天武天皇の年齢研究

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−目次−

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 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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年齢を定める手法 

First update 2008/08/15 Last update 2019/08/03

 

【目次】

   年齢と在位年の関係(令和元年記念)2019/08/03追記

   本書の記、表現方法につ

   本書の守るべきスタンス

   1.平均寿命−このころ、人はいくつまで生きられたのか

   2.文献に見える結婚年齢、出産年齢、夫婦の年齢格差

   3.成人年齢−初授位任官時から年齢を推測する

   4.収入を得る年齢−封戸を賜う

   5.年齢序列−天武天皇の近親者たちとの相対年齢比較から年齢推定を絞り込む。

   6・皇后、夫人序列、子女の序列

   7.地方生まれの皇子たち

   まとめ

 

ここでは、本論を進める上での年齢推論手法をまとめます。現代にも成人式や、喜寿など人生の節目の祝いがあるように、この天武天皇が生きた時代にもこうした年齢の節目の祝いがあったはずです。また、その時代時代の慣習、たとえば、恋人たちの結婚適齢期、夫婦の出産年齢、理想とした夫婦間の年齢差の常識などあらゆる慣習が社会生活に大きな影響力を持っていたと思われます。こうした常識を日本書紀などから洗い出し、これまでの学術研究に学びながら、年齢不詳の人物の年齢を数字の置き代える根拠を整理してみました。その基礎年齢をさらにその時代の周囲の人物と比較検証しながら、さらに精度の高い年齢推定を目指していきます。

 

 

その前に、本書の記述方法について以下の点につき、ご了解ください。

 

本書の表記、表現方法について

 

A.年度表示は以下の方法に統一しました。

  例 「西暦644年皇極3年」 → 「644皇極3年」

B.名前は現代で使用されるその年代時の通称で表記しました。

  例 「天武天皇」 → 即位前は「大海人皇子」即位後は「天武天皇」

  しかし、一部うまく表現できず、「天武天皇」で通したところもあります。

C.参考文献は最後にまとめました。「8.参考文献、リンク」を参照してください

D.年齢の数え方は、当時のしきたりに従い「数え年」としています。

  つまり、生まれた年が1歳で、翌年正月が2歳です。

E.その人物年齢はできるだけ何歳と確定的表現としました。

  例えば、34,5歳というぼかした表現はあえて避けました。

  それは、曖昧さが後で矛盾を広げて自己撞着に陥るのを恐れたからです。

  間違いとわかれば、その都度、修正していきます。

F.できるだけ年齢根拠ははっきり残すように心掛けたつもりです。

  特に注意書きがないものは日本書紀もしくは続日本紀の記載事項です。

G.万葉集の歌番号の表示方法を次のように統一しました。

  例えば、巻第二の105番目の歌はA105としています。

 

本書の守るべきスタンス

 

あくまで天武天皇の時代の人々の年齢研究に終始しました。

その基本を「日本書紀」「続日本紀」「万葉集」に置き、その記載内容を忠実に事実として捉えるよう心掛けました。

しかし、本書の結論がその日本書紀の記述を裏切る結果になりますが、史実を忠実に追い求めた結果と考えています。

史書に関しては原書にこだわり続けました。原書の漢文は手に余る者ですが、日本の長い研究の積み重ねは書き下し文といえる文語訳、読み方さらに口語訳と積み上がっております。得てして文語訳だけでは原文の主旨を見誤ると考えたからです。

厳密には肉質からの活字化や写筆経歴などの過程も注視する必要も感じたこともありますが、微力な個人がそこまで追求するにはあまりに時間が足りないことを痛感する次第です。

そこはすぐれた研究成果としてそのまま転用して、紹介するに留めました。

私も、最近の学術研究に見える王朝分立の論理や九州王朝説、本節の話題でもある天武天皇年上説など、耳を傾けるものの一人です。しかし、ここでの展開は地味で頑固で保守的なものです。

 

1.平均寿命−このころ、人はいくつまで生きられたのか

 

日本書紀に、692持統6年3月17日、志摩の80歳以上の男女に稲50束を賜う、という記事があります。これを現代に置き換えれば、100歳以上のお祝い、と解釈できると思います。つまり、この頃、めずらしい長寿だったのが80歳の祝いです。

厚生白書(昭和61年度版)によれば次のように近年までを表現しています。「我が国の平均寿命をみても、明治・大正時代までは40歳代にすぎず、男女とも50歳を超えたのは、昭和22年の生命表上においてが初めてである。しかし、その後、大幅な延びをみせ、35年には女性が、46年には男性が「古稀」の70歳を超え、さらに、59年には女性は80歳を超えている。昭和60年簡易生命表では、男性は74.84歳(59年に比べ0.30歳の延び)、女性は80.46歳(同0.28歳の延び)と平均寿命は着実に上昇しており、今や我が国の平均寿命は世界の最高水準にある。」

このように、古代人の寿命は常識的にはさらに40歳以下と考えられます。

 

鬼頭宏氏は「八世紀の戸籍断簡の中から比較的信頼度の高い美濃国(702年)について年齢階層別人口構成を調べてみると、年少人口(16歳未満)41.6%、青壮年人口(16〜60歳)55.6%、老年人口(61歳以上)2.9%である(男女こみ合計2232人)。この数値だけ見れば、八世紀の人口構成は20世紀後半の発展途上国の水準に似ている。しかし乳幼児の脱漏が大きかったとすると、出生時平均余命は20歳を超えたとは考えられない。」と書かれています。

但し、出生時平均余命とは平均寿命のことですが、幼児の死亡率の高さを考慮すべきです。本書の問題とする対象者は、一般民ではなく、天皇家を中心とした裕福な階層人の分析なので、栄養も行き届き、もう少しは長生きしているようです。

 

西野凡夫著「新説日本古代史」で次のようにいっています。「古代人は20歳前後で結婚し、40歳代で死んだ。希に70歳代まで生きた人もいたが、70歳を古稀というように、非常に稀なことであり、私の古代戸籍の調査によると70歳代の生存者は全人口の1パーセント未満である。」

どういう資料に基づくものなのか、浅学な私にはわかりませんが、卓見かと推察します。

私なりの簡単な算術検証で恐縮ですが、日本書紀に「持統4年4月7日、京と幾内の耆老、耆女5031人に、それぞれ稲20束ずつを賜った。」という記事があります。岩波版日本書紀注には養老戸令では「六十六為耆」とあるので66歳以上の男女とあります。そこで鬼頭宏氏の資料によると奈良時代、幾内の人口は457.3千人ですから5031人66歳以上の幾内人口比率は1.1パーセントとなります。

 

つまり、本書では70歳を超える人物の記述を一様に疑っています。正式に無罪放免させていただいた方の一人に推古天皇の75歳がおられます。73歳説もありますがことの白黒は別に譲ります。天武天皇の関係子女のなかでも、70歳を超えてしまうと思われる方々がまだ2,3名おられます。すべての分析まで至っていませんが、もう少し、研究を進めてから、本書で追加していくつもりです。

例えば、額田王 80歳をこえてまで生きたと言われています。考証は「4.妻子の年齢」に譲ります。また、穀媛娘(かじひめ)の娘に託基皇女がいます。しかし、別に紹介記事を作成しますが、当耆皇女とも書かれるところから長く生きた女性であることがわかります。

 

本稿の冒頭の表について

左の棒グラフは「日本古代氏族人名辞典」平野、坂本監修 吉川弘文館に掲載された年齢の知れる392名から僧侶を除いた312名(うち女性50名)の死亡年齢分布を示します。平均没年822年の古代有名人の死亡年齢分布といえます。平均59歳(死亡ピーク年齢は61〜65歳)となり予想よりかなり高い年齢結果でした。実際にはかなり高年齢まで生きていたことがわかります。しかし、現代もそうですが、名前を残す官僚は長生きするものが多いことも事実です。結果には必ずしも満足していませんが本研究結果の一つとして掲げておきます。なお、僧侶をあえて対象からはずしたのは僧侶の死亡年齢の平均が72歳と一般とかけ離れた分布を示し、正規分布曲線を作成できませんでした。このころの僧侶がそんなに長生きしたことに検めて驚愕するとともに正しい数字との判断を保留させていただきました。

右の棒グラフはインターネット情報による横浜市の平成3年から5年までの死亡原因別年齢分布データの総計を利用させていただきました。男性の分布曲線です。別に横浜市に対する意味はありません。現代を表す指標をたまたま探し当てた数字にすぎません。平均71歳(死亡ピーク年齢は76〜80歳)で亡くなる結果です。これも女性を対象から外した訳は男性とはかなり異なった分布曲線を有するからです。

これら2表は死亡年齢分布図であって生きている人を対象とした人口年齢分布ではないことだけは注意が必要です。

 

2.文献に見える結婚年齢、出産年齢、夫婦の年齢格差

 

女性の第一子出産適齢年齢

本書では、貴族女性の平均的出産年齢を17歳から39歳までの間として算出しています。平安の安定期、15歳で子を産む記録もみられるが、天武天皇のこの時代、出産経緯が、年のわかっている女性の出産記録から、女性の第一子出産適齢期を20歳としました。

 

婚姻男女間の年齢差

男女同一身分間では同年齢の伴侶が多いようです。一方、身分の高い男性は、一方で若い女性を夫人として囲い、子供をなしていることは多々見られることです。また、男性の初婚の対象女性は同年齢か少し年上の女性であることがしばしば見られます。

 

例えば、年齢の知られた関係では、草壁皇子と阿閉皇女、聖武天皇と光明皇后がいます。

 

     天武天皇

       ――草壁皇子(662−689)

     菟野皇女  ――氷高皇女 (680 −748)

           ――軽皇女  (683 −703)

     天智天皇  ├――吉備内親王(685?―729)

       ├――阿閇皇女(661−721)

     姪 娘

 

  名前    年齢     伴侶    初出産年齢   年齢差

  草壁皇子  19歳    阿閇皇女  20歳     1歳

  聖武天皇  18歳    光明皇后  18歳     0歳

 

3.成人年齢−初授位任官時から年齢を推測する

 

まだ、若いときの初任官はその人の能力に関係なく、身分が同じであれば、同一年齢で受けられたと考えられます。

岩波書店版「続日本紀 補注」によれば、養老令(717年養老元年)の選叙令に、

34凡授位者、皆限年廿五以上唯以蔭出身者、皆限年廿一以上

35凡陰皇親者、親王子従四位下、諸王子従五位下。其五世王者従五位下。子降一階、庶子又降一階。唯別勅処分、不拘此令。

38凡五位以上子出身者、一位嫡子従五位下、庶子正六位上。二位嫡子正六位下、庶子及三位嫡子従七位上、庶子従七位下。〜 

また、岩波書店版「日本書紀 補注」によれば、令集解所引の古記に、大宝令(701年大宝元年)も同文と考えられるとあります。つまり、この「陰位制」によって、父が五位以上、祖父が三位以上にある子は、実績に関係なく、21歳以上になると位を授けられる。

この目的は、高い位階を有する官人の子や孫を優遇することにあり、古来の有力氏族の地位・勢力を擁護することだ、といわれています。

 

資料や文献など、すでに主張されているものですが、天武天皇の皇子たちを例にこの陰位制を示します

忍壁親王の長男、春日王の年齢は、723養老7年に無位から従4位下を授かる。

高市皇子の長男、長屋王の年齢は、704慶雲元年に無位から正4位を授かる

舎人親王は、695持統9年に、無位から浄広弐位を授かる。

新田部皇子は、700文武4年に、無位から浄広弐位を授かる。

 

この年に、皆21歳を迎えたと推測されます。

本書でもこのように拡大解釈し、天武天皇にまでさかのぼって、陰位制の解釈を利用し年齢推定に役立てました。683年天武12年2月 天武天皇の大津皇子が始めて朝政を聴く年がやはり20歳です。斉明4年11月にも、有間皇子19歳、「未及成人」とある、ところからして21歳の成人は天武天皇の時代にも適用できるようです。

 

天武天皇には十人の皇子がいます。最初に冠位を得た年代は次のとおりです。

 

 草壁皇子  685天武14年正月 浄広一位 爵位の名を改めた

 大津皇子  685天武14年1月 浄大二位    〃

 高市皇子  685天武14年1月 浄広二位    〃

 忍壁皇子  685天武14年1月 浄大三位    〃

(川嶋皇子  685天武14年1月 浄大三位)       天智天皇皇子

 穂積皇子  691持統 5年1月 封五百戸、時に浄広二位

 長皇子   693持統 7年   浄広二位

 弓削皇子  693持統 7年   浄広二位

 舎人皇子  695持統 9年1月 浄広二位

 新田部皇子 700文武 4年   浄広二位

 

4.収入を得る年齢−封戸を賜う

 

収入を得る年齢基準もあったようです。

701大宝元年8月 皇族で13歳に達したものは、任官の有無に関わらず、みな録を支給する、とあります。

青木和夫氏は「封戸を賜う」とは、父天皇から経済的に独立することを意味するといいます。また、のちの令制でも年十三以上になると、親王はいままでの乳母の代わりに時服料を賜うことになっており、当時の宮廷では十三歳から十五歳くらいまでの間に独立するのが慣例であった、と述べられています。本書でも、これを天武天皇以降の女性たちにも採用しました。

施基皇子  朱鳥1年   封ニ百戸

そのほかの事例です。これは、皇族には当てはまりませんが、

723養老7年11月2日、天下の諸国の奴婢で、12歳以上の者に口分田を授けさせた。

懐風藻によれば、文武天皇は15歳で東宮坊を設立しています。

続日本紀によれば、聖武天皇は14歳で元服しているのです。

 

12歳で大人扱いして様子が見て取れます。判断力のある人間としての独立は21歳からだったようですが、11〜13歳の子供たちを平然と指名して社会的行為が執り行われました。当然、周囲の協力があったことでしょう。氏として家として、そのときどきの古代日本人の慣習として、その子をもり立て、ことが挙行されたのです。個人主義の上にたつ現代人の目からみると、とても任せることのできないと思える非常に若い少年、少女たちの行動をこれから数多く目にしていくはずです。

 

5.年齢序列−天武天皇の近親者たちとの相対年齢比較から年齢推定を絞り込む。

 

日本書紀の記載順に、その皇子たちの年齢順を感じさせる記述を多く見かけます。親の身分が多くかかわることがらではありますが、そのことに注意しながら、皇子たちの生まれた順が推定でき、そのなかの年齢がわかっているものから、順に年齢を予測することが可能です。日本書紀では、

672天武元年6月 「高市皇子・大津皇子」「草壁皇子・忍壁皇子」の記述から、高市皇子が大津皇子より年上、草壁皇子が忍壁皇子より年上した考え方があります。

同様に、679天武8年5月5日条  吉野での諸皇子の誓盟を記した皇子たちの表記順は、「草壁皇子尊、大津皇子、高市皇子、河嶋皇子、忍壁皇子、芝基皇子」でした。このなかで、河嶋皇子、芝基皇子は天智皇子ですから除外します。その結果、草壁皇子、大津皇子は別格として、高市皇子以下は年齢順と言われています。

また、685天武14年正月条の叙位記事の中で、「草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川嶋皇子・忍壁皇子」とあることも年齢順といわれます。

こうしたことは、親、兄妹、従兄弟、との相対年齢からもある程度の予測が可能です。

 

6・皇后、夫人序列、子女の序列

 

日本書紀で知られる天武天皇の妻たち10名、子供たち17名(皇子10名、皇女名)、この表記は重要です。天武天皇の最も近い存在として、天武天皇の年齢を探る重要な手がかりになります。皇子らの研究を無視することは許されません。一般に知れている年齢を含め、以下に一覧にしました。また、ここでは長男長女の年齢に注目します。本書最後の考察では末っ子の正体を探ります。天武天皇の年齢を形作る基本と考えるからです。男として、天武天皇は、何歳から何歳まで子作りをしたのか。俗なことがらですが、答えが身近にある気がします。

 

位   后妃名    后妃の父   皇子名   生年   没年    年齢

皇后  菟野皇女   天智天皇   草壁皇子  662紀 689紀  28

先妃   大田皇女   天智天皇   大伯皇女  661紀 701続紀 41

                  大津皇子  663紀 686紀  24紀

次妃  大江皇女   天智天皇   長皇子        725続記

                  弓削皇子       699続記

次妃  新田部皇女  天智天皇   舎人皇子  676  735続紀 60補任

夫人  氷上娘    中臣鎌足   但馬皇女       708紀

次夫人 五百重娘   中臣鎌足   新田部皇子      735続紀

次夫人 太蕤郎女   蘇我赤兄   穂積皇子       725続紀

                  紀皇女

                  田形皇女       728続紀

初娶  額田王    鏡王     十市皇女       678紀

次納   尼子娘    胸形君徳前  高市皇子  654  696紀  43略記

次   穀媛娘    宍人臣大麻呂 忍壁皇子       705紀

                  磯城皇子

                  泊瀬部皇女      741続紀

                  託基皇女       751続紀

 

7.地方生まれの皇子たち

 

当時の皇子らの名前は、彼らが生まれた土地の名やその養育に携わった氏族の名から付けられたといいます。

特に、大伯皇女、阿閇皇女、草壁皇子、大津皇子は、その誕生地名が採用されていることは周知のとおりです。逆に、天智天皇、天武天皇や斉明天皇の移動の記録により、足跡の地名と皇子らの名前が一致したとき、その土地の訪問の年が生年となりえないかと考えました。

 

大伯皇女

和名抄 備前国邑久郡(おほくぐん)

岩波書店版注によれば小豆島の北方の海

吉田東吾によれば、大伯海の泊所は牛窓、牛窓は邑久浦とも新羅うらとも呼ぶ地。

日本書紀の記述により、天智天皇の娘、大田皇女が、天武天皇の子を大伯の海の上で、661斉明7年に出産したことは有名な話です。

 

大津皇子

その2年後、大田皇女は、大津皇子を九州で出産しました。大津とは、娜の大津(福岡市博多港)を出生地名に由来するといわれています。この663天武2年は、朝鮮半島の白村江で激戦となった年です。

 

草壁皇子

662天智元年、大田皇女の同母妹、鵜野皇女も、大津宮(九州筑紫の娜大津)(なのおおつ)で出産したと記されています。筑前国嘉麻郡、筑後国山門郡に草壁郷が存在します。そこで生れたと言われています。九州に多く分布する日下部と関連があるのではないかと云われています。

 

阿閇皇女(あべ)

播磨国加古郡住吉郷

同様に、続日本紀により、年齢の知れる阿閇皇女も、逆算すると661斉明7年この頃、船で通過した播磨の地、阿閉で生まれたと考えるのが自然です。阿閇皇女は天智天皇と姪娘の娘で、後に、草壁皇子と結ばれ、3人の子を残します。

吉田東伍氏の「増補大日本地名辞典」によれば、「今本庄、古宮、古田等を合同して阿閇村と云う。是は古風土記に『「大帯日子天皇、知印南別嬢在、於南眦都島(ナヒソ)、即欲度到於阿閇津、供進御食、故号阿閇村、又捕江魚為御坏物、故号御坏江』とあるを典拠とす。中世に阿閇村と称したるは別府村をも総べたり

風土記の阿閇津の江と云ふは、別府の細江を指すごとし。今も小江湾あり。

補足:阿閇津、加古郡、播磨風土記。阿閇村復興す。本庄古宮の辺なり。」

播磨風土記に、景行天皇が阿閉津で食事をされた記事が書かれています。

 

こうした記録により、類推すると、特に、十市、高市、刑部、那珂に注目してみる価値はあります。すなわち、十市皇女、高市皇子、忍壁皇子、長皇子のことです。詳細は別紙に譲ります。

 

まとめ

 

不明年齢の人物の年齢推定には、以下のような数値を仮置きし、根拠を絞り込み精度を上げていきました。

 

1.この頃の第一子出産の平均年齢を20歳とした。

2.同一身分の男女の婚礼は、例外次項が見あたらない限り、同一年齢同士の男女と位置づけた。

3.女性の常識的な出産可能範囲は17歳から39歳までとした。

  また、初婚時の出産年齢限度は30歳までとした。

4.一般的平均寿命は40歳代とし、特に60歳を超える高年齢者に対しては、一様にそれなりの再分析を試みる。

5.「成人」といわれる一般社会人年齢を21歳とする。

  但し、20歳になる皇子に対し、天武天皇は仕事を与え、持統天皇は官位を与えている。

6.皇子、皇女への初封戸を受ける年は13歳とする。

7.同母兄弟、姉妹の年齢差は平均2歳差の兄弟として計算した。

8.皇子たちの名前については一様に地域的な要素分析を試みた。

9.Aより若いがBより年寄りと、様々な関係から、年齢順位を策定した。

  そのなかで年齢の知れる人物を核として、周囲の年齢を推理した。

  親兄妹、従兄弟の年齢上下関係から、過去の文献による年齢近似値を設定基礎に置き、その矛盾点を分析、修正していった。

10.天皇位にのぼる適任年齢は30歳以上とする。遠山美都男「蘇我四代」による。

 

ここで、一つ提案をしておきたいのです。それは、若い人たちへの社会の関わり方です。当時の大人たちは、十代前半の子供に対し、早くも社会の一員として名乗りを上げさせています。そして、その子供をバックアップする社会システムが、この時代には出来上がっていたと考えられることです。13歳で皇子への収入が保証される例が示すように、まだ非常に若い皇子に対して名指しで収入が保証されるのです。周囲の応援があったにしろ、本人も早い段階から自覚し、成長していったことでしょう。現代の個人主義に生きる我々には、そんな若いときにと不安にさせることが、当たり前のように若い人たちを社会の表舞台に登らせていいきます。当時の寿命が40歳代だからこそ若いときから鍛えられたのです。一方、結婚、出産は、現代より少しは早いものの、20歳前後と肉体的には健全なものです。20歳で乙巳の乱を起こした天智天皇、22歳で政治に参加した大津皇子、24歳で太政大臣になった大友皇子など、まさに「養老令」が示す21歳は、現代人とは違って本当の成人だったのです。

 

 

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