天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
継体大王の崩御 けいたいてんのう First update 2010/09/01
Last update 2013/06/16 450允恭39年生〜531継体25年 82歳 日本書紀、紹運録 他 485顕宗01年生〜527継体21年 43歳 古事記 485雄略02年生〜534継体28年 50歳 拙著 継体大王関連―目次
和風諡号 男大迹天皇(おおどのすめらみこと)、又 彦太尊(ひこふとのみこと) 袁本杼命(をおどのみこと 古事記) 天皇の人となり 「壯大、愛士禮賢、意豁如也。」 「人を愛し賢人を敬い、心が広く豊かでいらっしゃった。」(宇治谷孟訳) 父 彦主人王(ひこうしのおおきみ) 応神天皇の5世の孫 母 振媛(ふるひめ) 垂仁天皇の7世の孫 妻子(1后8妃) 皇后 手白香皇女 仁賢天皇の皇女 母は春日大娘皇女(雄略天皇の娘)の第三女 子 欽明天皇 妃 目子媛(色部) 尾張連草香の娘 尾張連の祖(古事記) 妃 稚子媛 三尾角折君の妹 三尾君の祖(古事記) 子 大郎皇子 子 出雲皇女 妃 廣媛(黒比賣) 坂田大俣王の娘 子 ~前皇女 安閑天皇の妹とあり、天皇崩御と共に合葬された。 茨田皇女 馬來田皇女 妃 麻績娘子 息長眞手王の娘 子 荳角皇女(娑佐礙 ささげ) 伊勢大~祠 妃 關媛 茨田連小望の娘又は妹 子 茨田大娘皇女 白坂活日姫皇女 小野稚郎皇女(長石姫) 妃 倭媛 三尾君堅楲の娘 子 大娘子皇女 椀子皇子 三國公の祖先 丸高王(古事記) 耳皇子 赤姫皇女 妃 荑媛(はえひめ) 和珥臣河内の娘 古事記には阿倍氏とある 子 稚綾姫皇女(わかや) 圓娘皇女(つぶら) 厚皇子(あつ) 妃 廣媛 根王の娘 子 兔皇子 酒人公の祖先 中皇子 是坂田公の祖先
【日本書紀による継体天皇関連年表】 年齢は本稿の趣旨に基づくもの。 天皇の父は近江國高嶋郡三尾にいた。 天皇の母を越前国坂井の三国から迎えた。 489仁賢 2年 1歳 継体天皇降誕 ? 継体の幼年時に父王が薨じた。 ? 継体の母は天皇と共に高向(越前国坂井郡高向郷)に帰った。 507継体 1年19歳 1月 6日、継体天皇を越前三国より迎える。 1月12日、葛葉宮(くずはのみや)大阪府枚方市楠葉町に移る。 2月 4日、葛葉宮で即位 511継体 5年23歳 筒城宮(つつきのみや)京田辺市多々羅都谷に移る。 518継体12年30年 弟国宮(おとくにのみやに)長岡京市今里に移る。 526継体20年38歳 磐余玉穂宮(いわれのたまほのみや)奈良県桜井市池之内に入る。 527継体21年39歳 磐井の乱勃発 531継体25年43歳 継体天皇崩御(日本書紀など) 534継体28年46歳 継体天皇崩御(日本書紀一説) 注意:本稿では継体天皇を継体大王とも書き表しています。理由は以下のとおりです。「天皇」名称起源論に立ち入るつもりはありません。ここでは単に、大和朝廷と区別したかったからです。 日本書紀によると82歳とあります。とても信じられません。これが何方もわかっていながら先送りして議論を展開するため、いつの間にかこの82歳説を肯定する結果になる文献を多く見かけてきました。 一方、古事記には43歳とあります。重要文献としてその信頼は昔から高いものです。その文章は簡潔で本居宣長をはじめ、現在でも日本書紀以上に信をおく学者が多くおられます。にもかかわらず、採用されないのは、日本書紀による婚姻関係や継体天皇の行動からは若すぎる感があるためなのでしょうか。魅力有る説と認めながらなかなか採用されてきませんでした。 本稿では今まで日本書紀を高く評価してきました。当時の国家事業として、多くの学者たちが関わりあらゆる文献、伝承、海外との外交経緯などその記録は細部に及んでいると思うからです。しかし、この82歳の年齢は違います。不詳とすればいいのになぜここに至り82歳とあえて具体的年齢を提示したのでしょう。何か大きな理由があったはずです。ここでは故意に綿密に計算された結果数字だと考えてみました。 日本書紀は宣化天皇からさかのぼる親子3代の天皇の年齢を唐突に示しています。 宣化天皇、安閑天皇、継体天皇です。 それぞれ、73歳、70歳、82歳。どれも高齢といえますが、継体天皇を中心とした親子の年齢関係は緊密に見えます。継体天皇は17,18歳で安閑、宣化の子供を得たのです。 そこで本稿では、継体天皇の親子の年齢差は日本書紀のとおり正しいと考えました。ただし、継体らの年齢が高すぎるため、この息子たちの年齢も同じに数字をもちいて引き伸ばされたと仮定しました。その共通の値は39歳です。古事記が継体天皇の年齢を43歳としているところから、まずは単純に、この年齢を前提条件として仮置きしました。 宣化天皇の本来の年齢=73歳−39歳=34歳 安閑天皇の本来の年齢=70歳−39歳=31歳 継体天皇の本来の年齢=82歳−39歳=43歳 ちなみに、継体前期の武烈天皇の通説57歳を同式にあてはめると 武烈天皇の本来の年齢=57歳−39歳=18歳 この年齢も武烈天皇の有力な年齢説の一つなのです。 しかし、古事記の43歳説には多くの問題があることも事実です。 古事記 継体記
「継体天皇は43歳、527年4月9日に崩御された。」 丁未年は527年ですが日本書紀に照らせば継体21年にあたる年ということになります。 注意すべきは、二行目の「丁未年四月九日崩也」は古事記の写本により、あったりなかったりしているようです。 よって、現在の活字にされた注釈本はおおよそ分注扱いにして小文字で書かれ、挿入文のようにみえます。 本稿では、これを後年別人の加筆ではなく、後日同編者による追加加筆として考えてみました。 一方、日本書紀は次のように記し、日本書紀制作の舞台裏まで見せています。現在まで学会を含む多くの人々を困惑させた問題の文章です。 継体紀
継体25年春二月、天皇の病が深刻となった。 丁未(7日)、天皇、磐余玉穗宮で崩御された。 時に年八十二。 冬十二月、丙申朔庚子(5日)、藍野陵に葬られた。 或本に云う。継体天皇28年、甲寅の年に崩じた。 しかるにこれを、25年、辛亥の年に崩ずと云う者、百済本記の文より取るという。 其の文は云う、「大歳辛亥(継体25年)3月、軍進みて安羅に至り、乞乇城に営す。 是月、高麗が王安を弑す。 又聞く、日本の天皇、及び太子、皇子、ともに崩薨(かむさり)ぬ。」と。 由に此れによって言えば、辛亥の歳は(継体)25年に当たる。 後に勘校(かむが)へむ者、知らん。 よく見ると、日本書紀は古事記の表記を無視していません。日本書紀は古事記が崩御年を「丁未」年としたものを、これは「丁未」を2月7日という日付であると訂正してみせたのです。 また、最近の研究では古事記側も日本書紀と同じ在位25年説に基づき、「丁未」年を計算したものであることがわかってきました。 「『古事記』が記す雄略の崩年干支己巳(489)と継体の崩年干支丁未(527)の期間を当年称元法で求めると足かけ39年になる。この間に、顕宗の8年と武烈の8年、さらに継体の治世年数がおさまっているはずであるから、継体の治世年数は次の式で求められる。 39−(8−1)−(8−1)=25 『古事記』崩年干支の作者は、継体の治世年数を25年と考えていたのである。」 高城修三著「紀年を解読する」ミネルヴァ書房 注:原文の漢数字はアラビア数字に置き換えました。 ここに示された部分は、日本書紀が編纂されて1300年たった今も解決されない話題です。つくづくこの日本書紀を作った人たちの能力の高さに関し敬意を表したいと思います。フェルマーの最終定理を解く気分ですと言ったら笑われるでしょうか。ただこれは数学ではありません。日本書紀の編纂者たちの間で論議され未決着だったと彼らが主張し、我々に投げかけた課題です。そして、その論議を解く鍵は彼らが作り上げた土壌の上でなければならぬという制約が暗黙のうちに存在する、きわめて主観的な話題なのです。 これには多くの問題を含みますが、まず年号のみに問題に絞ると次のように解釈でると思います。 1.継体天皇は大歳辛亥531継体25年2月7日(丁未)に崩御された。 日本書紀継体紀は「百済本記」の記述に従った。 なぜなら、日本の記事が載っており、この時、天皇、太子、皇子がともに死んだとあるからだ。 権威ある「百済本記」の記述を無視することはできない。 (日本書紀は天皇、太子、皇子がともに死んだことが海外文献にあると認めているのです。このことに日本書紀自身は立ち入って説明していません。むしろ、日本書紀の記述からはこんな悲惨な出来事はこの通りありませんと言っているかのようです。) 2.日本古来より534継体28年に継体天皇が崩御されたと言われている。 よって、次期安閑天皇は534年を安閑1年とした。 このことから、その間2年のブランクが生じてしまった。 3.こうした矛盾を「後世、調べ考える人が明らかにするだろう。」 まるで日本書紀の編纂担当者間で意見が分かれ、統一できなかったかのようです。それなりに、正直な執筆態度だと認めます。しかし、天皇、太子、皇子がともに死んだという事実を記述しながら、これをはっきり否定しないのはどうした訳でしょう。ここに日本書紀が抱える大きな問題があったように思えます。継体天皇の崩御年は25年か28年かという検証結果の白熱した論議に見えながら、天皇、太子、皇子がともに死んだというショッキングな記述を無視し、問題をさらに複雑にしていったように見えるのです。 なぜ、ここまで25年にこだわったのでしょう。まるで海外文献を盲従する現代指向が昔から続いているかのようです。日本古来より伝わる継体28年在位説でもよかったのではないでしょうか。 三品彰英「継体紀の諸問題」『日本書紀研究2』塙書房 によると、その中で、笠井倭人氏の論を次のように紹介しています。日本書紀が参考としたとする「百済本記」は現存しません。しかし、現在の「三国史記」と「三国遺事」は「百済本記」を引き継ぐものといえそうです。これを調べると、日本の継体天皇の頃の記述からも「三国史記」と「三国遺事」との間に同様の3年差の矛盾があると言うのです。一概に28年在位説を否定できないのです。 日本書紀自身が認めているように、継体天皇は安閑天皇に直接譲位してから亡くなられたと記しているのに、継体天皇が辛亥531年に崩御されたとする海外文献を採用したために、文章に矛盾した空位2年が存在してしまっているのが継体紀の現状です。日本古来の28年在位説で通し、別に海外文献に25歳説があると別記しておけばよかったのです。なのになぜ、「百済本記」のせいにして、こんな矛盾した表現を残したままにしたのでしょう。本稿では日本書紀の編纂者たちは相当すぐれた技術者たちだと認めています。何か別に大きな理由があったはずです。 安閑天皇の項で述べましたが、日本初の生前譲与、継体天皇が死ぬ間際に息子の安閑に皇位を譲与したという記述は、別の見方で言えば、安閑が継体天皇に迫り、これを奪い自ら即位したとも解釈は可能なのです。武力に長じる継体の息子、安閑は本当に継体天皇に迫り天皇位を奪ったのでしょうか。 継体大王は大和の地を武力制圧により新政権を樹立しました。 ところで、海外の例を挙げるときりがないことですが、よくある例として武力制圧した張本人の大王は旧大王を簡単には殺さずに生かしています。実権は自らが保持しながら、リモートコントロールして、旧政権を誘導します。その後、息子たち2、3代目に至ってはじめて旧大王を廃するのです。 例えば、三国志の魏国があります。魏の曹操は後漢の丞相として実質的に後漢王朝を支配しましたが、その皇帝、献帝を葬りはしませんでした。曹操自身は「魏王」の称号を受けたのを最後として亡くなりました。真の皇帝位は息子の曹丕の時代になって、この形式的な皇帝、献帝に禅譲を迫り、旧漢王朝を引き継いだのです。 次の王朝、晋国も同様です。後漢王朝の後、魏国が他の二国呉、蜀を滅ぼします。その立役者は晋の祖となる、当時魏国の武将、司馬仲達(ちゅうたつ)こと高祖懿(い)。すでに魏の大権を掌握していましたが、魏の皇位を簒奪してはならぬと息子に遺言したと言われています。しかし、孫の司馬炎によって魏はこれも禅譲によって滅んだのです。 たぶん、継体大王も前天皇、武烈を殺さなかったのではないでしょうか。そして、皇位継承もしなかったのではないかと思うのです。それを、父が病に倒れたと聞いた長男の安閑が無力の武烈天皇に禅譲を迫り、強いてはこれに不賛成の継体大王に天皇即位を掲げたのだと思うのです。 本稿の継体天皇の年齢結論は次のとおりです。 継体天皇の崩御年は百済本記にある大歳辛亥(831継体25年)ではなく、日本の伝承にある大歳甲寅(834継体28年)です。日本書紀は継体天皇の紀年だけ25年としながら、安閑天皇以下、宣化、欽明と続く紀年は「或本」のままにしているのです。 よって、まず継体天皇の在位期間は28年に戻し、2年の位期間はなくすべきです。 また、古事記の記述も同様に修正します。すなわち、在位25年説に基づいて算出された43歳ではなく、在位28年だから46歳崩御とします。甲寅534継体28年薨去となります。一方、古事記に記された「丁未」を日付としてこだわれば、継体28年「丁未」の日は8回あります。しかし28年2月に「丁未」の日はありません。「日本暦日原典」内田正男編より算出 そこで「丁未」は古事記の作者による25年説に基づく別の計算結果だったと考えました。 干支年号 | 日本書紀の記述 | 日本書記「或本」に基づく本稿年齢説 | | 辛亥531 | 継体25年 継体崩御82歳 | 継体25年 継体天皇43歳 壬子532 | | 継体26年 44歳 癸丑533 | | 継体27年 45歳 甲寅534 | 安閑 1年 | 継体28年 継体崩御46歳 乙卯535 | 安閑 2年 安閑崩御70歳 | 安閑 1年 安閑天皇崩御 すると日本書紀は甲寅534年を継体28年であり、安閑1年でもあるという別の矛盾にぶつかります。日本書紀の基本姿勢である「越年称元法」をここだけ取っていないように見えます。日本書紀は厳格に「越年称元法」を踏襲していたはずです。だとすれば、上記のように乙卯535年が安閑1年のはずなのです。 武烈天皇は継体、宣化の両皇后より若い弟 継体天皇の前天皇は武烈天皇であると日本書紀にあります。本文の最初でも述べましたが武烈天皇の年齢は18歳にすぎません。 しかも、この武烈天皇は継体の皇后となった、手白香姫、宣化天皇の皇后、橘姫の弟です。皆、仁賢天皇の子供なのです。武烈天皇は継体天皇の息子、宣化天皇の皇后橘姫より若いのです。 これはもう継体在位年と武烈天皇在位年がダブる、並立したと考えるしかないことになります。 継体天皇――――宣化天皇 仁賢天皇 | | ├―――手白香姫(三女) | ├―――――――――――橘姫(五女) ├――――――――――――――――――武烈天皇 春日大娘皇女 継体天皇から皇位を継承したのなら、安閑天皇の在位期間は1年のはずです。しかし、武烈天皇から禅譲されたと考えれば安閑天皇の在位期間は日本書紀の2年だったとなり日本書紀の記述とおりになるのです。継体28年=安閑1年の重複は日本書紀の記述ミス、計算違いではなかったのです。 武烈―安閑の王朝とは別に継体を天皇として認めるとすれば、二朝並立王朝がここにあったとすべきです。そして、2年間の空白の理由は継体の死と武烈天皇の死の誤差であり、越年承元法の誤記などではなく、その原因は安閑が継体ではなく武烈から天皇位を引き継いだからです。実際には、継体大王は天皇を継承しなかったのです。 500 00000011111111112222222222333333 年 年 45678901234567890123456789012345 齢 継体天皇OPQRS―――――――――30―――――――38――――43――46 46 安閑天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――31 31 手白香皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――― ? 樟氷皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――― ? 橘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――― ? 武烈天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS 20 ←清寧 →←顕宗← 仁賢在位 →← 武烈在位 →安閑 ← 継体在位 → 526継体20年38歳の継体大王は大和の磐余玉穂宮に入りました。この前年に仁賢天皇が崩御されています。磐余玉穂宮に入った継体大王は仁賢天皇の3人の娘を手に入れています。この時、武烈は13歳でしかありません。また、同時にこの時が武烈天皇即位年となるのです。そして、在位8年間、武烈天皇は533年に崩御されました。安閑天皇は父継体から譲位されたのではありません。直接、武烈天皇の皇位を迫り奪ったのです。 病床にあった継体に対し、奪った天皇位を継体に渡そうとしたのかもしれません。しかし、継体大王は受けることなく拒んだことでしょう。結局、安閑が天皇となります。そして継体大王の嘆きは死を引き寄せたのです。 日本書紀にある継体天皇が安閑に位を譲り、即日死ぬとはおかしな表現です。もし、仮に実際生前譲与があったとしても、通常、日本書紀なら、遺言により、臣下の礼に基づき正当な天皇として即位したと記録すると思われます。父から位を生前に譲り受けたとわざわざ書いたのです。これはきわめて異例な表現です。 つまり、継体紀と武烈紀は同時期の出来事だったと考えられるのです。皇位は→仁賢→武烈→安閑→宣化→欽明→と引き継がれました。そこに継体の名はありません。力有る継体大王が別に並立していたのです。これはある意味とんでもないことであり、それぞれ個々の天皇とこの継体大王が並立する可能性の有無を詳細に比較検討する必要に迫られました。 年代比較 このことから調べると、継体在位期間28年は清寧5年間+顕宗3年間+仁賢11年間+武烈8年間+安閑2年のうち、継体と重複する1年間の合計28年と等しいことに気がつきました。つまり、継体は武烈天皇から皇位を引き継いだのではなく、すでに雄略天皇崩御のときから、琵琶湖以北を統括した継体大王として立ち上がったと考えられます。むろん、力のない清寧天皇の時代であり、各地でこのような群雄割拠が次々に起こっていたはずです。 ここでは、継体大王の28年間と清寧から武烈まで4代を一瞥します。すると継体大王の4つの行宮に移り住んだ時期と4人の天皇の崩御即位時期とが驚くほど一致したのです。 507継体 1年 交野樟葉宮 = 清寧1年 清寧天皇即位年 511継体 5年 山背綴喜宮 = 清寧5年 清寧天皇崩御、翌1月顕宗天皇即位 518継体12年 山背弟国 = 仁賢4年 的臣蚊嶋、穗瓮君は罪を犯し、みな死んだ。 526継体20年 大和玉穂宮 = 武烈1年 武烈天皇即位年 534継体28年 継体天皇崩御 = 安閑1年 安閑天皇即位 1.507継体1年2月交野樟葉宮で継体大王が即位したといわれる年は清寧1年にあたり、雄略天皇が崩御された翌年に当たるのです。清寧天皇は内外からその外見からも信用がなかったようで、大和首脳陣は、この頃から後継者問題で頭を悩ませており、日々弱体してゆく大和を憂い、周囲の有力な豪族との友好条約を次々結んでいったようです。海外の例では、弱体化した国を支える外交手段として、有力な豪族には官位や称号を贈り、最後には「王位」の使用までを許しています。継体大王もそんな有力豪族の一人だったのかもしれません。 2.511継体5年継体天皇は山背綴喜宮に進出します。この年は清寧5年で清寧天皇が崩御された年と一致しています。いわゆる旧大和王朝が滅びた年といえます。継体大王は迎えられると喜んだことでしょう。しかし、その翌年、皇位を継承したのは、吉備から見つけ出された履中天皇の孫と称する兄弟の弟で1月に顕宗天皇として大和で即位したのです。かなりごたごたしたようで、はじめ飯豊皇女が空席の皇位を代行したとも言われる年でもあります。 3.518継体12年継体天皇は山背弟国に移っています。位置的に大和からは一歩後退したようなところです。この年は仁賢4年にあたりますが、日本書紀はこのとき「的臣蚊嶋、穗瓮君は罪を犯し獄に下りみな死んだ」という不気味な記事を載せています。ここでも大きな戦いがあったようです。この4年前に顕宗天皇は崩御されており、兄が仁賢天皇として政務に就かれていました。 4.526継体20年は大和玉穂宮に、継体大王が念願の大和入りを果たします。つまり前年に仁賢天皇が崩御されたのです。武烈天皇の即位元年と推定されます。また、旧大和の大氏族の平群一族が滅んだ年でもあります。ここでも大きな戦争があったようです。 また、武烈天皇の姉たち、仁賢天皇の娘3人が同時に継体大王と二人の息子に嫁いだ年でもあります。翌年、後の欽明天皇が生まれます。 このことは武烈天皇が継体大王に定められた形ばかりの天皇であることがわかるのです。 この大和玉穂宮は武烈天皇の列城宮(なみきのみや)と隣接した場所にあります。継体大王が武烈天皇を取り込み、支配下に置いている状況が地図上からも見えてきます。(上記Google Map参照) その前年、仁賢11年8月に仁賢天皇が崩御されています。そして、平群一族が滅ぶほどの大打撃を受けたのです。これを日本書紀は、武烈太子が憎んだ平群臣鮪を臣下の大伴金村が平群真鳥臣鮪親子ともども誅殺したと描かれています。しかし、大伴金村は継体大王側の内通者であり、このことは継体大王が大和の大氏族平群一族などを討ち滅ぼし、大和に入ったと考えることができるのです。このことで、大伴金村は大連となります。まだ祖父とされる大伴室屋大連が健在のはずです。ここにも政権の二重性を感じ取ることができます。 5.534継体28年に継体大王は崩御されました。しかし、日本書紀は頑なにこの年を安閑1年、安閑天皇即位元年としたのです。越年承元法を採用した日本書紀のルールに従えば、継体天皇から皇位を引き継いだのであれば、翌535年が安閑1年であるはずです。これは、安閑が継体ではなく、前年の533継体27年に崩御された武烈天皇から皇位を継承したということです。だから翌年が安閑1年なのです。 かなり強引であったのかもしれませんが、武烈天皇が安閑天皇に禅譲したものと考えました。 雄略天皇が崩御されて、清寧天皇から始まる度重なる天皇家の血筋を探し始める日本書紀の記述に疑問を呈する意見や在位記録の希薄性から清寧、顕宗、仁賢、武烈の4天皇の存在そのものを疑う説などがあります。これはこの二朝並立説で説明できると思います。 ふり返れば、継体大王は19歳、507継体1年に武力蜂起し大王を自称した年だったのかもしれません。大和側からすれば、血筋を探し出すという言い訳のように聞こえます。雄略天皇が崩御され、大和王朝の弱体化が表面化したからです。 こうしてみると、継体大王の時代は、雄略天皇が崩御された翌年から、清寧、顕宗、仁賢、武烈、安閑、宣化と短期間政権が続いた不安定な時代だったことがわかります。出自も直系でない人物が大和を支配します。 本稿では時間軸を28年も縮め、歴史を歪めたのに、逆に今まで不明だった説明が容易になり、この時代が鮮明に蘇ってきたのです。 上の図が小さくて見えないかもしれませんが、全体像を示したいが為にやむを得ず縮小しました。ご了承ください。再確認のつもりで見てください。 代表される3つの例と本稿の仮説を比較したものです。 縦の黄色線はここで必要な武烈、継体、宣化天皇の日本書紀記述された崩御年を目印として引きました。 青色はそれぞれの説における継体天皇の位置です。緑色は欽明天皇誕生年時の各天皇の年齢を示します。手白香皇女と橘皇女の年齢は武烈天皇の同母姉であることから、本稿の推論値です。 一人も存在を否定したりせず、人物を架空に生み出すこともしないで、ひたすら日本書紀の記述を信じ、各天皇の年齢を調査していく中で、継体大王が天皇ではなかったという推論にたどり着きました。しかも、時間軸がずれ、こんなに歴史が変わって見えてしまうのに、自分自身が戸惑っているのです。 単なる数字遊びと言って笑えない現実がそこに横たわっていたからです。何度も自分が間違っているのではないかと検討を繰り返した経緯が以下のまとめになります。 日本書紀 日本書紀が連続して4天皇の年齢を明確に示したのです。応神天皇以前の天皇の年齢を示しながらそれ以降の天皇の年齢はほとんど記述していません。連続4天皇の年齢を示したのはここだけです。 どの天皇も非常な高齢に設定されています。その理由は、継体大王を天皇として現したいが為に連続する天皇の即位順位に継体天皇を割り込ませたものともいえます。武烈天皇が崩御されてはじめて継体天皇にする必要からどうしても高齢になるのです。 扶桑略記など史書一般 扶桑略記では欽明天皇の年齢は示されていません。ここは当時の歴史書の63歳説を採用して併記しました。ここでの特徴は武烈天皇の年齢がなぜか、極端にリアルな18歳として記述されたことです。これそこ伝承があったと信じたいところですが、たぶん扶桑略記の編者は日本書紀の57歳では、武烈の姉たちが年下となる継体やさらに一世代下がる息子たちの皇后になる不自然さに気がついたために、最小の年齢18歳を創作したのかもしれません。こうすれば、武烈の姉、手白香皇女や橘皇女の存在が正当化されるのです。しかし、相変わらず継体大王とその安閑、宣化親子は高齢であり、継体天皇は60歳で欽明天皇が生まれるという不自然さから逃れられないのです。 現行通説 現行通説と名を打ちましたが、ここでは高城修三氏の継体天皇54歳説を採用しただけのものです。その周辺は諸説あるため、後の部分はすべて本稿の推敲です。要は継体天皇の高年齢の不自然さを解消するために年齢を引き下げ、二朝並列などという自分で主張してしまった極論を廃絶できたのではないかとした本稿の試算といえるものです。たぶん、高城修三氏のいう54歳とは継体大王即位年30歳をベースにして組み立てたものと思われます。宝年も安閑42歳、宣化45歳と無難なものになり、欽明天皇の年齢関係も在位41年説を加味しても不自然さはありません。しかし、武烈天皇の姉たちの年齢は適正かもしれませんが、このままでは、息子の宣化天皇は8歳年上の橘皇女を娶ったことになります。政略とはいえ、不満は残ります。継体大王の年齢が引き下げられたことで、扶桑略記などが定めた18歳説がぼやけてしまうからです。やはり、武烈天皇の即位年を引き下げなければこの問題は解決しないことがわかります。 本稿 その結果、やはり武烈天皇の年齢をもっと引き下げることで姉たちが生き生きとしてくるのです。どうしても、継体大王は武烈天皇らと並立王朝時代を築いていたという結論になります。本稿の欠点は、そのものずばりで継体大王が武烈天皇在位期間に並立してしまうことです。これからの検証作業は膨大です。武烈の前、仁賢、顕宗、清寧、強いては仁賢の祖父の履中にまでに及ぶからです。 日本書紀の記述を27年も縮めてしまったのです。ただ救いもあります。これをさかのぼる応神天皇は120年も事実から乖離しているという定説があるからです。 これが正しいとすれば、日本書紀編纂者たちの意図がみえてきます。彼らはどうしても継体天大王を天皇にしたかったのだと思います。なぜなら、彼らの現天皇はこの継体大王の血を引き継ぐものだからです。また、武烈天皇を継体大王と同時期の天皇ではなく、次の天皇として組み込んでしてしまうことで、百済本記の皇族達が次々死んだというスキャンダルな出来事を隠蔽できると考えたのかも知れません。 我らの天武天皇もこの継体大王を敬愛しておられたようです。継体の子孫をなにかにつけ寵愛していることがわかってきたからです。壬申の乱において最初に武力蜂起した和磛(関ヶ原)は息長氏の勢力圏であり、彼らともに戦い、継体天皇の祖国、三尾の里までをも奪回しました。その後、継体、宣化の子孫氏族のほとんどに最高位の真人姓をあたえられ、なかでも、為奈氏、当麻氏は常に身近においた氏族です。本稿では天武天皇夫人の一人、万葉歌人である額田王の父、鏡王が為奈氏と関係を持つ氏族ではないかと考えています。(鏡女王の項参照) 継体大王は天武天皇にとって大変重要な人物で、もっと掘り下げる必要がありますが、とりあえず、前に進みます。武烈以前の天皇を調査し、この継体大王の二朝並立をまず確定しなければならないからです。もっとも、途中で本稿の説はやはり間違っていたと気づくのかもしれません。 当初、この「継体天皇の崩御」で述べた通り、古事記が表した43歳の記述と日本書紀の継体天皇が531継体25年に崩御されたことを重視しました。継体25年が43歳だったとして、継体のもう一つの崩御年、534継体28年が46歳だとしたのです。 しかし、今回、出版した本の結論は、古事記は527年43歳と干支年も正しく表現していると考えました。そして継体崩御年は別伝534年継体28年で、50歳だったのです。すると、この前後に武烈天皇と安閑天皇も同時期に崩御されたと計算できることがわかったのです。 【継体天皇の年齢仮説】
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