天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
額田王の年齢 ぬかたのおおきみ First update 2009/08/29 Last update 2020/05/01 生没不詳 643皇極2年生まれ〜715和銅8年没 73歳没 本稿の主張 631舒明3年生まれ〜 ? 伊藤博氏 633舒明5年産まれ〜715和銅8年超 83歳以上 梅原猛氏 637舒明9年生まれ〜715和銅8年超 79歳以上 折口信夫氏
父 鏡王 母 不明 叔母 鏡姫王 本稿 弟 猪名真人大村 本稿 夫 天武天皇 天智天皇 中臣朝臣大嶋 本稿 実子 十市皇女 660斉明6年生 〜 678天武7年没 19歳 本稿
日本書紀、天武2年2月27日の天武天皇即位に際しての記述で、額田王を「初娶」と表現されているところから、天武天皇諸后妃のなかでも額田王が最初に、大海人皇子の子供を生んだと考えて間違いないようです。「初」の意味は、中村隆彦氏がいうには、そのときより以前にさかのぼって、ことの由来をしるすときに用いる語とのこと。それより以前にという意で、春秋左氏伝の常套語だそうです。だからといって、額田王の年齢が、他の后妃と比較して離れて高齢だったとは思えないのです。 日本書紀全体に見られる婚姻の表現に「立」「納」「喚」「娶」「召」などの相違があります。最近の研究では日本書紀の担当執筆者の癖による使用頻度の違いがクローズアップされています。しかし、この天武紀の10人の妻たちが「納」と記述されるなかにあって、額田王だけが「娶」とあるのはその意味をしっかり区別していると考えられます。 「娶」は日本書紀全体では、10回ほど使用されています。そこからわかることは、当時として当たり前のことですが、結婚しても同居していない形跡が、はっきり見えることです。 たとえば、仁賢天皇の場合 「春日大娘皇女、大泊瀬天皇、娶和珥臣深目之女、童女君、所生也」 大泊瀬天皇、すなわち雄略天皇は和珥臣深目の娘、童女君を娶り、春日大娘皇女を生んだと書かれています。しかし、一日で孕んだことで雄略天皇に疑われてしまいます。これは二人が同居していなかったことから起こる疑いの眼差しではないでしょうか。天皇といえどもこの頃は和珥臣深目の屋形に通ったと思われるふしが多くみられます。 また、仁徳天皇の場合など 「仁徳天皇30年秋9月、天皇伺皇后不在、而娶八田皇女、納於宮中。」 「娶」と「納」が同居するめずらしい例です。「仁徳30年秋9月、天皇は皇后(磐之姫命)の不在の時をうかがい、八田皇女(仁徳の異母弟の妹)を娶り、宮中に納めた。」八田皇女は天皇の位をめぐり争った太子、菟道稚郎子)の同母妹です。仁徳天皇は菟道稚郎子との抗争の後、八田皇女をその地で娶っていたものと思われます。その後、嫉妬深いといわれる磐之姫不在の機会を捉え、宮中に迎えたものです。 こうした例を比較するに次の意味がおぼろげながら見えてきます。 「娶」は男性が行動を起こし、女性と関係をもつ現在感じるイメージ。「納」は女性側の家が娘を男性に与えるイメージ。「娶」は通い婚、または当事者同士の自由恋愛、「納」は親によって決められた政治的色彩が強い婚姻と考えていいと思います。なお、古事記では日本書紀とは逆にほとんどが「娶」を用いています。古い表現といっていもいいのかもしれません。 大海人皇子は、額田王と知り合い、鏡王宅に通い額田王と結ばれ、そして、十市皇女をこの地、十市郷で生んだと思われます。岸俊男氏は、額田王と鏡姫王は近くに住んでいたとして、「額田部一帯は当時の高級住宅地」としています。十市の地もその少し南にあります。想像ですが、初めての若い男女の恋愛。通例に則していえば、額田王は大海人皇子より少し年上だったかもしれません。 昔から額田王の年齢を考えるとき、キーになる史実が二つあります。 一つは「懐風藻」の記述から、十市皇女が生んだとされる葛野王の年齢がわかることです。 もう一つは額田王が716和銅8年まで生きた証拠が残っていることです。 ところがこの二つが矛盾を生み、額田王を大変な長寿にしています。昔からその長寿に疑問の声がありました。 私の知るその一人に折口信夫氏(折口信夫全集 第九巻国文学篇3「額田女王」中公文庫P444)、もう一人、梅原猛氏です。(塔(下)「額田王の生涯」集英社文庫P56)それによると、716和銅8年までは生きていたことになる額田王です。その証拠が粟原寺の鑪盤です。額田王の作として、梅原猛氏がその内容を現代語にして紹介しています。
折口信夫はその著作(前提書)において、次のように額田王の年齢を分析しています。「葛野王誕生を(十市)皇女十六、七の御時とすれば、(その母)額田王は最低、三十ニ、三、四になっていたわけでしょう」から始まる推理から、額田王は「少なくとも六十を越して居るはずです。又、考え方によっては、七十になっても、健やかで居ったものと思われます。」といい、この鑪盤に則してして計算すると、715和銅8年には、79歳になります。 また、梅原猛氏によれば、83歳、さらに万葉集釈注の伊藤博氏によれば、85歳。もっとも彼の場合には和銅8年まで額田王が生きていたとは書いてはおりませんが。以下は折口信夫氏の説を年齢表にしたものです。 本稿では十市皇女で散々述べましたが、第1の資料である「懐風藻」の記録を疑っています。十市皇女がもっと若いということです。ですから十市皇女が葛野王を産んだとは嘘と考えます。これが正しいとすると懐風藻の作者と考えられる淡海三船は天武天皇と天智天皇の孫葛野王の末裔となります。 【本稿の説】 600年 4455555555556666666666777777777 年 8901234567890123456789012345678 齢 大友皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25 葛野王 @ABCDEFGHI−37 十市皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR 額田女王 EFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――73 天武天皇 DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――――43 その結果、十市皇女の母である、額田王の年齢が大きく若返ることで粟原寺の鑪盤の真実であることがわかってきたのです。 粟原寺の鑪盤によれば、額田王は持統天皇8年のときから和銅8年に至るまで22年の間、この寺を建てることに尽力したとあるところから、額田王は夫、中臣大嶋の死を契機に粟原寺建立に力を注いだとみられます。姉ではない叔母と思われる鏡姫王も後の夫、中臣鎌足の病気平癒祈願のため、山階寺(興福寺の前身)を建立したといいます。その影響もあるのではないでしょうか。対抗意識の強い女性です。 粟原寺の鑪盤が正しいのなら額田王は生涯で三人の夫(天武、天智、中臣大嶋)をもち、その三人の死を見てきたことになるのです。最後の夫、中臣朝臣大嶋とはどういう男で、本当に額田王に相応しい夫なのでしょうか。 645大化1年生 〜 693持統7年没 享年49歳 本稿 父 中臣許米 母 不詳 妻 額田王 中臣家 (〜669) 常磐――可多能古―┬―御食子(一男)―─―鎌足―┬―貞慧 (643〜655) | └―不比等 (658〜720) ├―国子 (二男)―――国足―――意美麻呂( 〜711) └―糠手子(三男)―┬―金(〜672刑死) └―許米―――大嶋 ( 〜693) (金の異母弟) 大嶋の地は額田部の地に接し、平群氏とも隣同士です。神祗伯。氏姓は藤原朝臣、中臣朝臣、葛原朝臣にも作る。父は中臣朝臣許米。爺に中臣糠手子大連。近江朝右大臣中臣金連の甥にあたります。中臣朝臣大嶋は一口に紹介すると、中臣鎌足死後、中臣不比等が台頭するまでの間に中臣家を支えた重臣です。以下に中臣大嶋の足跡を額田王と通して記述してみました。 【中臣大嶋の関連年表】 678天武 7年 額田王の娘、十市皇女没 681天武10年 3月、天武天皇は川島皇子、忍壁皇子らに詔して「帝紀」および上古の 諸事を記し定めさせた。そのとき、中臣大嶋も加わり、平群臣子首ととも に、みずから筆を執って録したとあります。時に、大山上(正六位相当)。 12月、中臣大嶋、小錦下に昇叙。 683天武12年 7月、鏡姫王が没しています。額田王もその場にいたはずです。 12月、中臣大嶋、伊勢王らとともに諸国を巡り、国々の境界を定める。 684天武13年11月、中臣大嶋、朝臣姓となる。 685天武14年 9月、藤原朝臣姓として御衣袴を賜る。 686朱鳥 元年 正月、新羅の使節金智祥を饗応するため、川内王らとともに筑紫派遣 された。時に直大肆(従五位上) 686朱鳥 元年 9月、天皇崩御の殯の際、兵政官のことを誄している。 687持統 元年 8月、持統天皇の命により、飛鳥寺において天武天皇の御服で縫い 作った袈裟を三百の高僧たちにほどこした。 690持統 4年 正月、持統即位式に天神寿詞を読む。 691持統 5年11月、大嘗祭の際に天神寿詞を読む。 693持統 7年 3月、直大弐(従四位上相当)の賻物を賜うとあり、このとき死去か。 こうしてみると681年から亡くなる693年まで政治の中心で活躍した人物であることがわかります。中臣大嶋の年齢ですが、まず、唯一年齢の知れている中臣鎌足に基づきおおよその見当とつけます。一般に定着した56歳説を採用せず、日本書紀の記述に従っていきます。藤原姓を受けた鎌足は669天智8年10月16日に50歳で死にました。すると620年生まれ。鎌足の父、御食子が長男だから、その三男の糠手子の子、金を鎌足と4歳の年齢差があったと仮定できます。中臣金連は、天智天皇の左腕として活躍する重臣として、世間一般的にみて、天智天皇と同年齢の政治家と考えたい。624年生まれ、天智天皇より2歳年上となり天智天皇の重臣として相応しい。672年に刑死しているから49歳の生涯ということになります。その弟の許米をさらに2歳年下とし、その20歳のときの子供が中臣大嶋として計算しますと、目的の中臣大嶋の年齢は645大化元年生まれとなります。大友皇子と同等の年齢です。681天武10年ごろから政治の表舞台に現れ、帝紀の執筆を担当したのが37歳といえます。693持統7年死去だから享年49歳。 600 444444444555555555566666666667777 123456789012345678901234567890123 天智天皇OPQRS―――――――――30―――――――――40―――――46 中臣鎌足――――――――30――――――――40――――――――――50 中臣国足――――――――――30―――――――――40―――? 中臣金 ――――――――――――30―――――――――40―――――46――49(推定) 中臣許米――――20―――――――――30―――――――――? 中臣大嶋 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――― あまりにアバウトな推定値ではありますが、ここではだいたいこのような年齢だとして事は足ります。一般に言われる額田王の年齢では、この中臣大嶋と15歳もかけ離れた年上となってしまいます。しかも相当のお婆さんです。額田王がもっと若いとすれば第三の夫が生きてきます。天智天皇が崩御した671年以降に知り合い、天武天皇天皇崩御された686年には堂々と大嶋の妻として態度を明らかにしていたと思われます。 私は天武皇后の姉大田皇女が生んだ大伯皇女より一年早く生まれた十市皇女と同様、額田王が大田皇女より一歳年上と考えました。額田王は中臣大嶋と2歳違いとなります。 600年 6666666666777777777788888888889999 0123456789012345678901234567890123 天智天皇在位 天武天皇在位 持統天皇在位 天智天皇 ―――――40―――――46 天武天皇 PQRS―――――――――30―――――――――40――43 中臣大嶋 OPQRS―――――――――30―――――――――40――――――――49 額田女王 QRS―――――――――30―――――――――40―――――――――50――73 十市皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR 黒岩重吾氏はその遺作となった「闇の左大臣 石上朝臣麻呂」のなかで、中臣朝臣大嶋について、どのような根拠に基づくかはわかりませんが、本稿と同じ年齢で紹介されていました。 「(689持統三年)、現在の大嶋の位は麻呂とほぼ同じだった。ただ、年齢は五歳ほど若い。」(集英社文庫P393) その石上朝臣麻呂の年齢は 640舒明12年生〜717霊亀3年没 78歳とわかっています。 よって中臣朝臣大嶋の年齢は645大化 1年生〜693持統7年没 49歳 となります。 このように、額田王が若返ることで、ここでも中臣朝臣大嶋が同年配の夫として輝いてくるのです。 第1の夫 天武天皇 660斉明6年(18歳)〜666天智 5年(24歳) 第2の夫 天智天皇 666天智5年(24歳)〜671天智10年(29歳) 第3の夫 中臣大嶋 〜693持統 7年(51歳) 額田王の万葉歌 年齢がこうも若返ると、歌の印象も変わります。というより、学者たちの描く萎びた額田王ではなく、若くはつらつとした我々万葉ファンの素直な印象に近づいた、これが額田王といえないでしょうか。 額田王を若返らすその最大の理由、それはなんと言っても万葉集につづられた若々しい情熱的な歌の一句一句です。ここで、本稿の年齢と伊藤博氏に代表される一般的年齢設定()内とを併記して額田王の歌を綴ってみました。どちらが額田王にふさわしい年齢と思いますか。 額田王17歳本稿(29歳通説)
659斉明5年の歌という。山上憶良は648大化4年のときの皇極上皇の歌とし、額田王の歌ではないとしています。万葉集はこのころ額田王がまだ幼少6歳ぐらいで歌うはずがないことを知っていたのだと思います。そこで、斉明5年吉野宮の饗宴の席で、斉明天皇に成り代わり詠んだ比良宮(滋賀近江良山の東)の思い出の歌だとしたのです。 早熟な額田王のデビュー作です。斉明天皇の御心を詠んだ歌と言われています。皇極上皇時代を思う歌ですが、この頃、額田王自身は大海人皇子との恋愛に真最中だったはずです。翌年18歳で十市皇女を出産したと考えています。29歳では天才歌人としてあまりに遅すぎるスタートではないのでしょうか。 斎藤茂吉も「万葉秀歌」のなかで「単純素朴のうちに浮かんで来る写像は鮮明で、且つその声調は清潔である」と述べています。 額田王19歳(31歳)
661斉明7年正月の歌といいます。朝鮮出兵のため九州に向かう際の歌です。 万葉集の添え書きには「右は、山上憶良大夫が類聚歌林に検すに曰く、舒明天皇の637舒明9年12月14日に天皇と大后は伊豫湯宮に幸す。斉明天皇の661斉明7年春正月6日、御船は西征して始めて海路に就く。14日、御船は伊豫熟田津の石湯行宮に泊つ。天皇、昔日(むかし)より猶し残れる物を御覧し、すなわち、感愛の情を起こす。ゆえに歌詠を製りて哀傷したまうといえり。即ち此歌は天皇の御製そ。但し、額田王の歌は別に四首有り」とあります。天皇の歌を額田王が作り詠ったという万葉集の主旨のようです。 斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。「月が満月でほがらかに潮も満潮でゆたかに、一首の声調大きくゆらいで、古今に希なる秀歌として現出した。」「命令のような大きな語気ではあるが、たとい作者が女性であっても、集団的に心が融合し、大御心をも含め奉った全体的なひびきをしてこの表現があるのである。」 誰だったか「生命力に富む歌」と賞した人もいます。一児の母になったばかりのはずです。生命力に溢れる歌です。 額田王20〜23歳(32〜35歳)
万葉集随一の難解な歌として知られています。 意味は不明ですが、さわがしく厳しい世評のただ中にある夫の姿を心配そうに見つめる額田王の姿を感じます。白村江の敗戦の衝撃か、夫の母斉明天皇が亡くなったことも含め大変なときだったはずです。紀伊の温泉での歌ともいう。斉明4年の行幸時の歌とする意見もありますが、万葉集構成上、年代順配置の原則からやはり斉明7年以降の歌としました。 本稿では、各皇子の出産年代を調べているうちに、この5年間、天武天皇に子供が生まれなかったことがわかってきました。なぜでしょう。 九州での水城、瀬戸内海ののろし台の建設、さらにそんな中、敗戦処理として大唐軍が大挙して使節として九州を訪れています。このとき、天武天皇は天智天皇の名代として、妻子らと別れ、九州の地で奮戦していた時期があったと想像しています。天武天皇が明日香に戻るのは母、斉明天皇らをできた墓に埋葬する儀式のとき667天智6年のことです。 額田王24歳(36歳)
667天智6年3月、近江へ遷都。明日香を離れ、新しい京、大津に向かうときの歌です。 天智天皇への旅立ちの歌ともいえるのではないでしょうか。天武天皇は妻子を残し、この頃まで一人九州にいたと推測しています。いつ頃、天智天皇と関係ができたのでしょう。娘と二人、九州の天武天皇を心細く待つ中で、天智天皇の誘いにのる隙がいつしか生まれていたのかも知れません。 しかし、彼女は天智天皇を選択しました。彼女の決意の歌ともいえそうです。 額田王25歳(37歳)前後の歌です。
冬がすぎ春が来ると、鳥が鳴き、花が咲き、山も青々と茂ってくる。でも、草深い春山に入ってまでしてうるさい鳥の声のなか草花を採りに行こうとは思わない。秋山こそ深く分け入り、木の葉を見、紅葉を手にとって草花を楽しみ物思いに興じることができるのです。私は秋山をとります。(意訳) 春山と秋山、どちらがよいかとのご下命によりお歴々が集う席上、春秋の優劣つけがたくあるなかで、額田王は歌で、私は秋山がよいときっぱり主張したものです。曖昧にしない恐れを知らぬ勝ち気な女性らしい若々しい歌です。また大変に負けずきらいな性分のようです。 近江大津京での一こまでしょうか。額田王はもう天智天皇の宮人です。天智天皇の熱い信頼のもと、こうした大胆な発言をしています。本当に天智天皇を愛し始めていたと思います。光り輝く額田王の歌です。 飽くなき自己顕示欲の強い女性とも言えそうです。秋を好むと言っていますが、内向的な女性ではあり得ません。 額田王26歳(38歳)
額田王はすでに天智天皇の宮人です。大海人皇子は25歳です。 斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。「この歌は、額田王が皇太子大海人皇子にむかい、対詠的にいっているので、濃やかな情緒に伴う、媚態をも感じ得るのである。」 天智天皇の狩り場の中で、額田王は周囲に気にもとめずに自分に向かって袖を振る天武天皇の大胆なお姿をみて、かつての妻として彼の身を心配している思いやりが感じられます。また、もうあなたの妻ではないのだからと自分の身をあきらかにし、自分に戒め言い聞かせているようにもみえます。 (追記)知人から「紫野行き、標野行き」は「紫野逝き、標野行き」であると、藤村由加氏の「額田王の暗号」に書かれています、と教えて戴きました。確かに意味がまるで違ってきます。突きつめると、大海人皇子の元を去り、天智天皇の元に入った、と自ら言い切ったようです。(2011.05.04)
蒲生野遊猟時の額田王に対する恋歌。有名な天武天皇の額田王への恋の歌です。 真率な表現で堂々と燃えるような恋情を訴えています。あなたは人の妻となって、紫の色の美しく匂う花のようにますます美しくなった、と額田王を讃えたのです。ここでは、大海人皇子25歳、額田王26歳として鑑賞したいものです。若い大海人皇子の歌とすれば自然なのです。この情熱的な歌を、宴席で披露された40歳近い中年男女の掛け合いの歌とか、秘められた不倫歌だと水をさす必要はありません。むりに年取らせた解釈は無用です。 天智天皇もこの二人の歌を聴いていたはずです。弟、天武天皇の歌を通して、なるほど確かに額田王は自分のところへ来て美しくなったと思いを新たにしたに違いありません。天武天皇の頭の良さが冴え渡る場面です。かつての妻にこそこそと振る舞うことはせず、堂々と皆に向かい元の妻の美しさを褒め称えたのです。 北山茂夫氏はその著書「天武朝」のなかで大海人皇子と額田王の歌を称して次のようにいう。(中公新書版P177、1978) 「問答歌の内容は明らかに相聞であるが、巻一の編者が、雑歌の部に編み入れている。天皇の蒲生野への遊猟を契機としてこの問答歌が制作されたからである。それは妥当だとおもう。」また、「狩猟は、七世紀とその前後の、貴人たちの好む野外の集団スポーツである。その昂奮のさなかで、大海人は、王に向かって、大胆にも衆人のなかで、袖をうち振って、恋の感情を示した。王は、それをたしなめる形で美しい歌を贈った。その返歌も艶にうるわしい。消えやらぬ二人の恋心の再燃である。〜。民俗誌家がもっともらしい口調で説く、宴遊の席のざれ歌論などではありえない。いきいきとしたその躍動のリズムを深く味わうといい。文学論以前の論議は、黙殺するがよい。」(下線は本稿) つまり、北山茂夫氏は40歳の歌であることには耳をふさげと言っているのです。25歳の歌か40歳の歌か、その違いを無視するわけにはいきません。 額田王 25〜29歳(37〜41歳)
天智6年〜10年の歌。斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。「この歌は、当たりまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味籠もった不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。」天智天皇を慕うようになった30歳前の女性の自然な思いです。これを額田王40歳のころの歌とするから意味不明な解釈が飛び交うのです。
鏡女王ははじめから天智天皇に納められていた古い女性です。そこへ額田王が天武天皇のもとを離れ、鏡女王と同じ大津宮に移ってきたのです。額田王は言います。あの方はすだれ越しにお出でになります。だから、秋風にすだれが動くだけで心がときめくのです。 これを聴いた鏡王女は応えています。あなたが羨ましい。こちらにはそんな秋風さえ吹いて参りません。あの方はもうお出でにならないのでしょうか。 年齢設定の結果ですが、額田王がかなり若返ることで鏡王女の姿も変わって見えてきます。例えば鏡王女は額田王の姉と言われてきましたが、そうではなく叔母的な人だったのではないでしょうか。例えば鏡女王は額田王の父、鏡王の妹とか。そういえば、名前も鏡王に対する鏡王女です。額田王が鏡女王と姉妹とするには額田王の名前自体が構成上違う気がします。鏡王女はこの姪の額田王の若いゆえの挑戦的な歌に答えることができたのです。年の差がある所以なのか鏡王女には額田王を包みこむ寂しい余裕をこの歌に感じてしまいます。同世代の姉妹の歌とは思えません。 【額田王と鏡王女との関係】 <本稿> |<一般通説> | 天武天皇 | 某氏 天武天皇 某氏 ├―――十市皇女 | ├―――鏡王 ├―――十市皇女 ├――――鏡王――額田王 | 妻 ├――――額田王 ├――――鏡王女 | | ├――鏡王女 | 妻 | | | 妻 | | 天智天皇 | 天智天皇 額田王29歳(41歳)
天智天皇の突然の死に、額田王は茫然自失状態です。自分を責めています。 額田王30歳(42歳)
額田王は少なくとも5年間は大津にいたことになります。額田王は天智天皇を深く愛してしたこともわかります。壬申の乱にも敗れ、大津京は日に日に寂れていったようです。 額田王51歳(63歳)
693持統7年5月、額田王は天武天皇の死後、藤原朝臣大嶋の妻であったはずです。一般に天武天皇や天智天皇への追憶の歌と言われる歌ですが、三番目の夫中臣朝臣大嶋への追悼歌なのかもしれません。なぜなら第3の夫、藤原朝臣大嶋と死別したのは、この歌の二ヶ月前、693持統7年3月と思われるからです。詳細は弓削皇子の項に譲ります。 いつ頃、中臣大嶋と知り合ったのでしょう。むろん十市皇女が薨去されて後でしょうし、あるいは天武天皇が崩御されてからかもしれません。いつしか、彼女は持統天皇を支える朝廷のブレーンである夫を影から支えるようになっていきました。 なぜ、こんなとき突然に弓削皇子は昔をしのぶ歌を額田王に贈ったのでしょう。たぶんにその後ろに持統天皇の差し金であったと思われます。悲しみに沈む額田王に対して、負けず嫌いな性格に闘争心の火を付けたのが皮肉にもこの弓削皇子の歌でした。 額田王はその後、持統天皇の死を横目で見ながら、さらに20年を少なくとも生き続けました。ひたすら中臣朝臣大嶋の為に粟原寺建立に力を尽くしたのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |