天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
継体大王の出自 けいたいだいおう First update 2013/05/20
Last update 2013/06/16 450允恭39年生〜531継体25年 82歳 日本書紀、紹運録 他 485顕宗01年生〜527継体21年 43歳 古事記 485雄略02年生〜534継体28年 50歳 拙著 継体大王関連―目次
和風諡号 男大迹天皇(おおどのすめらみこと)、又 彦太尊(ひこふとのみこと) 袁本杼命(をおどのみこと 古事記) 父 彦主人王(ひこうしのおおきみ) 応神天皇の5世の孫 母 振媛 (ふるひめ) 垂仁天皇の7世の孫 妻子(1后八8妃) 皇后 手白香皇女 仁賢天皇の皇女 母は春日大娘皇女(雄略天皇の娘)の第三女 子 欽明天皇 妃 目子媛(色部) 尾張連草香の娘 尾張連の祖(古事記) 妃 稚子媛 わかこひめ 三尾角折君の妹 みおのつのおりのきみ 三尾君の祖(古事記) 子 大郎皇子 おおいらつこのみこ 子 出雲皇女 いずものひめみこ 妃 廣媛(黒比賣) 坂田大俣王の娘 子 ~前皇女 安閑天皇の妹とあり、天皇崩御と共に合葬された。 茨田皇女 馬來田皇女 妃 麻績娘子 息長眞手王の娘 子 荳角皇女(娑佐礙 ささげ) 伊勢大~祠 妃 關媛 茨田連小望の娘又は妹 子 茨田大娘皇女 白坂活日姫皇女 小野稚郎皇女(長石姫) 妃 倭媛 三尾君堅楲の娘 子 大娘子皇女 椀子皇子 三國公の祖先 丸高王(古事記) 耳皇子 赤姫皇女 妃 荑媛(はえひめ) 和珥臣河内の娘 古事記には阿倍氏とある 子 稚綾姫皇女(わかや) 圓娘皇女(つぶら) 厚皇子(あつ) 妃 廣媛 根王の娘 子 兔皇子 酒人公の祖先 中皇子 坂田公の祖先 仁賢天皇 ├――――――――――――――――武烈天皇 ├――――――――――――――――橘仲皇女(5女) | 尾張連草香――目子媛(色部) ├―――――石姫 | ├――――――宣化天皇 ├―――箭田珠勝大兄皇子 | ├――――――安閑天皇 ├―――敏達天皇 | 継体天皇 ├―――笠縫皇女 | ├――――――――――――――欽明天皇 ├――――――――手白香皇女(3女) 春日大娘皇女 【日本書紀による継体天皇関連年表】 天皇の父は近江國高嶋郡三尾にいた。 天皇の母を越前国坂井の三国から迎えた。 489仁賢 2年 1歳 継体大王降誕 天皇の幼年時に父王が薨じた。 天皇の母は天皇と共に高向(越前国坂井郡高向郷)に帰った。 507継体 1年19歳 1月 6日、継体天皇を越前三国より迎える。 1月12日、葛葉宮(くずはのみや)大阪府枚方市楠葉町に行く。 2月 4日、葛葉宮で即位 511継体 5年23歳 筒城宮(つつきのみや)京田辺市多々羅都谷に移る。 518継体12年30年 弟国宮(おとくにのみやに)長岡京市今里に移る。 526継体20年38歳 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)奈良県桜井市池之内に移る。 527継体21年39歳 磐井の乱勃発 531継体25年43歳 継体天皇崩御(日本書紀、上宮記) 534継体28年46歳 継体天皇崩御(日本書紀一説) ここでは継体大王の出自と人間関係を中心に検討します。 上宮記(釋日本紀より) 【父系図】 (牟義都(ムゲツ)国造名伊自牟良君の娘) (応神天皇) 久留比売命 凡牟都和希(ホムツワケ)王 中斯知(ナカシチ)命 ├―――汗斯(ウシ)王(継体の父) ├―――若野毛二俣王 ├―――乎非(オヒ)王 經俣那加都比古――弟比売麻和加 ├―――大郎子(オオイラツコ)(一名、意富富等(オオホド)王) ├―――妹、践坂(オシサカ)大中比弥王 ├―――弟、田宮中比弥 ├―――弟、布遲波良(フジワラ)己等布斯(コトフシ)郎女 母母恩己(モモシキ)麻和加中比売 【母系図】 伊久牟尼利(イクムニリ)比古大王―――伊波都久和希―――伊波智和希―――伊波己里(イワコリ)和気 ――┐ (垂仁天皇) | ┌――――――――――――――――――――――――――――――――――――┘ | (余奴臣の祖) └――麻和加介(マワカケ)―――阿加波智君―――乎波智君 ├―――都奴牟斯君 ├―――布利比弥命(継体の母) 阿那爾(アナニ)比弥 古事記 品陀天皇(応神天皇) ├―――若野毛二俣王 息長真若中比売 ├―――大郎子。又は意富富杼王 ├―――忍坂之大中津比賣命 ├―――田井之中比賣 ├―――田宮之中比賣 ├―――藤原之琴節郎女 ├―――取売王 ├―――沙禰王 弟日賣眞若比賣命(百師木伊呂辨)息長真若中比売の妹 日本書紀 注()は不明部分を上記の古事記や上宮記に基づき追加加筆したものです。 荑媛 ├――――顕宗天皇 磐之姫命 ├――――仁賢天皇―――武烈天皇 ├――――履中天皇――市辺押磐皇子 ├――――反正天皇 仲姫皇后 ├――――允恭天皇 ├――――仁徳天皇 ├―――安康天皇 応神天皇 ├―――雄略天皇―――清寧天皇 ├――――稚野毛二派皇子 | 河派仲彦――弟媛 ├――――忍坂大中姫 (息長真若中比売) ├――――衣通郎女(弟媛) ├―――(大郎子)―(乎非(オヒ)王)―彦主人(ヒコウシ)王 (弟比売) ├――――継体天皇 垂仁天皇――()――()――()――()――()―(乎波智君)−―振媛 継体大王は応神天皇の五世の孫である彦主人王の子で、母振媛は垂仁天皇の七世の孫とあります。 系図というものは時代時代でねつ造の憂き目を味わってきました。しかし、古代のどの文献や遺物を見ても、正確かは別にして、自分が誰の子で何という祖を持つ末裔かを明確に示す重要な要素なのです。これは世界に共通する、自分が生きた証を示したいとする本来人間の根源的な性行なのかも知れません。 継体大王の系譜には、日本書紀、古事記のほかに、「上宮記」があります。上宮記とは本来、聖徳太子の関する書物であったようですが、現存しません。鎌倉時代に書かれた「釈日本紀」などに引用文として垣間見えるものです。その記述用語から日本書紀、古事記より古い歴史をもつ書物であり、日本書紀、古事記にない内容が記載されていることなどから、本居宣長など昔から絶賛されてきた書物です。 上宮記を引用した「釈日本紀」の編者である卜部兼方は、上宮記の一節を引用した上で、系図を彼なりの解釈で図式して見せています。結果的には間違っていると指摘されるものですが、問題点を暗に指摘してくれています。それはそれとして、ここでは、日本書紀をベースにして不明文な部分を()で示し、古事記、上宮記の記述を参考にして系図をまとめてみました。 1.継体大王は応神天皇と垂仁天皇を祖に持つ人物のようです。 不思議なことに、系図に対し神経質なほど厳格な古事記や日本書紀ですが、()で示したように日本書紀や 古事記でも微妙にわからない形にまとめられています。意外と日本書紀の編者たちは疑問視していたのかもしれません。伝承は伝承として正直に記録したということでしょうか。 2.継体大王の系図は息長氏に近い関係にあったことがわかります。 この息長氏は不思議な氏族です。むかしから大王家に多くの娘たちを納め外戚として権威をもてる立場にありながら、琵琶湖周辺、福井の日本海の地盤から外へでることはありませんでした。蘇我氏、藤原氏などのように派手な表舞台には顔を一切出しませんでした。 この地味な息長氏とは、天皇の祖先を5世、6世、7世とたぐり寄せると、どこかで息長氏と結びつく種族なのです。 嫁は嫁ぎ先にくれてやる、とは中世集団思想です。日本に古来からある女系をよりどころとする血筋より、男系血筋を優先している種族です。男性血筋優先は武力社会の特色です。 私見もいいところですが、「ド」という濁音を多様する方言ともいえる名称といい、大和朝廷とは異なる種族であると強く感じます。先日行った継体大王の生地、高島市に阿曇川がありました。九州の「阿曇あづみ」との関係を連想させ、この名称に驚きましたが、これを「あドがわ」と読ませていることにまたびっくりです。 3.応神天皇の皇子、若野毛二俣は息長真若中比売を娶って大郎子、またの名を意富富杼王(おおほどのおおきみ)、が生まれています。古事記はこれを三國君、波多君、息長君、酒田酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等の祖とあります。後年、天武天皇は彼らのほとんどに真人姓を与えています。天武13年10月「是日、守山公、路公、高橋公、三國公、當麻公、茨城公、丹比公、猪名公、坂田公、羽田公、息長公、酒人公、山道公、十三氏賜姓曰眞人。」 天武天皇は継体大王の系譜を持つ氏族に最高位の真人姓を与えたように見えてきます。 青印(緑色は息子宣化天皇子孫)以外でも、継体大王を出自とする氏族は多いのです。 壬申の乱のおり、天武天皇は672天武1年7月22日琵琶湖の西、高島の三尾山をわざわざ攻略しています。通説では、琵琶湖の西を征圧し、さらに大津をめざし、大津からの逃亡する敵を防いだとする拠点ですが、なぜか天武軍はそこから動いていません、高島の場所を奪い取ることが目的だったようです。ここは継体大王の故郷です。 また、兄天智天皇の大津遷都は一般的には大陸の驚異から防衛を意識した大津遷都と言われています。逃げ出すようなマイナスイメージに違和感を覚えます。案外、天智天皇も継体系の直系という意識が強くあり、故郷大津を首都にするという気持ちがあったとも思えてきました。いずれにしろ、天武天皇の血には継体大王の直系という印が強く刻まれていたと思うこの頃です。 4.上宮記には継体を、「乎富等(をほど)大公王」と書かれています。「大公王」であり「大王」ではないのです。また、応神天皇は「凡牟都和希(ほむつわけ)王」のことで単に「王」とあり「大王」でありません。しかし、垂仁天皇は「伊久牟尼利比古(いくむにりひこ)大王」であり「大王」とあります。なぜ、大事な敬称を区別して記述したのでしょう。このことは、さらに、さかのぼり調べる必要があるようです。 手白香皇女 たしらかのひめみこ 仁賢天皇の皇女です。母、春日大娘皇女(雄略天皇の娘)の第三女です。継体大王が大和の磐余玉穂宮に入ったとき、皇后となり後の欽明天皇を出産します。欽明天皇の年齢から継体大王の最晩年の子と考えました。完全な政略結婚といえる典型的なものです。 目子媛 めのこひめ(色部 しこぶ) 後の安閑天皇と宣化天皇を生みました。日本書紀の記述をヒントに継体大王17歳、18歳のときの子としましたが、たぶんこれより次の稚子媛が生んだ大郎皇子のほうが長男でしょう。日本書紀は身分順の記載です。当初、目子媛は他の近江中心氏族の妃と比較して低い身分だったと思われますが、後の天皇の生んだ母ですから、日本書紀の記述順位は皇后を除く8人の妃の筆頭に位置させています。 継体大王は関西を中心とした行動範囲を持ちます。その中にあって日本書紀は尾張連草香の娘、古事記は尾張連の祖、凡連おおしむらじの妹と記したことは特徴的です。 天武13年、尾張宿禰姓を賜っています。壬申の乱の功臣としても尾張馬身や尾張大隈の名などが見られます。壬申の乱では天武天皇が尾張を経由したことから、天武天皇の出自に関係する地域とも言われています。また、凡海(おおしあま)と凡(おおし)の関係は直接にはないと思われるものの気になるところです。 戦国時代に近江の茶人、今井宗久がいますが、その中で色部氏は越後の武将で上杉謙信にも使えているなど北陸で活躍した氏族です。父の出身は尾張であっても活躍の舞台は北陸であったと思うのです。 稚子媛 わかこひめ 三尾角折君の妹 みおのつのおりのきみ 三尾君の祖(古事記) 大郎皇子と出雲皇女の二人を生みました。たぶん、継体大王にとって最初の子が大カ皇子おおいらつこのみきでしょう。古事記では后妃紹介記事の筆頭に掲げています。継体大王は16,17歳の頃は父の故郷近江高島の三尾にいたか、父の故郷を訪ねたとき初めたのかわかりませんが、この地に深いつながりが続いていたことになります。 倭媛 やまとひめ もう一人、三尾の出身者で三尾君堅楲(かたひ)の娘がいます。妃順でいえば6番目で遅い方です。「倭」という名からも、大和に入った継体大王が故郷の娘をわざわざ呼んだか、訪ねて来たのでしょう。4人も子供を生んでいますから、かなりの寵愛ぶりです。ずっと側に置いたようです。 子は生まれた順に、大娘子おおいらつめ、椀子まろこ、耳みみ、赤姫あかひめです。 上の二人の子には氏族を束ねる名が付けられました。 特に椀子皇子は三国公の祖先 丸高王(古事記)新撰姓氏録 三国真人を継体大王椀子王の後とし、越前の出身とあります。この皇子は三尾の出身者でありながら越前の地にあって継体大王の母方の三国氏を束ねていくことになるのです。 広媛(黒比賣) ひろひめ(くろひめ) 坂田大俣王 さかたのおおまたのおおきみ の娘です。なぜか古事記はくろひめと言っています。 坂田の出身ですから、今の米原近辺で現在も息長の地名が残る勢力地域です。子は3人で~前皇女 かむさき、茨田皇女 まむた、馬來田皇女 うまくた、といいます。神前皇女は義兄の安閑天皇陵に合葬された謎を秘めた女性です。相当近しい間柄といえそうです。他の二人の名前はどうやら地名のようですから、この父、坂田大俣王の政治力の大きさを想像させます。 麻績娘子 おみのいらつめ 息長眞手王おきながまておう の娘です。子の名を荳角皇女(娑佐礙 ささげ)と、しかも「ささげ」と読むよう我々に指定しています。彼女は伊勢斎王として神に仕えるよう指名されたのです。あるいは父親が進んで引き受けたのかもしれませんが、この頃の斎王になることは大変な名誉なことです。一般市民がなれるものではありません。例えば天武天皇の斎王は大伯皇女ですのが、彼女は正当な天皇家の血を引き継ぐ長女だったのです。そんな斎王にこの息長氏の娘が選ばれたことになるのです。 関媛 せきひめ 茨田連小望 まむたのむらじこもち の娘又は妹とあります。子には茨田大娘皇女 まむたのおおいらつめのみこ、白坂活日姫皇女 しらさかいくひめのみこ、小野稚郎皇女おののわかいらつめのひめみこ、がいます。古事記には、この娘の記録はありません。連姓ですから、本来は継体氏族ではなく旧天皇を守る周辺氏族だったはずです。ただ茨田は河内国茨田郡、現在の門真市門真付近を指し、中央とは関わりが低いと思われ、むしろ坂田大俣王の娘広媛が茨田皇女という名の皇女を生んでいることから、何らかの婚姻的結びつきが継体大王との間にあったことが考えられます。茨田神社は乙訓にあったといいますから、ここ弟国宮に継体軍が移ったときからの関わりかもしれません。 荑媛 はえひめ 和珥臣河内 わにのおみかわち、の娘です。子は3人で稚綾姫皇女 わかや、圓娘皇女 つぶら、厚皇子あつ、です。古事記には阿倍氏の娘とあり相違しています。いずれにしろ河内の和珥氏ですから、海人族でしょう。阿倍氏も黒岩重吾氏によれば、継体大王について大きくなった氏族であり、後年、北方蝦夷を日本海側から鎮圧する阿倍一族として紹介されています。大いにあり得る話です。 広媛 ひろひめ 最後に根王 ねのおおきみの娘とあります。この娘も古事記にはのっていません。日本書紀編纂途中で見つかり追加されたような記述です。根連金身ねのむらじかねみ、という人物が、天武1年6月に大津京にいた大津皇子と一緒に天武天皇に合流し壬申の乱に参加していますから、本来は大津宮に居て大津皇子に侍従していた氏族のようです。子は兔皇子 うさぎのみこ、酒人公の祖先、中皇子 なかつのみこ、坂田公の祖先とあります。これはこの二人が近い将来、兔皇子が酒人公の家に、又、中皇子が坂田公の家に入ったことになります。根公は新撰姓氏録によれば和泉地区の氏族です。そこで気がつくのは、継体大王の祖父に当たる意富富杼王は忍坂大中姫と兄妹でありその妹衣通郎女は和泉に住んだと言われています。その広い血縁を利用した継体大王の行動範囲には驚かされます。 まとめ 一人一人見ていくと、継体大王に娘を納めた父親たちは相当の実力者であったことがわかります。 血のつながりの中心は古くから続く、息長氏(米原、坂田)でしょう。名誉ある斎王を輩出したことからもわかります。同時に継体大王の父系三尾氏(高島)や母系(三国)などとのつながりは計り知れない深さと歴史の長さがあり、決してどの一つが出自として絞り込む必要はないように思えます。 しかも、それぞれの氏族が琵琶湖を中心に、堅い血縁関係を縦横無尽に取り交わしていたのです。というより、継体大王の指示で氏族たちの流動性を図っていたのかもしれません。 継体大王の子供たちは皇子9人、皇女12人です。しかし、安閑と宣化を除き、男子のほとんどが晩年の子供です。歴史的経緯結果は別にして、継体大王がいかに安閑、宣化に望みを託していたかがわかります。 以下に日本書紀の記述順に継体大王の皇子の名前を並べてみました。番号は生まれた順と本稿が想定するものです。例のごとく、日本書紀による皇子の記載順は身分順です。しかし、同格の妃が生んだ皇子は年齢順のはずです。大郎皇子とは長男と考えられます。椀子皇子も名前から系統正しい皇子とわかります。しかし年齢は安閑、宣化より年下です。だから、安閑、宣化の二人は当初は身分的に低いレベルに位置していたと思います。 継体天皇の皇子 (数字は生まれた予測順) 9.欽明天皇 2.勾大兄皇子 後に安閑天皇 3.桧隈高田皇子 後に宣化天皇 1.大郎皇子(おおいらつこのみこ) 4.椀子皇子 三國公の祖先 5.耳皇子 6.厚皇子(あつ) 7.兔皇子 酒人公の祖先 8.中皇子 坂田公の祖先 継体大王はこの男子全員を各氏族の長にしています。祖先名を残さなかった、大郎、耳、厚3人の皇子はたぶん早世したと思います。 米原と高島は対岸に位置します。対岸は晴れていれば見えます。夜、対岸の明かりが美しい。 哀しい伝承が残っています。夜、愛する男の元へ湖を渡り通う女。ところが、ある夜、男は目印の明かりを消してしまい、その結果、女の消息も消えてしまうというものです。こうした淡い恋の伝承が男女の名前は違うけれど、琵琶湖の各地に残っているといいます。これは一つの話が別名で広がったのではなく、同様な事件が琵琶湖の各地であったのだと思います。明かりを頼りに対岸に通う恋人。これは、幾多の場所、対岸に通う船が昼となく夜となく盛んに交流していた証拠だと思うのです。この時代、歩いて対岸から回り込むより舟で渡る方が、はるかに早いのです。琵琶湖全体が大きな氏族連合を結成していたと考えていいのではないでしょうか。 旧大和国が滅びようとするなか、これを憂い、大和を離れ有力な地方豪族との調停に奮闘する3人の強者がいました。日本書紀では彼らを、絶えんとする天皇の血縁者を探し求めるものとして表現しています。 しかし、見方を変えれば、敵への密告者、裏切り者、スタンドプレイヤーといわれてしまいます。 これまた、どの時代でも同じですが、急激な変化のある時代、その功労者は短命であるという事実です。 その名は巨勢男人(こせのおひと)、物部麁鹿火(もののべのあらかい)、大伴金村(おおとものかなむら)の3人です。3人とも大和の旧氏族の出身です。 巨勢男人 大臣 529継体23年9月薨去 物部麁鹿火大連 536宣化 1年7月薨去 大伴金村 大連 540欽明 1年9月病と称し二度と出仕しなかった。 継体大王を支持した3人ともに新たな欽明天皇の時代まで生き延びることができなかったのです。 これも歴史の常なのかもしれません。理由はいろいろあるのでしょうが、結局、継体大王を引き入れた3人は人知れず粛正されたのです。三氏族というより、トカゲの尻尾切りのように、個人的なこの3人が亡くなることにより、大和日本は新しい時代を迎えます。 この三人は決して一枚岩ではありません。お互いを意識し常に牽制し合い、結局、ともに滅んだのです。 許勢男人(こせのおびと) 巨勢(こせ)、雀部(さざきべ)、軽部(かるべ)ともいう。 巨勢氏は奈良県御所市高取町の巨勢寺跡を中心とした氏族です。市尾墓山古墳が彼のものと言われる所以です。