天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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天武天皇の出自 

First update 2009/02/08 Last update 2011/01/04

 

ここまで、天武天皇の年齢が若いと力説してきました。あくまで日本書紀の記述を一番に尊重し、記述せず「隠す」ことはあっても、「うそ」の記述はないという前提に基づいて述べてきました。ここでは、こうした論功の末に芽生えた疑問を通して、少し日本書紀の枠を超えて述べることになります。

まず、天武天皇の誕生が、舒明天皇死後になることの確認を通して、天武天皇の出自を次の順に従い検討していきます。

 

1. 天武天皇の末子、新田部皇子

2. もう一羽のふくろう伝説

3. 中臣不比等の私生活

4. 出自、高向玄理再考

5. 貞慧の年齢

6. 漢皇子と天智天皇−天智と天武の父母は同じか

7. 懐風藻とは何か

8. 淡海真人三船の正体

 

1.天武天皇の末子、新田部皇子

 

天武天皇の末子は新田部皇子です。皇子の母は中臣鎌足の娘、五百重娘です。天武天皇晩年の子ゆえ、この年齢研究とは無縁に思える新田部皇子ですが、以下に述べるように意外に重要な人物なのです。

 

新田部皇子 681天武10年生(仮)〜735天平7年9月30日没 55歳(仮)

父  天武天皇

母  五百重娘(いおえのいらつめ) 生没不明

        藤原鎌足の娘。天武天皇死後、中臣不比等に嫁ぐ。

義弟 藤原麻呂 695持統9年生〜737天平9年7月13日没 49歳(尊卑分脈)

        父は藤原不比等、母は五百重娘

義姉 但馬皇女 708和銅1年没。母は五百重娘の同母姉氷上娘。

氷上娘は682天武11年1月18日宮中で亡くなる。

 

以下、藤原氏の生没年は尊卑分脈に基づくものです。

 

 藤原鎌足―――氷上娘(氷上大刀自)

         ├―――但馬皇女

        天武天皇

         ├―――新田部皇子(681天武10年生〜735天平7年没)

 藤原鎌足―――五百重娘(大原大刀自)

         ├―――麻呂   (695持統 9年生−737没)第4

 藤原鎌足―――藤原不比等

         ├―――武智麿  (680天武 9年生〜737没)第1子

         ―――房前   (681天武10年生〜737没)第2子

         ├―――宇合   (694持統 8年生〜737没)第3子

蘇我武羅自古――石川娼子

 

母となる五百重娘は天武天皇の夫人として新田部皇子を生みましたが、天武天皇が崩御してのち異母兄の藤原不比等と関係し、藤原四家の第四子、藤原麻呂を695持統9年に出産しています。このことは「尊卑分脈」に記載されていることです。

 

「夫人 五百重娘 天武天皇女御 後舎兄 淡海公 密通 生 参議麿卿」

 

原注 淡海公=中臣朝臣不比等、参議麿卿=中臣朝臣麻呂

 

「密通」という言葉は穏やかではありません。夫人五百重娘の年齢は20歳で新田部皇子を生んだとすると、藤原麻呂を34歳で生んだことになります。異母兄、藤原不比等とは4つ違いです。14年目の子ということですが、藤原不比等の子作りは、妻石川娼子に武智麿と房前の二人を生ませたのち、やはり14年のブランクを経て、三男、宇合を生ませています。その一年後に五百重娘と関係し、藤原麿が四男として出まれます。上記の年齢関連表をみてわかるとおり、五百重娘の生んだ二人の息子は、藤原不比等の子の年齢と緊密に関連しています。

 

武智麿、房前、宇合は同じ母、蘇我連子の娘娼子の子ですが、藤原家伝書は武智麿伝で母が年若くして夭折したとあることから、宇合も五百重娘の子という説もあります。いずれにしろ、未亡人は他夫に嫁ぐのが当たり前だったこの頃、「密通」と書かれるのはこのこと以外によほどのことがあったと考えられないでしょうか。不比等が天武天皇在位中に五百重娘と関係していたとは考えられないでしょうか。上記「尊卑分脈」のこの一節を次のように読み替えてみました。

 

「義兄に当たる淡海公こと藤原不比等と密通していた天武天皇の夫人五百重娘が藤原麻呂を生んだ。」

密通して麻呂を生んだのではなく、天武天皇の生前から密通していた五百重娘夫人がこのほど中臣不比等の子麻呂を産んだ、と解釈しました。

つまり、藤原麿と同様、新田部皇子も、天武天皇の子ではなく、藤原不比等の子供ではないかと疑問をもったのです。

 

万葉集に天武天皇と夫人五百重娘の歌が残されています。

明日香清御原宮御宇天皇代

天渟中原瀛真人天皇謚曰天武天皇

 

天皇賜藤原夫人御歌一首

天皇、藤原夫人に賜う御歌一首

@103

吾里尓 大雪落有 大原乃 古尓之郷尓 落巻者後

わがさとに おおゆきふれり おおはらの ふりにしさとに ふらまくはのち

我が里に 大雪降れり 大原の 古りにし里に 降らまくは後

我が里に大雪が降った。そなたの住む古ぼけた里に降るのはずっとあとだろう

 

藤原夫人奉和歌一首

藤原夫人、こたえ奉る歌一首

@104

吾岡之 於可美尓言而 令落 雪之摧之 彼所尓塵家武

わがおかの おかみにいいて ふらしめし ゆきのくだけし そこにちりけん

我が岡の おかみに言いて 降らしめし 雪のくだけし そこに散りけむ

我が岡の神様にお願いして降らせて頂いたのです。

      だから、その雪の砕けた欠片がそちらに降ったのでしょう

 

天武天皇と五百重娘との愛情を吐露した歌として知られています。この歌で重要なことは新田部皇子が生まれる頃、二人が同居していないとわかることです。藤原夫人こと五百重娘は大原の里(高市郡明日香村小原)の藤原邸に住んでいるのです。大原大刀自といわれる所以です。当然、不比等も出入り自由のはずです。またこの歌から見えてくる五百重娘は年差のある夫、天武天皇の歌に負けていません。あなたの言っていることは違いますと歌を返しています。大雪の降った天武6年の歌とすると、新田部皇子を産む4年前になります。新妻といえる若い年齢のはずです。

 

藤原家伝武智麻呂伝によると、中臣不比等の長男、武智麻呂は680天武9年4月に大原の家で産まれているのです。翌年、上記のとおり同じ大原で五百重娘が新田部皇子を出産します。さらに同じ年、不比等の夫人、娼子は次男、房前を年子として出産します。たぶん同じ大原の家と思われます。その中心に中臣不比等がいたはずです。

 

2.もう一羽のフクロウ伝説

 

日本書紀では二度に渡り、あのフクロウの話が出てきます。

 

「644皇極3年、フクロウが豊浦大臣(蘇我蝦夷)の大津(泉大津)の家の倉で子を産んだ。」

「681天武10年8月16日、伊勢国が白いフクロウを天武天皇に貢いだ。」

 

「まとめ」で述べたように、フクロウは不義の子が産まれた抽象表現です。皇極3年のフクロウは天武天皇の可能性があります。ここでは、もう一羽の天武10年のフクロウを検証します。

新田部皇子が生まれた681天武10年5月11日に、天武天皇は詔して、宮廷の女官達への媚びへつらいに行き過ぎがあると注意しています。日本書紀の本意は賄賂が宮廷女官にまで及んでいることへの警告にありますが、私は風紀が乱れていると注意したと解釈しました。

宮中にいた姉の氷上娘は新田部皇子が生まれた翌年に亡くなります。涙にくれた歌が万葉集に残っています。妹の不始末に対する周囲からのプレッシャーに負けたのかもしれません。

 

天武天皇のこの詔は、天皇自身も薄々気が付いていた気配を感じます。それゆえでしょうか。天武天皇時代には、あの藤原鎌足の息子であるはずの不比等は官位に恵まれていません。それどころかその消息さえはっきりしません。生活はかなり苦しかったようです。左遷、さらには命の危険さえも意識していたのではないでしょうか。中臣不比等は決して順風満帆なエリート出世した御曹司ではなかったことがわかります。

 

少し時代は下がりますが、源氏物語などにはこうした事例が実に多いことを物語っています。例えば、光源氏が父天皇の女御と密通して子が産まれてしまいます。天皇の尚侍・源氏の兄である天皇の女官であり寵姫とも関係を持つが露見してしまい、須磨に自らひきこもります。(追記:この部分の間違いを読者からご指摘を受けました。謝意と共に、修正しました。H30/5/8

 

【萬葉集】

夏雜歌

藤原夫人歌一首 明日香清御原宮御宇天皇之夫人也

字曰大原大刀自 即新田部皇子之母也

G1465

霍公鳥 痛莫鳴 汝音乎 五月玉尓 相貫左右二

ほととぎす いたくななきそ ながこえを さつきのたまに あえぬくまでに

ほととぎす いたくな鳴きそ なが声を 五月の玉に あえぬくまでに

ほととぎすそんなに鳴かないでおくれ お前の声がくす玉に合わせ貫くほどに

 

5月までほととぎすの声を残してほしいと、その声を惜しんだ風流歌と言われている歌です。あえて、違った解釈をしてみました。ホトトギスにはいろいろな解釈がありますが、「ホトトギス」の原語「霍公鳥」は古代朝鮮語では反逆の意味を持つそうです。また「ホトトギス」は他の鳥に自分の卵を任せ、育てさせる習性があることがこの頃から知られています。五月玉はくす玉のこと。くす玉は左右に割れて大願成就する。又、玉は女性の膣。「あえぬくまでに」の原文は「相貫左右二」です。

「反逆だと、みんなでわめかないで。大きなお腹の子に聞こえてしまう」こんな解釈ではいけないのでしょうか。

 

新田部皇子が天武天皇の子ではない状況証拠をまとめると以下のとおりです。

1.天武10年のフクロウ伝説は不義の子がうまれたと伝える。

2.天武10年、宮廷女官らへの風紀を正す詔が出される。

3.大宝令の例から新田部皇子も天武10年の生まれと考えられる。

4.新田部皇子は天武天皇崩御の5年前に生まれた末子である。

  舎人皇子以降、天武天皇には子供は授からなかった。5年後の急な出産である。

5.藤原不比等の四男の藤原麿の母も五百重娘である。

6.藤原麿を「尊卑分脈」に密通してできた子と書かれる。

7.五百重娘は万葉歌の詠い口から気の強い女性と思われる。

8.五百重娘は大原に住まい、姉氷上娘のように天武天皇と一緒に住んでいない。

9.藤原不比等は五百重娘とは異母兄であり、邸宅に出入りでき、五百重娘と親しい。

10.藤原不比等の子供をつくるタイミングが五百重娘の出産のタイミングと合う。

11.その後、藤原四兄弟の子孫のうち北家、南家、式家は繁栄するが、

  京家であるこの麿の子孫だけは早くに滅んだと神皇正統記にある。

 

3.中臣不比等の年齢

658斉明4年生〜720年養老4年没 63歳 懐風藻  本稿主張

659斉明5年生〜720年養老4年没 62歳 尊卑分脈、公卿補任、帝王編年記

 

父  中臣鎌足

母  車持君与志古娘 同族山科の田辺史に養われ「ふひと」といわれた

兄弟 長男貞慧あと男子が生まれないため、再従父弟(またいとこ)、意味麻呂(〜711)を猶子として迎え家業を相続させたとある。

 

年齢では62,63歳説の二通りがありますが、ここでは63歳とします。それは不比等が生まれた年の干支に注目しました。斉明4年干支は戊午、斉明5年は己未です。父、鎌足がそうでしたが、自分の君主に対し、自分の年齢を偽ってまでして干支を合わせようとするきらいがあるからです。その不比等の対象が文武天皇で、その生年の干支が683天武12年癸未です。同じ未年に不比等は年齢を1歳ごまかしたのです。その結果後世の資料ではすべて斉明5年己未の生まれとなったと考えました。真実は古い資料としての斉明4年が正しいのでしょう。

ところで若い彼の経歴ですが、

658斉明 4年 不比等生まれる。             1歳

669天智 8年 父鎌足と死別。             12歳

672天武 1年 壬申の乱に名前なし           15歳

680天武 9年 長男武智麻呂誕生            23歳

686朱鳥 1年 天武天皇崩御              29歳

689持統 3年 判事に任ぜられる。正史に初登場     32歳

695持統 9年 元天武夫人五百重娘に麻呂を産ませる。  38歳

697持統11年 長女宮子を入内させる。         40歳

697文武 1年 文武天皇即位

この経歴からも中臣不比等は天武天皇から嫌われていたと考えるのが普通だと思います。天武天皇がいるかぎり彼は日の目を見ることができませんでした。

 

不比等の妻     父        子供

娼子        右大臣蘇我臣連子  武智麿、房前、宇合

賀茂朝臣比賣    賀茂朝臣蝦夷    宮子

女(名不詳)              長娥子

五百重娘      藤原鎌足      麻呂

          (初め天武天皇夫人、新田部皇子を産む)

県犬養橘宿禰三千代           光明子、多比能

          (初め三野王に嫁し、諸兄、佐為、牟漏女王を産む)

 

不比等の子供

武智麿 680天武 9年生〜737天平  9年没 58歳 南家

房前  681天武10年生〜737天平  9年没 57歳 北家

宮子  683天武12年〜754天平勝宝6年没 72 文武天皇夫人

    生まれは夫文武天皇と同等と仮定した。

長娥子 684天武13年?〜 ?             長屋王妾

    生まれは夫長屋王と同等と仮定した。

宇合  694持統 8年生〜737天平  9年没 44歳 式家

麻呂  695持統 9年生〜737天平  9年没 43歳 京家

女   696持統10年?〜 ?     大伴宿禰古慈斐(こしび)室 

    生まれは夫大伴宿禰古慈斐と同等と仮定した。

光明子 701大宝 1年生〜760天平宝子4年没 60歳 聖武天皇皇后

多比能 702大宝 2年?〜 ?             左大臣橘諸兄室

    生まれは夫橘諸兄と同等と仮定した。

 

600   8888888888999999999900000000

年     0123456789012345678901234567

中臣不比等 23―――――30――――――――40――――――――――

娼子の子

藤原武智麿 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

藤原房前   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――

藤原宇合                @ABCDEFGHIJKLM

五百重娘の子

新田部皇子  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――

藤原麿                  @ABCDEFGHIJKL

県犬養橘宿禰三千代の子

橘諸兄       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――

光明子                        @ABCDEF

その他

       ?ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――

長娥子       ?ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――

大伴古慈斐室                ?ABCDEFGHIJK

多比能                         ABCDE

 

中臣不比等の子作り期間ははっきり2つに分かれます。680〜83年、と94年以降です。

つまり690年前後10年間、彼は僧侶のようです。それは突然消息が途切れた上記黄色の時代の7年間と一致しているのです。彼の活躍は天武天皇が崩御された3年後689持統3年 判事に任ぜられることで正史に初登場するときから始まるのです。ときに中臣不比等32歳。

 

さらに、中臣不比等の夫人たちはみな過去がある女性かあるいはその素性がはっきりしない女性です。

最初の正式の妻、石川娼子はその名のとおり蘇我家の人であり、父は蘇我連子(むらじこ)、扶桑略記によれば54歳で664年に亡くなっています。兄は安麻呂といい、天武天皇が天智天皇の病の床に上がる際、気をつけなさい、と耳打ちした天智朝に席を置いていたものですが、他に一切記録がないところから天智、天武の両朝でも身の置き所のなかった人と位置づけられています。そんな彼女にも二人の息子を得た幸せな時期はありました。しかし、「武智麿伝」にあるように突然苦しい貧乏生活が彼女たちを襲います。やっとすこし安定した生活を得、三男宇合を産みますがすぐに亡くなったようです。続日本紀に「後妻」県犬養三千代が不比等の子光明子を産んだとあるからです。次男房前と三男宇合に13歳の年差があることから宇合は娼子の子ではないと簡単に切り捨てる説がありますが、尊卑分脈にあるとおり、三人の男子は娼子の子となります。

 

問題の藤原家伝書の武智麻呂伝ですがこうあります。

「幼くして其の母を喪い、血の泣(なみだなが)して摧(くだ)け残(そこな)はれ、漿(こみず)も口に入らずして、幾(ほどほど)に性(たましひ)を滅さむとしき。」

幼くして母を失い、血の涙を流し、そこに残された。重湯も口に入らず、幾たびも命の危険にさらされた。

この文面の解釈から、ひとつには武智麻呂は母が乳飲み子であった赤子の頃亡くなったという説がありますが、ここは母が死んだことがわかる子供の頃に亡くなったと考えたい。さらに、中臣不比等の長男は幼い頃、米もろくに食えぬ苦しい生活をしていたと解釈できます。不比等は天武9年に武智麻呂が生まれた翌年、突然雲隠れしたのです。素早い行動力と判断力ですが、残された者はたまったものではなかったでしょう。

 

五百重娘は上記で述べたとおりです。中臣鎌足の娘として天武天皇に迎えられますが、姉、氷上娘と違い幼かったことから、大原に住み続けていたようです。天皇が大原に通ったものと思われます。藤原宮ができる前です。天武天皇の宮がそれほどの規模を備えていたとは思えません。またその頃の常識でもあった通い婚です。天武天皇の生前から中臣不比等と関係をもち、天武天皇の死後、公然と五百重娘を妾としたものです。もしかすると新田部皇子も天武天皇の子ではなく、中臣不比等の子ではないかと考えられます。姉、氷上娘が亡くなるとその葬儀は盛大でしたが、五百重娘の死はいつどこで亡くなったものかも不明です。国書、日本書紀および続日本紀はこの二人の処遇をはっきり差別しているのです。

 

県犬養三千代はその素性が今ひとつわかりません。天武天皇の女性を含めた開いた人事採用により文武天皇の乳母として宮中に上がりますが、元来は美努王の妻として3人の子持ちです。その元夫の美努王を九州の太宰府に追いやり自分の妻にし、光明子(後の聖武天皇皇后)を産ませています。それにしても最初に産んだ橘諸兄と光明子とは17歳も年齢差があることは、単に不比等が中年三千代の色香に迷ったものとも思えません。この二人の権勢欲によりぴたりと合い結ばれたものと思われます。 

 

賀茂朝臣比売(ひめ)は祭礼を司る家系の女と言われ、宮子(後に文武天皇夫人)を産ませています。

橘宿禰諸兄の妻になる長娥子を産んだ母は名前さえわかりません。

宮子や長娥子の母とは、不比等が放浪の地で知り合った女性と考えられます。まさに源氏物語の須磨の一こまと言えないでしょうか。

 

中臣不比等は偉大な業績を残しましたが、その私生活には決して安定したものでなかったと容易に想像が可能です。不比等自身にも天智天皇のご落胤、鏡姫王の子などといううわさがありましたが、これも不比等の権勢欲のあらわれと解釈します。取り巻きからおべんちゃらを言われて彼はそれをはっきり否定しなかったものと想像しています。「不比等」という自分自身のネーミングも言わずもがなです。日本人にはめずらしい尊大な人間です。

 

二匹目のフクロウこと新田部皇子の父親は藤原不比等と具体名をあげられますが、一匹目のフクロウ、天武天皇の本当の父親は不明です。

ここで、候補者としてよく掲げられる高向玄理にあらためて注目してみました。

 

 

4.高向漢人玄理 たかむこのやひとげんり

 ?〜654年白雉5年2月?

 

日本書紀に記載される高向玄理周辺の動向は次の通り。

 

608推古16年 9月 遣唐使に学生として選ばれる。

640舒明12年10月 百済、新羅朝貢使とともに帰国。

641舒明13年10月 皇極皇后の夫、舒明天皇崩御

643皇極 2年 9月 皇極天皇の実母、吉備姫王死去。

645皇極 4年 6月 天智天皇による乙巳の変。

645大化 1年 6月 国博士、姓ものちに史とし、高向史玄理となり国政を担う。

646大化 2年 9月 新羅に遣わされ新羅と外交交渉。

647大化 3年    新羅王の子、金春秋を伴って帰国。

649大化 5年 2月 高向玄理と僧日旻とに「八省百官」制度を考えるよう詔。

         3月 左大臣阿倍倉橋麻呂が難波京で没。

         3月 右大臣蘇我倉山田石川麻呂が自殺。

653白雉 4年 6月 日旻、摂津の阿曇寺で没。

654白雉 5年 2月 遣唐使押史として数ヶ月かけ唐に入り、高宗帝に拝謁。

        10月 孝徳天皇、一人失意の中、死去。

?           高向玄理、その大唐の地で死んだという。

 

高向漢人玄理の名前について、「漢人」を彼等自身が自己を中国出身だと主張している点を重視すべきか、韓国語解釈により、「漢」を「安羅」(阿羅、阿耶)と結びつけ、その出自を朝鮮半島に結びつける解釈もある。「日本の古代11」P366

河内国錦部郡高向村(今の大阪府河内長野市高向)の漢人名。

「漢人」とは、朝鮮からの帰化人。中国系と称して、(東)漢氏の配下に属すという。

 

遣唐使の学生や学問僧とは何歳ぐらいだったのでしょう。その手がかりとなるものに中臣鎌足の長男、貞慧の年齢が役立ちます。

 

 

5.貞慧の年齢

643皇極2年生〜665天智4年没 23歳 藤原家伝書など通説に従う。

 

定恵、真人とも書かれ、中臣鎌足の長男。

父 中臣鎌足

母 車持国子君の娘、与志子

 

「多武峰縁起(とうのみねえんぎ」」の記述に基づき、梅原猛は貞慧を孝徳天皇の落しだねとしました。しかし、それを直木孝次郎は「古代日本と朝鮮・中国」で否定された。藤氏家伝書も「貞彗伝」として中臣鎌足の子として位置づけています。日陰の子ではありえません。また、後注のなかで、訂正されているが、遣唐使の参加年齢が、11歳と異常に早いという文章がありますが、当時11歳はむしろ当たり前と考えたい。江戸時代、仙台からのスペイン訪問団の年齢などがそれを物語っています。

 

 

そこで高向玄理の年齢ですが、653白雉4年に唐に旅たった、学僧定恵(鎌足の長男)が11歳と知れています。特別、若すぎる年齢ではありません。1582天正遣欧使節でも13,4歳の少年達が正使としてローマに送られています。高向玄理も608推古16年を11歳と推定してみました。すると、日本に戻ってきた舒明12年、43歳ということになります。いわくつきの誕生秘話の多い年、皇極3年は高向玄理47歳で日本にいたのです。

このときの宝皇女こと天武天皇の母皇極天皇は夫、舒明天皇に先立たれ、また、実母、吉備姫王までを643年皇極2年9月に亡くし、寂しい女王、慣れない政務が重くのしかかり、心のよりどころもままなりません。そのとき現れた、高向玄理は先進国唐から帰ったばかりの新進気鋭のエリートです。高向玄理の年は46歳ですが、亡夫、舒明天皇と同等の年齢です。年差のある夫を持つ経験のある皇極天皇36歳に愛が芽生えたとしても不思議ではありません。

また、その皇極2年頃は、高向臣国押が自分等は天皇の館を警護するものであると答えており、このことからも、高向家のものは宮廷の出入りがしやすかったはずです。

さらに日本書紀の記述順ですが、高向玄理が日本に帰国した記事のすぐ後に、舒明天皇崩御の報が続いて書かれているのも関連があるのではと気になる記録の仕方です。

 

659斉明5年紀伊の温泉で額田王によって歌われたという、648大化4年の思い出とした皇極上皇の歌があります。

【萬葉集】

明日香川原宮御宇天皇代 天豊財重日足姫天皇

額田王歌 未詳

@7

金野乃 美草苅葺 屋杼礼里之 兎道乃宮子能 借五百磯所念

あきののの みくさかりふき やどれし  うぢのみやこの   かりほしおもほゆ

秋の野の み草刈り葺き 宿れりし 宇治のみやこの 仮廬と思ほゆ

秋の野の美草を刈り屋根を葺いて宿った、あの宇治の仮宮の仮廬のことが思われる。

 

「別冊国文学 万葉集事典」神野富一氏は「思い出深い体験への愛惜の情が述べられている」と記述しています。あきらかに愛の歌です。このときも高向玄理は、前年の大化3年に新羅から帰国したばかりで日本にいるのです。皇極上皇は高向玄理とささやかな逢瀬を楽しんだのではないでしょうか。

 

645大化元年、孝徳天皇即位に際して、7名のブレーンが発表されます。

  皇極上皇を皇祖母身尊とする。

  天智天皇こと中大兄皇子を皇太子とする。

  阿倍内麻呂臣(倉梯麻呂)を左大臣、

  蘇我倉山田石川麻呂臣を右大臣、

  中臣鎌足に大錦の官位を授け、内臣とする。

  沙門旻法師(日旻)、及び

  高向史玄理を国博士とする。

日旻法師は高向玄理とともに、中国に渡った同期生であり、632舒明4年に、彼に先立ち帰国しています。

大化の改新は孝徳天皇を中心としたこの8名により運営されたとしてもよい表現です。よく、大化の改新は天智天皇と中臣鎌足でなされたもの、孝徳天皇は傀儡とした意見を耳にしますが、大化の改新はやはりこの8人全員の参加なくしてはあり得なかったと思います。孝徳天皇もこのとき理想に燃えていたはずです。

しかし、その後大化の最後の年から、孝徳天皇を囲むブレーンが次々死んでいきます。

  649大化5年 3月17日 左大臣、阿倍倉橋麻呂が難波京で没。

          3月25日 右大臣、蘇我倉山田石川麻呂臣、自殺。

  653白雉4年 2月    高向玄理、遣唐使に任じられ日本を離れる。

          6月    摂津の阿曇寺で日旻法師没。

          ?月    天智天皇らは難波宮の孝徳天皇を離れ、大和に戻る。

         10月    孝徳天皇、一人失意のなか難波宮にて薨去。

こうして8名で始めた大化の改新のメンバーは皇極上皇、天智天皇、中臣鎌足だけになりました。

歴史上の大改革、大化の改新は幾多の矛盾を露呈し終焉を迎えました。しかし、この理想はその後の日本の政治を形作るうえでの指針となったことも事実です。

高向玄理、最後の渡航は、654白雉5年のことで、一行は2月と5月の二船に分乗して出発しました。「留連すること数月、新羅道を取り、莢州(らいしゅう)に泊まり、遂に京に至り、天子に観え奉る」とあり、伊吉博徳の言葉として、押使高向玄理をはじめ、学問増恵妙、覚勝らが、唐で客死し、他に3名が遭難死したことを伝えています。

 

「帝王編年記」の660斉明6年の事項に高向玄理の詩が載せられています。

「玄理は東城の一宅人たる我子を恨んでいるが、親となり子となり、前世の契、言う子とは一体誰のことであろうか」と小林恵子氏はいう。

帝王編年記の注には「謂其子玄衝」(其の子を玄衝と謂う)とある。

 

翌661斉明7年、斉明天皇は54歳で崩御しました。

日本書紀は「九州朝倉山頂に鬼あり。大笠をつけ、葬儀に望む。」と奇観を記録しています。

 

孝徳天皇を囲むブレーンは、中大兄皇子と中臣鎌足を除いて、ことごとく、死んだり、殺されたりしていますが、高向玄理だけは、無事に生きのび中国の唐の都に入ります。いつ亡くなったのか書かれていません。高向玄理は唐の地から祖国日本を恨んでいたようですが、私には、日本の改革の嵐のなか、高向玄理を日本から唐に逃がした斉明天皇の強い愛情を感じないではいられないのです。

 

高向玄理が日本にいた期間は限定されます。

 

608推古16年 9月 遣唐使に学生として選ばれ出国。

640舒明12年10月 唐より帰国。

     |                 (6年間)

646大化 2年 9月 新羅に遣わされる。

647大化 3年    新羅から帰国。

     |                 (7年間)

654白雉 5年 2月 遣唐使、数ヶ月かけ唐に入り、客死。

 

 

6.天智天皇と漢皇子

 

天智天皇についての細目は、別に譲ります。

しかし、天智天皇も出自に疑問があることは周知のことであり、ここでは高向玄理との関わりを概要として述べるに止めます。

斉明紀の記述のみに、斉明天皇が舒明天皇に召される前に、高向王との間に漢皇子を生んだとあります。「初適、(用明天皇)孫、高向王、生漢皇子」

しかし、その後、この漢皇子の消息は途切れてしまいます。

初期の小林恵子氏は漢皇子を大海人皇子とし、高向王を高向玄理だとしています。但し、大海人皇子が天智天皇より年上としての意見においてです。

また、大和岩雄や梅澤恵美子氏等も、斉明天皇の生んだ漢皇子を天武天皇として、父親を蘇我氏に近い東漢氏との関連を指摘しました。ただし、これも天武天皇を天智天皇より年上としています。

小石房子氏においても、斉明天皇は高向玄理と関係があったとして、天武天皇を二人の子として描いています。但し、日本書紀では天武天皇出産時には、高向玄理は日本にはいません。32年間、唐に留学中です。小石房子氏は、これを高向玄理が密かに一時帰国していたものとしています。

 

西野凡夫氏「新説日本古代史」によると、「和州旧跡幽考」巻16の武市郡法輪寺の条に、「推古朝の時、賀留大臣玄理(高向玄理)が則天の薬師如来を盗み日本へ持ち帰ったが、舒明の時、再び入唐して面皮を剥がれ、額に灯台を置かれ、世の人は灯台鬼と言った」という奇妙な伝承が採録されています。「和州旧跡幽考」は未見ですが、これが事実なら、天智天皇が生まれた626推古34年には高向玄理が日本にもどってきていたと考えられます。29歳になる高向玄理は20歳になる宝皇女こと後の皇極天皇と関係した可能性は否定できません。そういえば、高向玄理と一緒に出発した、倭漢直福因らが623推古31年に帰国、帰朝報告を行っています。高向玄理だけが帰国せず、32年もの長い間ずっと唐にいたのでは何をしに唐に行ったのかわからなくなります。やはり、同僚たちと共に戻っていたと考えるのが自然です。そして後、659舒明5年1月大唐の高表仁が中国に帰ったとあることから、彼を送って、高向玄理もそのとき同行したとも考えられます。

すると、天智天皇と天武天皇は、父は舒明天皇ではありませんが、同じ父母を持つ真の兄弟ということも考えられそうです。

 

    舒明天皇

      |――――間人皇后

    皇極天皇

      |――――天智天皇

      |――――天武天皇

    高向玄理

 

7.懐風藻への疑問

 

くしくも、本書は懐風藻の小伝の記載を徹底的に疑うこととなりました。

逆に、懐風藻の記述が真実なら、本書の仮説はすべて崩壊してしまいます。

何度も繰り返してきましたが、懐風藻は現存する日本最古の漢詩集です。著者は淡海真人三船の可能性の高いものです。しかし、その漢詩の内容は一部を除き、稚拙でお粗末なものがほとんどです。

 

懐風藻に書かれた葛野王の小伝も本書の研究によれば、お粗末きわまりないものと聞き及びます。

 

「葛野王は天智天皇の孫。大友皇太子の長男である。母は天武天皇の長女、十市内親王である。

「王子者。淡海帝之孫。大友太子之長子也。母浄御原帝之長女。十市内親王」

 

天智系の長男と天武天皇の長女と強調された文章が気になるところです。葛野王がうまれた669天智8年は大友皇子22歳、天智天皇44歳。本書の計算では十市皇女10歳、額田王27歳といったところ。よって、結婚の約束はあったかも知れませんが、葛野王を生む年齢までにはないはずです。葛野王は十市皇女でない別の女性の子と思われます。その後、大鏡などで十市皇女が夫の徴兵の事実を父、天武天皇に知らせたという物語までが作られます。そして現在までもその影響ははかりしれません。十市皇女や額田王の年齢を異常に引き上げる原因を生み、結果として天武天皇の年齢も高齢になったのです。

 

疑い出すときりがないものですが、持統朝の皇嗣問題を解決させた、葛野王の格好いい活躍にも疑問が出てきます。この頃、文武天皇への移行計画はすでに出来上がっており、叱られた弓削皇子やその兄長皇子に対して持統天皇は何のお咎めもしていません。むしろ、直木孝次郎氏がいうように、その前、天武天皇が崩御され持統天皇が皇位につき息子文武天皇を皇太子にしようとした頃、それに異を挟んだと思われる磯城皇子と忍壁皇子に対する仕置きのほうがもっと凄惨でした。磯城皇子は皇位剥奪、死亡年さえ不明です。忍壁皇子は一生涯、昇級の道は塞がれてしまいます。葛野王の話はこれを逆に着色したものと疑わせるに足るもがあります。

 

また懐風藻だけが「左大臣正二位長屋王三首 年54」としています。これも「年46」が正しいようです。扶桑略記を初めとして以降、年46歳は定説とされてきました。54歳は懐風藻だけです。これが、天武天皇の長男、高市皇子の年齢を引き上げる原因をつくっています。

 

では、なぜねつ造がおこなわれたのか。この懐風藻誕生の秘話ともいうべきです。

関連した二つの事項が考えられます。

一つ目は、経歴が語る淡海真人三船のどん欲な性格がこれを物語ります。

 

8.淡海真人三船 おうみのまひとみふね

 

懐風藻によれば、この淡海三船は作中の葛野王の孫になります。

 天智天皇   626年生まれ〜671年没 46歳没 23歳で大友皇子生

 大友皇子   648年生まれ〜672年没 25歳没 22歳で葛野王生

 葛野王    669年生まれ〜705年没 37歳没 35歳で池辺王生?

 池辺王    703年生?  〜 ?        20歳で三船を生?

 淡海真人三船 722年生まれ〜785年没 64歳没

(池辺王は727年、無位より従五位下を受けていることからこの年を25歳と推理した年齢)

 

天智天皇――――大友皇子―――葛野王――――池辺王――――淡海三船

 

この家系図が認められ、三船は751天平勝宝3年正月、淡海真人三船となる。「真人」姓は知ってのとおり、天皇家の血筋を示す家系です。

 

淡海三船の略歴

   天平  年間       唐僧道璿(どうせん)に師事。僧名は玄開

749天平勝宝年間   28歳 勅によって還俗「延暦僧録」

751天平勝宝3年 正月30歳 淡海真人の氏姓を賜る。「新撰姓氏録」

751天平勝宝3年11月    懐風藻を公になる。序文の日付による。

756天平勝宝8歳   35歳 出雲守古慈斐を誹謗、禁固3日

760天平宝字4年   39歳 正六位上尾張介

761天平宝字5年   40歳 従五位下参河守

764天平宝字8年   43歳 仲麻呂の乱で与党を捕らえた功績により、従五位上

765天平神護元年   44歳 勲三等

766天平神護2年   45歳 東山道巡察使

767神護景雲元年   46歳 兵部大輔となる。しかし、措置が検括酷苛で、独断的、

                適切さを欠いたとして任を解かれる。

771宝亀  2年   50歳 刑部大輔

772宝亀  3年   51歳 大学頭、文章博士

780宝亀 11年   59歳 従四位下

785延暦4年7月   64歳 刑部卿従四位下兼大学頭・因幡守で卒した。

 

淡海三船の漢風諡号など、後世に残る大きな業績を知らないわけではありません。しかしこの略歴からは、書籍に通じ頭脳明晰、それゆえ頭のよい人間によく見られる性行ですが、周囲を小馬鹿にし、愚かなものへの激しい苛酷な行いが見えます。周囲をけ落としてもといったどん欲さが死ぬ最後まで衰えをみせませんでした。若き無名僧が自分は天智天皇の末裔と名乗りを上げたのが30歳のときです。彼の歴史へのこだわりは必死なものがあります。自分の祖先が天皇家に通じるという証拠の品が朝廷に差し出された懐風藻といえます。

 

淡海三船は続日本紀の執筆者の一人でもありました。その続日本紀の記述に756天平勝宝8歳5月10日の条に、「出雲国守・従四位上の大伴宿禰古慈斐と内竪(ないじゅ、天皇の傍に仕える少年)淡海真人三船は、朝廷を非難悪口し、臣下としての礼を失したという罪に連座させられ、左右の衛士府に拘禁された。」(宇治谷孟訳)とあり、大伴と淡海の二人で国家を批判したような英雄気取りの表現です。

ところが、大伴側の証言によるとそれは違うようです。万葉集S4465〜7の端書きには「右の歌は淡海真人三船の讒言(ざんげん、人を陥れるための嘘や悪口)によって、出雲守・従四位上の大伴古慈斐宿禰が任を解かれた。これにより大伴家持はこの歌を作った」とあるからです。

 

もう一つが、この頃の国家政策にあります。

氏姓制度は氏素性を正す、その家の身分を定めるものです。そのために、この頃、幾多の系図や家伝が作成されました。淡海真人三船も例外ではありませんが、その政策をうまく利用したともいえます。

 

712和銅5年      古事記編纂

713和銅6年5月 2日 風土記撰進の命令が下る。

720養老4年      日本書紀編纂

 

751天平勝宝3年11月 懐風藻の序文完成。

759天平宝字3年    万葉集最後の歌の年、編者は大伴宿禰家持といわれる。

760天平宝字4年、   藤原家伝書 編纂は藤原朝臣仲麻呂(恵美押勝)

807大同2年、     古語拾遺なる。齋部宿禰一族の書といわれる。

827〜829      先代旧事本紀は物部連氏の書、編者は興原敏久といわれる。

815弘仁6年   7月 新撰姓氏録の上表文を発表。

 

なお、先代旧事本紀などは推古30年という偽りとわかる前文から今は信用性を亡くしています。

各書の成立年代は紛々と定まっていませんが、確定的な記載年等から引用した年代です。自分の生まれた姓名が「真人」「朝臣」「宿禰」「連」などに身分を固定されてしまう時代です。家系一覧ともなる「新撰姓氏録」の上程によって、氏族名はほぼ確定したといえます。氏族たちはこぞって自分の家系の正当性を朝廷に申告したと考えられます。

 

なお、この懐風藻が提出された側の朝廷ではこれを本当に正統なものと認めたのでしょうか。あるいは、この書が天武天皇の年齢を引き上げる資料と使えると逆利用しようとしていたのかもしれません。

 

最近の「日本書紀」批判は度を超して夢物語化してきているように感じます。日本書紀内の矛盾は幾多もありますが、それを安易に間違いと否定する前に、もう一度、日本書紀に立ち返り、他の書物と照らし、そこから生まれる矛盾にこだわり、その主張の違う書物の方を疑うことから初めてみたのが本書です。

懐風藻は淡海三船の野心からうまれた書であり、その書には、天智天皇の長男と天武天皇の長女から生まれたのが我が家の祖先だと書かれているのです。天智天皇長男、大友皇子と天武天皇長女、額田王の娘、十市皇女が関係したはずはなく、むろんその子孫が三船ではありえないものです。

 

 

この時代の人々の活動年代はもっと若かったはずで、人生40年、そのために若い世代を育て支える当時の社会規範が存在したと思っています。現在の感覚で、そんな若い年齢でできるはずがないと考えるのは間違いです。13歳で禄を支給された時代です。そんな若い世代を周囲の家族縁者が支えたのです。それを信じ、あらゆる登場人物の年齢を引き下げてみました。その結果、若い天武天皇と額田王との激しい恋、天武天皇の母、皇極天皇の魅惑的な女性観と深い愛情、30歳壮年の天武天皇の苦しい壬申の乱の思い、十市皇女の巫女としての殉死への道など、年をとらせては果たせない感情の動きが手に取るように見えてくる思いです。

 

最後に、私は天武天皇と天智天皇とは同じ父母を持つ兄弟の可能性があると考えています。状況証拠の積み重ねでしかありません。あまり語られることはありませんが、案外、天智天皇は死ぬまで天武天皇を庇護してきたのではないかと感じています。人を殺めることに決断のはやいこの天智天皇は、最後まで天武天皇だけは殺していません。天武天皇も壬申の乱を通して天皇になりますが、天智天皇の政治方針に反発することなく、その政治路線を踏襲したといっていいのではないでしょうか。

天智天皇と唯一古代天皇家の正統な血を受け継ぐ、妹、間人皇女との秘められた恋や、最高権力者になりながら、自ら天皇になることを長い間拒み、こだわり続けた天智天皇の強い影響力の研究は今後の課題です。

 

 

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