天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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安閑天皇の年齢 あんかんてんのう

First update 2010/08/15 Last update 2011/08/28

 

466雄略10年生 〜 535安閑2年崩御 70歳 日本書紀他

507継体 1年生 〜 535安閑2年崩御 31歳 本稿

 

和風諡号 廣國押武金日天皇(ひろくにおしたけかなひのすめらみこと)

幼名   勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)

 

父    継体天皇    継体天皇の長子。

母    目子媛(色部) 尾張連草香の娘

同母弟  宣化天皇

皇后   春日山田皇女(山田赤見皇女)

           仁賢天皇と和珥臣日爪の娘糠君娘(あらきみのいらつめ)の間に生まれる。

           天皇崩御の際、妹、神前皇女と共に合葬と日本書紀にあるが、

           延喜諸陵式には別に古市高屋墓があり、春日皇女は合葬されていない。

妃    紗手媛(さてひめ)  許勢男人大臣(こせのおひと)の娘

妃    香香有媛(かかりひめ)許勢男人大臣の娘 紗手媛の妹

妃    宅媛(やかひめ)   物部木蓮子大連(いたび)の娘

子供なし

 

和珥臣日爪―――糠君娘(あらきみ)         

         ├――――――――――――――春日山田皇女

         |      目子媛      |

         |       ├――――――安閑天皇

         |       ├――――――宣化天皇

市辺押磐皇子――仁賢天皇    継体天皇     |

(履中天皇長子) |       |       |

         ├――――――手白香皇女    |

         ├――――――――――――――橘皇女

         ├――――――――――――――武烈天皇

雄略天皇――――春日大娘皇女

 

年齢根拠

宣化天皇の項で述べました。

簡単に繰り返せば、日本書紀は宣化天皇からさかのぼる親子3代の天皇の年齢を具体的に示しています。

宣化天皇、安閑天皇、継体天皇です。

それぞれ、73歳、70歳、82歳。どれも高齢といえますが、継体天皇を中心とした親子の年齢関係は緊密に見えます。

 

そこで、本稿では、継体天皇の親子の年齢差は日本書紀のとおり正しいと考えました。ただし、年齢が高すぎるため、何らかの理由により、同じ数字をもちいて引き伸ばされたと仮定しました。その共通の値は「39」です。この数字は単純に、古事記が継体天皇の年齢を43歳としているところから求めたものです。細かく言うと多くの問題を含みますが、順に説明していきます。

 

つまり、簡単な算数の公式です。

宣化天皇の本来の年齢=73歳−39歳=34歳

安閑天皇の本来の年齢=70歳−39歳=31歳

継体天皇の本来の年齢=82歳−39歳=43歳

 

よって、この安閑天皇は31歳です。

大兄とあることからも、継体天皇の長子と考えました。

4人の夫人が紹介されています。子供がいないからといって未成年で崩御されたとは考えません。

 

500  000000111111111122222222233333333 年

年    456789012345678901234578901234567 齢

継体天皇 OPQRS―――――――――30―――――――40――43?      43

安閑天皇  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22――――――――31   31

宣化天皇   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS21――――――――30―――34

                      継体在位25年      安閑 宣化  

                           =大和磐余玉穂宮に入京した年

 

人となり=安閑天皇は武人である。

安閑天皇は猛々しい人だったようです。日本書紀は天皇の人となりを端的に記しています。むろん美辞麗句を除いてみた、他に見えぬここだけの独特の表現に注目します。

 

安閑天皇即位前紀

是天皇為人、墻宇凝峻、不可得窺。

桓桓寛大、有人君之量。

この天皇の人となり、墻宇(うつわもの)凝峻(いつく)しくして、窺(うかが)うこと得からず。

桓桓(たけく)寛大にして、人君の量(はかりこと)有(ま)します。

「この天皇の人となりは、幼少のときから器量すぐれ、はかることができないほどであった。

武威にすぐれ寛大で、人君としてふさわしい人柄であった。」

「桓桓」とは「武々しく」となります。安閑天皇は長男として、継体天皇以上に武将として相応しい人物だったようです。弟の宣化が父に従順で、人に対していばらない温和しそうな外見を持つ天皇とは異なり、景色を表に表す性格で父に対してもはっきりもの申す人物だったように見えます。

