天武天皇の年齢研究

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 概要 

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 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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用明天皇の年齢 ようめいてんのう

First update 2010/03/22 Last update 2011/02/10

 

519継体13年生〜587用明2年崩 69歳 皇年代略記、興福寺略年代記

521継体15年生〜587用明2年崩 67歳 鴨脚本皇代記

540欽明 1年生〜587用明2年崩 48歳 仁寿鏡、東寺王代記

547欽明 8年生〜587用明2年崩 41歳 神皇正統記、如是院年代記、和漢合符

552欽明13年生〜587用明2年崩 36歳 水鏡一説

 

在位 585敏達14年9月即位〜587用明2年4月崩御までの3年間(在位2年)

 

父  欽明天皇 日本書紀には父欽明天皇の第四子とあります。

母    蘇我稲目の娘で13人を出産しました。用明天皇はその最初の子です。

妻子 皇后 穴穗部間人皇女 欽明天皇と蘇我小姉君の娘です。4人の皇子を生みました。

      1.廐戸皇子(豐耳聰聖徳、豐聰耳法大王、法主王、上宮など多数)

             後に推古天皇の東宮、聖徳太子。622推古30年薨去49歳

      2.來目皇子(征新羅将軍)603推古11年筑紫にて薨去。登美真人の祖

      3.殖栗皇子(えくり)蜷淵真人の祖

      4.茨田皇子(まんだ)

   嬪  石寸名 蘇我大臣稻目宿禰の娘

      1.田目皇子(豐浦皇子)父崩御の後、義母穴穗部間人太后と結ばれ、佐富女王を得る。

   嬪  廣子 葛城直磐村の娘 一男一女を生む。

      1.麻呂子皇子  当麻真人の公の祖。來目皇子の兄とある。

      2.酢香手姫皇女 斎王(用明、崇峻、推古の三代37年間)

 

 蘇我稻目――石寸名

        ├――田目皇子(豐浦皇子)多米王とも

        |   ――佐富女王(さとみ)

        |穴穗部間人皇女(皇后)

        | ―――廐戸皇子(聖徳太子)

        | ―――來目皇子――山村王(紹運録)

        | ―――殖栗皇子――衣縫王

 欽明天皇   | ―――茨田皇子

   ―――用明天皇―――???―――高向王

   |     ――――酢香手姫皇女(すかてひめ)斎王

   |     ――――当麻皇子――当麻広嶋(〜672)吉備国主など

   |   葛城廣子    |

   ――――――――――舎人皇女(570?〜603)

   ―――推古天皇

 堅盬媛(13柱)

 

【用明天皇関連年齢表】

500 6666666666777777777788888888 年

  年 0123456789012345678901234567 齢

欽明天皇―――――――――――崩

舎人皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOP―33

推古天皇 GHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――75

穴穂部皇女FGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――――67

用明天皇 NOPQRS―――――――2830――――――――――41

田目皇子      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――

麻呂子皇子          @ABCDEFGHIJKLMNOP―

酢香手姫皇女           @ABCDEFGHIJKLMN―

聖徳太子              @ABCDEFGHIJKLM―49

來目皇子                @ABCDEFGHIJK―28

殖栗皇子                  @ABCDEFGHI―

茨田皇子                    @ABCDEFG―

 

年齢を推理する。

用明天皇の年齢は単純に考えました。年齢の知れる推古天皇(554欽明15年生)の母は堅塩媛で13人の子を生みました。1番目が用明天皇で、4番目が推古天皇です。単純に2年おきの子として、6歳違いとなります。548欽明9年。それに一番近い旧来からの説が神皇正統記の41歳説です。推古天皇とは7歳違いの同母兄となります。547欽明8年生まれです。これを採用します。

 

用明天皇の年齢は過去の史書でも統一性がありません。すべてを網羅するとかえって判りづらくなります。大筋、41歳説と69歳説に大別されるようです。

 

日本書紀によると、父欽明天皇の第一子は同母兄の箭田珠勝(やたのたまかつ)大兄皇子です。第二子が敏達天皇です。用明天皇は母が異なりますが第四子とあります。結果、本稿では敏達より用明のほうが年上となります。これと同じ考えをもった史書には、敏達天皇を48歳、用明天皇を69歳とした皇年代略記などがあります。これは身分順に原因があるはずです。第一から第三子は天皇家の直系です。これに対し、用明天皇は蘇我氏の娘、堅塩娘が生んだ子ですが大兄皇子とあることから蘇我系皇子の年長者であることはわかります。ここでは、敏達と用明の年齢の上下の判別はしません。敏達天皇の年齢を別に調査する必要があるのです。

 

検証――皇子の年齢

 

1.麻呂子皇子は当麻皇子ともいわれます。欽明天皇の娘、舎人皇女を娶っています。祖父の娘を娶ったことになりますが、よく調べると矛盾はありません。この皇女の母は用明天皇の母と同じ堅塩媛です。1番目が用明天皇で、4番目が推古天皇、そして第13子が末子の舎人皇女です。欽明天皇は571欽明32年に崩御されました。最初の子用明天皇は547年欽明8年生まれとしましたから、その24年の間に13人を生んだことになるのです。そこで、欽明天皇が崩御する年に生まれた最晩年の子としました。

そして603推古11年のこと、聖徳太子の弟、来目皇子が新羅征伐で出生中、筑紫で亡くなります。それを引き継いだのが当麻皇子です。すぐに出立しますが、途中明石で、当麻皇子に同行した夫人、この舎人皇女が亡くなるのです。33歳と仮定できます。悲嘆に暮れた皇子は出征を断念してしまいます。二人は同じ身分ですから同じ年と考えていいと思います。よって、569欽明30年生まれとなり、筑紫で薨去された来目皇子が聖徳太子の2歳年下の弟とすると28歳で薨去されました。当麻皇子は5歳年上となります、日本書紀には来目皇子の兄とありますから、ほぼ正しいと思います。系譜的には弟に位置しますが、これも身分順であり、年齢としては上であったと考えられます。なぜなら、麻呂子皇子を弟にすると上図であきらかのように子供たちの出産年齢が不均等になるからです。

 

2.酢香手姫皇女は麻呂子皇子の同母妹です。2歳年下としました。斎王として、37年間(用明、崇峻、推古三代の間)伊勢に遣わされたとあります。585敏達14年9月19日の詔によるものと考えられます。13歳で斎王になり伊勢に行き、622推古30年50歳で母(当麻氏)の故郷である葛城(葛城山東北麓)に自ら戻ったことになります。「自退」とあるからですが、自らの強い意志を示したことになります。この年は聖徳太子が薨去された年にあたり、聖徳太子が葬られたのは南河内郡太子町で葛城市当麻からは二上山の竹内峠を越えたすぐのところです。二人はほぼ同年齢です。二人の関係は不明ですが、聖徳太子の薨去を契機として、伊勢を退いたことは確かなようです。このあと、伊勢斎王は天武天皇の大伯皇女が13歳で斎王に選ばれるまでの90年近い空白となるのです。二人はほぼ同年齢で斎王となったことがわかるのです。

大伯皇女の斎王決定には天武天皇の皇后、持統天皇が大きく関わっていたという説があります。持統天皇の姉の娘を追い落とすためといわれます。それもあるかもしれませんが、ここから見えてくることは、天武天皇の意思による計画的な斎王派遣であったとも考えられるのです。天武天皇にとっては伝説的な酢香手姫斎王と同じ13歳となった大伯皇女が斎王にならねばならなかったのです。

なお、大伯皇女以前の斎王たちは伊勢まで行っていないといわれています。日本書紀には訳されると「遣わされた」となるのですが、原文は「伊勢を拝む」であり、「日神を奉じる」なのです。酢香手姫の前に二人の斎王がいますがこれも同様の表現をしています。つまり、彼女らは近くに建てられた斎宮を運営していたのです。実は、この女の館は常に汚された歴史があります。そのたびに斎王は「奸」犯されたとして任を解かれています。酢香手姫皇女の場合だけは37年もの間、この斎宮を維持したわけです。大変な努力があったと思います。確かに巫女を犯すことは罪でしたが、逆に考えれば若い処女が集まる女性たちが住む宮を健康な男子がそっとしておくはずもないのです。遠く離れた伊勢という大きな組織に守られていた訳でもないからです。

斎宮をけなしているわけではありません。天武天皇の時代には天皇さえも正面から批判するしっかりした組織に成長しています。この件は別にまとめたいと思っています。

 

日本書紀 用明前紀

壬申、詔曰、云々。

以、酢香手姫皇女、拜伊勢~宮、奉日~祀。

(是皇女、自此天皇時、逮干炊屋姫天皇之世、奉日~祀。

自退葛城而薨。見炊屋姫天皇紀。

或本云、卅七年間、奉日~祀。自退而薨。)原文注

(9月)19日に詔して、云々といわれた。

酢香手姫皇女を伊勢神宮に遣わして、斎宮として天照大神にお仕えさせられた。

――この皇女は、この天皇の御時から、推古天皇御代まで、皇大神宮にお仕えし、

後年、母の里、葛城に退いて亡くなられた、と推古天皇紀に見える。

ある本に、この皇女は37年間も大神にお仕えした後、自ら退いて亡くなられたとある。

(宇治谷孟訳)

 

3.聖徳太子の母は用明天皇の皇后となった、穴穂部皇女が生んだ長男です。全員男子で4人です。最初に生まれた聖徳太子の調査は昔からかなり進んでいるのでその説を利用します。49歳、622推古30年に薨去されました。その前年に母を亡くし、年が明けるとすぐに妻の一人膳大刀自(かしわでのおおとじ)を亡くし、まもなく自らも薨去されたものです。伝染病と思えます。太子町の叡福寺境内にある三骨一廟とされる磯長陵は有名です。母、穴穂部皇女は20歳で聖徳太子を生んだと計算すると、このとき67歳です。他の3人の息子についての年齢消息は上記の来目皇子以外ありません。単純に2歳間隔で生まれたとしました。

 

4.田目皇子は用明天皇と蘇我稲目の娘、石寸名の子ですが、用明崩御後、異母となる用明皇后の穴穂部皇女と結ばれ、一女、佐富女王(さとみ)をもうけています。そのため、できる限り、用明天皇の早い段階、彼が20歳の時の皇子としました。また、日本書紀の妻子紹介でも、同じ嬪のなかでも麻呂子皇子を生んだ葛城広子よりも石寸名を先に紹介していることから、麻呂子皇子より年上と考えるべきです。それでも、皇太后となった穴穂部皇女は11歳年上の女性となります。皇后33歳、田目皇子22歳のとき用明天皇は崩御されたのです。田目皇子をもっと年上としなかったのは他の皇子たちの年齢と乖離してしまうからです。他の皇子が皆若いのです。

 

【用明天皇関連年齢表】

500  889999999999000000000011111111112222 年

  年  890123456789012345678901234567890123 齢

舎人皇女 QRS―――――――――30――33

推古天皇 ――――――40―――――――――50―――――――――60――――――――――75

舒明天皇      @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30――49

皇極天皇(本稿予測)               @ABCDEFGHIJKLMNOP―

田目皇子 ―――――――30―――――――――40―――――――――50―――――――――

麻呂子皇子QRS―――――――――30――33――――――40―――――――――50――――

酢香手姫皇女PQRS―――――――――30――――――――――40―――――――――50

聖徳太子 NOPQRS―――――――――30――――――――――40――――――――49

來目皇子 LMNOPQRS―――――――28

殖栗皇子 JKLMNOPQRS―――――――――30―――――――――40―――――――

茨田皇子 HIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――――――40―――――

 

当麻氏について

 

用明天皇の息子達は大まかに言って2系統に分類されます。聖徳太子と当麻氏の系統です。聖徳太子は昔からあらゆる分析がありますが、この当麻氏族はつい最近まで不勉強でよく知りませんでした。

特に、天武天皇の晩年、崩御後に活躍しているのが、意外にもこの当麻の名前が目立つようになるのです。出自をいつも気にしている者の一人としては、無視出来ない氏族なのです。天下が天武天皇の元に統合されたとき、そこに目立ち始めた氏族がいたことになるからです。推理小説ではありませんが、犯人捜しは、結果利益を得たものを探すことです。

 

当麻、當麻、当摩と書きます。読み方は、とうま、たいま、たぎま、とあります。本稿はとりあえず、当麻(たぎま)として統一します。漢字が読みやすい当用漢字にしたという理由にすぎません。

 

     【日本書紀の記述】         |       【古事記の記述】

欽明天皇                   | 欽明天皇

  ―――――――舎人皇女         |   ―――――――――泥杼王(ねど)

  ―――用明天皇  |          |   ――――用明天皇

    ――麻呂古皇子(当麻公の祖先)| 岐多斯比売   ―――当麻王

(きたし)  ――酢香手姫皇女(斎王)   | (きたし)   ―――須加志呂古郎女

葛城直磐村――広子 (すかて)        | 当麻之倉首――飯女之子  (すがしろこ)

                       |    比呂  (いいめ)

 

日本書紀岩波版注に「麻呂子」とは貴人の子弟を呼ぶ普通名詞とあります。つまり、元来、麻呂子皇子とは当麻皇子であるといえます。

 

【日本書紀に見える当麻氏関連年表】

BC23垂仁7年当麻村に力自慢の当麻蹶速(くえはや)がいました。天皇は勇士と名高い出雲國の野見宿禰を召して試合(捔力)させました。結果、当麻蹶速は殺され野見宿禰にその土地が与えられ仕えたといいます。その後、野見宿禰はこの地の殉死の風習を止め、埴輪に置きかえさせた人物で、播磨で病没したと伝わります。野見宿禰が当麻の伝説的子孫なのかもしれません。

 

399履中天皇即位前、皇太子の頃のことです。父、仁徳天皇が崩御され喪中に最中、弟の住吉仲皇子に皇太子の婚約者を寝取られ、命まで狙われました。大阪を脱出する際、飛鳥山を超える道ではない当麻道を少女に教えられ難を逃れたといいます。

その時の追っ手の中に阿曇連浜子がいました。その後捕らえられ、助命に際し顔面に入れ墨をされたとあります。阿曇は九州を拠点にもつ、瀬戸内海から大阪方面に進出した氏族です。入れ墨=阿曇としての代名詞であり彼らの風習でしたが、これが逸話に利用されたようです。別で述べたことですが、この阿曇氏は和泉大津を拠点とした大海人氏を包含する大氏族です。さらに、阿曇氏に対等する九州の大氏族に宗像氏がおり、天武天皇の妻の一人、胸形尼子娘が高市皇子を生んでいます。

 

586用明天皇1年、葛城直磐村の娘広子が一男一女を生んだとする紹介記事があります。男は麻呂子皇子といい当麻公の祖先で、女は酢香手姫皇女です。天皇三代にわたり日~に仕えたとあります。

 

603推古11年2月、聖徳太子の実弟來目皇子が征新羅將軍として出航していましたが、九州筑紫で病没しました。失敗でした。同年7月、今度は義兄の当麻皇子が難波から船出します。しかし、途中、播磨において同行していた妻舎人姫王が薨じられ、その地、明石桧笠岡(ひかさのおか)上に葬られました。当麻皇子は征討を止めて戻ってしまいます。同年に当麻寺を建立したと伝わります。

翌年正月、聖徳太子は17条憲法を発表するなど活躍めざましい頃です。主観的にみて政治政策にはこの聖徳太子には批判的です。しかし、聖徳太子の教えを受け、萬法蔵院を創建したともありますからかなり強かです。

 

さてここからは天武天皇以降の時代です。まず、壬申の乱の記述から。

672天武1年6月天武天皇の蜂起を受けて近江朝廷は東国、倭の京、吉備、筑紫の4方面に軍兵を調達させるべく使いを遣わしたとあります。吉備と筑紫の国守は元から大皇弟(天武天皇)に付いていたと日本書紀に語らせています。特にここでは吉備國守の当麻公広嶋がいました。結局、朝廷の使者に当麻公広嶋は殺されています。なぜ、当麻公広嶋は天武天皇と親しいのでしょう。

 

672天武1年7月に入り、天武側の將軍吹負(ふけい)は奈良の地で近江軍に苦戦していました。やっと墨坂で味方の援軍と合流し金綱井(橿原市)で軍を再編成しました。最後には大坂道からくる壹伎史韓國軍(いきのふびとからくに)と当麻村葦池付近(葛城市)で奮戦し破ったとあります。

実はこの時、韓国は味方の裏切り続出のなか来目臣塩籠(こめのおみしおこ)も自殺させたばかりでした。近江軍は分裂の憂き目にあい戦力は著しく低下していたのです。ここでもそうですが、この頃から最前線で残り戦う近江軍の名前は韓国姓のものばかりになっていきます。

 

壬申の乱が終わりました。ここで意味不明の事件が勃発します。

675天武4年4月小錦上の当麻公広麻呂と小錦下の久努臣麻呂の二人が突然、朝廷への出仕を禁じられたのです。さらに6日後、特に久努臣麻呂は詔命をおびた使者に従わなかったとして官位を剥奪されます。

当麻広麻呂の方はその10年後、天武14年5月19日に亡くなりました。直大参とあり壬申の功労者として直大壱位を贈られています。死んだとはいえ高い官位を与えられました。残念ながら彼の功績はわかっていません。久努臣麻呂は忠実な部下として復帰したようで、天武天皇崩御の際、直広肆で刑官の代表として誄を読まれています。

天武天皇の時勢ではこういうことが多いのです。突然、罰せられたり褒められたりしています。勤める側も大変だったようで、不明の自殺者などが結構いるのです。恐れ多いご威光の高さだったようです。

 

681天武10年2月 小紫位の当麻公豐濱(とよはま)が薨じました。この人の記事は他にありません。

681天武10年7月 秋七月、小錦下の釆女臣竹羅(ちくら)を大使、当麻公楯を小使として新羅国と高麗国に遣わされ、9月に戻ったとあります。

705慶雲2年11月当麻真人楯は従五位下で斎宮頭となりました。釆女朝臣竹羅のほうは天武天皇崩御の際、直大肆で内命婦のことを代表して誄を読まれています。

 

684天武13年10月 当麻公は八色姓の制定で最高位の真人姓を得ます。

是日、守山公、路公、高橋公、三國公、當麻公、茨城公、丹比公、猪名公、坂田公、羽田公、息長公、酒人公、山道公、十三氏賜姓曰眞人。

 

689持統3年2月、務大肆の当摩真人桜井ら9人を判事としました。こういう一族もいたのです。

 

当麻真人国見

また、当麻寺(奈良県葛城市當麻)は麻呂子皇子の孫に当たる当麻真人国見が河内国交野郡山田郷の禅林寺を役行者ゆかりの地と言われる現在の地に移したともいわれています。

以下、この国見をまとめます。

686朱鳥1年、天武天皇の葬儀の際、左右兵衛の事を誄。時に直大参(正五位上相当)。このとき軍事を掌握していたことになります。

696持統11年2月28日、直広壱(正四位上相当)の国見は東宮大傳に任じられています。

文武天皇、当時軽皇子の教育係とも思われ、直後の8月には即位されます。その準備でしょう。

699文武3年10月20日、国見らが越智山陵(母の斉明天皇陵)修復のため派遣された。時に直大壱。

701大宝元年7月21日、国見、壬申の功臣として100戸が与えられた。この時亡くなったか。

 

当麻真人智徳

一方、年齢的には兄弟といえるのでしょう。当麻真人智徳という人物がいます。

688持統2年11月、直広肆の当麻真人智徳は天武天皇の殯宮において皇祖らの騰極次第を誄した、とあります。こうして、ようやく天武天皇は大内陵に葬られたのです。長い殯期間でした。

692持統6年3月、直広參の当麻眞人智徳ら3人が行幸の留守官に任じられたとあります。たぶん年をとったからと思えますが、このときの中納言三輪朝臣高市麿が職を賭して重ねて天皇を諌めた話は有名です。農繁期に行幸すべきではないというものでした。世代交代の時期といえるのでしょうか。

703大宝3年12月、従四位上智徳、持統の大葬の歳、諸王・諸臣を率いて誄されています。

707慶雲4年、従四位上智徳、文武天皇大葬に際しても誄人を率いて奉っていのです。

711和銅4年5月こうして従四位下智徳は卒したのです。

この男も天武天皇、持統天皇、文武天皇まで葬式を取り仕切って見せたのです。

 

後に、淳仁天皇の母(当麻山背の七男二女の第七男、夫舎人皇子)や清和天皇外祖母源潔姫(嵯峨皇女・良房室)の母はいずれも当麻氏

当麻氏全体が密接に当時の朝廷の中枢を支えていたことがわかります。

 

当麻氏の地元は奈良県葛城市當麻で、当麻寺があります。本来当麻は地名(北葛城郡当麻村当麻)で当麻都比古神社の所在地だったからといわれています。大和国葛下郡当麻郷(北葛城郡当麻町・香芝町一帯)を本拠地とする氏族のようです。当摩寺は推古天皇によって官寺となったこともあるようです。

 

役行者所縁の地とも云われているところです。681天武10年、河内国交野郡山田郷の禅林寺を移し、当麻寺を建立したとあります。(692年と社伝にはあるといいます。)

上記を象徴するように、この寺は桜井市の三輪山に相対する二上山の麓に位置し、西方浄土(死者)の入口と言われるようになるのです。

当麻氏は役行者と同郷だったのです。671大海人皇子出家して傘置山から吉野に入ったと言われています。

 

高向氏について

用明天皇の孫が高向氏で、宝皇子(後の皇極天皇)との間に漢皇子を得たとある、重要な問題です。

残念ながら文献上に用明天皇の子孫に高向皇子や高向王はいませんでした。また、高向氏側からも用明天皇に結びつく資料はありません。

この高向氏は調べるほどにおもしろい氏族です。いろいろな方々の卓越した推理もすばらしいものばかりです。自分の中でも次々といろいろな矛盾に気付き、思いつきが湧き上がるのですが、まだ少し確証が掴めずにいます。いずれにしろ、高向氏は少なくとも継体天皇にまでさかのぼる必要があると考えています。もう少し一人一人の天皇と向き合い、皇子たちの行動に共感したいと考えています。

 

用明天皇と高向氏の接点となる考え方

1. 用明天皇の皇子に高向皇子がいたが漏れたとする説。

本朝皇胤紹運録もこの説となりますが、この高向皇子の子を漢皇子としています。孫ではないのです。

2.用明天皇の皇子の夫人が高向氏の娘で、子が高向を名乗ったとする説。

3.用明天皇ではなく、敏達、宣化、継体天皇などの系譜であるとする説。

4.用明天皇と関係ない渡来系など別の高向氏である説。

5.地名、養育した氏族が高向とする説。

 

池辺皇子

斎王、酢香手姫皇女の前任者は、敏達天皇の皇女、菟道皇女(うじ)です。

この斎王が池辺皇子に犯され、解任されるという事件がありました。池辺皇子の系譜は不明です。山中智恵子氏の斎宮志によると、神田秀夫氏の説を紹介しこの池辺皇子は用明天皇の即位前の名であるといいます。確かに上宮聖徳法王定説などは、用明天皇を池辺天皇と呼んでいることから、この蓋然性は高いと考えられます。さらに、そこから生まれた子が鏡王でその子が額田王としているといいます。大変魅力的な意見なのですが、この論文は未見ですので保留します。

――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

蘇我稲目

  ――堅塩媛

  女   ――――――――用明天皇

     欽明天皇        ――――???――高向王

      ―――敏達天皇   |          |

      |    ―――菟道磯津貝皇女      ├――漢皇子

宣化天皇―石姫皇后  ―――押坂彦人大兄皇子      

          廣姫皇后   ――――茅渟王   |   

               大俣王     ―――皇極天皇

                      吉備姫王

 

【用明天皇関連年齢表】

500 6666666666777777777788888888 年

  年 0123456789012345678901234567 齢

敏達天皇 LMNOPQRS―――24―――――30――――――37

菟道磯津貝皇女(斎王)     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――?

広姫皇后 LMNOPQRS――――――27          

用明天皇 NOPQRS―――――――2830――――――――――41

酢香手姫皇女           @ABCDEFGHIJKLMN―

推古天皇 GHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――――75

磐隈皇女KLMNOPQRS―――?

 

 

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