他の二人が大連(おおむらじ)なのに対して、大臣(おおおみ)となります。つまり、天皇の側近として常駐する物部と大伴の軍事力を有する氏族に対し、本来から大和に住む有力地元氏族といえます。 武内後裔氏族の一つですが、この男人の活躍ではじめて有名になり同じ軍事力を有する氏族になったようです。つまり、雄略天皇の即位直前に、大伴大連室屋、物部大連目、平群大臣真鳥の三人が新設された位につきましたが、この継体大王により許勢氏男人が平群氏に代わり、大臣職を任命されたのです。 この平群氏とは、大伴金村と継体大王が旧大和王朝の内紛を収めた際、滅ぼされかけた氏族です。 皇位継承問題の処理に最初から関わり、継体大王を推薦し、大王よりもとのごとく大臣に任せられたとあります。他の二人も同じですが、継体即位前に武烈天皇の代に大連、大臣になり、継体大王に再度任命されたように描かれています。継体と武烈は同時に生きた大王です。本稿では、大和入りした継体20年前後に正式に武烈天皇の名において継体大王が大連、大臣に任じたのだと考えてみました。 許勢男人は大和に入京してきた継体天大王の息子、安閑に対し、二人の娘姉妹を納めています。 継体21年6月筑紫国造磐井の乱に際し、大伴金村と仲間の物部麁鹿火を鎮定将軍として推薦します。 継体22年12月までに乱は終息しましたが、同時に、朝鮮に送った軍の状況のほうは芳しくありません。 同僚の物部麁鹿火が大和に戻るまえ、継体23年9月に許勢男人は薨じられました。 これを疑う説があります。 751天平勝宝3年2月雀部朝臣真人の奏上にこの許勢男人の名の由来が続日本紀に載っています。そのなかで、男人が継体と安閑との御代に仕えたとあるからです。だから、許勢男人は535安閑2年までは生きていたというものです。本稿では安閑の在位は1年間にすぎません。安閑1年目にはまだ継体大王は健在でした。この翌年には安閑天皇は崩御されるのです。やはり、日本書紀の記述のとおり継体23年に薨じたと思います。心情的にいえば、娘二人を安閑天皇に納めたこの許勢男人は継体、安閑二代に仕えたといっていいのです。 物部麁鹿火(もののべのあらかい) 日本書紀では、武烈天皇と争った平群臣鮪(しび)の妻となった影媛の父親をこの麁鹿火としています。 平群臣鮪を殺したのは大伴金村です。経緯はどうであれ、物部麁鹿火にとって娘を悲しませた大伴金村と親しいとは言い難いところです。 一方、継体大王の息子、安閑天皇に妃として納めたのは、物部木蓮子大連ですが、仁賢朝の大連といわれています。これを引き継いだのが、安閑1年に物部大連尾輿(おこし)のように見えます。後の物部守屋の父となる人です。どうもこの時期、物部氏は大連が二人いたようなのです。この後述べる大伴氏でも大連が同時期に二人いたように見えます。ここでも、継体と武烈の二重性を感じさせます。物部麁鹿火は継体大王対策担当として、特別大連に指名されていたのかもしれません。 これを裏付けるものに、次の物部麁鹿火の証言があります。 継体21年8月、磐井の乱勃発に対し、この三人の大連を呼んで、誰を将として派遣したらいいかとのご下問に対し、大伴金村が物部麁鹿火の右に出るものはいないとして、決定されました。 8月、正式に、継体大王は、磐井を撃つように命じます。これに対し、物部麁鹿火は応えました。
まるで詩歌のような美文で、中国「芸文類聚」の引用であることが指摘されているところです。 ただ、学者たちはこの発見に固執して、この内容の重大さを軽視しているようです。 「物部麁鹿火大連、再拜して言う、 嗟(ああ)、夫(それ)磐井は西の戎の奸猾なり。 川の隔てにたのみ、朝廷に従わず、 山の高きによりて、乱れを起こす。 徳を負かして道に背く。 侮りおごり、自ら賢人と誇る。 昔、(神武天皇に仕えた大伴の祖)道臣が在り、大伴室屋に至るまで、帝を助け罪を罰した。 民の苦しみを救うこと、昔も今も変わらない。 唯、天を賛する所は、私が常に重んじる所。 よく恭み伐たざらむや。」 