天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
堅塩媛の年齢 きたしひめ First update 2010/06/20
Last update 2018/06/20 529継体23年生 〜 (572−585)敏達年間薨去 45歳〜58歳 父 蘇我大臣稲目 母 不詳 妹 小姉君(おあねのきみ) 同様に欽明天皇の妃となる。 夫 欽明天皇 子 合計13人 男7人 女6人 一 大兄皇子(橘豐日尊、用明天皇) 欽明帝の第四子(日本書紀) 二 磐隈皇女(夢皇女) 伊勢斎王、茨城皇子に犯され職を解かれる。 三 臈嘴鳥皇子(あとり) 四 豊御食炊屋姫尊(推古天皇) 五 椀子皇子(まろこ) 六 大宅皇女(おおやけ) 七 石上部皇子(いそのかみべ) 八 山背皇子(やましろ) 九 大伴皇女(おおとも) 十 櫻井皇子 吉備姫王(皇極天皇の母)の父 皇胤紹運録の記述による 十一肩野皇女(かたの) 十二橘本稚皇子たちばなのもののわか 十三舎人皇女 当麻皇子夫人 推古11年、新羅遠征中明石にて薨去。 【堅塩媛と子供たちの年齢表】 500 444455555555555666666666777777777 年 年 678901234567890123456789012345678 齢 欽明天皇S―――――――――30―――――――――40――――45 堅塩媛 RS―――――――――30―――――――――40―――44〜 用明天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――41 磐隈皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 臈嘴鳥皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 推古天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――75 椀子皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 大宅皇女 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――? 石上部皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―? 山背皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―? 大伴皇女 @ABCDEFGHIJKLMNO―? 櫻井皇子 @ABCDEFGHIJKLM―? 肩野皇女 @ABCDEFGHIJK―? 橘本稚皇子 @ABCDEFGHI―? 舎人皇女 @ABCDEFG―33? 蘇我氏の巨大な権力の基礎はこの女性、堅塩媛によって築かれたと考えています。しかし、彼女自身は何の自覚もなかったでしょう。史実として13人の子供を生み育てた実績が残るだけです。 年齢根拠 4番目に生まれた推古天皇の年齢がわかっています。13番目最後に生まれた舎人皇女が夫、欽明天皇の最後の年に生まれたとしてすると、おおむね平均して2年ごとに子供を生み続けていたと仮定できます。 すると長男、用明天皇の生年は547欽明8年になり、神皇正統記などの41歳説と一致します。この用明天皇を20歳で生んだとして、この堅塩媛の年齢を設定しました。最後に舎人皇女を生んだとき44歳になっていました。 これだけ多産だとそれほど長く生きたとは思えません。また、用明天皇即位以降、自分の子供たちが次々と天皇に即位するまで存命であったなら、堅塩媛は天皇の母、皇祖母として記録に残ったはずです。その記録がない以上、夫欽明天皇崩御の後、次期敏達天皇在位中には薨去したと考えました。年齢は45歳から58歳ぐらいでしょう。 蘇我稲目 彼女の父、蘇我稲目はこの時代にあって進歩的な人で、中国、朝鮮からの技術導入、特に仏教導入に大変熱心な人物でした。特に目立つ物理的権力闘争の渦中にあって活躍した人ではありません。その権力はほとんどが与えられたもので、ひとえに天皇の愛妃となった父という理由によるものです。 536宣化1年、初めて大臣として登録されました。たぶん初めて得たかわいい娘、堅塩媛を欽明天皇に嫁がせ、その後、子姉君も嫁がせました。扶桑略記に570欽明31年に65歳薨、とありますから、蘇我稲目23歳のときの子が堅塩媛となります。大臣となった宣化1年には31歳であったと推測されます。 堅塩媛の功績 13人を生んだという日本書紀の記述をどう捉えるべきなのでしょうか。 数の多さもさることながら、その正確な子供の人数と名前を後世に残したのです。現在まで残るその人数と名前、この功績こそが彼女にあったと思うのだ。そこに彼女の強い意志を感じるのです。自分が生んだ子供たちすべてへの強い愛情を考えさせられるのです。 堅塩媛の娘、有名な推古天皇でさえ、子供が、7人(日本書紀)だか8人(古事記)だかはっきりしないのです。名前も諸説あり一定していません。 これだけ多い出産だと現代人には素直には受け入れられない人もおられます。養子縁組や他貴族の子を誤解し堅塩媛の子としたとか、ひどいものには日本書紀のうそ、ねつ造とするものまであります。 また13人を生むとはどういうことか。夫の愛情の長年に及ぶ絆の維持も大変だったろうと思います。単に姿形が美しいだけではだめなのです。 この時代にあって、13人の子供たちが生き残り、成人できたものは半分にも満たなかったと思います。母として哀しい記憶も多かったことでしょう。 日本書紀、古事記の示された多くの美しい女性名 神話の世界からも、日本の女性の美しさを示した漢字には、圧倒的な想像力を書き立てる表現がたくさん見られます。 木花開耶姫 このはなのさくやひめ 天孫の夫人 衣通郎姫 そとおしのいらつめ 允恭天皇妃 気長足姫 おきながたらしひめ 神功皇后、本来は息長氏の系統名 手白香皇女 たしらかのひめみこ 継体天皇皇后 小足媛 おたらしひめ 孝徳天皇妃 胸形尼子娘 むなかたのあまこのいらつめ 天武天皇夫人、宗像氏族の娘 いくらでもあります。特に説明は不要でしょう。 万葉集などは処女のことを「未通女」と書いています。直接的で露骨なものですが、よくわかる微笑ましい表現です。 中国では漢字は、神々しい大切で重々しい文字として尊重され敬意が払われてきましたが、日本では漢字には軽やかで遊び感覚に富む自由さがあるように思えます。 しかし、この「きたし媛」の名の由来は悲しいものです きたし、の意味 日本書紀は堅塩媛の名前をわざわざ、「きたし」と読むよう注釈を入れています。 堅鹽、此云、岐施志 「堅塩、これをキタシと言う」 彼女の名前「きたし」は、後に天智天皇の最初の夫人のおぞましい記憶に由来するものだと紹介されています。死人を連想させた塩を嫌ったからというのです。 岩波版には「カタシとキタシとの音通は、カタナシ(醜)、キタシ(穢)などの例がある」とあります。 孝徳紀 大化5年
天智天皇、時に中大兄「皇太子の妃、蘇我造媛みやつこひめは父蘇我大臣が(物部二田作)塩に斬られたと聞いて、心を傷つけ悲しみもだえた。塩の名を聞くことをにくんだ。このため造媛に近侍する者は、塩の名を言うことを忌み、改めて堅塩(きたし)といった。造媛は心に傷を負い遂に死に至った。」 実は「堅塩媛」とはひどい名前だったのです。汚い、醜いに通じる名前です。それは蘇我家への後生の人たちがつけたあだ名でした。蘇我家の男性における「馬子」、「蝦夷」、「入鹿」も同様だと思います。 天武天皇の夫人にも太蕤娘(おおぬのいらつめ)という蘇我赤兄の娘がいます。「蕤」ずい、とは垂れ下がる様をいうようです。豚を連想させる蔑称に見えます。 結局、彼女の産み育てるというこの当たり前に見える大変な作業が、大きな権力を産んだのです。この権力はすさまじく、彼女が亡くなると、天皇陵級の大きな墓が作られました。そして、先に崩御された夫、欽明天皇の墓のなかから夫の遺体を自分の墓へ移送させることにまで発展していくのです。むろん、それは彼女の意思ではないのでしょう。台頭した蘇我家の実力を見せつけた一大行事だったといえます。彼女を慕った多くの子供達や孫の精一杯の供養だったともいえるものです。 見瀬丸山古墳の考古学上の解釈について 現在の見瀬丸山古墳を欽明天皇と堅塩媛の合葬陵だとした、森浩一氏の長年の主張に賛同するものが多いようです。私もいろいろな専門家の意見を拝見した素人史家としてこれに賛同しますが、はっきり言って本来、この見瀬丸山古墳は堅塩媛の墓であると考えたいのです。一般的にこれは欽明天皇の陵墓であって堅塩媛が追葬されたと言われるものです。 猪熊兼勝編「見瀬丸山古墳と天皇陵」によると ○.下記に示された日本書紀の3つの記述、桧隈坂合陵、桧隈大陵、桧隈陵は別々の墓を指すのではなく一つの墓の意味である。 ○.見瀬丸山古墳は欽明天皇崩御時のものではなく、比較的新しい。これは、推古天皇時代改葬されたからである。 「推古28年になりますが、この記事はこの古墳が改葬のあと八年間工事が継続されていたと、素直に読めばそう読めるんじゃないかと思うんです。」 羨道(横穴式古墳の棺までの横穴)まで新しいのは大がかりな改修といえる。 ○.二つの石棺は奥が新しく、石室の手前の方が古い。これは、堅塩媛合葬に際し、「事情で欽明天皇の石棺を少し手前に移動させたとすれば、この謎は解ける。」 別に謎などではないと思います。この墓は本来、堅塩媛の墓なのです。だから、墓の中の彼女の新しい棺は一番奥にあるのです。そして、そのまえに、彼女の棺より大きなりっぱな欽明天皇の古い棺が後から移送さ置かれているのです。 しかも、並んで置かれていません。これは計画的に初めから二つの棺を収めるようにこの古墳が設計され作られたものでないことを示すものです。 最初、彼女のために造られた古墳だったものが、後に欽明天皇の大きな棺の移送が決定され、実行されたと考えたほうがこの見瀬丸山古墳の現状説明に矛盾がないのではないでしょうか。 日本書紀の記述上は 571欽明32年 九月、葬于、桧隈坂合陵。 620推古20年 二月辛亥朔庚午、改葬皇太夫人堅臨媛、於桧隈大陵。 628推古28年冬十月、以砂礫葺、桧隈陵上。則域外積土成山。 欽明天皇が崩御されたとき堅塩媛はまだ存命だったはずです。なのに「合陵」とあるのは後の表現だからです。現在言われているたぶん梅山古墳などに一度埋葬されました。 その後、堅塩媛が亡くなります。皇后でないのですから、最初の墓は小さなものだったと思います。 ところが、推古20年正月に改めて堅塩媛のりっぱな墓が完成し、その祝いがあったようです。正月から「蘇我氏」の繁栄を称えています。このとき皇太夫人となった堅塩媛は新たに出来た巨大な墓、桧隈大陵に改めて埋葬されたのでしょう。 さらに、推古28年になって欽明天皇の遺体がこの堅塩媛大陵に移されたのだと思います。官僚が集められ改めて祈っているのです。合葬されたことでこの堅塩媛の墓は、天皇陵としてふさわしい「砂礫(されき)を葺(ふ)き」敷きつめられ、さらに盛り土され、天皇の合陵墓として昇格したのです。 そのための更なる改葬だったはずです。現代の解釈のような、欽明天皇陵に堅塩媛が合葬されるにあたり、羨道にまで及ぶ大改葬が行われたわけではないのです。 ○「ただ、最近森(浩一)さんは、これは欽明陵だと言っていながら、実は堅塩媛だと言っておられるんですね。〜堅塩媛陵説を補足するわけではありませんが、あの前方後円墳に羨道があそこに向くというのはたいへん異常なことです。あまり例のないことですね。逆に前方部を無視してしまえば、あれは全く飛鳥の古墳なんですね。堅塩媛陵というのが案外捨てきれない意見かもしれません。」前提書 このように、考古学会自身はまだ戸惑っておられます。 堅塩媛自身に何の科(とが)もありませんが、後生の人々は、欽明天皇陵に拝礼すると、必然的にこの堅塩媛も拝むことになるのです。まるで蘇我氏に強要されている気がしていたことでしょう。堅塩(きたし)と陰口を言いたくところです。 ところで、息子の敏達天皇が崩御された際には、敏達天皇の遺体は、母、欽明の皇后である石姫の墓に合葬されました。磯長陵(しなが)といいます。石姫は宣化天皇の娘です。 「息長=磯長」とする説がありますが、こうした観点から見ると正しいのかもしれません。 このことに当時の敏達皇后、後の推古天皇は何も言いませんでしたが、推古20年に至り、当てこするように、父欽明天皇の遺体を自分の母のこの新しい大きな墓に移して見せたようにも思えます。 その後、推古天皇は亡くなる際、自分の遺体は、息子の墓に埋葬するようはっきり指示しています。 これは暗に自分の墓が新たに造られ、夫、敏達天皇の遺体をまた、自分の墓に移葬される可能性を危惧した政治的配慮があったようにも思えます。 さらに蛇足ですが、前敏達皇后は広姫で息長真手王の娘です。彼女の墓は、息長陵といって、滋賀県坂田郡山東町にあります。丸く盛土しただけの小さな墓ですが、民家の隣に、今も宮内庁によってしっかり守られています。 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |