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天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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概要及び年齢仮説 

First update 2008/12/04 Last update 2011/01/04

 

日本書紀   天武天皇の年齢記載なし。  西暦686年朱鳥元年に崩御。

神皇正統記  などは年齢73歳とあります。西暦614年推古22年生となります。

本朝皇胤紹運録などは年齢65歳とあります。西暦622年推古30年生となります。

現在、一般的には年齢56歳としています。 西暦631年舒明 3年生となります。

 

目的

本稿は、天武天皇の崩御時の年齢の追求を第一目的としています。よくわからないのが現状です。また、天武天皇の出自に疑問をもつ諸説ではこの天武天皇の年齢を手がかりして、論理を展開しているようで、天武天皇の年齢が大きな根拠の一つとしてよく利用されているからです。

 

 

昔から、天武天皇の年齢矛盾は話題の一つです。それは、国書「日本書紀」が天武天皇の年齢を記述していないからです。以来、時代時代でさまざまな年齢が語られてきました。

まず、鎌倉時代、中世になってはじめて天武天皇の年齢が示されるようになります。「一代要記」で65歳とあります。その後、「神皇正統記」などには73歳と記載されます。ところが、室町時代になると、信頼ある研究書とされる「本朝後胤紹運録」は65歳と年齢を戻しています。

一方、近年では、一般的には天武天皇は、天智天皇より5歳年下の56歳で薨去され、逆算して631舒明3年に生まれた、とする説を採用して通説として通っているようです。

また、最近では、天武天皇はやはり65歳で、天智天皇より年上であったとする異説が大きな注目を集めています。

(3.資料研究で詳細に検討します。)

 

はじめ、私もこの65歳説に着目しました。しかし、検証を進めるうちに、残念ながら、天武天皇の年上説には同意できないと思うようになりました。理由はいろいろありますが、その一つに「皇弟」という表現が「日本書紀」に幾度となく記載され、また「万葉集」、「懐風藻」をはじめとした幾多の史書に「皇弟」の表現が散見されることです。どの書物も天武天皇は天智天皇の弟だといっているのです。

 

さらに、天武天皇を中心とした人々の年齢について勉強を重ねるうちに、逆に天武天皇は天智天皇と比較して、かなり年下、10歳以上の年齢差があった弟ではないかと考えるようになりました。この思いは深まるばかりです。一般に唱えられている56歳ではなく、天智天皇と同様に40歳代で亡くなったのではないか、これが本稿の始まりです。

天武天皇を若返らせることで、いままで疑問とされていたいろいろな矛盾が解決されてくるのです。

一例を挙げると、万葉集における、天武天皇と額田王の若い切実な愛の歌が生き生きと蘇ってくるのです。

以下、状況証拠の積み重ねに過ぎないのかもしれませんが、その一つ一つの事実と照らし合わせながら、論説して行きたいと思います。

 

まず、ここで次の基本的な事実を確認します。

 

1.大海人皇子(後の天武天皇)が政治の世界に顔を出す時期が、兄の中大兄皇子(後の天智天皇)と比較してかなり遅いこと。

2.大海人皇子は兄の中大兄皇子の娘4人の夫となり子をもうけていること。

 

これらは、これまで天武天皇の出自を疑う根拠としてよく利用されたものです。

しかし、天武天皇が天智天皇よりかなり年差のある弟であるから、とは言えないのでしょうか。

このように考えたほうが出自云々をとやかく疑るより単純で合理的だと思うのです。

 

ここに、一つ単純な計算値を紹介します。

 

天武天皇の皇子17名の中で、没年の知れる15名の平均没年は712年

天智天皇の皇子14名の中で、没年の知れる13名の平均没年は699年

その差                           13年

詳細な数字は「11.妻子一覧」を参考にしてください。

 

 

単純な計算結果ではありますが、夭折、長寿の違いはあるとしても概ね同じ年齢で天寿を全うしたとするならば、天智天皇の皇子達は天武天皇の皇子達より13年は早く生まれたことになります。さらに父親として二人が同じ年代で子供達を得ていたとすれば、天武天皇は天智天皇より13歳若いのではないのかと推測できます。

馬鹿なことを言うなと、お叱りの声が聞こえてきそうですが、まじめにこうした予想される声に一つ一つ答えていくつもりです。

 

日本書紀における天武天皇の初期の記録

 

日本書紀の天武天皇の記述を年順に拾い出すと次の通りになります。

 

1.630舒明2年、日本書紀に天武天皇の名がはじめて紹介されます。舒明天皇の即位に伴い皇后の子として紹介された記事です。

 

舒明紀

二年春正月丁卯朔戊寅、立寶皇女為皇后。々生二男一女。一曰葛城皇子。二曰間人皇女。三曰大海皇子

 

第34代、舒明天皇

      

      ――第一子、葛城皇子、中大兄皇子とも。後の第38代、天智天皇

      ――第二子、間人皇女、        後の第36代、孝徳皇后

      ――第三子、大海皇子、大海人皇子とも。後の第40代、天武天皇

      |

     寶(宝)皇女 皇后、後の第35代皇極天皇、重祚して第37代斉明天皇

 

2.653白雉4年、この年にはじめて天武天皇の行動が記録されます。「皇太子中大兄皇子は、孝徳天皇の許しを得ぬまま、皇極上皇、間人皇后を奉り、大海人皇子らを率いて、難波宮から倭の飛鳥河辺仮宮に遷ってしまう。公卿大夫・百官の人々など、みなつき従った」とあります。

 

孝徳紀

皇太子乃奉皇祖母尊間人皇后、併率皇弟等。

 

天武天皇は「皇弟」と書かれました。このとき天智天皇はまだ中大兄皇子と呼ばれ皇太子の地位にあります。その「皇弟」は母や姉とともに兄、中大兄皇子に従い、孝徳天皇の許可を得ず勝手に天皇のもとを離れたというものです。一般通説に従えば、このとき天智天皇28歳。天武天皇は23歳です。この年齢が正しいなら皇弟としての大海人皇子は大人しい人間で、力はなくあまりに無気力に見えます。一般臣下、女子供並の扱いといえます。

 

          舒明天皇

            ――中大兄皇子(皇太子)

            ―――大海人皇子(皇弟 )

     茅渟王    ―――間人皇后

      ―――皇極上皇   |

      ―――――――――孝徳天皇

     吉備姫王

 

3.翌654白雉5年10月1日、皇太子、中大兄皇子は孝徳天皇が病気になられたと聞き、皇極上皇、間人皇后、大海人皇子、公卿らを率いて難波宮に赴かれた。

 

孝徳紀

皇太子・・・乃奉、皇祖母尊・間人皇后、併率公卿等。

 

この項目2,3が、日本書紀に記載された天武天皇の初期行動の記録です。まさに、中大兄皇子こと後の天智天皇の独壇場です。そこに大海人皇子の名こそあれ彼の意志はまるで感じ取れません。わたしには大海人皇子はこの頃まだ幼い子供ではなかったのかと、考えてしまうのです。

 

4.661斉明7年1月8日、上記の7年後、大海人皇子の妻、大田皇女(18歳)が娘を産んだと紹介しています。

 

斉明紀

大田姫皇女、産女焉。仍名是女、曰大伯皇女。

 

通説に従えば、このとき父親になった大海人皇子は31歳にもなります。すでに十市皇女、高市皇子が生まれていたと言われますが、それにしても遅すぎる出産年齢に思えます。この後12人も子を作るのですから。このとき大海人皇子は20歳前後とは考えられないのでしょうか。

 

   舒明天皇

     ―――中大兄皇子―――大田皇女

     |  (後の天智天皇)  ―――大伯皇女(661年生)

     |            ―――大津皇子(663年生)

     ―――――――――――大海人皇子(後の天武天皇)

   斉明天皇

 

5.664天智3年2月9日、天智天皇は弟、大海人皇子詔して、官位の階名の増加、変更ことなどを告げられた。

 

天智紀

天皇命大皇弟、宣増換冠位階名。

 

大海人皇子の初めての政治的行動といえます。34歳と言われますが、あまりに遅すぎる社会人としての初仕事になります。

 

6.668天智7年5月5日、天智天皇が蒲生野に行く狩に大海人皇子等も従う。

 

天智紀

天皇縦猟於蒲生野。

干時、大皇弟・諸王・内臣及群臣、皆悉従焉。

 

このとき大海人皇子が詠まれた額田王への激しい恋の歌はあまりに有名です。

本当に大海人皇子38歳が同年齢といわれる古女房額田王へ贈った宴席での洒落た歌程度のものなのでしょうか。はたまた、秘められた浮気の歌なのでしょうか。

互い25歳前後の若い情熱の恋歌とは考えられないのでしょうか。

このことは、4.妻子の年齢 額田王の万葉歌の分析で詳しく述べます。

 

7.669天智8年5月5日、天智天皇が山科野に行く薬狩に大海人皇子等がお供しています。

 

天智紀

天皇縦猟於山科野。大皇弟・藤原内大臣及群臣、皆悉従焉。

 

作家、黒岩重吾氏はこの頃には、壬申の乱を決意していたと書かれています。

通説39歳です。人生40年の時代、当時としては遅すぎる決断だと思います。

 

8.669天智8年10月15日、天智天皇は大海人皇子を病気で臥せる藤原鎌足の家に遣わし、大織冠と大臣位を授ける。翌日、鎌足死去。

 

天智紀

天皇遣東宮大皇弟於藤原内大臣家、授大織冠興大臣位。

 

この頃には、藤原鎌足は自分の娘二人を大海人皇子に納めて、親愛を深めていったようです。

39歳の天武天皇にしては、この鎌足の娘2人は非常に若すぎる姉妹です。

なお、このときはじめて「東宮」という言葉が大海人皇子に対して使われます。「東宮」は通常、皇太子を指します。

 

9.671天智10年1月6日、大海人皇子詔して、冠位・法度のことを施行された。

 

天智紀

東宮太皇弟奉宣、或本伝、大友皇子宣命。施行冠位法度之事。

 

ある本に、天智天皇の息子、大友皇子が宣命したと書かれるなど、大海人皇子の地位を危ぶむ大友皇子の存在がクローズアップされはじめるときです。この時、太政大臣になっていた大友皇子の年齢は24歳です。大海人皇子が41歳とすると、若いライバル大友皇子とあまりに釣り合いがとれません。

 

10.671天智10年5月5日、天智天皇は小殿においでになり、大海人皇子や群臣が宴席に同席した。

 

天智紀

天皇御西小殿。皇太子・群臣侍宴。於是、再奏田舞。

 

「田舞」を舞ったのは大海人皇子らしい。大海人皇子41歳の熟年に達した舞です。もっと若い舞を想像したいものです。

 

11.671天智10年10月17日、天智天皇の病が重くなり、大海人皇子を呼ばれた。

 

天智

天皇疾病彌留。勅喚東宮、引入臥内。

 

これ以降、壬申の乱へと突入していくことになります。その相手は、天智天皇崩御後を引き継ぐことになる息子24歳の大友皇子です。一方、大海人皇子は天皇の弟として41歳と言われています。本当に大海人皇子、晩年の決断なのでしょうか。私はこのときを飛躍の年、男の決断と考えたいのです。30歳は天皇位に就くにふさわしい年齢です。

 

藤原家伝に現れる、天武天皇の初期記録

 

中臣鎌足の足跡がよく見えるこの記録によると、668天智7年、近江での祝宴の際、大皇弟(大海人皇子)が長槍で敷板を刺し貫いた。天智天皇は非常に驚き呆れ、烈火のごとく怒り、大海人皇子を殺そうとした。これを、内臣、中臣鎌足が固く諌めた、とあります。このことがあって、大海人皇子は鎌足を親しみ重んじたといいます。

 

懐風藻

帝驚大怒、以将執害。大臣固諫、帝即止之。

〜、自茲以降、殊親重之。

 

私には、敷板を刺し貫いた行為が若い激情のほとばしりに思えてなりません。

作家、黒岩重吾は、冷静沈着な大海人皇子の行動とは思えないと、このエピソードを事実として認めていません。このとき、通説に従い天智天皇を43歳、大海人皇子を38歳として考えた場合、大海人皇子の行動はあまりに軽率といえ、黒岩氏の意見は妥当なものです。

本稿では、大海人皇子を20代として考えてみました。このとき、やはり20歳代の甥大友皇子が太政大臣になっており、自分はいまだ官職にも就いていません。また額田王を兄、天智天皇に奪われ、おもしろくありません。お酒も入っていたことでしょう。なにかのきっかけで暴れてしまったようです。

 

このとき、中臣鎌足は大海人皇子に近づき、自分の娘を差し上げると耳打ちしたのかもしれません。実際、日本書紀は中臣鎌足の2人の娘を天武天皇に納めたと記録しています。ところが、この忠臣、中臣鎌足は天智天皇には一人も娘を与えていません。むしろ、天智天皇の息子の大友皇子に娘を納めているのです。

いくら政治的なもくろみとしても、あまりにも年差のある自分と同年齢に近い天智天皇には娘を与えられなかったからだと思います。

 

官僚や豪族の天皇への血縁戦略

 

中臣鎌足は天武天皇に自分の二人の娘を与えます。天智天皇には一人も納めていないのはどうしたことでしょう。

 

 天智天皇―――大友皇子(648年生)

         |

   女     |

   ――――耳面刀自

 藤原鎌足

   ―――――――五百重娘

   ――――氷上娘 |

   女     |  |          注:ここで氷上娘と五百重娘が

        天武天皇            同じ母を持つかは定かでない。

 

じつは、中臣鎌足は天智天皇の息子、大友皇子にも近づき、自分の娘を与えています。

 

懐風藻

遂結姻戚。以親愛之。

 

懐風藻は親戚関係を結び、親愛の仲になったと述べています。もし懐風藻が時間系列に記載されていたとすれば、大友皇子20歳、太政大臣になる前のことで、19歳なら666天智5年のこととなります。一方、天武天皇こと大海人皇子にも娘をその2年後には納めたと考えられます。

中臣鎌足にとって、大友皇子と大海人皇子は自分の娘を与えるにたる同じ息子のような年齢の皇子たちだったからではないでしょうか。

 

他に、娘を天皇に納めた天智天皇の重臣の一人に蘇我山田石川麻呂がいます。

日本書紀の記載に従えば、右大臣の蘇我山田石川麻呂は、娘、遠智娘、姪娘の二人を天智天皇に、乳娘を孝徳天皇に納めています。

 

もう一人、左大臣、阿倍倉梯麻呂のほうは橘娘を天智天皇に、小足媛を孝徳天皇に納めています。

確かに、政治的手腕として、ときの権力者、孝徳天皇とその時の皇太子、中大兄皇子(後の天智天皇)とに納めるのはわかりますが、このときは弟の大海人皇子には一切、納めていません。なぜ、大海人皇子には自分の娘をやる必要はないと考えたのでしょう。

これも天智天皇と孝徳天皇の年齢が近く、嫁がせる娘の年齢にふさわしく、大海人皇子はまだ結婚にもいたらない年齢であったからなのではないでしょうか。

 

   官僚       娘   嫁ぎ先

 

   蘇我山田石川麻呂 遠智娘 天智天皇

      〃     姪娘  天智天皇

      〃     乳娘  孝徳天皇

 

   阿倍倉梯麻呂   橘媛  天智天皇

      〃     小足媛 孝徳天皇

 

天武天皇の妻になった天智天皇の娘たち

 

天智天皇自身は日本書紀に記載された10人の娘うち4人までを弟である天武天皇に嫁がせています。このことは、現在では天武天皇が天智天皇と完全な兄弟といえないことの証としてよく引き合いに出されています。権力を得るために、年若い自分の娘を政略として相手の妻として与えることはよく聞きますが、すでに権力あるものが、自分の愛する娘を次々、自分とあまり年の違わない年の弟の元に嫁がせるなどとはあまり聞かない話です。異常と言えます。

これらからも、天智天皇と天武天皇の兄弟の年齢差がかなりあったことを想像させます。

この婚姻は二人の母、斉明天皇の強い希望と思われます。出自を疑わせる二人の関係強化が目的のようにもみえます。その真偽はわかりません。しかし、母の思いは、二人の兄弟の年齢差があったからこその発想ではなかったかとも思われるのです。

 

未完の帝王、天武天皇

 

天武天皇は即位すると性急な政治行動を起こしていません。一つ一つ着実にことを確認し、そして次の行動を移すタイプに見えます。私的イメージでは2年ごとに布石を打つように見えました。自分はまだ若いと思っていたにちがい有りません。

彼の政治行動らしい記録は彼が崩御する2,3年前に集中しています。つまり、やりたいことがなされぬまま、病を得て亡くなったと思われるのです。

その未完の業績は次のとおりです。

 

1.皇后病気平癒誓願による薬師寺建立     天武 9年

2.帝紀および上古の諸事の記録収集、校定。  天武10年

3.新都造営、遷都計画            天武11年

4.律令体制の確立

    法の整備、編纂事業をスタート     天武10年

    八色姓を制定             天武13年

    浄御原令の施行            持統 3年

    庚寅年籍(戸籍の整備)        持統 3年

5.外交戦略 遣新羅使4回、遣唐使0回    天武年間

 

ここで特に感じたことですが、天武天皇という名前の偉大さのわりに政治的業績とされるものは崩御される3,4年前に集中していることです。志半ばで崩御されたことがわかります。これを引き継いだ妻、持統天皇の仕事と責任の大きさに今さらのように気が付くのです。

 

問題点

 

今まで、天武天皇の年が若いと言われてこなかったのは、なぜでしょう。これには、大きな理由がいくつかあります。

 

1.懐風藻により、天武天皇と万葉歌人、額田王との間に生まれた十市皇女は大友皇子との間に葛野王を産んだとされ、そのため年齢が必然的に高くなること。

2.天武天皇の長男、高市皇子は壬申の乱の功労者と言われ、年齢が幼いわけがないとされること。そのため父、天武天皇の年齢も高くなること。

3.母、皇極天皇の年齢は一般に、夫、舒明天皇の1歳年下といわれてきました。そうすると、天智天皇は33歳で出産、5歳年下とされた天武天皇は38歳での高齢出産の子ということになり、これ以上天武天皇の年齢を若くできないこと。

4.中世の歴史書はこぞって、天智天皇を58歳、天武天皇を65歳と年齢を高く設定していること。

5.中世の歴史書の65歳説が無視できないとして、逆に天武天皇年上説さえあること。

6.皇極天皇から生まれた、中大兄皇子、間人皇女、大海人皇子の3兄妹のうち、兄、中大兄皇子の年齢がほぼ確定できるところから弟との年齢差は4,5歳位が妥当だという一般論。

 

これらを解決しないかぎり、天武天皇の年齢が若かったとは決して言えないのです。これが以下の論説につながっていきます。

 

さらに致命的なことに、本研究では天武天皇が父、舒明天皇の死後生まれた可能性も含めて検討しています。舒明天皇晩年、ぎりぎりに生まれた子とした可能性も考えましたが、死後生まれたことにしたほうが年齢説明をより容易に進めることができるのです。ここは妥協せずに若い年齢の天武天皇像を描き出すことに挑戦していきます。

 

 

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