 

婚姻関係

その理由の一つ、独立心に富む性格のようで、婚姻関係でも父、弟とは異なる仁賢天皇の娘を娶ります。

 

糠君娘(あらきみのいらつめ)

  ├――――――――――――――春日山田皇女

  |      目子媛      |

  |       ├――――――安閑天皇

  |       ├――――――宣化天皇

仁賢天皇     継体天皇     |

  |       |       |

  ├――――――手白香皇女    |

  ├―――――――――樟氷皇女  |

  ├――――――――――――――橘皇女

春日大娘皇女

 

父、継体天皇と二人の息子は仁賢天皇の娘3人を娶っています。その中で、父、継体天皇と息子、弟の宣化天皇それぞれは、春日大娘皇女が生んだ二人の娘、三女の手白香皇女と五女の橘皇女を娶ります。この春日大娘皇女は雄略天皇の娘です。

しかし、安閑天皇は兄として用意されていたと思われる第4女樟氷皇女(くすひのひめみこ)を娶りませんでした。若すぎたのかもしれません。もっとも樟氷皇女の方が強く拒んだのかもしれません。

安閑天皇は和珥臣日爪の君娘(あらきみのいらつめ)の娘を娶ります。安閑が自分の意志で春日山田皇女を選んだようにも見えます。安閑は自分に相応しい年齢の春日山田皇女を選んだのかもしれません。

ここでは仁賢天皇の娘たちをワザと物扱いにした表現をしましたが、理由があります。

 

春日山田皇女の哀歌

安閑天皇と彼が選んだ春日山田皇女は頭のよい女性のようです。彼女の歌が残っています。

日本書紀が記録した二人の愛の歌ははっきり、支配する側と支配される側という立場がよくわかる歌だからです。安閑天皇が女性を征服した愛の歌なのに対し、春日山田皇女の返歌は、朝帰る夫を偲ぶ歌に見えますが、「悲歌とも捉えられる挽歌」だと、岩波版日本書紀も注釈を入れています。原文は省略します。

 

安閑天皇

八州国 妻枕かねて 春日の 春日の国に 麗し女を 有りと聞きて 宜し女を

有りと聞きて 真木さく 檜の板戸を 押し開き 我入り坐し 脚取り 端取して

枕取り 端取して 妹が手を 我に纏かしめ 我が手をば 妹に纏かしめ 真柝葛

たたき交はり 鹿くしろ 熟睡寝し間に 庭鳥 鶏は鳴くなり 野

雉は響む 愛しけくも いまだ言はずて 明けにけり我妹

「他の八州国では妻を娶りかねていた。春日国にきて美しい女が居ると聞いた。立派な桧(ひのき)の板戸を押し開き、我は入る。女の足の衣の端をとり、頭の衣の端をとった。妻の手を自分の体に巻きつかせ、自分の手を妻の体に巻きつかせ、蔦(つた)のように交じり合って熟睡した。そのつかの間に、鶏の鳴くのが聞こえ、野雉(きじ)が鳴き立て出した。可愛いともまだ言わぬ間に、夜が明けてしまった。本当に愛しいわが妻よ。」

 

春日山田皇女

隠国の 泊瀬の川ゆ 流れ来る 竹の い組竹節竹 本邊をば 琴に作り

末邊をば 笛に作り 吹き鳴す 御諸が上に 登り立ち 我が見せば つのさはふ

磐余の池の 水下ふ 魚も 上に出て嘆く やすみしし 我が大君の 帯ばせる

細紋の御帯の 結び垂れ 誰や人も 上に出て嘆く

「初瀬川を流れ来る、組み合う節竹(ふしだけ)を使って、根元の太い方で琴を作り、先の細い方で笛を作り、吹き鳴らしましょう。御諸山(みむろ)に登り渡しを眺めると、磐余(いわれ)の池の魚も水面に顔出して悲しんでいます。わが大君が締めておいでの細模様の御帯を結び垂(た)れて、誰(たれ)もが顔に出して、別れを悲しんでいるのです。」

 

女は決して喜んでいません。安閑天皇との朝の別れを惜しむ歌に見えながら、この歌はもっと深い悲しみを秘めているのです。

後に、欽明天皇が即位するとき、この春日山田皇后を若い自分の代わりに政務代行してもらうよう推挙してしますが、彼女はこれを断っています。それほどの女性なのです。たぶん継体天皇とその二人の息子に嫁ぐことになった仁賢天皇の娘たちのなかでもこの春日山田皇后が年長者とも考えられます。

 

安閑天皇は継体7年にこの春日媛を迎えたと書かれています。また、この年は日本書紀一説として、磐余宮遷都の年とも記録されています。つまり、安閑天皇が春日媛を訪ねた年は磐余宮に遷都した年だったのです。

磐余宮遷都は継体20年で、これは譲れないものです。この日本書紀一説は逆説的ですが重要です。すると、安閑が春日媛と結ばれたのは磐余宮に入った継体20年だったのです。本稿では磐余宮遷都の際、継体天皇と息子の宣化天皇の婚姻関係が結ばれたと考えていましたが、同時に安閑天皇も、自分で別にこの春日媛を選んでいたのです。

継体天皇と二人の息子のみならず、多くの武人にとっても磐余宮を征服した瞬間であったと思うのです。

 

日本書紀一説に引きずられて継体20年磐余宮遷都は実際には継体7年であったという説がありますが、これは逆だったと思います。継体7年安閑婚姻の記事は継体20年のことだったと解釈できるのです。継体天皇らは各地を転戦し、やっと大和磐余の地にたどり着いたと考えられます。

 

婚姻関係は継体天皇のこの二人の息子を比較することで特徴がよく見えてきます。弟の宣化天皇は、父と同じ春日大娘皇女の娘を娶りました。もう一人の妃、大河内稚子媛も摂津国河辺郡当たり今の尼崎といいますから、父と同じ畿外から娶っていました。父の意向に沿った人生といえます。

それに比較して、安閑天皇はまるで違います。和珥氏、物部氏、巨勢氏、すべて畿内大和の旧豪族から娘を娶ったのです。彼が各氏族に娘たちを要求したのか、各氏族が率先して娘たちを納めたのかわかりませんが、安閑の后妃は皆、大和の旧天皇を含む、大和豪族たちの娘です。

 

仲が悪い兄弟

安閑、宣化の1歳違いのこの兄弟は決して仲がよいわけではありません。

秦大津父の語る二匹のオオカミの逸話を聞いた継体天皇の様子からもわかります。

 

欽明天皇即位前紀

臣向伊勢、商價來還、山逢二狼相鬪汗血。

乃下馬洗漱口手、祈請曰、汝是貴~、而樂麁行。

儻逢獵士、見禽尤速。

乃抑止相鬪、拭洗血毛、遂遣放之、倶令全命。

天皇曰、必此報也。

臣(わたくし)が伊勢に出向き商いから帰る途中、山中で二匹の狼が血まみれで相闘っているのに出会いました。そこで馬からおりて、手と口を洗い清め、「あなた方は恐れ多い神であるのに、荒々しい行いを好まれます。もし猟師に出会えば、たちまち捕らわれてしまうでしょう」といいました。

争いを止めさせ、血にぬれた毛を拭き洗い、逃がし命を助けてやりました。

(これを聞いた継体)天皇は、きっとこれが報いだろう、と言われた。

 

継体天皇は常日頃から、息子兄弟のこの仲違いに心を痛めていたのです。

何の報い(むくい)だというのでしょう。これまでに多くの血を流してきたからなのでしょうか、旧天皇家、一つの国家を滅ぼした報いなのか、女たちを含む多くの人たちを力で征服した報いだったのでしょうか。

 

結局、この相剋、壮絶な兄弟喧嘩は、双方が次々殺さることを暗示させる表記になっているのです。

 

安閑天皇の在位期間は1年にすぎない。

安閑天皇の在位期間は日本書紀によれば、534安閑1年〜535安閑2年の2年間とあります。

しかし、本来、日本書紀は「越年称元法」で在位期間を厳格に表現しています。これは、ある年に天皇が崩御されると、次期天皇がこの年中に引き継ぎ即位されますが、即位元年はその翌年から在位期間を勘定するものです。ちなみに古事記は「当年称元法」です。前期天皇が有る年崩御され、その年中に次期天皇が即位するとその年が在位1年目となります。1年ダブル計算になります。

つまり、継体天皇と安閑天皇との間には2年間の空白があり、これはこれで別の大問題ですが、日本書紀の文章からは、明らかに当年中に天皇位が切り替わったわけですから、日本書紀の正しい表記は535安閑1年だけの1年間となるのが正しいのです。現状の534安閑1年〜535安閑2年という表現は間違っているのです。日本書紀の単純ミスのように見えます。日本書紀に混乱が見られるとの記事をよく見かけます。しかし、日本書紀の優秀な編纂者たちがそんな単純な間違いを犯すでしょうか。日本書紀の編者は「越年称元法」をここだけ、当年称元法を適用するはずがありません。何か理由があったはずです。534甲寅年は継体28年でもあり、安閑1年でもあるとする必要があったと思います。その理由は別の項で説明します。

ここでは、安閑天皇の在位は1年にすぎず、継体天皇崩御の翌年、安閑天皇も崩御されたという事実を確認したいのです。他にもこの頃、次々と不自然な死があったことを目撃するはずです。

 

日本初めての生前譲位について

継体25年2月、継体天皇は安閑天皇に譲位して即日、崩御されました。

学説上、生前譲位はこの安閑天皇が日本で初めての天皇とあります。通常、この頃の天皇位は終身制だからです。

 

安閑天皇即位前紀

廿五年春二月、辛丑朔丁未、 廿五年の春二月、辛丑の朔丁未に、

男大迹天皇、立大兄爲天皇。 男大迹天皇、大兄を立てて天皇としたまふ。

即日、男大迹天皇崩。    即日に、男大迹天皇は崩りましぬ。

継体25年春2月7日

継体天皇は安閑天皇を即位させられた。

その日に天皇は崩御された。

 

この表現には違和感を覚えます。継体天皇は病死したとあります。その直前の話です。すぐに浮かぶイメージとしては、床に伏す天皇が長男の手をとり、天皇位を譲り、まもなく亡くなられたというものですが、次のような解釈も可能なのではないでしょうか。

武力に長じる継体の息子、安閑は継体天皇に迫り天皇位を奪い、体力を消耗していた継体天皇はとうとう力尽きたという解釈です。

この生前譲与、実は簒奪だったのではないでしょうか。

しかし、この件はもう少し掘り下げる必要があるのです。

 

日本書紀の二説

日本書紀 本文            日本書紀 一説            本稿年齢説

531継体25年 辛亥 安閑天皇即位 |531継体25年 辛亥        |27歳

            継体天皇崩御 |                   |

532  空位  壬子        |532継体26年 壬子        |28歳

533  空位  癸丑        |533継体27年 癸丑        |29歳

534安閑 1年 甲寅        |534継体28年 甲寅 安閑天皇即位 |30歳

                   |            継体大王崩御 |

535安閑 2年 乙卯 安閑天皇崩御 |535安閑 1年 乙卯 安閑天皇崩御 |31歳

 

有名な2年の空白です。日本書紀の文章では、継体天皇は安閑天皇に譲位して崩御されました。それなら、自ら紹介している日本書紀一説に従うべきで、継体天皇は継体28年甲寅に安閑天皇に皇位を譲り亡くなったのです。本稿の年齢説に従えば、継体天皇から帝位を戴いた安閑天皇はこのとき30歳でした。与えられた帝位ではなく自ら求めたのがこの30歳という、自他ともに認める年齢だったことがわかります。

 

そして、その翌年には安閑天皇は崩御されます。こんどは弟の宣化天皇によって安閑天皇が排除されたと考えるのが自然でしょう。安閑天皇に二人の娘を納れた巨勢男人大臣はすでに亡く(継体23年薨)、彼を支援する物部麁鹿火大連や彼の軍隊は九州の地にあり、安閑天皇はこの頃丸裸同然だったはずです。

 

以上のように本稿では、継体天皇から自ら帝位を得ながら、すぐに弟の宣化天皇に帝位が奪い返される形で移ったと仮定してみました。しかし、安閑在位2年という表現矛盾がまだ残っています。

 

継体天皇の項へ続く

 

 

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