天武天皇の年齢研究 -目次- -拡大編- -メモ(資料編)- -本の紹介-詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
First update 2013/05/20
Last update 2013/06/16 継体大王関連―目次
「日本書紀の中で最大の謎」とされる継体天皇について、中でも二朝並立論について考えます。そのためには、そのきっかけとなった有名な論文の主旨を見ておく必要があります。多種に渡る主張全部に目を通すことはできませんが、その先駆けとなった以下の三論文は重要です。 平子鐸嶺「継体以下三皇紀の錯簡を論ず」『史学雑誌』16-6 M38 喜田貞吉「継体以下三天皇皇位継承に関する疑問」『歴史地理』52-1 S3 林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の史学的分析」『立命館文学』S27 簡単に概説すれば、 明治38年に平子氏が継体天皇について論じました。日本書紀の表記に矛盾が多く、他の史書と違っていると論証したのです。その結果、継体天皇の崩御年を古事記のいう継体21年に繰り上げるなどして、安閑、宣化の皇位継承を経て従来の継体25年の翌年を欽明天皇即位元年としたのです。 昭和3年、喜田氏は平子氏説では日本書紀を大きく改竄したために、かえって矛盾が広がるとして否定しました。しかし、日本書紀の記述矛盾などには賛同しており、それらを解決するには、継体、安閑、宣化は日本書紀の記述とおりだが、欽明天皇が継体天皇から直接皇位を引き継いだとして、安閑、宣化の在位期間が並立した時期があったと、ここではじめて「二朝並立論」を主張したのです。 昭和27年、戦後の自由な空気のなか、林屋氏は、喜田氏の説をうけついで、継体、欽明朝の皇位継承における問題を平和的継承ではなく「古代における内乱の問題」として発展させ「辛亥の変」両朝並立の時代を提唱します。 これ以降、いろいろな人たちが自説を展開していくことになるのです。 以上の論点で底辺に横たわる、継体時代の矛盾と欽明天皇の在位期間の論点をまとめます。 1.継体天皇の崩御年が一定しない。 日本書紀に辛亥531継体25年崩御、甲寅534継体28年崩御の二説があり、別に古事記が丁未527年(継体21年)説、都合三種類の崩御年がある。 2.継体天皇の年齢を古事記は43歳とし、日本書紀は82歳としている。 3.継体天皇崩御年と安閑天皇の即位年に2年間の空位がある。しかし、日本書紀本文は継体天皇が安閑天皇に譲位して後に崩御されたと記している。 4.日本書紀は越年称元法により記述されている。安閑に譲位されたた後、継体が崩御されたのだから、崩御の翌年が安閑1年であるべきだ。だから、空位があろうがなかろうが、乙卯535年を安閑2年とする記述は安閑1年とすべきで誤記ではないか。 5.「百済本記」に辛亥年に日本の天皇及び太子、皇子がともに亡くなった、とするセンセーショナルな記事があると、日本書紀が伝えていること。 6.継体天皇の出自が古事記、日本書紀ともに曖昧。 古事記は継体天皇を応神天皇の五世の孫とし、日本書紀も応神天皇の五世の孫、彦主人王の子とあり、母振媛は垂仁天皇の7世の孫である。しかし記紀ともに中間の歴代を省略しているので、これを不審が疑われる。「上宮記」はこれを埋める重要な文献であるが、なぜ記紀ともに系譜を記さなかったのか。 7.継体紀には重複した記述が多い。特に、継体6年の任那割譲、これに付随した7~9年の出来事が継体23年に再度まとめられており、同じ記事が載っている。 「6年夏4月6日、穂積臣押山を百済へ遣わし、筑紫国の馬44匹を賜った。冬12月、百済が使を送り、調をたてまつった。別に上表文をたてまつって、任那国の上哆唎・下哆唎・娑陀・牟婁・の4県を欲しいと願った。哆唎の国主、穂積臣押山が奏上して、この4県は百済居に連なり、日本とは遠く隔たっています。~大伴大連金村も、意見に同調して奏上した。~賜物と一緒に制旨をつけ、上表文に基づく任那の4県を与えられた。」 7年「冬11月5日、朝廷に百済の姐弥文貴将軍が、新羅の汶得至・安羅の辛已奚と賁巴委佐・伴跛の既殿奚と竹汶至らを召しつれてきて詔を賜わって、己汶・帶沙を百済国に賜った。」 8年「3月、伴跛は城を子呑と帶沙に築いて、滿奚と結び、のろし台・武器庫を設け、日本との戦いに備えた。」 「9年春2月4日、百済の使者、文貴將軍らが帰国を希望した。よって詔を出され、物部至至連を副えて遣わされることになった。 この月に巨済島に至り、人の噂を聞くと、伴跛の人は日本に恨みを抱き、よからぬことをたくらみ、宝をたのみとし無道を憚らないということであった。 そこで物部連は水軍五百を率いて、直ちに帶沙江に赴いた。文貴將軍は新羅から百済に入った。 夏4月、物部連は帶沙江に留ること6日、伴跛は軍を興して攻めてきた。衣類を剥ぎとり持物を奪い、すべての帷幕を焼いた。物部連らは恐れて逃げた。やっと命からがら汶慕羅島に逃げた。」 「23年春3月、百済王は下哆唎國守、穗積押山臣に語って、『日本への朝貢の使者がいつも海中の岬を離れるとき、風波に苦しみます。このため船荷を濡らし、ひどく損壊します。そこで加羅の多沙津を、どうか私の朝貢の海路として頂きとうございます』といった。押山臣はこれを伝奏した。 この月、物部伊勢連父根・吉士老ら遣わして、多沙津を百済王に賜った。このとき加羅の王が勅使に語って、『この津は宮家が置かれて以来、私が朝貢のときの寄港地としているところです。たやすく隣国に与えられては困ります。始めに与えられた境界の侵犯です』といった。 勅使父根らはこのため、その場で百済に加羅の多沙津を賜わるのは難しいと思って、大嶋に退いて引返した。これとは別に録史(記録官)を遣わして、後に扶余(百済)賜わった。このため加羅は新羅と結んで、日本に恨みを構えた。」 宇治谷孟訳 8.廿年秋九月丁酉朔己酉遷都磐余玉穗【一本云七年也】 継体20年に磐余玉穂宮に遷られたが、これは継体7年という説もあるという。 9.「上宮聖徳法王帝説」や「元興寺伽藍縁起并流記資材帳」の仏教伝来に基づく年号から、欽明天皇の在位期間は日本書紀では32年間だが、41年となる。これは欽明天皇の即位年が継体天皇崩御年に当たり、欽明天皇は継体天皇から直接皇位を継承したのではないか。 仏教徒としての画期的記念日、仏教伝来は日本書紀によれば、壬申552欽明13年冬10月、百済の聖明王(聖王)から西部姫氏云々らが遣わされ、金剛仏像、幡蓋(はたきぬがさ)、経論などが献じられた、とあります。 冬十月、百濟聖明王、更名聖王、遣西部姫氏達率怒唎斯致契等、獻釋迦佛金銅像一躯・幡盖若干・經論若干卷。 ところが、上宮聖徳法王帝説によれば、 癸嶋天皇御世、戊午年十月十二日、 百済國主明王、始奉度佛像・經敎・并僧等。~ 志歸嶋天皇治天下卌一年【辛卯年四月崩 陵檜前坂合岡也】 注:【】は原文挿入文 欽明天皇の戊午10月12日、百済国の主、明王により始めて仏教(仏像、経教、僧ら)が奉納された、という記述に基づくものです。 日本書紀の欽明在位中に戊午の年はありません。日本書紀に照らせば、戊午538年は宣化3年となります。ところが、この史書には、欽明天皇の天下は41年であると記されているのです。(写本によっては、これを消して32年に修正しているものもあるようです。)日本書紀に照らせば、571欽明3年に欽明天皇が崩御されていますから、ちょうど、辛亥531継体25年継体崩御年=欽明即位元年となるのです。 その後、元興寺の伽藍縁起并流記資材帳が仏教伝来の戌午年をより具体的に欽明7年としたのです。 大倭国仏法創自斯帰嶋宮治天下天国案春岐広庭天皇御世蘇我大臣稲目宿禰仕奉時治天下七年歳次戊午十二月度来。百済国聖明王時、太子像幷灌仏之器一具及説仏記書巻一篋度而言 上記、上宮聖徳法王帝説と同じ考え方となります。年号の数え方が違うのですが、欽明天皇即位1年は継体崩御年531継体25年の翌年となり、戊午538年は欽明7年となるのです。なお、帝説では当年称元法を用いているようです。このことから仏教伝来した年は戊午538年で、この年が欽明7年であるとしたのです。 上宮聖徳法王帝説は聖徳太子を中心に記した書物ですが、信頼あるものです。逆に日本書紀の552欽明13年の壬申は変革の年といわれ、この壬申年に仏教伝来年を合わせたのではないかと疑われたのです。 つまり、継体天皇は安閑天皇にではなく直接、欽明天皇に譲位したのではないかというのです。 また、欽明天皇は幼年にして即位されたとする記述があります。通説の63歳説に従えば、日本書紀の540欽明1年だと32歳になってしまいます。これを532欽明1年とすれば、24歳となり矛盾が少なくなると言うのです。 干支 【日本書紀の記述】 |【両朝並立説】 |【平子説】 丁未527 継体21年 継体崩御(記)|継体21年 |継体21年 戊申528 継体22年 |継体22年 |安閑 1年 己酉529 継体23年 |継体23年 |安閑 2年 庚戌530 継体24年 |継体24年 |宣化 1年 辛亥531 継体25年 継体崩御 |継体25年 |宣化 2年 壬子532 空位 |欽明 1年 欽明即位年|欽明 1年 癸丑533 空位 |欽明 2年 |欽明 2年 甲寅534 安閑 1年 |欽明 3年 |欽明 3年 乙卯535 安閑 2年 安閑崩御 |欽明 4年 |欽明 4年 丙辰536 宣化 1年 |欽明 5年 |欽明 5年 丁巳537 宣化 2年 |欽明 6年 |欽明 6年 戊午538 宣化 3年 |欽明 7年 仏教伝来 |欽明 7年 己未539 宣化 4年 宣化崩御 |欽明 8年 |欽明 8年 庚申540 欽明 1年 |欽明 9年 |欽明 9年 壬申552 欽明13年 仏教伝来 |欽明21年 |欽明21年 辛卯571 欽明32年 欽明天皇崩御 |欽明40年 欽明崩御 |欽明40年 注)当年承元法に従えば、継体25年=欽明1年とされ1年ずつ差が生じる。40年は41年になり矛盾はない。 これをふまえたうえで、3説を細説します。 平子氏説 平子鐸嶺氏は最澄の「顕戒論」を紹介し、810光仁19年嵯峨天皇の頃すでに南都僧らとの宗教論争に、この欽明天皇時の仏教伝来年が持ち出されていたといいます。詭弁の応酬だったようですが、欽明天皇の在位年が32年なのか41年なのか、日本書紀の記述を疑うものであっただけに平子氏は重要だとしたのです。 ○古事記の丁未527年継体崩御は無視できない。よって継体21年を継体崩御とする。 ○日本書紀には継体23年巨勢男人大臣が薨じたとあるが、続日本紀では天平勝宝3年2月の記事に、巨勢男人は継体、安閑の御代に仕えたとあるから、継体23年は安閑天皇在位ではないか。 ○日本書紀にある太歳辛亥531継体25年「日本天皇及太子皇子倶崩薨」とする百済本記の引用は、宣化天皇の崩御に際し、橘皇后や孺子を合葬したという記事のことで、この年は宣化2年に当たるとしました。 ○法王帝説などの記述から、仏教が伝来した戊午539年は欽明7年だから、壬子532年は欽明1年に当たる。 これらのことから、継体天皇崩御を古事記の記述、継体21となる丁未527年としました。安閑、宣化朝を継体在位期間に組み入れ、継体23年はすでに安閑朝に入っており、継体25年継体崩御は宣化崩御年とし、少しずつ各天皇の在位期間を短くすることで、欽明天皇に引き継がれたとしたのです。 喜田氏説の概要 喜田貞吉氏は平子氏が語る日本書紀の矛盾や法王帝説などの欽明7年仏教伝来年をも容認しました。しかし、安易に日本書紀の記述を軽々しく改竄すべきでないともしたのです。日本書紀の仏教伝来欽明13年は孝徳天皇大化元年の詔にも再録されているからこれも正しいとしたのです。また、安閑天皇の崩御年乙卯も、記紀ともに一致するところで動かしがたいのです。 ○「欽明天皇は父天皇のなお後存生中に、すでに天皇となり給うたのであったとしても、それが果たして公式に認められたとは限らない。「日本紀」には、単に「天皇と為す」とのみあって、「天皇の位に即く」との普通の例と異なる筆法によっておるのである。これは当時天皇未だ即位の式を挙げ給うに及ばなかったか、あるいは正式に即位し給うたのであったとしても、後に安閑・宣化両帝の治世を認むる上からは、その以前の天皇の御位を認めず、これを空位とするのやむなきに至ったものだろう。」 ○こうして安閑・宣化両天皇の治世が認められた重複して存在した期間があり、この間、七年間にわたり両朝が並立したとするのです。 林屋氏説の概要 喜田氏説をさらに推し進め、「古代における内乱の問題」として説明しました。 ○日本書紀の記述「天皇及太子皇子俱崩薨」というような重大事変は、決して単に皇室内にのみその原因があったとは考えられず、その基づくところはきわめて根深いものがあったといいます。 ○畿外から大伴氏に擁立された継体天皇であったが大和に入るために20年を要した。 ○朝鮮半島の経営失敗で負担増大により各所で反乱が続発した。磐井の乱はそのひとつ。 このことから、次のように推理する。 ○継体崩御後、蘇我氏が欽明天皇を擁立。 ○2年後、それに反対した大伴、物部氏が安閑、その後宣化天皇を擁立した。 ○宣化崩御により内乱は収拾された。 また、欽明天皇即位前紀に、二狼の逸話を例にとり、これを、宣化・欽明の二天皇のこととしたのです。 他説として、 山尾幸久氏は継体天皇が磐井の乱のさなかに退位させられ、変わって欽明天皇がこれを平定したとされました。 川口勝康氏は日本の天皇及び太子、皇子がともに亡くなった記事は、欽明天皇側が海外に向けて意図的に流した虚偽報道であるとし、安閑天皇の持つ外交特権奪取を目的としたものとしました。 また、王朝そのものを否定する意見もあります。 欽明天皇の相対する王朝は安閑天皇だけとか、宣化天皇だけとかあり一定しません。さらには安閑、宣化両天皇は机上の空論で存在しないという極論まであります。 水谷氏も言うように、どれも上宮聖徳法王定説に基づくものです。宣化天皇が檜前天皇(ひのくま)として紹介されており、存在は否定できないと思うのですが。 まだまだありますが、逆に二朝並立を真っ向から否定するものもあります。 1.日本書紀、古事記に内乱があったことを示す伝承が一つもないこと。 2.考古学上、内乱状況を思わせる遺構、遺物が発見されていないこと。 3.仏教伝来は諸本でかなり違いがあり、次から次に来日する仏教使節のどれが最初として重要なものか決めにくい。 乱立といえる二朝並立論ですが、どれも魅力的で説得力があります。しかし、安易にどれが正しいかと議論するにはいつも躊躇を覚えます。最初に示した根拠を少しでも詳細に正確に捉えておく必要があります。矛盾や疑問が出し尽くされてこそ、その頂点に答えがあると思います。ここで、各論に対する批判をしないのはそのためです。 本稿の主張は各天皇の年齢研究で述べました。これからも加筆していきます。 いずれにしろ、これらの論理は欽明天皇の63歳説に基づいています。 本稿の主張は別記しましたが、ここでは簡単な疑問を提示していきます。 1.欽明在位期間が41年も続いた長期安定政権があったとも思えません。75歳で崩御された推古天皇でも在位期間は36年です。また、欽明天皇は若いゆえに、安閑天皇、宣化天皇の存在を抜きには語れないと思います。 2.息長真手王(おきながのまてのおおきみ)は継体天皇と敏達天皇に妃を納れています。系列的には間に欽明天皇がいるのです。継体天皇の82歳はありえないと思います。こうしてみると、古事記の43歳は捨てがたいものです。継体大王の没年齢を諸説は無視しています。 継体天皇――欽明天皇――敏達天皇 女 | ├―――押坂彦人大兄皇子――舒明天皇 ├――――麻績娘子 | 息長真手王――――――――――――――広姫
3.日本書紀は天皇中心とした書物です。こうした分類に従えば、上宮聖徳法王帝説は聖徳太子に関する書物であり大局的にみれば、蘇我氏系のものといえそうです。上宮聖徳法王帝説もすばらしい書物です。日本書紀の欽明13年仏教伝来記事に対し、戊午の年538宣化3年に仏教が伝来したと思います。この仏教伝来の輝かしい報を、日本書紀は欽明13年のこととし、法王帝説は正直に戊午年としましたが、欽明天皇の御代と記述したのです。この将来を担う希望の天皇に、仏教は伝来したという点ではどちらの書物も同じだったと思います。後に、「元興寺縁起」などにより戊午年=欽明7年と着色されていったと思うのです。 続日本紀 霊亀元年九月二日
昔者(むかし)、揖譲(ゆうじょう)の君、広く求めて歴(あまね)く試み、 干戈(かんくわ)の主、体を継ぎて基(もとい)を承(う)け、 厥(そ)の後昆(こうこん)に胎(のこ)して、克(よ)く鼎祚(ていそ)を隆(さか)りにしき。 「昔、中国では、 徳のある人を天下に広く求め、つぎつぎとためして、位を譲った人、 あるいは武力によって天下をとった人も、 位を継ぎ基をうけその地位を子孫にのこし、王朝を興隆させている。」(宇治谷孟 訳) よくあることですが、訳文には注意が必要です。宇治谷孟氏でさえ、踏み込みすぎて、原文にない言葉を挿入しているのです。ここでは、元明天皇が娘の氷高内親王に禅譲した際に語った言葉です。装飾が多く、中国美文としての引用が多いのは、日本書紀の頃からの習慣といえます。「昔、中国では」と日本のことでないような文章になっていますが、ここは日本を指すと思います。確かに、中国古典「易経」や「文選」などの語が引用されているとされるものですが、あくまで続日本紀執筆担当者の美文引用であり、元明天皇は日本の過去をふり返り、我が娘に教え諭したのです。 横道にそれました。 ここの意味は、昔から、優秀な人材に譲位した人もあり、また武力により天下を取った人もあり、天子の位を代々子孫に伝えてきた、ということでしょう。天皇自ら、日本は平和な皇位継承を繰り返した国ではないと言っているのです。 特に「干戈之主、継体承基」の意味は重要で「継体」の文字が使われています。岩波版続日本紀の補注に「干戈之主」は「殷の湯王が桀(けつ)を放ち、周の武王が紂(ちゅう)を伐ったように、武力によって国を得る王のこと」、「継体承基」は「天子の位を継承する」こととあります。 関裕二氏が「継体天皇の謎」で吉村武彦氏の言葉「継体という諡号には、武力による天下取りという観念がつきまとっていた」と引用されています。関裕二氏は「北陸の田舎貴族をわざわざ都に連れてきて即位させた理由」のほうに興味を示されました。本稿では、ここは吉村武彦氏が言うように、継体大王が自力で旧大和を武力制圧したと考えました。 原書 「日本書紀(上下) 」 日本古典文学大系新装版 岩波書店 「日本書紀(上下) 」 宇治谷孟訳 講談社学術文庫 「古事記 祝詞 日本古典文学大系」 倉野憲司、武田祐吉校注 岩波書店 「古事記(上中下)全訳注」 次田真幸訳 1984 講談社学術文庫 「続日本紀二 新日本古典文学大系」 青木、稲岡、笹山、白藤校注 岩波書店 「続日本紀(上中下)」 宇治谷孟訳 「上宮聖徳法王帝説」『聖徳太子集 日本思想大系2』家永三郎、築島裕 1975岩波書店 「釋日本紀 国史大系7」 卜部兼方 M73 経済雑誌社 「三国史記1~4 金富軾」 井上秀雄訳注 東洋文庫 「完訳 三国遺事 一然 」 金思燁訳 明石書店 辞書 「日本古代氏族人名辞典」 平野邦男、坂本太郎監修 吉川弘文館 「日本古代氏族事典」 佐伯有清編 雄山閣出版 「増補大日本地名辞典」 吉田東伍 冨山房 * 「帝國 地名辞典 全」 太田為三郎編 名著出版 「広辞苑」 新村出編 岩波書店 書籍 水谷千秋「謎の大王 継体天皇」 文春新書 板橋旺爾「大王家の棺 継体と推古をつなぐ謎」 海鳥社 西川 寿勝「継体天皇二つの陵墓、四つの王宮」 新泉社 関祐二「継体天皇の謎」 PHP文庫 遠山美都男「天皇誕生 日本書紀が描いた王朝交替」 2001年 中公新書 高城修三「紀年を解読する-古事記・日本書紀の真実」 2000年 ミネルヴァ書房 黒岩重吾「古代史への旅」 講談社文庫 恵美嘉樹「日本の神様と神社-神話と歴史の謎を解く」 講談社+α文庫 吉村武彦「日本の歴史3古代王権の展開」 集英社 論文抜粋 平子鐸嶺「継体以下三皇紀の錯簡を論ず」『史学雑誌』16-6、7 喜田貞吉「継体以下三天皇皇位継承に関する疑問」『日本文化の起源2』S46平凡社 林屋辰三郎「継体・欽明朝内乱の史学的分析」『古代国家の解体』S30東京大学出版会 三品彰英「継体紀の諸問題」『日本書紀研究2』S41塙書房 塚口義信「継体天皇と息長氏」『日本書紀研究9』S51塙書房 住野勉一「継体朝序説―男大迹天皇の出自について」『日本書紀研究18』H4塙書房 笠井倭人「三国遺事百済王歴と日本書紀」『朝鮮学報』S37-7 小説 黒岩重吾「北風に起つ 継体戦争と蘇我稲目」 中公文庫 八木荘司「古代からの伝言 悠久の大和」 角川文庫 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |