天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
1792470「一百七十九萬二千四百七十餘歳」を見直す First update 2019/01/01 Last update 2021/07/10 最初の拙稿は歴研より『歴史研究』平成27年4月号に掲載されました。 日本書紀は、神武東征の年に当たるBC667甲寅年に、その1,792,470年前に天祖、瓊瓊杵尊が日向に降跡されたとあります。『歴史研究』に解き明かした数式を発表しましたが、この不思議な数字に対し、その後もさまざまな解釈を試みてきました。この経緯をここに、残します。
【日本書紀 巻第三 神武天皇】
本稿ではこれを次のように読み解きました。 1792470 = 1340×1340
- 1800 + (-666 - 664) -666 - 1792470 = 664 - (1340 × 1340 - 1800) BC667神武東征の1792470年前BC1793137年は、儀鳳暦の基準年AD664麟徳元年の(1340×1340−1800)年前と一致するのです。日本書紀の編者は、古代中国の暦法に則り「上元積年法」と言われる暦が始まる「積年」を利用して見せたのです。儀鳳暦の手法の一つ「総法」と呼ばれる「1340」の乗数を利用していたのです。 儀鳳暦の「上元」と、暦開始、麟徳年甲子AD664年の積年 269880年前を甲子 BC269217年を指し、 日本書紀の天孫降跡は、神武東征年 甲寅BC667年の積年1792470年前を甲申BC1793137年、と定めたことを意味します。 いつの世も、支配者とは、「人」と「土地」と同時に「時間」を支配、管理したいようです。 1340×1340 – 1800の意味再考 儀鳳暦の「1340」を最初に注目したのは有坂隆道氏です。神武即位元年(BC660)から天武10年国史編纂記事の年(AD681)までが1340年になると指摘しました。 681 - (-659)= 1340年 1340の二乗とは 儀鳳暦の「1340」は「総法」と呼ばれ、古代中国に次々生まれ複雑化する暦法の計算式を簡略化させた画期的な数字です。この数字「1340」を用いて二乗にしたのは、「大々的」、「益々」とか、言葉を重ねて物事を大きく見せた表現と考えられます。 1800の意味 ところが、1800の意味がよくわかりませんでした。 1792470 = 1340×1340
- 1800 + (-666 – 664 ) 664
- 1340×1340 = -666 -(1792470 +1800 ) 664
- 1340×1340 = -666 – 1794270 AD664年、古代中国唐の麟徳元年の1340×1340が、BC667年神武東征年の( 1800 - 1792470 )と等しいのです。 【日本書紀の構造】
さらに、拙著『神武天皇の年齢研究』では上図のように考えました。 1)書き間違い案 1,792,470年の「2」と「4」が入れ替わると、1340の2乗だけになります。 日本書紀 一百七十九萬二千四百七十餘歳 一百七十九萬四千二百七十餘歳 日本書紀 BC667−1792470 =AD664 − 1340×1340 + 1800 BC667−1794270 =AD664 − 1340×1340 BD667神武東征年の1,794,270年前は、AD664麟徳元年の(1340×1340)前に等しい。本来の日本の紀元年の出発点と思える考え方です。1800が消え、わかりやすくなります。 神武紀に書かれた瓊瓊杵降跡は、元々この 1,794,270年前と書かれていたのが出発点かも知れません。「4」と「2」を書き間違えたと言うより作為的に後から直したのかもしれません。 数字の書き間違い議論は、意味のないことですが、初期段階では堂々とこの数字が使用されたとも考えます。 2)1800年 紀年作業で歴史延長 当時、日本書紀編纂者たちは暦博士から、儀鳳暦などの中国暦には遠い過去を「上元」として定め、そこから暦が始まる考え方があると教えられたのでしょう。一例として、中国儀鳳暦AD664年の積年269,880年は、日本ではAD584年の(1340× 200 + 1800)年前に当たるので、日本の神武東征BC667年の1792470年とすれば、似通った数字で表現できるのです。甲辰AD584は古事記の敏達崩御年AD584に当たります。これが、今の形の変化していったようです。 儀鳳暦の上元 AD664− 269880 = AD584 −(1340× 200 + 1800) 1式 日本書紀 BC667−1792470 = AD664 − 1340×1340 + 1800 2式 3)600年×2 日本書記の宿命 それにしても、日本書紀が定めてしまった神武東征年BC667年は、あまりに膨大な日本の歴史の引き延ばしでした。1,794,270年はどのようにもできるので、「1800=600×3」を「600×2=1200」にして、神武東征年BC667年をもっと現実的な紀元前BC67年神武東征年としてもよかったはずです。実際、そうしていた過渡的な時期もあったのではないでしょうか。拙著『神武天皇の年齢研究』では、1代神武天皇から16代応神天皇まで、600年の年号の引き延ばしがあることを突き止めました。 日本書紀 BC667−1792470 = AD664 − 1340×1340 + 600× 3 2式 BC 67−1792470 = AD664 − 1340×1340 + 600× 2 3式 4)600年×3は元々の古事記の考え方 古事記の場合はどうなのでしょう。 例えば、古事記に瓊瓊杵尊が降跡以降、三代の一人、彦火火出見尊が「高千穂宮に五八〇年間坐す」と記されているので、天孫降臨から神武東征までを、おおまかに600年×三代=1,800年と、考えたのかもしれません。 古事記は天武天皇語録と言えるものです。天武天皇は天文遁甲の知識をもち、天智天皇の頃(天智3年)に始まったAD664儀鳳暦に注目していたことでしょう。しかし、日本の天皇系譜を当時から積み上げても600年程度。そこで、神武即位を甲子年に合わせAD64程度としました。その前1800年は神代、瓊瓊杵3代で補おうとしたようです。 こうすると、最古の古代中国の成り立ちは三皇五帝に続く三代の国、夏、商、周の年代、年代を、当時どこまでわかっていたか知りませんが、現在はBC2070〜BC256と言われ、これも合計はほぼ1,800年です。「夏」の始まりは、ざっくりBC1800頃と考えられ、日本の始まりもその頃にしたいと考えたようです。 【儀鳳暦から導き出される600年の軌跡】
古事記から日本書紀へ 日本の始まりの考え方は、日本書紀の上に古事記の考え方が積み上げられたのかもしれません。最初は神武東征前、古事記のように一代600年×三代前を瓊瓊杵降跡として、中国国家成立時期と時を合わせていたようです。そのあと、日本書紀編纂に際し、上元となるよう儀鳳暦の考え方が採用され、天祖瓊瓊杵命を含む3台を1792470年としましたが、数字上は古事記の1800年を組入れ形を残したと考えます。 ところが、日本書紀はすでに、600年の安易な歴史の引き延ばし作業をしていました。これも古事記の影響なのでしょう。古代中国に目を向けると、神武天皇東征BC667年は、計算上、周の時代です。その周の史実は、神武天皇同様、西周から東に移り東周になる国なのです。神武天皇もその頃の人物にしたかったようです。 結果的に、日本書紀は、神武天皇から神功皇后の時代まで600年遡らせ、さらに、計算違いから、応神から継体大王で120年の調整が入り、日本書紀完成直前に、甲子を辛酉に3年ずらし、その結果、神武−綏靖間に3年の空位、年齢も127歳と端数が生まれてしまいました。 【儀鳳暦から導き出される600年の軌跡】
BC660辛酉 神武01 BC659壬戌 神武02 BC658癸亥 神武03 BC657甲子 神武04 4)600年×1 実年代との接点 さらに、そのBC67年の600年後は甲寅AD534年です。安閑即位元年に当たります。この年は重要です。これ以降、日本書紀と古事記の天皇崩御干支が一致します。上代に向かっては、記紀干支が大きく異なり、袂を分かつ重要な年なのです。ここから、600年の引き延ばし作業が始まったと言えます。 つまり、甲寅534安閑即位元年(或本、継体天皇崩御)から甲寅BC667神武東征年は丁度1,200年です。 534 + ( -666 ) = 1,200年 このように、日本書紀の1800年の痕跡は古事記の神世3代を示す重要な記録だったようです。
この甲寅AD534安閑元年は矛盾に満ちた年です。日本書紀は「或本云」として、本来、継体天皇崩御の年は甲寅AD534継体28年であったが、「百済本記」の記事に基づき、崩御は3年前の辛亥AD531継体25年にしたと書かれています。その結果、次の安閑天皇が即位するまで、奇妙な2年の空位年が生まれてしまいました。つまり、甲寅AD534継体28年は継体崩御年であり、同時に安閑即位年でもあるとすれば、日本書紀が記した継体から安閑への生前譲位の記述に矛盾がなくなるのです。 【継体天皇崩御に関わる日本書紀の記述】 丁未AD527 継体21年 (古事記)丁未年、継体崩御 辛亥AD531 継体25年天皇崩御 (日本書紀、百済本記) 壬子AD532 空位 癸丑AD533 空位 甲寅AD534 安閑天皇即位 (「或本云」) 継体28年崩御 乙卯AD535 安閑2年天皇崩御 (古事記)乙卯年、安閑崩御 5)1800=60×30 今はこの1800は60年の30倍ではないかと考えはじめています。十干と十二支の合計、旬周である60の倍数として尊重しているのです。60年とは「還暦」あり暦が繰り返される年なのです。 今までの経緯から思うに、これらはすべて日本書紀の編纂に関わることです。重要な旬数60年の30倍とは、日本書紀の巻第一から巻第三十までの区切り、メモリアルな思いが込められているのかもしれません。 日本書紀に儀鳳暦が使用された上代の記述甲申年 蛇足ですが、日本書紀の前半はこの甲申年を強く意識していたようです。 本来は、意味のなさそうな、甲申年ですが、日本書紀の1,792,470年前が、暦元として甲申年に当たります。 BC1793137天孫降跡、 BC697神武太子15歳、 BC577綏靖5年安寧降誕(太子年齢より試算) BC157開化元年、 BC97崇神元年、 AD84景行14年成務天皇、日本武尊、武内宿禰誕生 しかし、これ以降、以下のように甲申年はメモリアルな使用例はなくなります。 AD324仁徳12年、AD384仁徳72年、AD444允恭33年、AD504武烈6年、 AD564欽明25年、AD624推古32年蘇我馬子薨去、AD684天武13年八色姓 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |