天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
継体大王の年齢研究−出版のご案内 First update 2013/05/12 Last update 2019/06/12 2冊目の出版になります。 書 名 :「継体大王の年齢研究」 著 者 :神谷 政行(かみや まさゆき) 出版社 :株式会社 叢文社(そうぶんしゃ) ISBN978-4-7947-0703-1 発売日 :2013年3月15日 定 価 :本体2000円+税 ページ数 :286ページ(ソフトカバー)188×128mm 帯の文言「前作『天武天皇の年齢研究』で新たな考察法を編み出し歴史洞察を完成させた著者が、 今度は継体大王から記紀の矛盾を突く。」 他店はわかり次第、順次掲載し、お知らせ致します。 発売日変更等の遅れで一部の方々にご心配をお掛けしました。慎んでお詫び申し上げます。 大意(2019/6/12文章変更) 継体大王の年齢について、古事記は43歳、日本書紀は82歳となぜ、こうも大きく違うのでしょう。 崩御年も異なります。古事記は丁未年で西暦527年、日本書紀は辛亥年西暦531年ですが、甲寅年西暦534年の説があることを併記しています。よって在位年も不確実な大王です。この後の天皇は、古事記と日本書紀の記述はほぼ一致しているので、継体大王から前の天皇のあらゆる数字が極端にズレ始めると言えます。 さらにこの天皇には、いろいろ疑惑の多い天皇です。応神天皇の5世の孫となれば、出自が疑われて当然です。継体と次期天皇、息子の安閑は生前譲与しているのに、2年もの空位があるのが不自然、不思議です。また、「この時、天皇、皇太子、皇子が皆死んだ」と異様な百済本記の記事が載せられています。 これらの矛盾をすべて解決します。 その第1のヒント 継体大王と二人の息子、安閑天皇、宣化天皇に対し、それぞれ娶った皇后の姉妹関係が異常であることです。 継体大王の皇后は前天皇武烈の姉です。さらに、息子の安閑天皇も宣化天皇も武烈天皇の姉を娶っています。 普通、権力者に姻戚関係を願う場合、その権力者の娘、もしくは権力者の妹を求めるでしょう。それが、みな武烈天皇の姉でした。 【天皇系譜】 (27代安閑天皇は略)
(数字は天皇代数) これをどう正当化すればいいのでしょう。ここは年齢に拘りました。 @武烈>継体>安閑、宣化 まず、一般的な解釈では、前25武烈天皇が年上、26継体大王が年下とする考え方ですが、これはあり得ません。これでは継体大王は年上の皇后を娶ることになり、息子達はますます悲惨です。 A武烈=継体>安閑、宣化 また、通説のように武烈天皇と継体大王の年齢を同等としても、息子の安閑・宣化天皇は17歳以上年上の皇女娶り、子を生ませるからです。 B継体>安閑、宣化=武烈 ならば、息子達の年齢に合わせ、継体大王の年齢を武烈天皇より17歳以上年上にすることです。 さらに、本説はこれを推し進め、武烈天皇が20歳前には崩御されたのではないかと考えました。つまり、継体大王は息子の年齢に近い若い娘(武烈天皇の姉の一人)を娶ったのです。 この形はもう典型的な古代の国滅亡を意味します。継体大王が武烈天皇を殺し、その姉妹達を継体とその息子達が分配したのです。 この継体、安閑、宣化がほぼ同時に婚姻したことを裏付ける証拠はいろいろあります。 その一つ、継体皇后が生んだ欽明天皇は、宣化皇后が生んだ石姫を娶り、敏達天皇が生まれることです。欽明と石姫は同等の年齢と考えるのが自然であり、これは、継体皇后の妊娠と宣化皇后の妊娠が同時期と推定できるのです。 これが、日本書紀に示された継体、安閑、宣化3天皇を高年齢にしてしまった根本原因であり、新王朝成立を隠蔽する一つの手段であったと思います。日本書紀の編纂者たちは、本来なかった継体大王を天皇系譜に組み込んで見せたのです。 この本はホームページの連載の中から生まれました。 継体大王という調査から生まれた結論の数々は、ホームページの内容を大幅に加筆せざるを得ないものでした。そのために本として独立させました。ホームページの方は修正変更をあえてしていません。起草した原点だからです。 前作、天武天皇の年齢研究と同じ手法を用いて、今度は推古天皇から一人ずつ年齢を探り、積み上げ応神天皇まで描きましたが、あくまで焦点は継体大王に当てています。 また、応神5世の孫が継体大王ですから、この系譜が真実かどうかは別として、年齢推定から、応神〜継体が親子相続なので、20〜26歳の相続とすれば、平均23歳×5代=115年です。日本書紀の在位年応神から武烈まで 在位年 41+87+6+5+42+3+23+5+3+11+8=234年 約120年日本書紀の記述が長すぎ、応神天皇紀と百済記の記述に120年の差違があることにもつながります。 購入先 2.ネット書店一例 Amazon hontoネットストア 7net通販 エルパカBOOKS JBOOK booxstore カラメルBOOKS YESASIA 3.書店 4.図書館でも閲覧できます。 国立国会図書館 請求番号 GB77-J224 拙著へのご批評 「はたして古代(5世紀から7世紀)の有名人物の年齢研究で、古代史が語れるものか、考えさせられた。 狙いは確かにグッドである。しかし、推定年齢で古代史が語れるのか、興味本意で購入した。 古代史は奥が深いと考える。たとえば、「倭国から日本国」になった時期、「天皇制が何世紀に成立」したのか、「百済王と倭国王」の関係は、もっと、はっきりしている研究がある。私の考えはいま述べないが、別の角度からの研究が必要であると考えさせられる一冊である。」 →拙著へのご批判に感謝致します。カスタマーレビューは読者同士の情報の場と聞き、あえてこの場に掲示しました。確かに年齢研究は、小さなひとつの手法に過ぎず、これだけで古代史が語れるはずもありません。大山を一つの場所から描ききることはできません。あらゆる角度から、考古学、芸術、言語、科学、民族、宗教、政治、医学などその一つ一つが大切な手法です。古代史は総合的な学問です。 拙著の視点は、天武天皇当時を再現するもので、現代が考える古代史ではありません。なぜ、こんな長寿や長い在位を設定したのか、まずはこれを解明するのが先だと考えました。 それにしても、今の文献古代学はあまりに年齢に対し安易すぎます。継体大王の年齢を日本書紀は82歳、古事記は43歳とはっきり記しているのです。一人ぐらい、この大きな矛盾に正面から取り組んでもいいでしょう。いつまでも100歳を超える超人的年齢を放置しておく方がおかしい。古代の方々に少しでも人間らしい血を通わせたいと思う一人です。(2013/11/01) カテゴリ:古代史系の妄想 「天武天皇の年齢研究」につづき、第2弾「継体大王の年齢研究」をamazonから購入しました。 私見をいくつか列挙しておきます。 1.神谷さんにもメールでお伝えしましたが、「天皇」という呼称が定められたのは持統天皇のころからとされます。それまでは「大王(おおきみ)」と言われていました。「継体」という謚は、奈良時代に淡海三船(天智天皇の玄孫)が神武から元正(弘文・文武除く)まで一気に命名したので、「継体」とつけられた時点で「継体天皇」だったわけで、「継体大王」って? 神谷さんは著書の中で、「継体」のみ「大王」呼称にこだわり、前後の天皇は「天皇」と呼んでいます。著書を最後まで読めば、その理由がわかるそうです。〜(以下拙著と関わりない自説の為、略しました。) →いつも、彼の幅広い知識には脱帽しています。おっしゃる通りで「天皇」使用は後のことです。それ以前は「天王」「大王」「王」などといろいろ書かれ、読み方も「あめきみ」「おおきみ」「すめらみこと」など、こう言うことに拘ると「皇后」「太子」なども違うでしょう。最近では、「白村江」を「はくすきえ」ではなく「はくそんこう」、新羅も「しらぎ」ではなく「しんら」さらには、韓国語で読むべきなど、きりがありません。ここでのスタンスは、あくまで当時の記紀編纂者たちがどう扱っていたかです。日本書記は全体を「天皇」と統一して見せています。白村江も「はくすきえ」とふりがなしています。 少ない資料で我々が時代ごと、地域ごとに、どう統一して見せるかではありません。 拙著は記紀に書かれた継体の年齢を突き詰めると、どうしても歴代の天皇序列からはみ出してしまい、時間軸では、武烈→継体→安閑ではなく武烈→安閑にしないと説明が付かないと考えました。これ対して記紀は、無理矢理、継体を序列に割り込ませ「天皇」とした為、婚姻や親子関係が妙な年齢構造になってしまったのです。だから、それは違うと主張しました。(2013/12/31) ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |