天武天皇の年齢研究

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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宣化天皇の年齢 せんかてんのう

First update 2010/07/31 Last update 2011/08/28

 

467雄略11年生 〜 539宣化4年崩御 73歳 日本書紀、一代要記、愚管抄 他

468雄略12年生 〜 539宣化4年崩御 72歳 本朝皇胤紹運録、(扶桑略記)

470雄略14年生 〜 539宣化4年崩御 70歳 如是院年代記

506武烈 8年生 〜 539宣化4年崩御 34歳 本稿

 

和風諡号 武小廣國押盾天皇 たけおひろくにおしたてのすめらみこと

 

器宇清通、~襟朗邁。不以才地、矜人爲王、君子所服。

器量は清く、襟元を正し、王者のように人を見下さない君子であった。

 

父  継体天皇     継体は彦主人王の子。宣化は継体天皇の第二子

兄  安閑天皇     継体天皇の第一子、宣化天皇の同母兄

母  目子媛(めのこ) 尾張連草香の娘

皇后 橘皇女(たちばな)仁賢天皇と春日大娘皇后の第五女 後に子と共に合葬された。

           (橘仲皇女ともありますが、ここでは橘皇女で統一します。)

   子 一.石姫皇女  (いしひめ)    欽明天皇皇后(日本書紀、古事記)

     二.小石姫皇女 (こいしひめ)   欽明天皇妃 (古事記)

     三.倉稚綾姫皇女(くらのわかやひめ)欽明天皇妃 (日本書紀)

妃  大河内稚子媛(おおしかわちのわくひめ)

   子 一.上殖葉皇子(かみつうえは) 丹比公の祖先

     二.火焔皇子 (ほのお)    為奈公(いな)、椎田君(しいだ)二姓の祖先

 

日本書紀では上植葉皇子を皇后、橘皇女の生んだ第4子としていますが、ここでは、古事記の表記に従いました。火焔皇子と上殖葉皇子を同母の兄弟としました。

また、為奈公の扱いは下記のとおり二説ありますが、為奈公は火焔皇子の子としました。

為奈公の祖を上植葉皇子とするものに、日本書紀、古事記があります。

また、火焔皇子とするものに、墓碑、新撰姓氏録(「日本紀合」ともあります)があります。

 

なお、他に、旧事紀、帝王本紀、紹運録などは上殖葉皇子を丹比、椎田連の祖としています。

また、上殖葉皇子は椀子(まろこ)とも呼ばれていましたから、皇后となった橘皇女より前に嫁ぎ子を生したようです。

なお、名称は日本書紀で統一しました。

 

なかでも、丹比、為奈の氏族は宣化天皇の縁戚関係であることがわかります。後に、天武天皇はこの二氏に対し、真人性を与え、重用しているのです。

この三氏を生んだ二人の皇子の母は大河内稚子媛です。河内の出身です。子供の名前からも西域の地方が浮かびあがります。丹比は南丹比郡河内村(羽曳野市西部)、椎田は摂津国川辺郡の椎堂、為奈も摂津国川辺郡為奈郷(尼崎市)といいます。

物部、大伴など大和の古い氏族と違い、継体天皇に通じる重要な氏族である息長氏、為奈氏、丹比氏、椎田氏など、はっきり区別しておく必要があるようです。阿倍氏も新しい氏族だと黒岩重吾氏はいいます。

この宣化天皇のすべての子供たちはその後の天皇を支える重要な存在になっていくことになります。

 

まず宣化天皇は橘皇后が生んだ3人の娘を、すべて後に欽明天皇に嫁がせています。継体、宣化の旧天皇一族との結びつき強化の一環と思われます。

 

【継体から敏達への系譜】

仁賢天皇

  ├――――――手白香皇女(3女)

  |       ├――――――――――――欽明天皇

  |     継体天皇            ├―――箭田珠勝大兄皇子

  |      ├―――――安閑天皇     ├―――敏達天皇

  |      ├―――――宣化天皇     ├―――笠縫皇女

  |     目子媛     ├――――――石姫

  ├――――――――――――橘皇女(5女)

  ├―――――――――――――武烈天皇(末子)

春日大娘皇女

 

年齢根拠

主流は73歳説です。日本書紀が73歳とあるからで当然といえます。古事記は沈黙しています。扶桑略記は72歳としていますが、「年六十九即位。明年丙辰、為元年。」とあり、これだと73歳になり、文章に混乱が見られます。本朝後胤紹運録の72歳は、この扶桑略記の誤記を正しただけのように見えます。如是院年代記は70歳とありますが、兄安閑天皇の年齢と混同しているようです。つまるところ、どの書物も日本書紀の73歳に基づいていると考えられるのです。

 

しかし、本稿では日本書紀の年齢表記の嘘がここから始まると考えています。

このうそを解明することは、別に学問として成立しています。「紀年法」といいます。

本稿の本来の主旨ではありませんが、避けて通れないものです。

 

日本書紀はなぜか突然、この宣化天皇からさかのぼる親子3代の天皇の年齢を明確に示しています。

宣化天皇、安閑天皇、継体天皇です。

それぞれ、73歳、70歳、82歳。どれも当時としては非常な高齢といえますが、武烈は除くとしても、継体天皇を中心とした親子の年齢関係は緊密に見えます。

 

400  66666677 〜 000〜 2222222233333333334 年

年    45678901 〜 567〜 2345678901234567890 齢

宣化天皇―――@ABCD― 〜 ――41〜 ――――60――――65――――70――73  73

安閑天皇――@ABCDE― 〜 ――42〜 ―――60―――――66――70      70

継体天皇―OPQRS――― 〜 ――58〜 ―――――――8082          82

                       継体在位      安閑 宣化  

注)532年と533年は空位の年です。いつも問題になる重要な年です。別途検証します。

 

日本書紀に示された上記の親子の年齢相関図から次のことが判ります。

 

1.507継体1年、継体天皇は58歳の高齢で即位したとされたのです。このとき二人の息子、後の安閑天皇、宣化天皇は、それぞれ42歳、41歳です。これだけ継体天皇が高齢だと普通、即位を促されたとき、息子たちに託すと思われます。自分はいつ死ぬかわからぬ年だからです。継体天皇は即位してからさらに25年も生きました。

 

2.その息子たちもそれぞれ帝位に就いたのは69歳と70歳のときでした。とても信じられません。

 

3.しかし、二人の息子は父、継体天皇17歳と18歳のときに生まれた子供です。少し早熟ですが、特に問題にする必要がない親子の年齢関係です。この息子たちは同じ母親の兄弟で1歳違いです。

 

4.武烈天皇の誕生年が継体天皇の誕生年と同じです。偶然の一致とも思えません。

 

本稿では、継体天皇の親子の年齢差は日本書紀のとおり正しいと考えてみました。ただし、記された継体天皇たちの年齢が高すぎるため、何らかの理由により引き伸ばされたと考え、同時にこの息子たちの年齢も同じに数字をもちいて引き伸ばされたと仮定しました。

 

つまり、簡単な算数の公式ができあがります。

宣化天皇の本来の年齢=A    A+X=73歳・・・・式一

安閑天皇の本来の年齢=B    B+X=70歳・・・・式二

継体天皇の本来の年齢=C    C+X=82歳・・・・式三

 

試行錯誤の一つの結果として、X=39歳という答えを得ました。

理由は簡単で、古事記が示す継体天皇43歳より導きました。つまり上記式三 C=43となります。

細かく言うと多くの問題を含みますが、このことは、この4人の天皇を順次説明しながら、分析を試みます。

 

宣化天皇の本来の年齢=34歳  34+39=73歳・・・・式一

安閑天皇の本来の年齢=31歳  31+39=70歳・・・・式二

継体天皇の本来の年齢=43歳  43+39=82歳・・・・式三

 

一方、この天皇親子の婚姻関係にも特徴があります。

宣化天皇は橘皇女を娶り皇后としました。皇女は仁賢天皇の娘です。

兄、安閑天皇は春日山田皇女を娶り皇后としました。春日山田皇女も仁賢天皇の娘です。

父、継体天皇は手白香皇女を娶り皇后としました。手白香皇女も仁賢天皇の娘です。

つまり、継体天皇と二人の息子は仁賢天皇の3人の娘を娶ったことになります。

 

ここでは、宣化天皇に焦点を絞ります。

宣化皇后となった橘皇女と継体皇后の手白香皇女は同母姉妹です。

つまり、継体天皇と宣化は親子ですが、手白香皇女と橘皇女は姉妹です。仁賢天皇の3女と5女とあります。

 

さらに興味深いことに、この姉妹が生んだそれぞれの子供がまた結ばれているのです。手白香皇后が欽明天皇を生み、橘皇后が石姫を生み、この二人が結ばれ、後の敏達天皇など3人の子供に恵まれているのです。

 

仁賢天皇 

  ├―――――手白香皇女(3女)

  |       ├―――――――――――――――欽明天皇

  |     継体天皇―――――宣化天皇      ├―――――敏達天皇

  |                ├――――――石姫皇后

  ├――――――――――――――橘皇女(5女)

春日大娘皇女

 

これをどう解釈すればいいのでしょう。

一般的解釈では「入り婿的立場で王位を継承する」水谷千秋「謎の大王継体天皇」となります。

これが日本書紀を読んでまず理解できる素直な解釈でしょう。

 

たしかに、天皇家の娘を自分の皇后として、嫁に迎えることはよくあることです。

しかし、姉妹の娘らを兄弟で迎えるならわかりますが、親子の男たちと姉妹の娘たちとが結ばれたのです。

 

同母姉妹ですからこの姉妹にはそれほど年差があったとも思えません。それは父継体天皇に欽明天皇が生まれ、息子宣化天皇に石姫が生まれ、後にこの二人がさらに結ばれ、敏達天皇ら3人の子を生んだことでわかります。欽明天皇と石姫皇后の年齢がそう変わらないのです。

ということは、二人の母、手白香皇女と橘皇女がほぼ同時にこの子らを生んだということです。つまり、継体天皇と息子の宣化天皇は一緒に仁賢天皇の娘たちと婚姻関係を結んだと考えられるのです。また、兄の安閑天皇も同じ時期に春日山田皇女と契りを結んだようです。(安閑天皇の項参照)

 

つまり、宣化天皇は年相応の娘を得たとしても継体天皇は年の離れた若い手白香姫を得たはずです。これはもう対等の力関係の結びつきとはとても思えません。

力あるものが若い娘を手に入れたに等しいものです。仁賢天皇の古い天皇系より、この継体天皇の方に実力があったということです。

 

日本書紀によると血筋が途絶えた大和王朝を復活させるため、5世の孫に当たる継体天皇が選ばれ、迎え入れられました。しかし、継体天皇ははじめ疑い、すぐには大和に入らず、葛葉(くずは)の宮で即位します。大阪府交野郡樟葉といいます。さらに、山背筒城、弟国の山城国乙訓に移った後、やっと526継体20年大和に入ります。磐余玉穂宮(奈良県桜井市)です。崩御される5年前のことです。

本稿の年齢考証の結果ではその磐余玉穂宮に入った翌年、欽明天皇が生まれています。

 

500  00011111111112222222223333333 年

年    78901234567890123457890123456 齢

継体天皇 RS―――――――――30―――――――394143      43

欽明天皇                     @ABCDEFGHI―45

手白香姫3女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――?

樟氷皇女4女  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――?

橘皇女 5女    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――?

石姫皇女                       @ABCDEFG―24

宣化天皇@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS21――24――――――――34

                        =大和磐余玉穂宮に入京した年

 

年齢説明

527継体21年欽明天皇誕生の年を手白香皇女が欽明天皇を20歳で生んだとしました。その手白香皇女は仁賢天皇と春日大娘皇女の間に生まれた第三女です。そして同母妹の橘皇女は第五女ですから、4つ違いとしています。後に、この橘皇女が生んだ石姫は夫となった欽明天皇の最初の子を生みます。箭田珠勝大兄皇子です。継体の息子、欽明天皇と宣化の娘、石姫はそれほど年齢に差はなかったはずです。最初の子供、箭田珠勝大兄皇子が生まれたのは欽明天皇20歳と石姫18歳のときと思われます。

たぶん、宣化天皇は大和磐余玉穂宮に入ったのは21歳のときです。父の要望に従い、同じ仁賢天皇の娘、橘皇女を娶りました。たぶん、このときすでに別に妃として大河内稚子媛がいたと思われます。

 

継体天皇は新しい王朝か

こうした年齢考証を重ねるうちに、一つの思いに取り付かれました。

継体天皇は大和の磐余玉穂宮に入った翌年、皇后となった手白香皇女が欽明天皇を生んでいます。たぶん、同行した息子たち宣化天皇、安閑天皇もほとんど同時にその妹の橘皇女らと交わりを結んだのではないと思われるのです。

なぜなら、継体天皇のこのとき生まれた欽明天皇と宣化天皇の皇后とした橘姫が生んだ姫は欽明天皇の皇后となるからです。この二人はほぼ同時に生まれたと思われるのです。

つまり、同時に父が三女の手白香姫、弟が五女の橘姫、なら兄は四女。実際は四女、樟氷皇女との交わりは記録されていませんが、それと入れ代わり異母姉妹の春日山田皇女と交わっています。

 

これはたぶん、武力集団、継体軍が大和の宮を制圧した瞬間ではなかったのかということです。

 

古代王国の末路にはこんな話は腐るほどあります。中国、朝鮮は元より、欧州でも同様です。

都は蹂躙され、略奪、暴行により、一つの国が滅ぶ歴史です。

しかし、この継体大王は少し違っていました。王家の娘たちを手に入れますが、弄び抵抗しないものまで殺していません。むしろ、婚姻関係を結び、たぶん息子や部下たちにもこれを奨励し、自らも手本を示したのです。そして兵士の略奪暴行を禁じたはずです。

こうした同化政策も世界の歴史に多く見られる、征服した国を掌握する政策手法の一つです。

その翌年、九州で磐井の乱が勃発します。新王朝成立に関係ない偶発的な乱とも思えません。

 

継体天皇は新しい王朝です。応神天皇5世かどうかなど問題ではありません。たとえば古代中国三国志、漢王朝の末裔と自ら主張した劉備。仲間からは漢王朝景帝の子孫と崇められ、敵からは嘘つき、騙り屋と罵られました。その真偽は正史三国志も答えを出していません。それでいいのです。蜀という一国ができたという事実だけは正しいのですから。

 

この継体王朝は新しい王朝とはよく語られてきた仮設です。それどころか、本稿では年齢検証の結果から武力征圧、征服であったと考えました。

このことを4代の天皇を紹介しながら、しばらくはじっくり調べを続けるつもりです。

 

安閑天皇の項へ続く

 

 

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