天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
欽明天皇の年齢 きんめいてんのう First update 2010/07/04
Last update 2011/02/10 571欽明32年 時年若干 日本書紀 527継体21年生〜571欽明32年 45歳 本説 510継体 4年生〜571欽明32年 62歳 一代要記 509継体 3年生〜571欽明32年 63歳 皇代記 皇胤紹運録 他 491仁賢 4年生〜571欽明32年 81歳 神皇正統記 父 継体天皇(けいたいてんのう) 母 手白香皇女(たしらかのひめみこ) 仁賢天皇の娘 義兄 安閑天皇(あんかんてんのう) 継体天皇の長子 宣化天皇(せんかてんのう) 安閑天皇の同母弟 后妃 6人 皇子16人、皇女9 ○皇后 石姫(いしひめ) 宣化天皇の娘 二男一女を生む。 一 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつおおえのみこ)第一子(欽明13年薨去) 二 敏達天皇(びたつてんのう)(譯語田渟中倉太珠敷尊) 第二子 三 笠縫皇女(さかぬいのひめみこ)(狹田毛皇女) ○五妃 稚綾姫皇女(わかあやのひめみこ)石姫皇后の妹 一 石上皇子(いそのかみのみこ) 妃 日影皇女(ひかげのひめみこ)石姫皇后の妹 一 倉皇子(くらのみこ)日本書紀は記述しながらも不詳とする(宣化紀にも掲載なし) 妃 堅塩媛(きたしひめ) 蘇我大臣稻目宿禰の娘 七男六女を生む 一 用明天皇(ようめいてんのう)(大兄皇子)橘豐日尊 第四子(日本書紀) 二 磐隈皇女(いわくまのひめみこ)(夢皇女)伊勢斎王、茨城皇子に犯され職を解かれる。 三 臈嘴鳥皇子(あとりのみこ) 四 推古天皇(すいこてんのう)豊御食炊屋姫尊 五 椀子皇子(まろこのみこ) 六 大宅皇女(おおやけのひめみこ) 七 石上部皇子(いそのかみべのみこ) 八 山背皇子(やましろのみこ) 九 大伴皇女(おおとものひめみこ)延喜式に押坂内墓。大和国城上郡押坂陵域内とある。 十 櫻井皇子(さくらいのみこ)吉備姫王(皇極天皇の母)の父 皇胤紹運録の記述による 十一肩野皇女(かたののひめみこ) 十二橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ) 十三舎人皇女(とねりのひめみこ)当麻皇子夫人 推古11年、新羅遠征中明石にて薨去。 妃 小姉君(おあねのきみ) 堅塩媛の同母妹 四男一女を生む。 一 茨城皇子(うまらきのみこ)義姉妹の磐隈巫女を犯す。 二 葛城皇子(かずらきのみこ) 三 泥部穴穗部皇女(はしひとのあなほべのみこ)義兄、用明天皇皇后 四 泥部穴穗部皇子(天香子皇子、住迹皇子) 用明2年蘇我馬子に殺害された。 五 崇峻天皇(すしゅんてんのう)泊瀬部皇子 第十二子(日本書紀) 妃 糠子(あらこ) 春日日柧臣(かすがのひつめのおみ)の娘 一 春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ) 二 橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ) 糠君娘 ├――――――――――春日山田皇女 大俣王 | 尾張目子媛 | 広姫皇后 ├――茅渟王 | ├――――安閑天皇 ├――――押坂彦人大兄皇子 | ├――――宣化天皇 | 菟名子 ├――舒明天皇 | | ├―――石姫 | ├――糠手姫 | 継体天皇 | ├―――敏達天皇 仁賢天皇 ├――――――――欽明天皇 ├――――小墾田皇女 ├――――手白香皇女 | | ├――――田眼皇女 ├―――――――――――橘仲皇女 | ├――――菟道貝鮹皇女 ├――――武烈天皇 ├―――推古天皇 | 春日大娘皇女 女 ├―――用明天皇 | ├――姉堅塩媛 ├―――聖徳太子 | ├―――泥部穴穂部皇女 | ├―――泥部穴穂部皇子 | ├―――崇峻天皇 ├――妹小姉君 蘇我稲目 史書による年齢根拠 欽明天皇の一般通説は63歳です。本朝後胤紹運録をはじめとして、扶桑略記、神皇正統記などは、すべて日本書紀が記した、父、継体天皇(82歳)やその息子たち安閑天皇(70歳)、宣化天皇(73歳)の年齢に基づき算出しているのは明らかです。 この通説に従えば、生まれたのは509継体3年にあたり、日本書紀に記述された父継体天皇が母となる皇后手白香皇女を迎えた3年目にあたります。しかし、本稿で何度も述べているとおり、天皇即位年に記述された婚姻の記述は天皇の妻子をまとめて一覧したもので、具体的に妻を迎えた年ではないのです。 このままでは欽明天皇は父継体天皇60歳の時に生まれた子となってしまいます。 神皇正統記だけは81歳としています。長命すぎ論外といえますが、その主旨は理解できます。 日本書紀の記述に即して見れば、父継体天皇42歳のときに出来た晩年の子となります。さきほどの一般通説の63歳説に従えば、父継体天皇60歳の時の子となってしまうところを修正したものといえそうです。また、欽明天皇は継体天皇の息子、宣化天皇の娘を娶っています。その宣化天皇はこのとき25歳であり、この頃、欽明天皇の皇后となる石姫が生まれたとして計算上は人間的で自然なものなのです。 つまり、日本書紀の記述に従えば、欽明天皇の年齢は80歳を超える高齢に設定する必要が生じてしまうのです。古代天皇の現実離れした長寿設定から順番に天皇年齢を設定した結果といえます。本稿はその逆で、続日本紀などから逆算しています。子供たちの年齢から父親、祖父と積み上げていきます。 欽明天皇が若い理由 1.母は手白香皇女です。父、継体天皇は自分の息子の妻と同母姉の一人、この手白香皇女を娶っています。つまり、手白香皇女は息子たちとそれほど年齢の違わない年の離れた若い妻を迎えたと考えられるのです。 2.欽明天皇の皇后となる石姫は義兄となる宣化天皇の子であり、父継体天皇の孫に当たります。順序正しく考えると欽明天皇は年若い石姫を皇后に迎えたようにみえます。しかし、この石姫皇后は欽明天皇の第一子を出産していますから、欽明天皇と年は違う若い姫ではないのです。 尾張目子媛 ├――――安閑天皇 ├――――宣化天皇 | ├―――石姫 継体天皇 | ├―――敏達天皇 仁賢天皇 |――――――――欽明天皇 ├――――手白香皇女 | ├―――――――――――橘仲皇女 春日大娘皇女 3.父、継体天皇は、欽明天皇を溺愛していた表現が多く見られます。晩年の子にふさわしい表現であり、この頃の欽明天皇は幼児に見えます。 「父の天皇はたいへんこの皇子を可愛がって常にそばに置かれた。」 4.継体天皇はその死に際し、二人の息子に欽明天皇のことを託しています。 「欽明天皇はまだ幼かったので二人の兄(安閑天皇と宣化天皇)が国政を執られた後に、天下を治められた。」 5.欽明天皇即位した当初、父、継体天皇や兄、宣化天皇の部下をそのまま起用しています。 6.宣化天皇が崩御されたとき、それを継いだ欽明天皇は群臣に「自分は年若く知識も浅くて、政事に通じない。山田皇后(義兄、安閑天皇の皇后)は政務に明るく慣れておられるから、皇后に政務の決済をお願いするように」といわれた。(宇治谷孟訳) 7.生涯6人の妻を持ちましたが、すべて天皇即位後に娶ったものです。「前からの妃」という表現もありません。 8.本稿の年齢研究でも欽明天皇の子供たちの年齢が皆、若いのです。546欽明7年以降に皆生まれています。 9.皇太子になった記述がなく、よって即位したとき、20歳に満たなかったと結論づけました。 冬十二月庚辰朔甲申、天國排開廣庭皇子、即天皇位、時年若干。 「冬12月5日、欽明天皇は即位された。年はまだ若干(そこばく)であった。」 「若干」とはまだ数が達していないという意味です。成人していないのです。一方、日本語の同音として「弱冠じゃっかん」とは礼記には20歳とあります。いずれにしろ、まだ年が若いのです。 よって、下記のとおり長男誕生を20歳のときの子として年齢を設定しました。 【欽明天皇の略歴】 年齢は本稿の推定です。 527継体21年 1歳 降誕 (本説) 531継体25年 5歳 父、継体天皇崩御 (日本書紀) 535安閑 2年 9歳 兄、安閑天皇崩御 (日本書紀) 539宣化 4年 13歳 兄、宣化天皇崩御 (日本書紀) 540欽明 1年 14歳 即位 (日本書紀) 546欽明 7年 20歳 第1子、箭田大兄皇子生誕 547欽明 8年 21歳 蘇我氏長子、後の用明天皇生誕 (神皇正統記) 549欽明10年 23歳 皇太子、後の敏達天皇生誕 (愚管抄一説) 552欽明13年 26歳 第1子、箭田大兄皇子(7歳)薨去 (日本書紀) 554欽明15年 28歳 敏達(6歳)を皇太子に立てる (日本書紀) 後の敏達皇后、推古天皇生誕 (日本書紀) 559欽明20年 33歳 第12子、崇峻天皇生誕 571欽明32年 45歳 崩御 (日本書紀) 欽明天皇を継いだ4人の子供達の年齢をここで改めてまとめておきます。 敏達天皇 即位年572敏達1年 在位14年 欽明天皇の第 2子 用明天皇 即位年586用明1年 在位 2年 欽明天皇の第 4子 崇峻天皇 即位年588崇峻1年 在位 5年 欽明天皇の第12子 推古天皇 即位年593推古1年 在位36年 欽明天皇の第 2女 上記年齢構成を簡単にまとめ説明します。 敏達天皇 敏達天皇の長男、押坂彦人大兄皇子とその年齢の知れた息子、舒明天皇との年齢バランス などから、年齢を設定しました。一番近い、愚管抄一説の37歳説を採用しました。 用明天皇 年齢の知れた推古天皇はこの用明帝の4番目の同母妹です。 その結果を踏まえ、神皇正統記の年齢説41歳を採用しました。 崇峻天皇 蘇我稲目の娘、小姉君が生んだ5人の末子が崇峻天皇です。 小姉君の第3子、穴穂部皇女は聖徳太子の母です。生年を母20歳のときとしました。 推古天皇 日本書紀に記述の通り75歳です。 欽明天皇は多産のわりに、后妃は6人しかいません。しかも初期3人の姫は継体天皇の息子宣化天皇の娘で、他2人が蘇我氏の娘です。他に1人大和の春日氏の娘がいるだけです。 この若い欽明天皇の環境は初め、継体の息子宣化天皇の3人の姫たちに取り囲まれたもとで育ちました。それが、宣化天皇が亡くなると、群臣らの媛を自ら選ぶようになったようです。特には蘇我氏の二人の娘は特別です。全25人の子供のうち、蘇我の媛二人で18人を生み分けたのです。特に、蘇我の堅塩媛は一人で13人をもうけました。継体天皇が考えた息子、欽明天皇への子孫繁栄婚姻包囲網は脆くも崩れ去ることになったのです。 意味のない比較かもしれませんが、天武天皇は10人の后妃で17人の子供をなしました。豪族間との広い付き合いが垣間見える気がします。継体天皇も同様です。これに比較すると、欽明天皇は地味で真面目な性格のように見えます。狭い宮廷環境の中での生活が中心であったことがわかります。 【蘇我の娘たちの子供たち】 蘇我稲目 ├――堅塩媛(13柱) | ├―――用明天皇( 1番目)――????――高向王 | ├―――磐隈皇女( 2番目) | | ├―――推古天皇( 4番目) ├――漢皇子 | ├―――桜井皇子(10番目)――吉備姫王――皇極天皇 | ├―――舎人皇女(13番目) | 欽明天皇 | ├―――茨城皇子 (1番目) | ├―――葛城皇子 (2番目) | ├―――泥部穴穂部皇女(3番目)用明皇后、聖徳太子の母 | ├―――泥部穴穂部皇子(4番目) | ├―――崇峻天皇 (5番目) ├――小姉君(5柱) 女 古典史書による年齢表比較 【欽明皇子年齢表】本稿 500 44444444445555555555666666666677 年 年 01234567890123456789012345678901 齢 欽明天皇―――――20―――――――――30―――――――――40―――――45 敏達天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――37 用明天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――41 崇峻天皇 @ABCDEFGHIJKL―34 推古天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―75 (欽明天皇22歳で用明、24歳で敏達、29歳で推古、34歳で崇峻が生まれる。) 【欽明皇子年齢表】神皇正統記 500 44444444445555555555666666666677 年 年 01234567890123456789012345678901 齢 欽明天皇50―――――――――60―――――――――70――――――――――81 敏達天皇MNOPQRS―――――――――30―――――――――40――――――61 用明天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――41 崇峻天皇S―――――――――30―――――――――40―――――――――50――72 推古天皇 @ABCDEFGHIJKL―70 (欽明天皇31歳で崇峻、36歳で敏達、57歳で用明、69歳で推古が生まれる。) 【欽明皇子年齢表】扶桑略記、一部水鏡 500 44444444445555555555666666666677 年 年 01234567890123456789012345678901 齢 欽明天皇――――――――40―――――――――50―――――――――60――63 敏達天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24 用明天皇OPQRS―――――――――30―――――――――40――――――――63 崇峻天皇S―――――――――30―――――――――40―――――――――50――72 推古天皇 @ABCDEFGHIJKLMNO―73 (欽明天皇23歳で崇峻、27歳で用明、42歳で敏達、48歳で推古が生まれる。) 【欽明皇子年齢表】愚管抄 500 44444444445555555555666666666677 年 年 01234567890123456789012345678901 齢 欽明天皇――――――――40―――――――――50―――――――――60――63 敏達天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――37 用明天皇 ? 崇峻天皇S―――――――――30―――――――――40―――――――――50――72 推古天皇 @ABCDEFGHIJKLMNO―73 (欽明天皇23歳で崇峻、41歳で敏達、48歳で推古が生まれる。) 欽明天皇の圧倒的大きさに見える歴史的存在感から63歳もわからないでもないのですが、すると娘の一人推古天皇は欽明天皇48歳という晩年の子となり、その後、さらに堅塩媛に推古天皇に引き続き9人の子が生まれるのです。なお、崇峻天皇の72歳は論外です。何か宗教的な意味合いがあるように思えます。単純に伝承の年齢を2倍したようにみえます。 その結果、本稿でまとめた皇子たちの年齢分布は以下のようだと推定されるのです。 【欽明天皇の皇子4人関連年齢表】 500 4444555555555556666666667777777777 年 年 6789012345678901234567890123456789 齢 欽明天皇S――――――――30――――――――――40――――45 45 箭田皇子@ABCDEF 7 敏達天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――24―――――30――37 笠縫皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 石上皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 用明天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――41 磐隈皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 臈嘴鳥皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 推古天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――75 椀子皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 大宅皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――? 石上部皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 山背皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ――? 大伴皇女 @ABCDEFGHIJKLMNO――? 櫻井皇子 @ABCDEFGHIJKLM――? 肩野皇女 @ABCDEFGHIJK――? 橘本稚皇子 @ABCDEFGHH――? 舎人皇女 @ABCDEFG――33? 茨城皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――? 葛城皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――? 穴穂部皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――67? 穴穂部皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――30? 崇峻天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR―――33? 春日山田皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 橘麻呂皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 詳細は各天皇の項に譲ります。 ここに記述した没年齢は薨去年がわかる方のみ逆算し推定しています。 本項は数字の羅列になってしまいました。 そこで、欽明天皇を側面から捉えたく、別項にて欽明天皇の妃、堅塩媛について少し語りました。 なお、以下の重要な論点は以降の年齢研究で論じます。 欽明天皇とその前朝、安閑と宣化天皇の対立による並立王朝時代とする説。 欽明天皇の在位期間が32年ではなく、上宮聖徳法王帝説の仏教伝来年の解釈から41年間とする説。 この年齢研究に則して考えれば、上記2つの考え方は、残念ながらありえないことになります。 これは単に欽明天皇の年齢が確定されていないことが大きな要因と考えられます。一般通説63歳説に基づくものと思われるからです。41年間も続いた長期政権があったというわけです。 ここではあくまで欽明天皇の年齢に終始しました。重要な世界環境の激変する時代がそこにはあります。 これらとの検証の必要もありますが、まずは前に進みます。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |