天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
崇峻天皇の年齢 すしゅんてんのう First update 2010/11/23
Last update 2011/02/10 592崇峻5年崩御 日本書紀 520継体14年 〜 592崇峻5年 73歳 本朝皇胤紹運録など一部 521継体15年 〜 592崇峻5年 72歳 扶桑略記、神皇正統記など多数 559欽明20年 〜 592崇峻5年 34歳 本稿 和風諡号 泊瀬部天皇(はつせべのすめらみこと) 古事記では長谷部若雀天皇(はつせべのわささざきのすめらみこと)とある。 父 欽明天皇の第十二子 母 小姉君(おあねのきみ) 蘇我稲目の娘、堅塩媛の同母妹 四男一女を生む 一 茨城皇子 二 葛城皇子 三 泥部穴穗部皇女 四 泥部穴穗部皇子(天香子皇子、住迹皇子) 五 泊瀬部皇子(崇峻天皇) 妻子 妃 小手子(こてこ) 大伴糠手子の娘 古事記には妻子の記述はない。 子 蜂子皇子(はちこのみこ) 錦代皇女(にしきてのひめみこ) 他の夫人として物部尾輿の娘、布都姫などもいたらしい。崇峻崩御の後、異母兄石上贄古に適し四子を生むとする史書があります。下記の通り、第11子と想定される石上部皇子と同年齢であり、あり得る話です。 【崇峻天皇の関連系図】 女 ├――堅塩媛(13柱) | ├―――石上部皇子(7番目) | ├―――推古天皇 (4番目) | ├―――磐隈皇女 (2番目) | ├――――――――――――用明天皇(1番目) | | | ├―――聖徳太子―――長谷部王 | 欽明天皇 | ├―――来目皇子 | | ├―――茨城皇子 | ├―――殖栗皇子 | | ├―――葛城皇子 | ├―――茨田皇子 | | ├――――――――――――――穴穂部皇女 | | ├―――穴穂部皇子 | ├――――――――佐富女王(さとみ) | ├―――崇峻天皇 ├―――田目皇子 ├――小姉君(5柱) | 蘇我稲目――――――――――――――石寸名(いしきな) 【崇峻天皇関連年表】 559欽明20年 1歳 降誕 571欽明32年 13歳 欽明天皇崩御 585敏達14年 27歳 敏達天皇崩御 587用明 2年 29歳 用明天皇崩御 物部守屋大連を殺害 588崇峻 1年 30歳 前年8月、即位 592崇峻 5年 34歳 崩御 年齢根拠 崇峻天皇の年齢ですが、古事記、日本書紀などは年齢を語っていません。崇峻天皇は欽明帝の妃の一人小姉君が生んだ5人中5番目の子です。3番目が穴穂部皇女で聖徳太子の母です。用明天皇の長男となる聖徳太子の年齢は49歳と知れていますから、ここから類推しました。 穴穂部皇女が20歳で長男、聖徳太子を生んだとして、その穴穂部皇女の4歳年下の弟が崇峻天皇としてみました。34歳となります。 父、欽明天皇の12子とあり、同じ父を持つ前用明天皇は4子とあります。この用明天皇の5年後には崇峻天皇が崩御されるのですから、用明天皇を60歳代と捉える史書などを参考にしても高齢にはならないのです。 しかし、ほとんどの史書は72歳としています。扶桑略記が72歳と著したのが最初のようです。なぜここで長寿の年齢を語り始めるのか不思議です。さらに現在もこの72歳を信じる学者がいることは驚きを超え呆れてしまいます。 【崇峻天皇兄弟の年齢表】 500 44455555555555666666666777777777 年 年 78901234567890123456789012345678 齢 用明天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――41 茨城皇子 1 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――? 葛城皇子 2 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――? 穴穂部皇女3 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――? 聖徳太子 @ABCD―49 穴穂部皇子4 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――30? 崇峻天皇 5 @ABCDEFGHIJKLMNOPQR――34 崇峻天皇は欽明天皇の第12子 崇峻天皇は欽明天皇の第12子とあります。これはどう数えたのでしょうか。 欽明天皇は合計6后妃から皇子16人、皇女9人、合計25人を得ています。 身分順ですから、皇后の子は除外します。次に妃5人の中で皇后の妹二人も除外します。残った妃が蘇我稲目の娘、堅塩媛とその妹、小姉君、さらに、春日氏の娘、春日郎女を同列と考えます。 うまい具合に、この3人の妃の長男、用明天皇が第4子とあります。 愚管抄なども同様に考えたようですが、単純に、全部の皇子の末子として、15子と日本書紀の12子を訂正しています。 具体的年齢は他の天皇を見渡した上で欽明天皇のところでまとめますが、年齢順に並べると、下記のとおり崇峻天皇は末っ子ではないのです。日本書紀の記述のとおり第12子となります。 【欽明天皇の3人の媛が生んだ皇子の年齢表】 500 44455555555555666666666777777777 年 年 78901234567890123456789012345678 齢 用明天皇4@ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――41 臈嘴鳥皇子5 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――? 茨城皇子 6 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――? 葛城皇子 7 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――? 橘麻呂皇子8 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――? 椀子皇子 9 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――? 穴穂部皇子10 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――30? 石上部皇子11 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―? 崇峻天皇 12 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―34 山背皇子 13 @ABCDEFGHIJKLMNOPQ―? 櫻井皇子 14 @ABCDEFGHIJKLM―? 橘本稚皇子15 @ABCDEFGHI―? 注 堅塩媛が生んだ皇子(緑)、小姉君が生んだ皇子(青)、春日郎女が生んだ皇子(黄) なぜ長寿になったのか 本朝後胤紹運録を代表として少数派に73歳説があります。それには「継体十四年辛丑降誕」とあります。しかし「辛丑」は521継体15年であり、とどのつまり72歳と同じということになります。すなわち、どの史書も72歳だと言っているのです。 神皇正統記などは用明天皇を41歳としながら、崇峻天皇を72歳としているのです。不思議と言わざるを得ません。 70歳は昔から古稀と言われてきました。タイ国では70歳より72歳を重視しています。数え年の72歳は現在の満年齢ではその誕生日前日までは70歳ですから、古希だともいえるのです。ちなみに60歳が還暦、77歳が喜寿、88歳が米寿、99歳が白寿となります。不幸にして早く亡くなった人たちへの思いが隠されているようにも見えます。 聖徳太子平氏傳雑勘文について(追記) 先日、次のメールを頂戴しました。岡本様のご了解を頂いた上で、掲載いたします。 はじめまして神谷様 岡本と申します。 本を出されたのですね、ジュンク堂にいったら手にしてみようと思います。 古代史獺祭さんのサイトで下記のような文を見つけ 崇峻天皇の72歳説について思いついたことをメール致します。 下記の長谷部王は聖徳太子の王子ですが娶大伴以下の部分は 明らかに崇峻天皇と長谷部王を混同しています。 このような崇峻天皇と長谷部王を混同した原資料が朝廷に 伝わっており長谷部王の没年を崇峻天皇の没年と取り違えた のではないでしょうか。592年を628年と間違えたとすると 628年時点で72歳ですから崇峻天皇の崩御は36歳となり神谷様 の34歳説に近い年齢となります。 聖徳太子平氏傳雑勘文 下三 大宮太子御子孫幷妃等事。
次のように、返答いたしました。 貴重なお便りありがとうございます。 私にとって、目から鱗が落ちる、大変な発見だと驚いています。 1.「娶大伴以下の部分」は崇峻天皇と長谷部王を混同していること。 2.このことから、崇峻天皇の崩御は36歳と考えられること。 手元にないので、国会図書館で調べました。資料「大日本仏教全書第71巻 鈴木学術財団1972」 古代史獺祭さんの紹介記事にもありましたが、「聖徳太子平氏傳雑勘文」は「聖徳太子伝略」の注釈書で、橘寺の僧、法空の撰です。成立は1314正和3年。「聖徳太子伝略」の項目を挙げ、この諸説、学義などを説明した後に「私云」として自説を述べています。 この上宮記の引用記事ですが、「上宮記下巻、注云」とあり、厳密な意味で写本転記記録とは言えないようです。 貴方が言われたように、「長谷部王は聖徳太子の王子ですが、娶大伴以下の部分は明らかに崇峻天皇と長谷部王を混同しています。」 上記は聖徳太子平氏傳雑勘文で長谷部王が4人の子を得たとあります。下記が日本書紀での崇峻天皇の妃とその二人の皇子の紹介記事です。長谷部大王と呼ばれた崇峻天皇の皇子2名が長谷部王の記述と同じであることがわかります。 日本書紀 崇峻紀
古代史獺祭さんは原文として除外していますが、上宮記の引用記事は続きがあったと思います。最後にこうあるのです。「已上御子孫等。惣三十人也。」 ところが「法大王」以下、人数を数えると32人で2人多いことになります。 (全原文は古代史獺祭さんのサイトをご参照下さい。) このように考えると原本上宮記には、この「娶大伴」以下の二王はなかったと言えそうです。もしくは、上宮記は推古朝の記事が元になっているはずですから、孫の記録そのものが後の編者による追加記事とも考えられます。 年齢ですが、長谷部王はおっしゃるとおり、628推古36年に謎の死を迎えています。これをどうしたら間違えるのかはっきりしませんが、確かに混同したと考えると72歳になります。 同じ名の長谷部大王(崇峻)と長谷部王が同じ36歳で亡くなり、ちょうど2倍の72歳とされたようにみえます。 考え方を広げると、長谷部大王の死の翌年、推古1年、ちょうど長谷部王が生まれたようにも見えます。このとき父、聖徳太子は20歳です。長谷部王が生まれたとしてもおかしくありません。同じ長谷部の名を重ねられたのです。ちなみに、この推古1年に後の舒明天皇も生まれています。 この編者法空は、上宮記の記事から聖徳太子の妻「菩支々弥郎女」の生んだ子を8人ではなく7人だと言ったりしています。 この考え方について、家永三郎氏は「三ツ子説と七王の所伝は誤りとしたい」と言っておられます。私も取りません。ずっと古い「上宮聖徳法王帝説」も8人としており、同じ「上宮記」を参考にしていると思うからです。また、上記のように、ここでも原文の「三十人」がないがしろにされています。 この72歳説の最初は、平安後期の阿闍梨、皇圓が記した「扶桑略記」のようです。この「聖徳太子平氏傳雑勘文」の中でも何度も紹介されており、同じ僧侶同士なのです。どうも、この鎌倉時代に間違った形で定着したと考えるほうが、無理がないよいように思います。 以上、崇峻天皇の年齢は36歳としたほうが正しいようだと、考え直しました。 他の根拠として、2歳引き上げると兄の穴穂部皇子と額田部皇女(推古天皇)がほぼ同年齢となります。 本稿の訂正も視野に再考しましたが、積み上げ方式による本稿の推論として、34歳はこのままにしておきたいと思います。 天皇の暗殺 「弑(しい)」すると書かれる、天皇暗殺のはっきりとした記述は日本書紀では6回使われていますが、事例としては2回も使われるこの崇峻天皇と安康天皇だけです。安康天皇は皇后の連れ子(眉輪王)、いわゆる義理の息子に殺されましたが、崇峻天皇は自分の部下となる蘇我大臣の指示で殺されたのです。このセンセーショナルな記述ゆえ誰も崇峻天皇の即位を疑いません。古代中国では当たり前のように使われた「弑逆」や「弑(しい)」することが史書にのった日本での天皇暗殺はめずらしいことだからです。あえて本稿では、崇峻天皇は天皇ではなかったのではないかも疑いました。 理由は次のとおりです。 1.崇峻天皇の和風諡号は泊瀬部天皇とあります。これは皇子のときの名と同名にすぎず、古来、用いられた天皇独特の名前ではありません。つまり、崇峻天皇には和風諡号がないのです。 2.日本書紀は巻第21に用明天皇と崇峻天皇の二人を取り上げています。二人とも短い在位期間でしたが、本来は用明天皇の巻であるものです。 3.皇太子に指名されませんでした。突然のように即位したものです。蘇我馬子大臣以下群臣の位に変動は一切ありません。
上記に蘇我馬子の名がありません。崇峻天皇即位には不賛成のようです。炊屋姫皇后は自分が天皇に即位したくないので、崇峻を推挙したのです。群臣らも、炊屋姫皇后の進言で動いたにすぎません。誰も即位に賛成していないのです。 4.推古天皇即位前紀にもあるように、当初、推古天皇には即位する意思がありませんでした。日本書紀に崇峻天皇の項がないとすれば、5年間も推古天皇は即位せず長く拒み続けたと考えられるのです。しかし、592年12月推古天皇は即位します。東洋初となる異例といえる女帝の誕生でした。 推古天皇の場合、皇位の印である、鏡、剣などを奉った。群臣が請い願い、百官が奏上文を奉ったとありますが、この崇峻天皇にはそれらしい記述が一切ありません。この頃の天皇即位の条件とは何だったのかと考えさせられます。 5.崇峻天皇は即位後、皇后を立てていません。妃として小手子(こてこ)といわれた大伴糠手連(あらて)の娘しかいないのです。古事記は后妃、皇子等の記述そのものがありません。 6.日本書紀の主題のひとつは蘇我家を落としめることにあります。天皇を殺すという「弑」という野蛮な行為が蘇我氏によって行われたと言いたいように見えます。実際には蘇我馬子は泊瀬部皇子(崇峻天皇)の他にも泥部穴穗部皇子(崇峻天皇の実兄)と宅部皇子(宣化天皇の子)をも次々に殺しています。用明天皇が崩御されてすぐ後のことです。3人の皇子を蘇我馬子が次々殺したとするより、泊瀬部皇子を天皇にすることで天皇を暗殺した悪やつという最悪のイメージを作り上げたかったのだと思います。 7.宮殿も倉橋宮(桜井市倉橋)と遠い山の中です。もとの泊瀬部皇子が子供の頃から住んでいた宮にすぎません。天皇宮としては連続性に欠ける場所です。 8.崩御されると即日にすぐその場所に葬ったこと、陵地、陵戸がないこと。国家として、弑したからではすまされない天皇とし軽い扱いといえます。これは蘇我馬子による一連の皇子殺害の一人にすぎない扱いなのです。 「物部」対「蘇我」の戦い 物部守屋大連は今でいえば総理大臣のような実力者です。このとき、この両者の戦いは大変大きな戦争といえるものであったはずです。 ここでは、その参加者に注目します。 587用明2年、用明天皇崩御の後のことです。こぞって、泊瀬部皇子は蘇我氏方を応援したことがわかります。特に泊瀬部皇子の年齢の高さからも、皇子としては中心人物の一人であるように見えるのです。 日本書紀では廐戸皇子こと聖徳太子の活躍を記していますが、14歳でしかありません。 参加した皇子 泊瀬部皇子 欽明天皇の皇子 29歳 竹田皇子 敏達天皇の皇子(母は推古天皇でその第一皇子) 14歳 廐戸皇子 用明天皇の第一皇子 14歳 難波皇子 敏達天皇の皇子(母は春日氏の娘) 19歳 春日皇子 敏達天皇の皇子(難波皇子の同母弟) 17歳 年齢は本稿の予測値(敏達天皇の項参照) これを見る限り、ちょうど30歳になろうとする泊瀬部皇子は天皇への意欲満々にみえます。 一書の意味 日本書紀では崇峻天皇の兄弟が確定できないとして、3例を挙げています。 日本書紀の選択した説 古事記では 一 茨城皇子 =馬木王 二 葛城皇子 =葛城王 三 渥部穴穗部皇女 =間人穴太部王 四 泥部穴穗部皇子(天香子皇子、住迹皇子) =三枝部穴太部王(須賣伊呂杼) 五 泊瀬部皇子(崇峻天皇) =長谷部若雀命 一書云 一 茨城皇子 二 泥部穴穗部皇女 三 泥部穴穗部皇子(住迹皇子) 四 葛城皇子 五 泊瀬部皇子 一書云 一 茨城皇子 二 住迹皇子 三 泥部穴穗部皇女 四 泥部穴穗部皇子(天香子) 五 泊瀬部皇子 日本書紀 崇峻紀
「帝王本紀に、沢山古い名があり、選集する人も、しばしば遷り変ることがあった。 後人が習い読む時、意をもって削り改めた。 伝え写すことが多くて、ついに入り乱れることも多かった。 前後の順序を失い、兄弟も入り乱れている。 いま、古今を考え調べて、真実の姿にもどした。 容易に分かりにくいものについては仮に一方を選び、別のものを註記した。 他のところもこれと同じである。」宇治谷孟訳 仰々しく書かれている記事ですが、ようするにここでは葛城皇子の扱いが不明だったようです。第二子にするか第四子にするかが問題に見えるのです。もしくは、推古天皇の子供だったのか(古事記)。その不明の根拠は偏に(ひとえに)住迹皇子という別名が葛城皇子のことか泥部穴穗部皇子のどちらかを指しているかがわからないということらしい。何故ここまでこだわるかわからない。必死に調べた結果だといいたいようにも見えます。よくわかりません。日本書紀内での比較では、二つの別の説をどう見ても、最初の后妃、皇子の紹介記事にのる、順位でいいとすでに結論が出ているように思えるのです。 また、古事記とは日本書紀の「本書」に一致しているのです。事前に書かれていた古事記説に従っているようにも見えます。崇峻天皇即位の件も古事記で崇峻天皇は天皇と規程されたため仕方なく即位したと合わせて書かれたようにも見えてしまうのです。 小姉君の生んだ子供達の素行 私見ですが蘇我稲目の娘、姉堅塩媛と妹小姉君は同じ母を持つ姉妹ですがあまり仲は良くなかったと思います。それは小姉君の子供達の素行から判断されうるのです。この小姉君の子供達はなぜか堅塩媛の子供たちと対抗意識が強いのです。 小姉君の第1子、茨城皇子は姉堅塩媛の娘、伊勢斎王の磐隈皇女を犯し、伊勢斎王を解任に追い込んでいます。 また、第4子、穴穂部皇子も堅塩媛の娘、炊屋姫皇后が夫敏達天皇の葬式の最中、殯宮で危うく犯されるところを三輪君逆に救われています。穴穂部皇子は30歳になっていました。天皇即位資格年齢に達したこの穴穂部皇子も天皇位を目指していたのです。 第5子、崇峻天皇は推古天皇の大臣、蘇我馬子に殺されます。 小姉君の唯一の娘、第3子、穴穂部皇女は用明天皇に嫁ぎ聖徳太子を出産しますが、上宮法王聖徳記では鬼前女王と書かれます。異母姉妹の推古天皇とは同年齢(計算上は1歳違い)のはずです。用明天皇が崩御さられるとこの皇后は夫、の息子、田目皇子(豐浦皇子)と関係し佐富女王を生んでしまいます。下記表では用明天皇崩御の翌年に生まれたと仮定してみました。穴穗部間人皇女は用明天皇の皇后であり、天皇死後、大后とよばれる地位の高い女性のはずです。しかも相手の田目皇子は用明天皇18歳のときの子としても少なくとも10歳は若い男性です。10歳年上の位の高い女性をそんなに易々とものにできるものでもありません。やはり、ここは逆で位の高い未亡人が若い男性を食らえこんだと考えるのが自然のようです。 どんどん大きな存在となっていく推古天皇に押し潰されるようにして、穴穂部皇女は息子、聖徳太子とともに一生を終えました。名君と言われた推古天皇ですが、結果的に母の妹の子供達を根絶やしにしたのです。 参考までに、穴穂部皇女との孫、長谷部王と娘、佐富女王はその後、結ばれ2人の子を得ています。同様の年齢とすれば、穴穂部皇女は弟、崇峻天皇が殺された前後に佐富女王を出産したことになります。 【穴穂部皇女との孫、長谷部王と娘、佐富女王の年齢関係】 500 556666666667777777777888888888899999 年 年 901234567890123456789012345678901234 齢 用明天皇 LMNOPQRS―――――――――30――――――――――41 41 聖徳太子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――49 長谷部王 @A― 穴穂部皇女DEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――34――――39――67 佐富女王 @A― 田目皇子 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25――――30――? 崇峻天皇 @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―――――――――30―――34 34 敏達天皇在位 用明、崇峻在位 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |