天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
継体大王の年齢 けいたいだいおう First update 2013/06/13 Last update 2013/07/15 継体大王には大きな矛盾が多くあります。そのまま歴史を語っても矛盾が広がるだけでしょう。 1.年齢について日本書紀は82歳、古事記は43歳です。どうして、こんなに差があるのでしょう。 2.崩御年が決まっていません。日本書紀は531継体25年ですが、534年崩御説があることも隠さず紹介しています。古事記は527年としています。何故、3つも亡くなった年があるのでしょう。 3.在位期間が不確実です。日本書紀は25年間ですが、いくつも崩御年があるのでは、在位期間が定まるはずもありません。さらに、即位年は樟葉宮のときのはずですが、その後、筒城宮、弟国宮と移動し、最後526継体20年、4度目にして磐余玉穂宮の大和に入ります。このときが即位年だとする説があります。 4.出自が曖昧です。応神天皇の五世の孫とあるだけで、詳細な記録を記紀ともに残していません。 5.継体崩御年と引き継いだ息子、安閑天皇の間は生前譲位のはずですが、崩御から即位の間に2年間の空白年があり、矛盾です。 6.「百済本記」では継体25年に継体大王が崩御されますが、この辛亥年に天皇、太子、皇子がともに亡くなった、と奇妙な記録が残されています。 7.当時、大和から遠い福井にいた継体大王がなぜ、天皇に選ばれたのでしょう。もっと近い血縁者方はいなかったのでしょうか。 8.皇位継承は継体、安閑、宣化、欽明の順ですが、他の記録から継体から欽明に皇位継承した、つまり安閑と宣化は欽明との間に二朝が並立していた時期があるとした説が昔から根強く残っています。 これらをすべて解決します。 1.日本書紀82歳と古事記43歳の関係 2.日本書紀82歳、高齢の謎 3.継体大王の本当の年齢 4.古事記の紀年 5.長寿から始まる数々の矛盾 6.著書の構成 1.年齢根拠 2.継体と安閑在位の間にある2年の空白について 3.継体は即位していない 4.新たな継体二朝並立説 5.各史書における武烈、継体、安閑、宣化天皇の年齢比較 1.系図分析―上宮記、古事記、日本書紀 2.后妃と皇子 3.大臣と大連―巨勢男人、物部麁鹿火、大伴金村 4.磐井の乱について 1.欽明と安閑、宣化の二朝並立論について 2.継体から欽明までの間に矛盾が多い史書の記述について 3.上宮聖徳法王帝説などによる紀年解釈 4.続日本紀に載る「継体」の解釈 5.継体大王関連参考文献 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |