天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
鏡女王の年齢 かがみのおおきみ First update 2008/10/02
Last update 2011/03/12 生年不詳 〜 683天武12年7月4日薨去 日本書紀 637舒明9年生 〜 683天武12年薨去 47歳 尾山篤二郎 634舒明6年生 〜 683天武12年薨去 50歳 本稿主張 鏡姫王(日本書紀)、鏡王女(万葉集)とも書く。 鏡女王は延喜式、興福寺縁起などに表記されている。 父 宣化天皇の孫 阿方王か? 母 不詳 夫 天智天皇 中臣鎌足 兄 鏡王(大紫韋那公高見) 672天武1年12月薨去(日本書紀) 姪 額田王 (額田王を妹とする説が有力。本稿ではこれを取りません。) 甥 猪名真人大村 鏡王の第三子 707慶雲4年4月24日没46歳 【本稿説系図】 天武天皇 女 ├―――十市皇女 大河内稚子 (ほのほ) ├――――額田王 ├――――――火焰王――――(阿方王) ├――――猪名真人大村(第三子) | ├―――鏡王(韋那公高見) 宣化天皇 ├―――――鏡女王 | 菟名子 女 | | ├――石姫 ├――田村 | | 橘仲 ├――敏達天皇 ├――舒明天皇 | | 欽明天皇 ├――押坂 ├―――天智天皇| 広姫 宝皇女 中臣鎌足 ├―――中臣不比等 車持国子君―――与志子 【鏡女王 関連年表】 634舒明 6年 1歳 鏡女王降誕 本稿仮説 643皇極 2年 10歳 鏡王の第一子、額田王降誕 本稿仮説 650白雉 1年頃 17歳 天智天皇こと中大兄皇子に嫁ぐ 658斉明 4年 25歳 中臣不比等降誕 662天智 1年 29歳 鏡王の第三子、猪名真人大村降誕 669天智 8年10月36歳 中臣鎌足死去 671天智10年12月38歳 天智天皇崩御(46歳) 672天武 1年12月39歳 鏡王こと大紫韋那公高見薨去 683天武12年 7月50歳 鏡女王薨去 鏡女王についてはあらゆる推測、憶測、定説、自説が乱立しています。本稿もそうしたひとつにすぎないのかもしれませんが、以下に鏡女王のこれらの説をひとつひとつ取り上げます。 それはまた、本稿のスタンスとも言えます。 1.鏡女王と額田王は姉妹か。 NO 2.舒明天皇の皇女、または孫など天皇家に関わる家系か YES 3.鏡王は威奈(いな)鏡公か(公尾山篤二郎氏説) YES 4.はじめ天智天皇に嫁ぎ、その後中臣鎌足の妻になったか YES 5.鏡女王は中臣不比等の母であるか。 NO 現在、一般化された鏡女王は額田姫王の姉とする説は江戸時代、本居宣長『玉勝間』の見解によるものからのようです。それほど古い説ではないのです。 その姉妹説の理由は二つ、一つは「鏡王」と「鏡王女」と御名が同じだということ、二つは万葉集の第四巻、八巻に重載する額田王と鏡王女との唱和された歌があるということです。 本稿では額田王の年齢研究から鏡女王が額田王の姉ではなく叔母にあたるのではないかと考えました。 その根拠は次のとおりです。 1.「鏡王」と「鏡女王」は親子ではなく兄妹と考えられること。それは名前に共通性が見られるからです。少なくとも「鏡女王」と「額田王」を同列には扱えません。 2.「額田王」は日本書紀の記述から「鏡王」の娘であることはあきらかであること。 3.血筋四世の孫までが天皇家に属するとする見解から、「鏡王」が亡くなるとき「薨」という言葉が使用されるように、「鏡女王」にも「薨」が使用されたこと。 むろん「額田王」はその生没年齢さえ不明であることから五世以降と考えられます。 4.本稿の年齢考証の結果、「額田王」が通説よりかなり若いと思われること。 5.万葉集の天智天皇を慕う二人の歌(C488、489)から感じる雰囲気が私の思い込みかもしれませんが、「額田王」の歌に比べ、「鏡女王」の歌には控えめな余裕を感じること。 これらのことから、鏡女王は額田王の叔母と考えるべきと考えました。 追記―「玉勝間」について 2011.03.12 本居宣長著「玉勝間二の巻」の「鏡女王額田王」の項を以下にまとめます。 参照 本居宣長全集第一巻 筑摩書房 S43 1.鏡女王は「鏡王女」ではなく「鏡女王」が正しい。 古くは女王と言わず、鏡王と言ったが、父と同じで紛らわしいため、「鏡女王」と言い分けた。 2.「さて右の二女王、ともに鏡王といひし人の女(むすめ)にて、鏡女王は姉、額田王は弟(いもうと)と聞えたり」。これが、姉妹説の最初のようです。 3.すべて住まわれる地の名により呼び分けられた。 4.父王は近江国の野洲郡の鏡の里に住まう。 5.此の姉妹ともに天智天皇に娶(めさ)れたことは「万葉二の巻の十のひらに、天皇の賜へる御歌」(現在A91)、「万葉四の巻の十三のひらに、思近江天皇歌」(現在C488)で明らか。 6.内大臣(中臣鎌足)の聘ひ(よばい)給うことは天智天皇に召される前後どちらもあり得る。 7.天武12年に女王の病を見舞い、薨(みうせ)を記されたことも、天智天皇の妃だからだ。 8.天武天皇は皇太子の頃より額田王に御心をかけられていたが、天智天皇が崩されて後に召され、十市皇女を生んだ。 結局、本居宣長も俗説に基づき、2人を姉妹と位置づけ、根拠を示していません。唯一万葉集を用いた推論と思われます。こうした誤解も、当時の天智天武の年齢定説(58歳、65歳)に基づいたからです。(現行通説は46歳、56歳)。当時の才人も情報が異なれば判断を誤ります。 おもしろいのは、本居宣長も十市皇女を非常に若く、捉えていたようです。なぜなら、十市皇女は天武7年に薨じられているからです。当然、大友皇子が壬申の乱で薨じた後に生まれたことになりますから、大友皇子と十市皇女が夫婦であるはずはないのです。 天皇陵を一覧にした延喜式に鏡女王の墓が存在します。 延喜式巻二十一諸陵寮
延喜式に掲載された諸陵寮には、天皇、皇子、皇后、天皇母に限られるようです。 中島光風「鏡王女について」(『文学』11−10)によれば、「墓」で限定するとこれは「某天皇の御母又は御孫にあたり給うお方がその天皇の御陵域内に葬られて居られる例である」。このことから鏡女王は舒明天皇の子か孫としておられます。 はっきりしませんが、鏡王が天智天皇の臣下で同世代と考えられることから、鏡王と鏡女王の母が舒明天皇の姉妹などその所縁のものとも考えられます。 また中島光風氏は鏡女王と額田王の姉妹説をはっきり否定しておられ、これも示唆に富むものです。 賢明なことに、鏡王と額田王との親子関係を言外に認めながらも鏡女王との関係は「不明」とされています。 集解は「疑舒明天皇孫」としています。その理由は書かれていないとのことです。 日本書紀 天武紀12年
日本書紀に示された鏡姫王こと鏡女王は683天武12年7月5日に薨去されました。天武天皇が自ら鏡女王を見舞ったことから鏡女王が天皇家の血筋のものであることは確実と思うのです。 それを裏付けるように、日本書紀の八色の姓の制定に際し、伊奈氏を真人にしています。真人は天皇家に通じる家系を示しているのです。 この鏡王に関しては、尾山篤二郎氏の「額田姫王攷―萬葉集大成(作家研究篇 上)」から多くを学びました。 現在、大阪の四天王寺所蔵になる国宝銅盒子(骨蔵器)の彫られた銘文があります。 これは、天明年間に大和国葛城下郡馬場村の百姓により掘り起こされた物とあります。
以上の記述から、鏡王はこの威奈鏡公であるという予測がなりたちます。 威奈大村卿は宣化天皇の四世にあたる斉明天皇時、紫冠の威奈鏡公の第三子とわかります。 つまり、日本書紀の額田王の父、鏡王とは、この威奈鏡公を指すと思われます。 この威奈大村卿は662天智1年に生まれ707慶雲4年に没しました。享年46歳となります。 そこで、この威奈氏についての文献から抜き出してみると、 古事記には、 「宣化天皇は、橘の中比売命を妻にして石比売命、子石比売命、倉之若江王を生んだ。また、川内の若子比売を妻にして火穂王、恵波王を生んだ。火穂王は志比陀君の祖であり、恵波王は韋那君・多治比君の祖である。」 なお「旧事紀」では「火穂皇子<偉那君祖>」とあるらしい。 日本書紀には、 650大化6年2月15日、穴戸国(後の長門)から献じられた白雉を三国公麻呂、猪名公高見等四人が白雉を輿にのせ天皇に差し出された。この時に白雉と改元された。 672天武1年7月17日、韋那公磐鍬の配下が和蹔で高市皇子の伏兵に捕らえられ、逃げ帰る。 672天武1年12月、「是月、大紫韋那公高見薨。」 681天武10年10月1日に諸氏の族姓(かばね)が改められ、猪名公を含む13氏に真人を賜姓したとあります。 続日本紀には、 703大宝3年7月5日、正五位下の猪名真人石前(いわさき)を備前守に任じた。 703大宝3年10月9日、持統太上天皇の葬儀の装束を整える長として穂積親王、副として従五位下の猪名真人大村等が任じられた。 706慶雲3年閏正月5日、従五位上の猪名真人大村が越後守に任じられた。 716霊亀2年1月5日、正六位上猪名真人法麻呂(のりまろ)等に従五位下を授けた。 720養老1月11日、正六位上猪名真人石楯等に従五位下を授けた。 737天平9年8月28日、正六位上為奈真人馬養(うまかい)等に従五位下を授けた。 下、東麻呂、玉足、豊人の名がみえる。 三代実録には、 863貞観5年10月27日、為奈真人菅雄ら五人の戸に火焰王の後裔のゆえに「未可徴課役也」とあるといいます。 880元慶4年10月27日、「宣化天皇第二皇子火焰親王。是川原公、為奈真人等之祖」とあるらしい。 新撰姓氏録右京皇別、摂津国皇別には 「爲名真人。宣化天皇皇子火焰王之後也。日本紀合。」 なお、「いな」は威奈、韋那、猪名、爲名と書かれ、皆同名と思われます。「日本古代氏族事典」によれば、氏名は摂津國河辺郡為奈郷(兵庫県尼崎市東北部)の地名にもとづくが、この地方に設置されていた猪名部の伴造氏族の為奈部首氏より出た乳母の氏名に由来する、とあります。 また、鏡王の名前に力点をおけば、近江国野洲郡鏡里という説が有力となります。大紫韋那公高見は天智天皇に関わる臣下でしたから、天智天皇に伴い大津宮時代この辺りに住んでおり威奈鏡公と呼ばれていたのかも知れません。 一世 二世 三世 四世 宣化天皇――――火焰皇子――――(阿方王)――――威奈鏡公―――猪名大村 (〜539) (ほのほ) (〜672) (〜707) 欽明天皇―――敏達天皇――押坂皇子――舒明天皇―――天智天皇―――持統天皇 (〜571) (〜585) (〜641) (〜671) (〜702) 上記の家系の推移はその人の没年齢を示すことで大まかな同世代人であることがわかります。 威奈鏡公は宣化天皇の四世となります。新撰姓氏録から宣化天皇の子が火焰王で次に名のわからない三世を通して四世として威奈鏡公がいるわけです。ここでは仮に阿方王としました。これは『古代豪族系図集覧』(近藤敏喬編)によるものですが、なぜ額田鏡王の父が阿方王か根拠が不明で、他の部分が本稿の研究と異なるため安易に確定はできませんでした。 天皇を即位順ではなく親子関係だけで系図に表すと宣化天皇の弟が欽明天皇ですから、その第二子が敏達天皇、そのまた長男が押坂彦人大兄皇子となり、その子が舒明天皇です。舒明天皇の皇后皇極天皇を通して天智天皇が生まれ最終的にその娘持統天皇と引き継がれたのが日本書記に描かれた系図です。 こうして比較してみると概略的には蘇我本宗家とほぼ同じ世代で引き継がれたことがわかります。蘇我稲目は宣化天皇、欽明天皇の大臣でありました。その子蘇我馬子は敏達天皇の大臣に始まり、その子推古天皇の時まで仕えています。これを蘇我蝦夷が舒明天皇とその皇后、のちの皇極天皇の大臣でしたが息子の蘇我入鹿は皇極天皇の子である天智天皇に殺されたことは周知の通りです。 こうした中で大紫韋那公高見は重祚した斉明天皇と天智天皇に仕えたことになります。天智天皇が亡くなり、壬申の乱が終わった年、672天武1年12月に薨去されたとあります。日本書紀はこの壬申の乱を締めくくる最後の言葉として威奈鏡公の死を伝えています。天智天皇のあとを継いだ大友皇子に従い殉死したイメージが残ります。つまり、額田王の父がこの年亡くなったのです。 このすぐれた尾山篤二郎氏の説も現在はほとんど信じられていません。 その原因のひとつは、現在通説で額田王らの年齢が非常に高く設定されていることが、掘り出された銅盒子の猪名大村の年齢記述とかけ離れ、矛盾するとみられたことが大きな要因のようです。 本稿では額田王の年齢が通説に比較して12歳は若いと主張しています。そのことで尾山篤二郎氏の説を少しでも応援することができればと思います。 【尾山篤二郎氏の説】 600 4444455555555556666666666777777 年 年 5678901234567890123456789012345 齢 天智天皇――――――――40―――――――――50―――――――58 中臣鎌足――――――――40―――――――――50―――――56 鏡女王 (第一子)MNOPQRS―――――――――30――――――――――47 額田王 (第二子)KLMNOPQRS―――――――――30――――――――77以上 猪名大村(第三子) @ABCDEFGHIJKLM―43 【本稿の主張】 600 4444455555555556666666666777777 年 年 5678901234567890123456789012345 齢 天智天皇S―――――――――30―――――――――40―――――46 中臣鎌足――――30―――――――――40―――――――――50 鏡王 ――――――――30―――――――――40――――――――49 鏡女王 KLMNOPQRS―――――――――30―――――――――40―――50 額田王 BCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――73 猪名大村 @ABCDEFGHIJKLM―43 修正(2011.03.12) 尾山氏は男女の区別なく、猪名大村が第三子ゆえに、鏡女王、額田王を第一子、第二子と単純に割り振られていますが、ここはやはり、男子としての三番目の子が猪名大村とすべきです。 年齢設定ですが、まず本稿で主張している額田王の年齢から彼女の生まれた歳を鏡王が20歳のときとしてみました。また、鏡女王が天智天皇に捧げられた年齢は17歳とし、それは650白雉1年、鏡王が白雉を天皇に捧げられた年としました。このとき、鏡女王も同行し、入内したとしました。 つまり、鏡王は鏡女王と同じ宣化天皇の三世の孫です。額田王はこの猪名大村と姉弟で四世となります。 鏡王は天智天皇と同世代の人間であり、壬申の乱では近江軍に属し、亡くなられています。 万葉集にのる鏡女王の歌は四首あります。関連する前後の歌も示します。 万葉集 巻第二相聞
天智天皇と鏡女王の性格を対比させた、すばらしい愛の歌です。 天智天皇は天上から地上の鏡女王を常に見ていたい、庇護したいと詠います。 鏡女王は逆に木々の根を潤す水の流れのように地上から天上の天智天皇へ愛で満たしましょうと詠うのです。天智天皇は最高権力者の一人として自信に溢れ、鏡女王の性格は地味で静かですが深くしぶといのです。この天と地の対比はみごとです。 天智天皇が「大和なる」と書かれたことから、大和にはおらず難波宮に居られた頃の歌と言われています。つまり孝徳天皇の御代で天智天皇になられる前、中大兄皇子といわれた時代です。難波宮にいた期間は645大化1年から653白雉4年の9年で20歳から28歳の若い皇子時代となります。また、天智天皇自身、乙巳の変を乗り越えたばかりの645年の頃ではまだ身の上が定まりません。 この歌は鏡王が関わる650白雉1年の頃がもっともふさわしい自信に溢れた歌と考えました。27歳になっていました。さらに、このとき鏡女王は恋のできる17歳、自ら歌を作り、詠える17歳としてみました。 万葉集
一般に額田王40歳前後の歌といわれますが、本稿では25〜29歳と考えています。 天智6年〜10年の歌。斉藤茂吉は「万葉秀歌」のなかで言っています。「この歌は、当たりまえのことを淡々といっているようであるが、こまやかな情味籠もった不思議な歌である。額田王は才気もすぐれていたが情感の豊かな女性であっただろう。」 天智天皇を慕うようになった30歳前の女の自然な思いです。これを額田王40歳のころの歌とするから意味不明な解釈が飛び交うのです。 一方、鏡王女は額田王よりかなり年上と解釈しました。年齢を10歳は年上としました。鏡女王は天智天皇が中大兄皇子と呼ばれていた頃に納められていた古い女性です。そこへ若い額田王が天武天皇のもとを離れ、鏡女王と同じ大津宮に新しく移ってきたのです。 額田王は言います。あの方はすだれ越しにお出でになります。だから、秋風にすだれが動くだけで私の心はときめくのです。これを聴いた鏡王女は応えています。あなたが羨ましい。こちらにはそんな秋風さえ吹いて参りません。あの方はもうお出でにならないのでしょうか。 年齢設定の結果ですが、額田王がかなり若返ることで鏡王女の姿も変わって見えてきます。鏡王女は額田王の姉と言われてきましたが、そうではなく叔母的な人だったのではないでしょうか。例えば鏡王女は額田王の父、鏡王の妹とか。そういえば、名前も鏡王に対する鏡王女です。額田王が鏡王女と姉妹とするには額田王の名前自体が構成上違う気がします。鏡王女はこの姪の額田王の若いゆえの挑戦的な歌に控えめに答えたのです。年の差がある所以なのか鏡王女には額田王を包みこむ寂しい余裕をこの歌に感じてしまいます。 個人的には負けず嫌いな額田王の歌より人を気遣う鏡女王の歌が好きです。 <一般的通説に基づく額田王と鏡王女の関係>|<本稿における額田王と鏡王女の関係> | 某氏 天智天皇 | 天智天皇 ├―――鏡王 | | |(阿方王) | | 妻 ├――鏡王女 | | ├―――――鏡王女 | ├――――額田王 | ├―――鏡王―――額田王 妻 ├―――十市皇女 | 妻 ├―――十市皇女 天武天皇 | 天武天皇 万葉集
伊藤博氏は「采女はすべて美人であった。諸国の郡少領以上の姉妹および子女のうちで容姿端麗な者が選ばれて、天皇に献上された女性だからである。古くから国造たちに課していた習わしが律令時代に入って制度化された。天皇に近侍する采女は、他の男性と縁を持つことを固く禁じられた」といいます。 ここでは@94「鏡王女」とそのすぐ後に連続して歌われる@95「采女(うねめ)安見児(やすみこ)」を同一人物と見ました。天智天皇が次々と二人の自分の女を部下の鎌足だけに下げ渡したとは考えにくいからです。 「鏡王女」とは鏡氏の王女という公式名称です。「安見児」が鏡女王の内輪のものだけが知る名前でしょう。女性の本名は本当に親しいものにしか知らせないのがこの頃の風習です。例えば、万葉数A120で草壁皇子が石川郎女を「大名児(おおなこ)」と呼び捨てにしたのと同様のものです。万葉集はこれを「字(あざな)」と書いています。草壁皇子と同じで、中臣鎌足は「安見児」と呼ぶことで自分の身内になったことを内外に宣言して見せたのです。 この歌は天智天皇との愛の歌のすぐあとに続けて配列されています。しかし、上記で見たように実際は額田王が天智天皇に愛されるようになった後、衰えを見せた鏡女王を中臣鎌足が天智天皇の了解のもと関係を迫ったとするのが自然と考えました。すなわち額田王が天智天皇に愛された天智2年以降と考えられ、鏡王女と額田王が天智天皇の采女として同列にいた期間が少しあり、中臣鎌足との関係はその後のことです。しかし天智8年には中臣鎌足は亡くなってしまいます。鏡王女は36歳のときと思われます。ですから中臣鎌足との関係は長く見積もっても4,5年間の晩年mp短い期間だったと考えられるのです。 興福寺縁起では藤原鎌足の正室となり、不比等を生んだといわれています。中臣不比等は658斉明4年の生まれで本稿の試算でも鏡王女25歳の頃ですから年齢的には合います。しかしながらこの頃はまだ中大兄皇子こと天智天皇の室であり、中臣鎌足と関係があったとはとても思えないのです。 ついでに記せば、「大鏡」でも中臣不比等は天智天皇の子としています。 天智天皇の子を孕んだ室を中臣鎌足が引き取り、女の子が生まれたら天智天皇の子、男の子が生まれたら鎌足の子として育てよ、との約束があったといいます。 さらに記せば、「多武峯略記」でも今度は中臣鎌足の長男貞慧を孝徳天皇の子としています。 孝徳天皇の子を孕んだ車持国子の娘を中臣鎌足に下げ渡され、女の子なら孝徳天皇の子、男の子なら鎌足の子とせよと、上記と同様の話があります。 「大鏡」は平安時代後期、「多武峯略記」は鎌倉時代の成立ですから、両者の関係は推して知るべし、です。中臣不比等が鏡女王の子だとか、天智天皇の隠し子だとかは信ずるに足りません。 しかし、火のないところに煙は立たずではありませんが、こうした物語が生まれた背景が藤原家にはあったと推測しています。それが中臣不比等と天武天皇夫人、五百重娘との関係と推測できます。この夫人は中臣鎌足の娘です。詳細は五百重娘の項に譲ります。 万葉集 春雑歌
神奈備の石瀬の社の呼子鳥よ、そんなに激しく鳴かないでおくれ。私の恋しい思いが募るばかりだから という意味です。この歌は、鏡王女が鎌足の死後、彼を思って作った歌だという説もあります。 ここでは「喚子鳥」、「痛莫鳴」の分析を試みます。 まず、「喚子鳥 よぶこどり」ですが、伊藤博氏は「いとしい人を呼ぶように鳴く鳥の意。いかなる鳥か不詳だが、郭公かという。3〜5月に鳴く鳥として詠まれている。」 折口信夫氏は万葉集辞典で「呼子鳥」として「閑古鳥と呼ばるる郭公の事であろう。此鳥はほととぎすと混同せられているが、其鳴き声が子を失うた親の化したものだなどという民譚も、生じた程である。」 呼兒鳥、喚兒鳥とも書く。「喚子鳥」としては人をよぶに連想して」使われるという。 郭公(かっこう)はホトトギス科の鳥でホトトギス同様、卵を他の鳥に託す鳥です。 「喚子鳥」は万葉集全体で6歌に使用されています。巻8春雑歌で2歌、この鏡女王と大伴坂上郎女(G1447)の歌です。巻10春雑歌、動物部、鳥を詠む、に4歌(1822,1827,1828,1831)ですが作者は記されていません。他に呼兒鳥@70、喚兒鳥H1713があります。 そして「痛莫鳴 いたくななきそ」です。伊藤博氏は「全面的に鳴くことを禁じていないところに、やさしさやつつしみがこもる。この類は、いたくな撥ねそ(A153)いたくな咲きそ(E979)いたくな行きそ(F1370)いたくなわびそ(K3116)いたくな伐りそ(O3862)いたくな降りそ(R4222)など集中に14例ばかりを数え、婉曲な禁止を示す慣用表現をなしており、全面否定をしない心のつつましさはどの歌にも感ぜられる。」 「痛莫鳴」にかぎると万葉集全体では3例にとどまります。すべて巻8に使われ、この鏡王女と夏雑歌として五百重娘(G1465)と大伴坂上郎女(G1484)で対象はホトトギスとなります。しかし、この3例をみるかぎり伊藤博氏がいうような「つつしみがこもる」とも思えない激しい歌のように見えます。あきらかに気が滅入る、うるさいと耳をふさいでいるようです。確かにまるきり鳴かないのも困るのですが、この3人は屈折した思いを鳥の鳴き声から感じてしまうようにも見えるのです。 鏡王女は天智天皇と中臣鎌足に愛され、五百重娘は天武天皇と中臣不比等に愛され、大伴坂上郎女は天武天皇の穂積皇子や藤原子麻呂、さらには大伴宿禰宿奈麻呂に愛された女性です。 どの女性もみな尋常でない恋愛を経験してきたものたちなのです。 「興福寺流記」所引「宝字記」に「中臣鎌足は大化改新の成功を祈って、釈迦三尊像・四天王像を造ると発願した。事が成就した後、山階の地に造像を行う。やがて重病になり、妻の鏡女王の勧めで伽藍を建て仏像を安置した。これが山階寺の始まりである」と記されています。 中臣鎌足は自分のためのこの寺の建立には乗り気ではなかったという鎌足らしいエピソードが残っています。 つまり、669天智8年に鎌足病気平癒を祈り、鏡女王自身が建立したものでした。 所在地は3つほどの説があります。 1.京都市山科区御陵大津畑町 山科駅西南、御陵大津町を中心とした地域であったとする説 山階陶原家付属の持仏堂が始まりと推定されるからです。埋蔵物は未発掘です。 2.中臣遺跡説 山科区勧修寺東栗栖野町(勧修小学校内)、 3.大宅廃寺説 山科区大宅奥山田(大宅中学校内) 移設された興福寺の瓦と同等のものが発掘されました。 この寺の移設はその後2度にもなります。 672天武元年 明日香に移築され、厩坂寺と改称されました 厩坂寺(うまやさかでら)大和国高市郡厩坂 精確な位置は現在まで不明です。 軽町とも橿原町田中とも言われています。 710和銅3年 藤原不比等が平城京へ移築 興福寺と改称されました。 これが現在に至ります。 山階寺の経緯を見ると鏡女王の中臣鎌足への思いとは裏腹に政治的なにおいを感じます。 兄の鏡王が紫冠威奈鏡公であるならば、壬申の乱のおりは、近江軍に属していたわけで、鏡王自身も近江滅亡とともに亡くなっています。殉死のようにも見えます。 天智天皇を象徴する山科に建てた山階寺を天武天皇の明日香の地に壬申の乱の集結の天武元年に早くも移築し厩坂寺と改名させているのは鏡王の世の動向変化に見据えた遺言のようにも見えるのです。素早い移築対応といえます。 鏡女王は中臣鎌足の室として生きながらえたのです。そして天武12年7月天武天皇にお見舞いを受け翌日亡くなりました。ちょうど50歳ぐらいではなかったでしょうか。 その後、天武天皇も崩御され、藤原京遷都を経て、平城京への遷都に際し、この寺は再度移築され、興福寺として再興されます。藤原一族の寺として生まれ変わったのです。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |