽は生成して青い」、「人の(いとなみ)は寅から始まり申に成る」、「北斗星が人統に合致する。」

 「甲申」は「()」暦を指し、「寅」を年の初めとしていた。

 

 また、司馬遷『史記』も、「孔子は()の暦を正しいとし」、「夏は年の始を一月(寅)」、「十二ヶ月がめぐって、十二支の丑にあたる十二月で終わる」とあ((12))。ちなみに、十一月冬至が「()」になる。

 中国の歴史は三皇(伝説の天子)に始まり、五帝(伝説の聖帝)に続き、「()」が中国最初の王朝である。その夏暦の「甲申」と天孫降臨の「甲申」が関連づけられたように見える。

 

1,800の意味

 残る問題は1,800の意味である。麟徳元年から遡る1,340年の乗数は甲申年を指し示していた。これを差し引く1,800年も旬周60の倍数だから同じ干支を示す。甲申年を意識していた証拠である。

 古事記には天孫降臨以降三代の一人、彦火火出見尊が高千穂宮に五八〇年間坐す、と記されている。600年×三代=1,800年と、全体を考えていたのかもしれない。

 最古の古代中国、三皇五帝に続く三代、夏、商、周も年代はBC2,070からBC256と言われ、合計はほぼ1,800年である。

 また、計算上、神武天皇東征(BC667)は中国では周の時代になるが、その周の史実は、神武同様、西周から遷都して東周になる国なのである。

 

 以上、数字の解釈はいろいろできると思うが、日本書紀に記された1,792,470年という天孫降臨から神武東征までの年数は、ここでも儀鳳暦を下敷きに中国史書を参考にして計算されていたものと考える。ご批判ご叱正を請う。

 

参考文献

  「日本書紀 上・下」『日本古典文学大系』坂本太郎他 岩波書店 1995

  「古事記(上)」次田真幸全訳注 講談社学術文庫 1997

(1)小川清彦「日本書紀の暦日に就いて」1940『小川清彦作品集』皓星社1997

(2)内田正男編「暦の計算法」『日本暦日原典第四版』雄山閣出版1992 

(3)有坂隆道「日本書紀の暦日」『古代史を解く鍵』講談社学術文庫199958

(4)飯島忠夫「支那の暦法」『天文暦法と陰陽五行説』第一書房1979,

   「太歳」について、80

   「甲寅」について、八四項「十干の第一が甲であり、十二支の第一が寅である

   (上古に於いては十二支の第一を寅としてあった)」、

      107項「甲寅を初とする方法は暫時甲子を初とする方法に移った」

(5)「爾雅」について、日本書紀岩波版補注3-

(6)水野惟之「神武天皇紀の月朔」『神武天皇紀の史的研究』小川書店1961

(7)伴信友などの竄入説 日本書紀岩波版補注3-

(8)飯島忠夫「天孫降臨以来の年数」『日本上古史論』中文館書店1947

(9)江口洌「日本の開闢年数」『日本書紀の聖数ライン』河出書房新社2007

(10)「神武天皇の東征『1792470余年』の謎を神道の七五三で解く!」

       http://on-linetrpgsite.sakura.ne.jp/column/1792470.htmlなど

(11)班固「漢書2表・志上」小竹武夫訳 ちくま学芸文庫1998218

(12)司馬遷「夏本紀」「暦書」『史記 上』野口定男訳 平凡社199426項、239

 

 

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