一見、物部麁鹿火が嫌っているはずの大伴金村大連を称えたように見える変な文章です。 かつて、継体6年に大伴金村が独断で任那国4件の割譲を約束する際、その勅を伝える使と物部麁鹿火が指名されましたが、妻の強い諫めに従い、病気と称してその使者の役を断っているのです。 しかし、大伴室屋がまだ大連として健在であるならば、この意味はまるで違う、皮肉を秘めた言葉となります。 「(あの大伴大連金村ではなく)、太古の道臣から大伴大連室屋まで続く大連の重責を、一緒に培った物部大連であるこの麁鹿火が引き継ぎ、代わりに西征してまいります。」 安閑天皇の妃に、巨勢氏と物部氏から娘を納れています。 527継体21年 6月 磐井の乱をどうするか、麁鹿火、男人、金村が呼ばれます。 527継体21年 8月 磐井の乱の鎮定する将軍に物部麁鹿火が任命されます。 528継体22年12月 九州の地で物部麁鹿火は磐井の乱を終息させます。 しかし、彼はこの地を離れられません。継体大王から西地(九州)統制権をこの物部麁鹿火にすべて与え任せられていたからです。 529継体23年 許勢男人が亡くなります。 534継体28年 継体大王崩御 535安閑 2年 安閑天皇崩御 536宣化 1年 物部麁鹿火が亡くなります。どこで亡くなったのでしょう。前年の安閑崩御の報に接し、急遽大和に単身帰還した矢先のことと思います。 大伴金村 大伴室屋大連の孫、大伴談(かたり)連の子と言われる。 大伴談連は雄略9年、大将軍紀小弓(きのおゆみ)宿禰らと共に新羅で戦い、戦死。 この大伴室屋は大伴健持の子、神武天皇に仕えた道臣命の7世孫。談と御物の父です。允恭11年3月の詔により妃に衣通郎姫を妃とするよう尽力したことがはじめて日本書紀に描かれています。 武烈3年11月に水派邑の造営の詔を請けたのが最後の記述となります。 伴氏系図に大伴室屋は「大連、長命之人也」と註しています。確かに、允恭天皇在位42年中この11年を20歳としても、安閑3年、雄略23年、清寧5年、顕宗3年、仁賢11年、武烈8年中3年の詔の年に薨じられたので、99歳にもなります。 扶桑略記によれば、大伴大連金村は継体3年に薨じ、物部庶人が大連に任じられたとあります。混乱が見られ、わかりにくくなりますが、あえてメモしておきます。 ようするに、二人の大連である大伴金村と大伴室屋は同じ時期まだ生存していました。金村は武烈天皇即位前に大連となっており、室屋も武烈3年には現役なのです。ここでも、大伴氏は同時に大連が二人いたと推測できるのです。やはり、継体と武烈が二重王朝として並立しているからこその現象といえそうです。なお金村と室屋は親子関係にありません。 本稿では日本書紀の記述に従います。許勢大臣男人は継体23年に亡くなりますが、大臣職には、宣化1年蘇我稲目がなっています。安閑1年物部大連麁鹿火も亡くなり、大伴金村の独壇場のはずでした。 ところが、ここに物部大連尾輿が立ちふさがります。この大伴金村追討に際し、後の蘇我氏の反映を知る我々は蘇我稲目も関与した記事や小説をよく目にします。たしかにこの時蘇我稲目35歳ですが、ほとんど表舞台には現れていません。追い落としに加わったのは蘇我稲目ではなく許勢臣稲持でした。欽明1年、政治的に追い詰められた金村は二度と出仕しなかったといいます。政治的に抹殺されたのです。さらに、金村が持つ大連職を手放さないため、大伴の大連職はここで途絶えた形とされたのです。 大連、大臣職は雄略天皇の即位直前に新設され、大伴大連室屋、物部大連目、平群大臣真鳥の大連二人、大臣一人の計三人が位に就き始まりましたが、欽明天皇1年のときから、大連一人、大臣一人の体制、物部対蘇我の時代に突入していきます。最終的には、大臣一人体制に集約されていくのです。 雄略紀 | 大伴大連室屋| 物部大連目 | 平群大臣真鳥 仁賢紀 | 大伴大連室屋| 物部大連木蓮子 | 平群大臣真鳥 武烈紀 | 大伴大連金村、大伴大連室屋|物部大連麁鹿火(物部大連木蓮子)| 許勢大臣男人 継体紀 | 大伴大連金村、 |物部大連麁鹿火、物部大連木蓮子 | 許勢大臣男人 安閑紀 | 大伴大連金村、 |物部大連麁鹿火、物部大連尾輿 |(許勢大臣男人) 宣化紀 | 大伴大連金村、 | 物部大連尾輿 | 蘇我大臣稲目 欽明紀 | | 物部大連尾輿 | 蘇我大臣稲目 磐井の乱は継体20年大和磐余玉穂宮に継体大王が入った翌年に九州の筑紫君磐井が、新羅と内通して起こした反乱とされ、大和政権は物部麁鹿火を派遣し、一年半をかけ、これを鎮圧しました。 国家形成過程における地方勢力との軍事的衝突として最大かつ最後のものであり、重要な意義をもつと言われています。 継体21年6月筑紫磐井の乱の鎮定する将軍には物部大連麁鹿火が任命されました。 継体22年11月には鎮圧されます。遠い九州の皇帝を考えると意外とあっけなく片付けられます。 水谷千秋氏は「謎の大王 継体大王」文春新書のなかで、日本書紀、古事記、風土記、考古学資料を用いて「磐井が先に兵を動かしたのではなく、戦いを仕掛けたのは大和政権の軍である」と強調されました。この結果は本稿の結論と一致し、この説を支持するものです。 1.潤色の多い日本書紀に比べ、事件を簡潔に伝える古事記によれば、「磐井、天皇の命に従わず、無礼多し」。ゆえに軍を派遣して磐井を殺したとある。大和政権打倒や王位奪取を図って挙兵したわけではない。 2.筑後国風土記によると、官軍の攻撃が突然であっために勝てそうにないとの判断から豊前まで退却したという所伝があることは、最初に攻撃をしかけたのが官軍であって、磐井のほうから大和政権に戦いを挑んだものではないことを物語っている。 3.戦闘が行われた筑紫の御井郡は岩戸山古墳のすぐそばにあり、磐井の本拠がそばにあったことがわかる。つまり、磐井はほぼ同じ場所から動いていないことを意味する。磐井の行動範囲は狭く、計画性に乏しく、朝廷軍に対しあくまで受け身と受け取れる。 4.朝鮮史料「三国史記」「三国遺事」の中に、磐井の乱に関わる記事や内通の事実はない。ましてや近江毛臣率いる六万人の軍の渡海を遮ったという記事もない。 その結果、「要するに磐井の乱とは、磐井を盟主とする北部・中部九州勢力が独自の首長連合を形成しようとしたことに対する大和政権の反応なのであって、言い換えれば地方勢力の自立化の動きを大和政権が武力で制圧したものということができる。」 本稿でも、物部麁鹿火が中央から遠ざけられた構図が浮かび上がりました。磐井の乱は大和政権にとっては麁鹿火を追い落とす絶好の機会だったことになります。鎮圧しても、物部麁鹿火は、大和に帰還できません。なぜなら、継体大王から、九州全体を、すべておまえに任せると任命されているからです。 「長門より東の方は自分が治めよう。筑紫より西はお前が統治し。賞罰も思いのままに行え。一々に報告することはない」といわれた。(宇治谷孟訳) 物部麁鹿火はどこで亡くなったのでしょう。536宣化1年7月薨去とあります。 たぶん、継体大王の崩御(534継体28年)の報に接し、急いで単身九州の地から戻ったのかもしれません。しかし、大和にはすでに物部大連尾輿がいるのです。麁鹿火の居場所はありませんでした。翌年(535年)12月には安閑天皇が相次いで亡くなりました。さらに翌年(536年)にはこの物部麁鹿火が死んだのです。 当初、この「継体天皇の崩御」で述べた通り、古事記が表した43歳の記述と日本書紀の継体天皇が531継体25年に崩御されたことを重視しました。継体25年が43歳だったとして、継体のもう一つの崩御年、534継体28年が46歳だとしたのです。 しかし、今回、出版した本の結論は、古事記は527年43歳と干支年も正しく表現していると考えました。そして継体崩御年は別伝534年継体28年で、50歳だったのです。すると、この前後に武烈天皇と安閑天皇も同時期に崩御されたと計算できることがわかったのです。 【継体天皇の年齢仮説】
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