天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
仁賢天皇の年齢 にんけんてんのう First update 2010/10/21
Last update 2011/02/28 449允恭38年生〜498仁賢11年崩 50歳 扶桑略記、神皇正統記、後胤紹運録他 448允恭37年生〜498仁賢11年崩 51歳 一代要記、仁寿鏡 475允恭年間 生〜525仁賢11年崩 51歳 本稿 和風諡号 億計天皇おけのすめらみこと 諱(いみな)大脚 おおし 又は、大爲 おほす 字(あざな)嶋郎 しまのいらつこ 古事記 意祁命 おけのみこと 石上広高宮(いそのかみのひろたかのみや)に即位。 幼而聰頴、才敏多識、 幼くして聡明、敏才多識、 壯而仁惠、謙恕温慈。 壮年にして恵まし、へりくだり穏やか。 父 履中天皇の孫、市辺押磐(いちのへのおしは)皇子の子。 母 荑媛(はえ) 葛城蟻臣の娘。三男二女を生んだ 兄弟 一、居夏姫 二、億計王(嶋稚子、大石尊)第24代 仁賢天皇 三、弘計王(來目稚子) 第23代 顕宗天皇 四、飯豊女王(忍海部女王) 一説に飯豊女王を億計王の姉とする 五、橘王 皇后 春日大娘皇女(かすがのおおいらつめ) 雄略天皇の皇女 子 一、高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめ) 二、朝嬬皇女(あさづま) 三、手白香皇女(たしらか)――後に継体天皇皇后、欽明天皇を生む。 四、樟氷皇女(くすひ) 五、橘皇女(たちばな) ――後に宣化天皇皇后、石姫(欽明皇后)を生む。 六、小泊瀬稚鷦鷯天皇(おはつせわかさざきのみこと)第25代 武烈天皇 七、眞稚皇女(まわか) 妃 糠君娘(あらきみのいらつめ) 和珥臣日爪の娘 子 一、春日山田皇女―――――――後に安閑天皇の皇后となる。 【仁賢天皇の関連系図】 和珥臣日爪――――糠君 履中天皇――市辺押磐皇子 ├―――春日山田皇女(安閑皇后) ├―顕宗天皇 | ├――――仁賢天皇 葛城蟻臣――荑媛 ├―――――――――橘皇女 | ├―――石姫 | 継体天皇――宣化天皇 ├―――敏達天皇 | ├――――――――欽明天皇 ├――手白香皇女 和珥臣深目――童女君 ├―――武烈天皇 允恭天皇 ├―――春日大娘皇女 ├――――――雄略天皇 忍坂大中姫 ├―――清寧天皇 葛城円―――韓媛 【仁賢天皇関連年表】 年齢は本稿の設定によるもの 西暦年号は誤解を招くため、ここでは省略しました。 安康 1年 7歳 安康 3年 9歳 近江国蚊屋野で父、市辺押磐皇子が雄略天皇のために殺される。 丹波国経由にて播磨国明石に、弟の弘計とともに落ちのびる。 雄略 1年10歳 雄略23年32歳 8月 雄略天皇崩御 10月 清寧天皇即位 清寧1年 33歳 清寧2年 34歳11月 億計王、弘計王が播磨で発見される。 清寧3年 35歳 1月 摂津国から宮中に入る。 清寧5年 37歳 1月 清寧天皇崩御。 顕宗1年 38歳 1月 弟、弘計皇子が顕宗天皇として即位。 顕宗2年 39歳 8月 雄略陵破壊計画阻止 顕宗3年 40歳 4月 顕宗天皇、八釣宮で崩御 仁賢1年 41歳 1月 仁賢天皇、石上広庭宮で即位。 仁賢2年 42歳 9月 元顕宗皇后(難波小野)自殺。 仁賢4年 44歳 5月 的臣蚊嶋ら獄に下り、皆死んだ。 仁賢6年 46歳 9月 日鷹吉士、高麗に使す。 仁賢11年51歳 8月 仁賢天、皇正寝で崩御。 年齢設定 本稿では、継体大王の即位はなかったとして、天皇の序列から外し、並立王朝が存在したとしました。そのため、西暦や干支に27年間のずれが生じていますが、各天皇や皇子、后妃らとの相対関係は同じです。 上記の年表もあえて西暦年を外しました。誤解を避けるためです。 年齢設定は、ここでも古事記に記述された弟、顕宗天皇の年齢を参考にしました。同時に生きていたはずの継体天皇の年齢を古事記から参考にしている以上、これを無視できませんでした。 古事記は顕宗天皇が38歳だと言っています。この仁賢天皇の同母弟に当たります。仁賢自身の年齢は語っていません。 一方、鎌倉時代以降の史書によると、仁賢天皇は50歳または51歳とあります。顕宗天皇が38歳で崩御され、その後を継いだ仁賢天皇の在位が日本書紀の記述のとおり11年間だとすると、1,2歳の差がある兄弟となります。2歳差の51歳説を採用します。 この兄弟の父、市辺押磐皇子が雄略天皇に殺されたのは、雄略即位の前年です。すると、この時、顕宗、仁賢は7歳と9歳となり、日本書紀、古事記など雄略天皇からの逃亡記事に矛盾しません。 また、仁賢兄弟は当然、逃げ回る境遇だったはずですから、晩婚といえ、最初の子供をやっと30歳で得ることができたことにも納得できます。 仁賢天皇の子供達 ところで、この仁賢天皇は父の敵、雄略天皇の娘を娶り7人の子を得ています。この兄弟が播磨で発見されたのは雄略天皇が亡くなられてから2年後の清寧2年のことです。当然、子作りはその後からと思いましたが、実際には、雄略天皇崩御の3年前から子供が生まれているのです。 微妙なずれなので、とりあえず無視しますが、気になるところです。もしかすると、この兄弟の発見はもっと前のことで、公表せずに伏せられていたのかもしれません。 古事記
上記は古事記が示した仁賢天皇の全文です。簡潔で無駄な文言が一語もありません。 本稿では、これまで日本書紀を中心に語ってきましたが、調べるほど、古事記に比重が移る自分を意識してしまいます。 ここで注目しておきたいことは、日本書紀と古事記表記の相違です。 1.子供の人数が8人ではなく7人。 2.古事記は橘皇女の名が仁賢の紹介記事にはないが、宣化天皇のところにある。 「天皇、娶意祁天皇之御子、橘之中比賣命。」 3.高木と高橋、 財と朝嬬が同一人物かわからない。名前が違う。 4.手白香と樟氷の表記順(=誕生順)が逆。 【古事記】 |【日本書紀】 子 母 | 子 母 高木郎女 春日大郎女 | 高橋大娘皇女 春日大娘皇女 財郎女 =@ | 朝嬬皇女 久須毘郎女 =@ | 手白香皇女 手白髮郎女 =@ | 樟氷皇女 (橘之中比賣命) | 橘皇女 小長谷若雀命 =@ | 小泊瀬稚鷦鷯天皇 眞若王 =@ | 眞稚皇女 春日山田郎女 糠若子郎女 | 春日山田皇女 糠君娘 下記の年齢表は武烈天皇を軸に姉たちを2年おきに生まれたとして羅列してみたものです。 仁賢天皇は子供達、特に長女の高橋皇女などは雄略天皇の晩年とはいえ、崩御3年前に生まれたことになります。この頃はまだ、雄略天皇からの逃亡生活を強いられていた時期のはずです。 すると、古事記が記したように、一人少ない6人であるとすれば、武烈天皇から積み上げた姉たちの年齢が2歳下がり、雄略天皇崩御年に第一女が生まれたことになり、矛盾がなくなります。 もっとも、日本書紀の記述に従えば、第6子の武烈天皇は雄略天皇の即位前、允恭39年の生まれです。つまり、雄略天皇即位時には7人の子供達全員が生まれていたことになり、幼い頃から逃亡生活するという日本書紀自身の記述と矛盾します。 逆に、記紀の年齢数字ではなく文章を優先すると、雄略天皇在位中から、雄略天皇の娘と子作りをしていたことになります。隠れた生活環境と言いながら、都から離れた播磨の土地ではこれが可能だったのかもしれません。 【仁賢天皇関連の年齢】 500 000000011111111112222222222333333年 年 345678901234567890123456789012345齢 顕宗天皇 ――――31――――36―38 38 仁賢天皇 ―30――33――――38――41―――――――――51 51 高橋皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――? 朝嬬皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――? 手白香皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――? 樟氷皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――? 橘皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――? 武烈天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS 20 眞稚皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ――? 雄略在位→清寧5年→顕宗3← 仁賢在位11年 →←武烈在位8年→安閑 ←――――――――継体大王在位期間28年―――――――→ 仁賢4年「皆、獄に下りて死ぬ。」の記事について 日本書紀 仁賢紀
【】は原文挿入句 仁賢「4年夏5月、的臣鹿嶋(いくはのおみかしま)と穗瓮君(ほへのきみ)は、罪を犯し獄に下されみな死んだ。」(宇治谷孟訳) 本稿はこの記事を重視しています。 日本書紀の記述からは、継体大王と武烈天皇を並立させないと二人はもちろんその周囲の人たちの年齢矛盾が解決できないのです。 これが書記に示された継体、安閑、宣化、武烈の長寿の理由であり、天皇序列(並列ではなく直列)に継体大王を組み入れようとした結果だと結論づけました。 継体天皇の在位期間をはずし並べると、雄略天皇が崩御された翌年は清寧1年ですが、同時に継体1年ともなるのです。また、継体大王の4回の遷都の時期と清寧、顕宗、武烈の崩御時期が一致するのです。 大和王朝の動静に対し、気を見るに敏、といえる継体大王の素早い対応が見えてくる気がします。 年代比較 年齢は仁賢天皇の年齢 506雄略23年32歳 8月 雄略天皇崩。10月清寧天皇即位 507清寧 1年33歳 =継体1年 2月交野樟葉宮で即位 511清寧 5年37歳 1月 清寧天皇崩御 =継体5年10月山背綴喜宮遷都 514顕宗 3年40歳 4月 八釣宮で崩御 =継体8年1月 匂大兄太子の妃病 518仁賢 4年44歳 5月 的臣蚊嶋ら獄に下り皆死んだ。=継体12年3月山背弟国遷都 525仁賢11年51歳 8月 仁賢天皇正寝で崩御 =継体19年 12月 武烈天皇、泊瀬列城にて即位。 526武烈 1年 =継体20年9月大和玉穂遷都 そこで、518継体12年3月の山背弟国遷都の記事です。この時、仁賢4年には天皇の崩御記事はありませんでしたが、「的臣蚊嶋ら獄に下り皆死んだ」という記事が飛び込んできたのです。 一般的に継体大王の4回の遷都のうち、この山背弟国遷都は、大和入城という観点からいえば、2前進1歩後退の後退時期に該当するものです。私もこの時、大きな戦いがあり、継体大王が一時撤退したと考えていましたから、この記事に注目したわけです。大和側でも、仁賢天皇は苦渋の決断として、臣鹿嶋らの責任を追求し、死を言い渡したものと判断しました。 的臣(いくはのおみ)は新撰姓氏録によれば、「的臣。石川朝臣同祖。彦太忍信命三世孫、葛城襲津彦命之後也。」とあります。日本古代氏族事典によれば、「的氏は武内宿禰の子襲津彦出身の地と信じられていた葛城地方と関係の深い地域に栄えた豪族なので、とくに襲津彦を祖と称するようになる。的氏は河内・和泉・山城、の畿内を中心に分布し、その他近江・播磨にも及んでいる。的氏はその起源説話から窺われるように軍事をもって朝廷に仕えることを特色とした氏族」とあります。 応神16年8月、的戸田宿禰を伴って平群木菟宿禰が加羅に渡っています。平群氏は武内宿禰の子、木菟(つく)宿禰の祖先になります。木菟は応神天皇の子、仁徳天皇と同年同日に生まれました。 的氏は平群氏と同族だったのです。 日本書紀は仁賢天皇崩御の直後、朝廷を私した平群大臣真鳥らを大伴大連金村が滅ぼしたとしています。実は本稿の調査では、衰退していた朝廷自身が、平群一族を滅ぼすなどできなかったと考えました。 この内乱の実態は、大伴金村を介して、近江の一大勢力の継体大王に依頼し、目的を遂げたものです。 さらにその勢いに乗じて、継体大王は大和玉穂に入京したのです。この件は武烈天皇の項で述べました。 仁賢天皇はこの頃から平群氏の身勝手な横暴を嫌い、その枝葉の的臣を罰したのではないかと思います。 なお、もう一人、穗瓮君(ひへのきみ)の消息は資料がなく、残念ながらわかりません。 宮殿の乱立 日本書紀
仁賢天皇 「元年1月5日、皇太子は、石上広高宮に即位された。 (挿入原文)或本に仁賢天皇の宮は2カ所あるとある。一宮は川村、二宮は、縮見高野。その殿柱は未だ朽ちない。」 顕宗天皇 「そこで公卿百官を、近つ飛鳥の八釣宮に召されて即位された。お仕えする百官はみな喜んだ。 (挿入原文)或本に顕宗天皇の宮は2カ所あるという。一宮は小野、二宮は池野。またある本には甕栗宮とある。」 甕栗宮(みかくりのみや)は元清寧天皇の宮のことです。 播磨国風土記 美囊(みなぎ)の郡 志深(しじみ)の里の項 「於奚(おけ)、袁奚(をけ)の天皇たちは〜この後になってふたたび還り下って宮をこの土地に造っておいでになった。だから高野の宮・少野の宮・川村の宮・池野の宮がある。」(吉野裕訳) このように播磨風土記にも同様な記述があるとことから、短期政権下でありながら、実際に6,7カ所と多くの宮殿を建てたようです。日本書紀の編纂者も調査に苦慮していた様子です。 顕宗天皇の項で語りますが、このように派手な生活が垣間見えます。宮殿の乱立といい、その他にも「曲水の宴」といわれた派手な宴会が度々行われたようで、日本書紀には3回も記述されています。 これら挿入原文の4カ所の宮は播磨にあります。即位後もかつての逃亡先播磨に執着があったことがわかります。案外ここが二人の早くからの本拠地で、群雄割拠した軍閥の一勢力の拠点であったかもしれません。履中天皇の孫といいながら、結局は、播磨を中心とした有力豪族を頼みとした一勢力にすぎなかったようです。 残念ですが、仁賢天皇はやる気のない王でした。天皇位を弟顕宗に譲り、顕宗死してなお、皇位を拒み続けていました。子等には優しい父親だったようですが、「よきに計らえ」タイプの王であり、頭が悪いわけでもない為に、猜疑心も強く、大和の中心氏族の一つ平群氏まで憎んでいたようです。 最後に、継体大王に都を征圧されました。 新しい王は滅び行く国王の娘を自らのものにしたいと考えたはずです。その若さと美しさのためばかりではありません。簒奪者にとって前王朝の姫を娶るのは、衆人に認められる最良の方法だからです。その姫が子を生めば、彼の新王国の正当性は盤石のものとなるのです。 ひどい例では、これを嫌い、自ら自分の娘、長平公主を殺そうとした中国明王朝最後の崇禎帝(すうてい)などもいます。 幸い古い仁賢天皇や新しい継体大王にそうした行為は認められません。都炎上の遺跡も発見されていません。内側から門戸が開かれたのでしょう。 結果として仁賢の娘3人は、継体大王とその2人の息子に嫁がされました。仁賢の息子武烈は傀儡天皇として即位し、最後の大和王朝を担いました。 日本書紀は仁賢天皇の最後にこう虚しく締めくくります。 「人民は、このとき国中は何事もなく、役人はみなその役にふさわしく、天下は仁に帰し、民はその業に安んじている」といった。この年、五穀豊穣、蚕や麦は良い出来で、都鄙(とひ)とも平穏、戸口はますます繁栄した。11年8月8日、天皇は正殿で崩御された。」(宇治谷孟訳) 日本書紀 仁賢天皇
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