天武天皇の年齢研究

kamiya1@mta.biglobe.ne.jp

 

−目次−

 ホーム−目次 

 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

image007

 

2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

image008

 

2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

image009

 

 

 

推古天皇の年齢 すいこてんのう

First update 2010/02/15 Last update 2011/02/10

 

554欽明15年生〜628推古36年崩御 75歳 日本書紀、皇代記、興福寺略年代記

556欽明17年生〜628推古36年崩御 73歳 扶桑略記、本朝皇胤紹運録

559欽明20年生〜628推古36年崩御 70歳 神皇正統記

 

和風諡号 豊御食炊屋姫天皇(とよみけかしきやひめのみこと)

幼少時は額田部皇女という。

 

父  欽明天皇 欽明天皇の第二女とある。

母  堅塩媛(きたしひめ)蘇我稲目の娘(7男6女を生んだ。)

兄  用明天皇(同母妹)欽明天皇の第四子とある。

夫  敏達天皇

子  2男5女を生んだ。(古事記では8人)

   1 菟道貝鮹皇女 聖徳太子に嫁ぐ

   2 竹田皇子   推古天皇崩御の後のち、この息子の墓に合葬された。

   3 小墾田皇女  押坂彦人大兄皇子に嫁ぐ。(古事記に記述なし)

     葛城王   (古事記に載るが、日本書紀にはない。)

   4 鸕守皇女 (うもり)

   5 尾張皇子   娘の位奈部橘王は聖徳太子に嫁ぎ2人を出産。

   6 田眼皇女   舒明天皇に嫁ぐ。

   7 櫻井弓張皇女(さくらいのゆみはり)押坂彦人大兄皇子に嫁ぐ(古事記)。

 

【推古天皇の関連系図】

  伊勢大鹿首小熊――菟名子(うなこ)

           ├――――――――――糠手姫

           | 広姫皇后      ―――舒明天皇

 宣化天皇―石姫皇后 |  ――押坂彦人大兄皇子   |  

        ――敏達天皇   |    |    | 

継体天皇――欽明天皇   ――櫻井弓張皇女 |    | 

       | |   ――――――小墾田皇女   | 

       | |   ――――――――――――田眼皇女

       | |   ―鸕守皇女(うもり)

       | |   ――竹田皇子    

       | |   ――尾張皇子――位奈部橘王

       | |   ――菟道貝鮹皇女 |

       | ――推古天皇     | ――白髪部王

       | ――用明天皇     | ――手島女王

       |堅塩媛  ―――――――聖徳太子       

       ――――間人穴穂部皇女   ―――山背大兄王

       ――――崇峻天皇     刀自古郎女

      小姉君(4男1女)          

 

【推古天皇の関連年表】

554欽明15年  1歳 推古天皇降誕

571欽明33年 18歳 敏達天皇に嫁ぐ。

575敏達 4年 22歳 先の皇后、広姫薨去。1男2女を生んだ。

576敏達 5年 23歳 敏達天皇の皇后になる。

585敏達14年 32歳 夫、敏達天皇崩御

587用明 2年 34歳 兄、用明天皇崩御

592崇峻 5年 39歳 弟、崇峻天皇崩御

593推古 1年 40歳 前年、12月即位し、推古天皇となる。

622推古30年 69歳 聖徳太子薨去(49歳)

628推古36年 75歳 推古天皇崩御

 

日本書紀における推古天皇の年齢の詳細な記録

 

【日本書紀 推古天皇即位前紀】

豊御食炊屋姫天皇、天國排開廣庭天皇、中女也。

橘豊日天皇同母妹也。

幼曰、額田部皇女。姿色端麗、進止軌制。

年十八歳、立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后。

卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩。

卅九歳、當于當于、泊瀬部天皇五年十一月、天皇爲大臣馬子宿禰見殺。

嗣位既空。

冬十二月壬申朔己卯、皇后即天皇位於豐浦宮。

卅六年、〜三月癸丑、天皇崩之時年七十五。

即殯於南庭。

「推古天皇は欽明天皇の第二女である。

用明天皇の同母妹である。

幼少の時、額田部皇女という。容姿端麗で立ち振る舞いに誤りがなかった。

18歳のとき、敏達天皇の皇后になられた。

34歳のとき、敏達天皇が崩御された。

39歳のとき、崇峻天皇5年11月、天皇は大臣馬子宿禰のために弑せられた。

皇位が空いた。

冬12月8日、皇后は豊浦宮において即位された。

36年、〜3月7日、天皇は崩御された。時75歳。

南庭に殯宮を置かれた。」

 

日本書紀に描かれた歴代天皇のなかでこれほど詳細に年齢を示した天皇はいません。丁寧に推古天皇の年齢推移を年表のように書き表しているのです。75歳で天寿を全うしたのです。世界に誇れる長寿の天皇だったからです。

しかし、この年齢記述には矛盾があります。

まとめると、

571欽明33年 18歳 敏達天皇皇后になったとあるが、皇后になるのは5年後、

576敏達 5年 23歳 敏達天皇の皇后になる。

585敏達14年 32歳 敏達天皇崩御。

587用明 2年 34歳 敏達天皇崩御とあるが、この年は用明天皇崩御が正しい。

592崇峻 5年 39歳 崇峻天皇が11月に崩御。その後、12月8日に即位。

628推古36年 75歳 推古天皇3月7日に崩御。

 

上記のように日本書紀があろうことか計算違いをしているのです。ここだけに混乱があるとすると問題ですが、他の天皇の記述でも数カ所、計算違いをしています。このように日本書紀の年齢数字は注意を要するようです。

たぶん、いろんな文献により混乱したとここでは良心的に解釈しておきます。

まず、本稿では下記の年齢考証の結果、19歳で最初の子と生んだと考えられることから、18歳のとき皇后ではなく敏達天皇のもとに上がったといえそうです。

後に主張された70歳説、73歳説はこの日本書紀の間違い、すなわち立后の5歳差、敏達天皇と用明天皇崩御時の2歳差を後世の書物が敏感に反映させたものであると考えられるのです。

 

欽明天皇の第二女とは

本稿では第何子、第何女の表現にこだわり続けました。ここでも同じです。何度も言いますが身分順のはずなのです。年齢順ではありません。

日本書紀の欽明天皇の第二女とは、岩波版日本書紀がいう蘇我稲目の娘、堅塩媛の第二女ではないのです。すなわち、堅塩媛は7男6女を生み、生んだ順に1.用明天皇、2.磐隈皇女、3,臈嘴鳥皇子、4.持統天皇で、この磐隈皇女が第一女だというのですが、それは違うと思います。

欽明天皇の后妃紹介記事でも明らかなように、まず宣化天皇の娘、石姫が2男1女を生んだ、その笠縫皇女が第一女のはずです。ちなみに生んだ順は1.箭田珠勝大兄皇子、2.敏達天皇、3.笠縫皇女(狹田毛皇女)です。敏達天皇は第二子とあります。当然ですが、第一子が箭田珠勝大兄皇子です。

 

【推古天皇関連の年齢】

500  666666666777777777788888888889999 年

  年  123456789012345678901234567890123 齢

敏達天皇 LMNOPQRS―――24―――――30――――――37

推古天皇 GHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――――4075

菟道貝鮹皇女(聖徳夫人)    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――?

竹田皇子              @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS ?

小墾田皇女 (押坂彦人大兄夫人)    @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―?

鸕鷀守皇女                 @ABCDEFGHIJKLMNO―?

尾張皇子                    @ABCDEFGHIJKLM―?

田眼皇女  (舒明帝夫人)             @ABCDEFGHIJK―?

櫻井弓張皇女(押坂彦人大兄夫人)            @ABCDEFGHI―?

                注)水色は敏達天皇即位期間。

 

推古天皇の年齢の検証

上記の表で37歳とあるのは愚管抄の説を採用したものです。詳細は敏達天皇の項をご確認ください。

いずれにしても推古天皇が嫁いだ敏達天皇は585年に崩御されました。推古天皇32歳のときでした。このときまでに7人の子(古事記では8人)を生んだのですから、単純に2年ごとに生んだとすると、生み始めたのが19歳のときと計算が可能なのです。つまり、日本書紀が記した推古天皇の75歳は間違いなさそうだと推測できるのです。

 

推古天皇の子供達

名君として誉れ高い女性で36年にも及ぶ長期政権の権力者として君臨しました。特に彼女の政治におけるバランス感覚はすばらしいといいます。本稿では、推古天皇の年齢検証についてはほぼ確定的であるため。最初軽く流すつもりで執筆を試みました。ところが、推古天皇の子供達の動向について調査を進めるなかで子供達にとって決して幸福だったとは思えない推古天皇の婚姻政策が浮き上がってきたのです。調べれば調べるほど、推古天皇の堂々とした政治行動とは裏腹に子供達を犠牲にしなければならなかった、女帝のすさまじい姿が見えてきたのです。どうしてここまで支離滅裂な婚姻計画を進めなければならなかったのでしょう。ここでは疑問を提示するに留めます。

 

菟道貝鮹皇女 うじのかいだこのひめみこ

またの名を菟道磯津貝皇女(うじのしつかいのひめみこ)。推古天皇が19歳で生んだ最初の子です。兄、用明天皇の長男である聖徳太子に嫁ぎました。計算上は2歳ほど年上になりますが同年齢同士と考えていいと思います。聖徳太子の母は推古天皇の母の妹の子です。蘇我家同氏の結びつきとなります。唯一まともな結婚をした皇女ですが、この皇女の子供が見当たらないことから早くに亡くなったとされています。

 

小墾田皇女 おわりだのひめみこ

3番目の子で女の子としては2番目になる皇女です。今度は押坂彦人大兄皇子に嫁がせています。この皇子は夫敏達天皇の第一皇后の皇子であり、母は天皇家の皇后を次々輩出した古い格式高い氏族、息長氏の娘です。このことは推古天皇のバランス感覚を評価する記事によく見かけるものです。

しかし、年齢は聖徳太子より6歳は年上ですから、本来ならば長女の菟道貝鮹皇女がこの押坂彦人大兄皇子に嫁ぐべきだったはずです。ところが妹の小墾田皇女が姉の嫁いだ聖徳太子より年上男性に嫁いだのです。権力バランスが崩れてきているのがわかります。小墾田皇女が嫁いだ頃には次期天皇候補のこの押坂彦人大兄皇子に嫁がせることができたのです。蘇我家の力が増大してきている証拠です。息長氏が蘇我氏の強い要望を拒否できなくなったといえます。しかし、この皇女にも子供はできなかったようです。

 

500   8889999999999000000000011111111112 年

  年   7890123456789012345678901234567890 齢

推古天皇  ――――――40―――――――――50―――――――――60――――――― 75

小墾田皇女 KLMNOPQ―――― ?

押坂大兄皇子――――――262830 ?

 

竹田皇子 たけだのみこ

竹田皇子は推古天皇が生んだ最初の男の子です。彼女が生んだ2番目の子です。後のことですが、推古天皇は自分の死に際してはこの竹田皇子の墓に合葬するように指示しています。なぜ、竹田皇子なのでしょう。推古天皇は竹田皇子に哀しい負い目を持っていたように見えます。自分が息子を殺してしまったと生涯思い続けていたと想像します。

その頃、太子の候補は押坂彦人大兄皇子とこの竹田皇子でした。聖徳太子ではないのです。親の欲目から、蘇我氏と物部氏との争いに出陣させたことが、彼の死につながったのではないでしょうか。少なくとも、この争いに積極的な若い竹田皇子を止めることはしなかったのでしょう。

夫、敏達天皇が崩御され、これを継いだ推古天皇の実兄、用明天皇も2年後に崩御、次に即位したその弟、崇峻天皇も亡くなり、とうとう推古天皇が即位します。このとき、推古天皇は40歳、息子、竹田皇子は生きていれば20歳ぐらいだったはずです。聖徳太子とほぼ同じ年齢です。聖徳太子以上に推古天皇は自分の子、竹田皇子を皇太子にしたいと考えていたはずです。しかし、この皇子の死という運命が同族の聖徳太子を皇太子に向かわせたのだと思います。世間一般にいわれるような天下晴れての聖徳太子への皇太子任命ではなかったように思えます。自分の息子が亡くなったから甥の聖徳太子を仕方なく皇太子にしたのです。

押坂彦人大兄皇子は推古天皇の夫、敏達天皇の皇后が生んだ皇子ですから、そのころ一番位の高い位置にいたのです。しかし、彼より身分の低い聖徳太子が皇太子になったのです。ですから、この頃、矢継ぎ早に重要な皇子たちが亡くなっていたようです。この押坂彦人皇子もすでに亡くなっていたはずなのです。

つまり、次期、天皇候補順としては、兄弟となる@用明天皇、A間人穴穂部皇子、B崇峻天皇、息子であるC押坂彦人大兄皇子、D竹田皇子、E聖徳太子、の6人がいたのですが、推古天皇が即位した結果Eの聖徳太子が皇太子となったのです。@〜Dの皇子はみな亡くなっていました。

 

      ―――32崇峻天皇

29欽明天皇―――30敏達天皇―――押坂大兄皇子―――34舒明天皇

      ―――31用明天皇―――聖徳太子           

      ―――33推古天皇―――竹田皇子

 

櫻井弓張皇女 さくらいのみはりのひめみこ

推古天皇が生んだ7人目の末っ子です。

古事記では、押坂彦人大兄皇子に嫁ぎ、二人の子を生したと書かれています。

最初の小墾田皇女にとうとう子供はできなかったため、残っていた若い末娘の桜井弓張皇女が押坂彦人大兄皇子に嫁いだという仮説があります。

しかし、この仮説には年齢関連だけで2つの矛盾が出てしまいます。

ひとつが、彼女が末娘というアンバランスと、押坂彦人大兄皇子が長寿になってしまい、太子が聖徳太子と二人いることになってしまうのです。

 

500   8889999999999000000000011111111112 年

  年   7890123456789012345678901234567890 齢

推古天皇  ――――――40―――――――――50―――――――――60――――――― 75

押坂大兄皇子――――――26―――30―――――36

桜井弓張皇女CDEFGHIJKLMNOPQRS―?

山代王                 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―?

笠縫王                   @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―?

 

その為か、日本書紀は押坂彦人皇子への婚姻を書いていません。古事記の記述が事実なら、なぜ、可愛い末娘を16歳年上に嫁がせたのでしょう。このことは押坂彦人大兄皇子の項を別に作り改めて論じます。

 

田眼皇女 ためのひめみこ

推古天皇の6番目の子です。この皇女の運命もさらに不思議です。

妹の櫻井弓張皇女とは逆に、今度は押坂彦人大兄皇子の息子、後の舒明天皇に嫁ぎます。

櫻井弓張皇女の姉、田眼皇女が妹の夫の子に嫁ぐことになるのです。年齢試算では11歳も年上女房となってしまいます。しかし、推古天皇50歳前後のことでしょう。あと25年は生きた彼女ですが、このときは自分の余命もあまりないと感じていたはずです。そこまでして大王本家につながる舒明天皇との結びつきを保つ意味はなんだったのでしょう。

古事記、日本書紀に書かれたことです。この婚姻は間違いではないのでしょう。しかし、日本書紀は敏達天皇の章でこの事実を述べていますが、舒明天皇の后妃一覧には田眼皇女の名はありません。形式的な即位前の結婚であり子供もできなかったからでしょうか。夫が成人する前に亡くなったともいえます。

 

500   8889999999999000000000011111111112 年

  年   7890123456789012345678901234567890 齢

推古天皇  ――――――40―――――――――50―――――――――60――――――― 75

田眼皇女  EFGHIJKLMNOPQRS―――――?

舒明天皇        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――― 49

押坂大兄皇子――――――26―――30 ?

 

位奈部橘王 いなべのたちばなのひめみこ

位奈部橘王は推古天皇の次男、尾張皇子の娘です。聖徳太子に嫁ぎ、白髪部(しらかべ)王、手島女王を生んだと上宮聖コ法王帝説にあります。橘大郎女(たちばなのおおいらつめ)と呼ばれていました。しかし、尾張皇子は聖徳太子より6歳年下ですから、20歳以上は違う夫です。聖徳太子にとってもかなり晩年の子供ということになるのです。

嫁いだときには、太子にはすでに3人の妻がいたはずです。初めに蘇我馬子の娘、刀自古郎女で4人の子がおり、次に地元膳氏の娘、膳大郎女で8人の子がいました。3番目が上記に書いた推古天皇の皇女、菟道貝鮹皇女がいました。多分、子が出来ずに亡くなったことから、この位奈部橘王こと橘大郎女が入り2人の子を生んだのです。

聖徳太子は中国かぶれとも取れるインテリです。日本古来の通い婚を取らず、妻子ともども同居していたと言われていますから、位は高くとも若い橘大郎女の苦労は目に見えるようです。自分と同じ年の子もいたでしょう。

聖徳太子は522推古30年49歳で薨去されました。その前年には母、穴穂部間人皇女が亡くなっています。また、太子が亡くなる前に妻の膳大郎女も亡くなり、3人は同じ墓に並んで合葬されました。

こんな内で橘大郎女は祖母、推古天皇に懇願して高価な「天寿国曼荼羅繍帳(てんじゅこくまんだらしゅうちょう)(国宝)をつくらせたことは有名です。太子への愛情もあったでしょうが、プライドと寂寥感が彼女を突き動かしていたように見えるのです。

年齢だけみれば、推古天皇の孫の彼女こそ、上記舒明天皇の妻にふさわしいものです。タイミングとしてはこうなるのでしょうが、年齢のアンバランスな婚姻政策はどこまで効果があったのでしょう。

 

500   8889999999999000000000011111111112 年

  年   7890123456789012345678901234567890 齢

推古天皇  ――――――40―――――――――50―――――――――60――――――― 75

尾張皇子  IIJKLMNOPQRS―――――――?

位奈部橘王            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22――

白髪部王                                @ABC―

手島女王                                  @A―

聖徳太子  MNOPQRS―――――――――30―――――――――40――――454749

 

守皇女 うもりのひめみこ

葛城王   かつらぎのみこ

この二人についての情報は乏しいため省略します。

 

 

本章先頭へ       ホーム目次へ

©2006- Masayuki Kamiya All right reserved.