天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
動画、写真集 First update 2008/04/29
Last update 2014/03/10 ここでは、現在に残る天武天皇の足跡を追い求めてみました。 旅の記録です。 史料文献だけだとよくわからないので、現地を訪れるのですが、今楽しみの一つになっています。 これからも少しずつでも追加していく予定です。 しかし、きわめて個人嗜好のもので、通常の天武天皇の関連写真などとはかけ離れているかも知れません。今は自分の見たい場所、紹介したい場所を優先しております。 その際、現地でお会いできた研究者や、役場、資料館、お寺、神社、また地元の方々には大変お世話になりました。この場を借りて御礼申し上げます。 −動画− 宗像大社と北九州 本稿関連ページ「宗像大社と宗像氏」、「志賀海神社と阿曇氏」 参照 宗像大社、宮地嶽神社、志賀海神社、福岡市博物館、宗像民俗資料館 稲荷山古墳と鉄剣 資料提供 さきたま史跡の博物館 −写真集− 天武天皇が壬申の乱を起こし、672年反乱軍を組織した地として知られています。現在の岐阜県不破郡関ヶ原町です。その名は1600年徳川家康が石田三成らと合戦におよんだ地として有名なことは周知のとおりです。 壬申の乱の全行程は膨大で調査が行き届きません。興味も尽きません。ここでは、特に和蹔(わざみ)、野上の地に力点を置きました。 なぜ、天武天皇は野上の地で、息子、高市皇子は和蹔と距離をおいて布陣したのかがわからなかったからです。 また、壬申の乱の場所はここではないという異説もあるくらいです。実際この場所を一度は確認することだけでも無駄にならないと考えたのです。 当時の伊予国越智郡朝倉郷は現在の四国今治市朝倉に当たります。 本稿では高市皇子の生地をこの朝倉であると検討をつけ調査を開始しました。ところがこの朝倉郷は調べるほどに奥深い内容に満ちていることがわかり、戸惑いを隠せません。 その一つに、斉明天皇は九州に渡るとその後、朝倉橘広庭宮に移られます。この朝倉が伊予の朝倉のことで斉明天皇は四国に戻っていたとする説があることです。この件はまだ不勉強です。現段階では少し無理があると思われる説ですが、この朝倉の地におもしろさは尽きません。 参考図書 宮脇通赫「伊予温故録」 この地に天武天皇の痕跡はありませんでした。しかし、天智天皇の痕跡はいくつも見つかりました。この地に天智天皇がいたことは確かなようです。 本稿は、日本書紀の記述の一部から、天武天皇が生まれた場所は和泉、現在の泉大津市であると考えました。この考えに至ってから大変な年月の費やしてしまったことになります。やっと現地を訪ねることができました。現地ではじめて、聖神社の存在を知りました。そして、旅の当初の目的地、泉穴師神社です。聖神社は天武天皇自身が勅願した寺であり、泉穴師神社は逆に天武天皇を奉る寺でした。この相対する二つの寺に強い思いを意識しました。そして、神社なら当たり前なのかもしれませんが、両方の社も「誕生」を願い、祝う神社なのです。 百済救済を目的に九州に渡った斉明天皇一行はなぜか、磐瀬行宮に到着後、すぐに九州内陸の朝倉郷にまるでひきこもるように移動し朝倉橘広庭宮を開きます。現在、この二つの拠点、磐瀬行宮、朝倉橘広庭宮の場所はともに特定できずにいます。7月斉明天皇は猛暑のなかで崩御します。この旅行を通して、斉明天皇の姿は、神功皇后と卑弥呼という同じ女性の姿とダブって見えてきたのです。さらに、大船団を引き連れてきた強大な力を誇示する斉明天皇らの理不尽に見える行動が、九州の民の恨みに似た戸惑いとして感じ取れたのです。 また、天武天皇の夫人の一人、尼子娘の血筋、宗像氏の氏神、宗像大社を訪ねました。 あるとき、先輩に自分の今進めているホームページの原稿を示し評価を求めたことがあります。 その先輩は、そこへ行ったことはないのか、と答えただけで原稿を広げることさえしてくれませんでした。まるで、文献資料だけの頭でっかちな文章など、おもしろいはずがないと言っているように感じました。 こうした反省から、取材旅行がスタートしたのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |