天武天皇の年齢研究

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 史料調査 

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 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

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 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

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2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

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2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

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2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

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押坂彦人大兄皇子の年齢 おしさかのひこひとのおおえのみこ

First update 2010/05/29 Last update 2015/01/19

 

生没記録なし

568欽明28年生〜604推古12年薨去 37歳 本稿

 

古事記には忍坂日子人太子(おしさかひこひとのひつぎのみこ)、又は麻呂古(まろこ)王とあります。

天武天皇にとって、父、舒明天皇の父であり、母、皇極天皇の祖父となります。

 

父  敏達天皇  欽明天皇の第二子

母  広姫    息長真手王の娘、敏達天皇の皇后 一男二女を生む。その第一子。

         敏達4年1月に皇后となり、同年11月に薨去された。

同母妹      逆登皇女(さかのぼり)

         菟道磯津貝皇女(うじのしつかい)敏達7年伊勢神宮に侍るが、

                         池辺皇子(不詳)に犯され斎王職を解かれる。

夫人 糠手姫皇女(あらてひめ)田村皇女、寶王ともいわれた。敏達天皇の皇女

         母は采女 菟名子(うなこ)夫人(伊勢の大鹿首小熊の娘)の第二子。

     子 一.田村王(後の舒明天皇)

       二.中津王

       三.多良王

   大俣王 漢王の妹

     子 一.茅渟王(ちぬ)   皇極天皇、孝徳天皇の父

       二.桑田王(茅渟王の妹)

   小墾田皇女(おはりだ)推古天皇の第3子

     子   記述なし。

   櫻井弓張皇女(さくらいのゆみはり)推古天皇の第7子 古事記には庶妹玄王とある。

     子 一.山代王(やましろ)  山背王とも

       ニ.笠縫王(かさぬい)

 

押坂彦人大兄皇子の関連系図】

                         吉備姫王

 息長手王――広姫皇后        大俣王   ├―――孝徳天皇

         ├―――逆登皇女    |    ├―――皇極天皇

         ├―――菟道磯津貝皇女 ├―――茅渟王   ├――天武天皇

 石姫皇后    ―――――押坂彦人大兄皇子        ├――天智天皇

  ├―――――敏達天皇    ├――|―|――――――――舒明天皇 

 欽明天皇    | ├――糠手姫  | ├―――山代王   |

  |      | 菟名子     | ├―――笠縫王   |

  |      ├―――――小墾田皇女 |         |

  |      ├―――――――櫻井弓張皇女        |

  |      ├――――――――――――――――――――田眼皇女

  ├―――――推古天皇

 堅塩媛

 

【押坂彦人大兄皇子の関連年表】

568欽明28年 1歳 敏達の長男、押坂彦人皇子降誕(本稿)

572敏達 1年 5歳 父、敏達天皇即位

575敏達 4年 8歳 1月、母、広姫皇后が薨去。

585敏達14年18歳 8月、父、敏達天皇が崩御。

587用明 2年20歳 4月 中臣勝海連が「太子彦人皇子」と「竹田皇子」の像を造り呪った。

593推古 1年26歳 田村皇子(後の舒明天皇)降誕。

599推古 7年32歳 大地震

601推古 9年34歳 聖徳太子、斑鳩宮を建てる。

602推古10年35歳 来目皇子、新羅将軍

603推古11年36歳 当麻皇子、新羅将軍 聖徳太子30歳

604推古12年37歳 17条憲法発表。この頃、押坂彦人大兄皇子薨去された。

607推古15年    王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、

            一般的にはこれ以前に亡くなったといわれる。

 

押坂彦人大兄皇子関連の年齢】

500  77778888888888999999999900000000 年

  年  67890123456789012345678901234567 齢

敏達天皇 ――30――――――37                      

押坂彦人大IJKLMNOPQRS―――――26―――30――――――37    

茅渟王             @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―

皇極天皇                                @

桑田王               @ABCDEFGHIJKLMNOPQR

糠手姫皇女BCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――――――――?

舒明天皇                  @ABCDEFGHIJKLMN49

中津王                     @ABCDEFGHIJKL

多良王                       @ABCDEFGHIJ

小墾田皇女@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―            ?

櫻井弓張皇女       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―    ?

山代王                           @ABCDEF

笠縫王                             @ABCD

       敏達天皇在位 →|      |← 推古天皇在位

 

押坂彦人大兄皇子は敏達天皇の長男です。

また、舒明天皇の父に位置づけられます。父、敏達天皇の崩御の後、用明、崇峻、推古と蘇我氏の系列に天皇位を引き継がれたものを、再度、流れが舒明天皇に戻されました。

押坂彦人大兄皇子自身は天皇になれませんでした。それだけに、その息子である舒明天皇の王家血筋へのこだわりは大きかったようです。舒明天皇の和風諡号は「息長足日広額天皇」と継体天皇に連なる息長氏への執着は大きなものでした。

 

年齢根拠

「敏達天皇の年齢」でも述べたように、押坂彦人大兄皇子の年齢は愚管抄の敏達天皇37歳説に基づき、敏達天皇が20歳の年に生まれたとして計算しました。つまり、父、敏達天皇が崩御されたときはまだ、18歳にすぎず、未成年で皇太子にもなっていなかったのです。

そして、押坂彦人大兄皇子の子のなかでも茅渟王は一番早くに生まれたと考え、20歳のときの子としました。これによって、茅渟王の娘、皇極天皇は彼が21歳のときに生まれたことになり矛盾ありません。

皇極の将来の夫、舒明天皇の年齢は知れています。593推古1年生まれのはずですから、押坂彦人大兄皇子26歳のときの子ということになります。

さらに舒明天皇を生んだ糠手姫皇女はさらに二人の子を生んでいますから、最初の子を20歳とし、2年ごとに生んだと仮定しておきます。すると、押坂彦人大兄皇子はさらに597推古5年30歳までは生きていたことになります。物部守屋と蘇我馬子の争闘の渦中の人でもあったはずですが、この渦中を生き抜いたことになるのです。

日本書紀では聖徳太子が推古1年に皇太子になったようにニュアンスが見られます。このとき彼はちょうど20歳にはなりましたが、皇太子ではなかったはずです。そのとき26歳の長兄、押坂彦人大兄皇子がいるからです。

592用明2年4月に中臣勝海連「太子彦人皇子」と「竹田皇子」の像を造り呪った、という記事が日本書紀にあります。当時、皇太子候補は聖徳太子ではなく、第一にこの押坂彦人皇子であり、次に推古天皇の長男竹田皇子であったことがわかります。しかし、立太子の記事は最後までありませんでした。「太子彦人皇子」と書かれたのは、後に息子の舒明が天皇に即位したことから追尊とする学説もあります。

 

古事記と日本書紀の記述相違について

押坂彦人大兄皇子の系図は古事記が詳しいので全文を掲げておきます。

 

古事記【敏達天皇

日子人太子

娶庶妹田村王。亦名糠代比賣命。生御子。

坐岡本宮。治天下之天皇。次中津王。次多良王。〈 三柱〉

又娶、漢王之妹、大俣王。生御子。

智奴王。次妹桑田王。〈 二柱。〉

又娶、庶妹玄王。生御子。

山代王。次笠縫王。〈 二柱。〉

并七王。

御陵在、内科長也。

 

 桜井皇子――――――――――――――――――吉備姫王

 推古天皇                   

  ├―――――櫻井弓張皇女(玄王)      

  ├―――――小墾田  ├―――山代王    

        皇女  ├―――笠縫王    ├――皇極天皇

 敏達天皇                 

   ├―――押坂彦人皇子(麻呂古王)    

          ├―――――――――茅渟王(智奴王)

          ├―――――――――桑田王(妹) 

   広姫    大俣王(漢王の妹)  

        ├―――――――――――――舒明天皇

        ―――――――――――――中津王

        ―――――――――――――多良王

  ├―――――田村王(糠手姫皇女) 

  ├―――――太姫皇女(桜井皇女) 

 菟名子(うなこ)          日本書紀のみ 古事記のみ記述 日本書紀と古事記 

なお、吉備姫王は欽明天皇の孫で、桜井皇子の子としたのは皇胤紹運録の記述による。

 

日本書紀はこの押坂彦人大兄皇子に関して、多くを語りません。天皇の息子としての紹介記事、後年、息子の天皇即位の表記からその親として紹介されたにすぎません。

古事記は違います。敏達天皇の皇子として、特別にその系譜を掲げています。

ここでは、本稿の趣旨に添って、この二つの記述がすべて正しいとして話を進めます。すると見えてくる事実が二つ、一つは押坂彦人大兄皇子が聖徳太子とともに以外に長く生きていたということ、一つは押坂皇子が政治世界から排除されながらも、推古天皇だけは自分の子を次々と押坂皇子に娶せていたということです。

 

まず、押坂彦人大兄皇子はいつ薨去されたのでしょう。

いま一つ不思議ことがあります。この大兄と呼ばれた天皇家を支えるはずの皇子の主要な夫人は皆、卑母の生まれということです。むろん、推古天皇の二人の娘を除いてですが。継体天皇の系図となる息長氏族はこの頃にはなりを潜めています。押坂彦人大兄皇子が成人し嫁を得るときには父、敏達天皇は崩御されていました。最初の妻は渡来系の娘とも思える漢王の妹、大俣王でした。皇極天皇の父となる、茅渟王と妹、桑田王を生みました。その後、父敏達天皇が卑母に生ませた娘二人のうち妹の糠手姫皇女を娶り、3人の子が生まれます。この糠手姫皇女の母、菟名子は采女で、伊勢の大鹿首小熊の娘とあります。

 

蘇我馬子によって殺害されてという説もあります。しかし、推古天皇だけは押坂彦人大兄皇子を無視していません。まず、自分の娘、小墾田皇女を与えています。しかし、子供はできず、早くに亡くなったようです。次に末娘の櫻井弓張皇女まで投入しているからです。2人の子をもうけました。しかし、日本書紀や古事記の記述が正しいとすると、この若い櫻井弓張皇女は18〜20歳で子を生んだとしても、押坂彦人皇子は36歳を超えることになるのです。

一方この頃、聖徳太子は自分の斑鳩宮の造営を始めます。翌602推古10年は、朝鮮出兵という大規模な企画を実行に移し始めます。飛ぶ鳥の勢いです。推古11年には大台の30歳となり、推古12年にはあの冠位12階の制定と17条憲法を発布するのです。

その陰で、ひっそりと亡くなられたと推測されます。

学説にもあるとおりで、607推古15年に王位継承者(厩戸)を資養する壬生部(みぶべ)が設置されているので、この頃までには薨去されたのです。604推古12年薨去 37歳 推古天皇の娘が二人目を生んだ頃としました。

日本書紀の写本の一部に、「甲辰年四月六日崩」とあると聞き及びますが、この年は敏達13年17歳に当たり合いません。用明2年までは明らかに生きているからです。

 

推古天皇にかばい守られていたというものの幽閉されていたに等しい待遇だったと想像します。よって、その死はいつなのかわからないのです。たぶん、推古天皇は当初、敏達天皇と自分との間に生まれた竹田皇子を次期天皇と期待していたと思います。ところが、欲の絡んだ物部、蘇我の争いで竹田皇子を死なせてしまいます。そこで得た彼女の結論は夫、敏達天皇の長子、押坂彦人大兄皇子と自分の娘が生んだ子を即位させようと目論んだのです。しかし二人の子は期待していた男子ではなかったようです。万葉学者の神田秀夫氏も別の意味で二人を女性と考えておられます。

男子にとって、社会に参画できず、種馬、種牛のような生活はどのようなものだったのでしょう。蘇我勢力から彼をかばい守るという推古女帝の努力とは裏腹に、報いられることなく、感謝されるどころか相当な恨みだけを残したのではないでしょうか。

 

押坂彦人大兄皇子の陵墓の巨大さの意味

 

延喜式の諸陵式に

成相墓(ならひのはか)、押坂彦人大兄皇子、在大和国廣瀬郡、兆域東西廿五町南北廿町、守戸五烟」とあります。兆域としては、延喜式に掲載された陵墓で最大のものです。あの仁徳陵が「東西八町、南北八町」ですから、面積としてはこの8倍になります。巨大な兆域です。私見では現在奈良県の広陵町と呼ばれるこの地一帯が、兆域だったのではないでしょうか。知ってか知らず相応しい名前を付けたものです。そのなかの牧野古墳がそれだといいますがどうでしょう。

その大和国広瀬郡に、息子の舒明天皇が百済宮を建てています。その前身は聖徳太子が絡んでいたようですが、併せて邪気払いの観を呈しています。さらに、皇極天皇の弟、孝徳天皇も百済大寺建立に尽力したといいます。舒明天皇が崩御されると、最初、滑谷岡(なめはざまのおか)に葬られましたが、「押坂」の地に陵墓が移築されました。ここに父、押坂彦人大兄皇子が住んで居られたからと考えてみました。押坂彦人大兄の住まわれていた「忍坂」は陵墓に相応しいほどの寂しい場所だったと想像します。

 

押坂陵について(追記2015/01/19

延喜式で「押坂」と名付けられた陵墓が4カ所あります。

押坂内陵 高市崗本宮御宇舒明天皇(643皇極2年9月改葬)。

                     在大和国城上郡。兆域東西九町。南北六町。陵戸三烟

押坂墓  田村皇女(舒明天皇母664天智3年6月薨)。在大和国城上郡舒明天皇陵内。無守戸。

押坂内墓 大伴皇女(欽明皇女、堅塩媛が生んだの9番目の子)在大和国城上郡押坂陵域内。無守戸。

押坂墓  鏡女王(天智、中臣鎌足室683天武12年7月薨)在大和国城上郡押坂陵域内。無守戸。

 

新選姓氏録の未定雑姓左京に、御原真人(みはら)の祖とあります。しかし、この一族の人名は史料にありません。彼の子孫はほとんどなく、埋もれていた氏族です。佐伯有清氏によれば、淡路国三原郡三原の地名にもとづくものか、としています。

 

日本書紀敏達即位の年に「天皇、皇子と大臣に問いて曰く・・」とある皇子は押坂彦人を指すという説がありますが、これは敏達天皇にはこの頃には多くいたはずの兄弟たちを指すと思います。押坂大兄はこのときまだ5歳でしかないからです。

 

推古天皇の継承問題

推古天皇は自分が死ぬ最後まで譲位することはありませんでした。生前譲位の習慣が日本にはまだなかったこともありますが、この竹田皇子の死が大きな要因と考えました。

聖徳太子も推古天皇の思いもよらない長寿ゆえに先に49歳で先に薨去されています。推古天皇69歳のときです。その後、75歳で推古天皇が崩御されたことによりこの押坂大兄皇子の子、後の舒明天皇と聖徳太子の長男、山背大兄王との皇位継承が問題となったことは有名な話です。この聖徳太子の長男と言われる、山背大兄王は聖徳太子20歳のときの子とすれば、舒明天皇が生まれたときと同じとなります。つまり、同じ年恰好の二人の後継者候補がいたことになるのです。

推古天皇の心は決まっていたようにも思えますが、はたから見るとどちらにするか迷ってあたりまえの同年齢の選択に見えたはずです。

 

押坂彦人皇子は推古天皇の夫、敏達天皇の皇子でもあります。そのころ一番位の高い位置にいたのです。推古天皇の即位する年に26歳になった押坂彦人皇子の息子、後の舒明天皇が生まれています。

次期、天皇候補順としては、押坂彦人大兄皇子、竹田皇子、聖徳太子、の3人がいました。他にも、泥部穴穗部皇子や後の崇峻天皇も挙げられます。この頃、重要な皇子たちが次々亡くなったことになるのです。竹田皇子、泥部穴穗部皇子、崇峻天皇は殺されました。

本来なら、押坂彦人大兄皇子が皇太子になるべきだったはずです。あるいは、蘇我家の権力の増大により、蘇我家出身の用明天皇の息子、聖徳太子を無理やり皇太子に擁立したのかもしれません。これもありえぬ話ではありません。

そして押坂彦人皇子も薨去されました。

 

推古天皇は、次々と自分の娘を押坂彦人大兄皇子に与えています。しかし、男の子は最後まで生まれませんでした。思いが遂げられなかったと知ると、この推古天皇はさらに自分の娘、田眼皇女を押坂彦人大兄皇子の子、田村皇子(後の舒明天皇)にまで与えています。固執ともいえるものですが、彼女の政治哲学は最後まで一貫していました。聖徳太子にも自分の孫を嫁がせていますが、自分の子ではないのです。

 

なぜか、推古天皇は自分と同じ血筋でもある蘇我氏の聖徳太子の血筋には、嫌悪感ともとれる勢いで、最後まで天皇位を渡すことを拒んでいたと考えられるのです。

憶測ですが、推古天皇は義理の妹でもある聖徳太子の母、泥部穴穂部皇女を嫌っていたと想像します。この皇女は性に対し奔放だったようです。推古天皇は若い頃、この皇女の弟に犯されそうになった経験があります。さらに推古天皇の姉、斎王、磐隈皇女が、この皇女の兄に犯されています。さらに、この皇女自身も夫の息子と契り子を生んだという素行が見えています。

もしかすると聖徳太子の父は用明天皇ではないかもしれません。奔放なこの皇女は義兄、蘇我馬子の子を生んだのかもしれません。蘇我馬子の聖徳太子に対する献身的な態度は本当の父子と見間違うほどだったからです。

 

系図でも明らかなように、舒明天皇の皇后となった皇極天皇もこの押坂彦人大兄皇子から出ています。

茅渟王が皇極天皇の父ですが、その茅渟王は押坂彦人大兄皇子の息子です。

 

500  888888888899999999990000000000 年

  年  012345678901234567890123456789 齢

敏達天皇――――――37

押坂彦人大兄MNOPQRS―――――26―――30―――――?

舒明天皇              @ABCDEFGHIJKLMNOP―49

茅渟王 父       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS21―――?

皇極天皇                            @AB―55

吉備姫王母       @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS21―――57

桜井皇子NOPQRS――23―――――?            

 

茅渟王 ちぬ

古事記には知奴王、或いは智奴王とある。

父 押坂彦人大兄皇子

母 漢王の妹、大俣王と古事記にある。

  皇胤紹運録には茅渟王、「或智奴、母大俣王、漢王の娘」とあります。

妻 吉備姫王 皇極2年9月薨去 

  紹運録には、欽明帝の孫、桜井皇子の女とみえ「伊斎、茅渟王妻、皇極母」と註している。

 

諸陵式に、「片岡葦田墓、茅渟皇子、在大和国葛下郡、兆域東西五町、南北五町。無守戸

なお、天武天皇の皇子、長皇子の子にも茅渟王がいる。

 

簡単に繰り返すならば、皇極天皇の夫は、父と兄弟なのです。つまり、皇極天皇の夫、舒明天皇は押坂彦人大兄皇子の子ですが、皇極天皇の父も押坂彦人大兄皇子の子なのです。そのため皇極天皇と夫、舒明天皇の年差は歴然としています。そのため通説の1歳差の夫婦説を疑ったのです。しかし、少しでも年差を解消するためには、皇極天皇の父、茅渟王が夫舒明天皇より年上の異母兄である必要があるのです。

 

茅渟(ちぬ)とは

有名な話として、允恭天皇の愛妃に衣通郎姫(そとおしのいらつめ)がいます。皇后の妹ですが、皇后に気兼ねして、遠く離れた離宮を設営します。これが茅渟宮です。日根野(泉佐野市日根野)の地といいます。一般に和泉灘一体のこの海を茅渟の海といい、現在も「ちぬ」とは関西以西では黒鯛のことです。

孝徳天皇もこの地に住んでいました。つまり、父、茅渟王の館に居たと思われます。

また、この大津や日根野には、天武天皇の勅願寺が多くあることは、すでに述べました。

 

吉備姫王(きびつひめのおおきみ)

茅渟王の夫人であり、皇極、孝徳両天皇の母です。皇極天皇即位の後、2年9月11日に亡くなったという記事があります。日本書紀はかなり詳細に記録しています。

17日、土師娑婆連猪手(はじのさばのむらじいて)に詔して、喪葬を取り仕切らせました。この土師連猪手は推古11年にも登場しています。甥の来目皇子が九州筑紫で薨じられた際、推古天皇が派遣して、山口周防国佐波「娑婆」で殯をさせたとあります。その間40年、年齢もさることながら埋葬に関する一族の権威はそうとうのものだったことがわかります。

19日、檀弓岡(明日香村大字平田)に葬られました。大雨となり雹(ひょう)が降ったとあります。この頃異常気象が続きます。この頃、皇極天皇は妊娠4ヶ月ぐらいでしょうか。本稿では翌年3月に天武天皇が生まれたとしました。

「(皇極)天皇は皇祖母が病臥されてから、喪を発するに至るまで床のそばを離れず、看病におつとめになった。」(宇治谷孟訳)

30日、墓をつくる労役が終わり、身分に応じた賜り物がありました。

計算上では57歳になります。吉備嶋皇祖母と称されました。「嶋」とは住んだ場所を指すと岩波版補注にあります。この離宮「島の宮」(明日香村)はこの後、草壁皇子をはじめ多くの貴人に利用されていったことになります。

その後、大化の改新の一つとして、「大化2年3月宮司の処々の屯田及び吉備嶋皇祖母の処々の貸稲を罷める」とあります。つまり祖母の稲を貸し出していた利息を免除し、田畑を分配したということでしょうか。

 

本朝後胤紹運録だけが、吉備姫王は欽明天皇の第10子、桜井皇子の子だと語っています。

年齢研究上でも問題ないことはすでに述べました。簡単に再説すると上記に示したように、桜井皇子は、欽明天皇が崩御するまで生みつづけた堅塩媛13人の子の10番目に位置することから、計算上、564欽明25年生れであり、桜井皇子23歳のときにこの吉備姫王が生まれたことになり、さらにその後、吉備姫王は21歳で皇極天皇を生んだと計算され問題ありません。

また、吉備という名にも興味を覚えます。どこを指すのでしょう。

 

大俣王(おおまた)とは

漢王の妹とあり、茅渟王の母になります。父は押坂彦人大兄皇子です。

敏達天皇の皇子に大派皇子(おおまた)がいます。春日系氏族です。

皇極天皇が舒明天皇に嫁ぐ前に生んだとされています。その高向王の子の名がやはり、漢皇子というのも気になるのですが、ここでは疑問として記述するにとどめます。

 

【茅渟王関連年表】

564欽明25年 桜井皇子降誕(本稿)

571欽明32年 欽明天皇崩御

587用明 2年 茅渟王 降誕、父押坂大兄皇子20歳、母大俣王(漢王の妹)

         吉備姫王降誕、父桜井皇子23歳  、母不詳

607推古15年 宝皇女(皇極天皇)降誕、 父茅渟王21歳、母吉備姫王21歳

643皇極 2年 吉備姫王57歳薨去(日本書紀)

年齢はすべて本稿の計算結果です。

 

 

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