天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
暦法と紀年と年齢 れきほう と きねん と ねんれい First update 2015/04/09 Last update 2021/07/10 この章では、日本書紀に書かれた暦法を理解するために学び、そこで得た発想を記録し、まとめました。 日本書紀、最古の年代記録−「1,792,470余歳」の解釈 2017年5月 今回、全文を公開しました。それは、かつて総合出版社「歴研」に投稿し、 月刊『歴史研究』2015年4月号に掲載されたものです。 アマゾンなど、大きい書店で購入可能です。 概要:九州日向にいた神武天皇が東征を開始する年は、天照大神の孫、瓊瓊杵尊が日本の日向に降臨してから1,792,470年目に当たるとした日本書紀の記事があります。このあまりに具体的な数字の意味を探りました。小論の結論は、以下の数式で表すことができます。
これを言葉で表現すると、 BC667神武東征開始年の1,792,470年前は、BC1,793,137年。これは、 AD664麟徳元年の(儀鳳歴総法「1340」の乗数に1800年を引いた年間)前に等しい。 詳細は上記タイトルをクリックして、ご覧下さい。 いろいろな発見から、これらが皆、日本書紀成立の一本の道筋を示していたのです。 1792470「一百七十九萬二千四百七十餘歳」年を見直す 2019年9月 『神武天皇の年齢研究』を発表し際し、さらに、これを追記しました。 1792470「一百七十九萬二千四百七十餘歳」年の結論 2021年7月 901昌泰4年に「革命勘文」が三善清行55歳により上奏されました。神武天皇の即位年は古代中国の易緯などにみえる讖緯説で説明できるとしたのです。その思想を調べました。 日本書紀を読むと、「太歳」干支が古代天皇の即位年を中心に使われています。原文は「太歳」と「大歳」を使い分けしています。ところが、現在の岩波版などは、意改と称して、「太歳」に直してしまいました。現代人の奢りです。確かに漢和辞典は同じ意味としていますが、原文を簡単に修正して良いはずもありません。「太歳」の意味から探りました。 日本の紀元 672天武1年6月24日 「壬申年六月辛酉朔甲申」この時、世に言う、壬申の乱が勃発します。天武天皇が吉野離宮を後にする日付です。この日付は、1340年前、神武天皇が九州から東征出発の日といろいろな角度から関連がうかがわれることが判ってきました。また、日本書紀が重要な年と位置づけたとされる神武天皇即位「辛酉」年、現在の建国記念日ですが、本来これは間違いです。日本書紀はその6年前の東征出発の歳「甲寅」年を紀元と考えていたことが、干支年を分析することで判ってきました。 日本の紀元は神武即位年、壬申BC660年ですが「太歳」の文字がありません。 「太歳」の文字は、その7年前、太歳甲寅BC667年、日向より東征に船出するときを指します。 しかし、もう一つ、この東征年の1,792,470年前に天祖、瓊瓊杵尊が日向に天下るのです。 これが、甲申BC1,793,137年なのです。これは何を意味しているのでしょう。 元嘉暦と儀鳳暦 儀鳳年間(676天武5〜679天武8年) 日本書紀の月朔干支は中国の元嘉暦と儀鳳暦に基づき表示されていることが証明されました。しかし、厳密にこの原理を理解し、解釈できたかというとそうでもないようです。いろいろな解釈が出てくる現状があります。本稿もこの二つの暦法を解釈するために、かなりの時間を費やしてしまいました。この二つの暦法には、日本に来るまでによく分からない経緯があり、矛盾があるのです。これを追求しました。 日食と月食 680天武9年11月1日 古代東洋において日食が起ることは天子の不徳が原因とされ、日食は廃朝の前触れとされていました。推古36年推古天皇が崩御されました。その5日前に日食が観測されたのです。天武9年11月1日にも日食がありました。同12日に皇后が病に倒れます。後に持統天皇となる女性です。さぞかし、天武天皇は驚かれたことでしょう。自分の責任を強く感じたはずです。強迫観念からか、自分まで倒れる始末です。そもそも日食そのものは実際にあったのでしょうか。その事情を追求しました。 日本書紀は元嘉暦と儀鳳暦という、二つの異なる中国暦法に基づき記述されていることが、わかっています。しかも、天皇の事績を編年形式で時代順に書かれながら、古い事績を当時の新しい儀鳳暦で書かれ、天武・持統などの新しい事績を元嘉暦という古い暦法が用いられています。 ここでは、単なる知識として知り得る、元嘉、儀鳳に関して、より深く追求してみました。 暦法の書物を読みあさるなかで、自分の知識不足と共に、歴史学者も意外と安易に天文学者の意見に迎合しているのではと疑わしくなりました。それより面白くて、予定外に天文学の迷路に踏み込んでしまいました。中国の歩んできた暦法を学び、理解する範囲でまとめました。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |