天武天皇の年齢研究 −目次− −拡大編− −メモ(資料編)− −本の紹介−詳細はクリック 2018年に第三段 「神武天皇の年齢研究」 2015年専門誌に投稿 『歴史研究』4月号 2013年に第二段 「継体大王の年齢研究」 2010年に初の書籍化 「天武天皇の年齢研究」 |
継体大王−年齢のからくり First update 2013/06/12
Last update 2013/06/16 継体大王の年齢は日本書紀と古事記の間で大きく異なります。 日本書紀 531継体25年崩御 82歳 日本書紀 一説 534継体28年崩御 古事記 527年崩御 43歳 また、天皇、太子、皇子がともに亡くなられた、という百済本記の記事があります。 さらに、継体大王は息子の安閑に皇位を生前譲位したはずですが、継体崩御年と安閑即位元年の間に2年間の不自然な空位期間があります。 このすべての関連性を追求し、愚書「継体大王の年齢研究」としてまとめ、出版しました。 本来は詳細な証明を含め、本書で確認してくださると有り難いのですが、要点をまとめ、ここに提示することにしました。当ホームページでも概要はわかりますが、そのままでは筋の通る道筋をばらばらなファイルで読んでも誤解を生むと恐れたからです。 また、現段階でこのHPの内容は結論を導く前段階のままです。これをそのままにしておくことは矛盾をそのままにしておくに等しいことです。出版も一段落し、あらためて、ホームページも手直しする必要を感じています。 前提条件をまず、表にしました。
【関係天皇の概要】
結論から話します。 継体天皇の年齢について、日本書紀は古事記の43歳に基づき、82歳を定めたと考えました。 1.日本書紀の崩御年は531継体25年82歳です。 2.古事記の崩御年は527丁未43歳です。 古事記崩御年を日本書紀崩御年に合わせるには、まず年齢を+4年する必要があります。 531年−527年=4年間
3.古事記は武烈在位を8年、顕宗(清寧3年を含む)8年と示しています。これは非常に珍しいことです。数字上、この在位年は日本書紀と同じです。よって仁賢も同じと考え、11年としました。 つまり、古事記では清寧即位から武烈崩御まで25年間になります。 8+(11−1)+(8−1)=25年間
なお、古事記は当年称元法を採用しているため、崩御と即位年が1年ダブリます。1年を引きました。 清寧、顕宗は1月1日即位のため、崩御と即位年はダブらず、1年引く必要はありません。 4.また日本書紀の雄略崩御年は479年、古事記では己巳489年と10年の違いが生じています。 489年−479年=+10年間
5.以上、古事記の年齢表記を日本書紀に合わせるには、継体崩御年の誤差4年(項2)と、古事記の(清寧)顕宗即位から武烈崩御までの在位期間25年(項3)を加算し、雄略天皇の崩御年も日本書紀に合わせるため、誤差10年(項4)を加算します。 43歳+(4年+25年+10年)=82歳
6.よって、古事記527丁未43歳は、日本書紀崩御年531継体25年82歳となります。 つまり、日本書紀の82歳とは古事記43歳に対し、記紀の継体崩御年の誤差4年と継体と雄略間の期間(顕宗、仁賢、武烈)の合計25年と、その前の雄略崩御年の記紀の誤差10年を正すために加えたものなのです。 しかし、なぜ雄略天皇崩御を起点として、清寧即位から武烈崩御までの期間25年間を2重に加算する必要があったのでしょうか。ある意味、この25年は継体天皇在位期間と一致しているのです。 本書ではこれは、次のような結果だからと考えました。 7.日本書紀の継体大王82歳には自分の統治期間の他に、清寧から武烈までの統治期間が含まれます。 本来の姿である継体統治は雄略崩御以降から始まり、清寧から武烈までの期間が同居並立していたと考えられる。 逆に言えば、旧来、天皇系譜には継体はありませんでした。日本書紀はこれに継体を加えたのです。だから、だぶる清寧から武烈までの在位期間を加え、年齢を引き延ばす必要があったのです。 【継体周囲の天皇在位】
よって、本書では、継体は系統の連なる天皇ではないと考え、天皇と呼称せず、わかりやすく大王としました。 本来の継体大王の年齢は具体的に何歳だったのでしょう。詳細に見ていきます。 8.古事記の527丁未43歳説は崩御年ではなく、経過年と考えます。 9.日本書紀は531継体25年に崩御されたのではなく、一説にある534甲寅28年崩御です。 これで、奇妙な空位2年が無くなります。(10図黄色部分) 10.結果、継体大王の年齢は50歳です。 43歳+(534年−527年)=50歳
11.長男、安閑天皇の崩御は記紀ともに一致しており、乙卯525安閑2年です。 ここから先は正しいと考えました。 つまり、継体大王崩御534継体28年の翌年すぐに安閑天皇も崩御されたのです。 上記の表から、武烈と継体、安閑が次々崩御されたと考えられるのです。 まさに、これが天皇、太子、皇子が皆死んだという証言記事に符号します。
12.安閑天皇の年齢70歳は継体82歳説から継体17歳時の子と推測され、崩御時は35歳です。 13.同様に、宣化天皇は安閑の1歳年下の弟ですから、539宣化4年崩御時は38歳です。 14.武烈天皇の年齢は57歳ではなく扶桑略記や愚管抄の18歳です。また、武烈は継体ではなく、 直接安閑に引き継がれました。よって、533武烈8年これが彼の崩御年です。 なお、日本書紀の武烈崩御時の記述57歳は継体大王の年齢を指しています。 参照「武烈天皇の年齢」 15.武烈天皇即位は継体大王が磐余玉穂宮に入京した継体20年と一致します。 11歳で即位させられた武烈天皇は継体大王の傀儡にすぎなかったのです。
16.継体大王が生涯に移った四つの宮のタイミングは並列して並べるとすると、他天皇が入れ替わる時期に等しいことがわかります。清寧即位の時が樟葉宮、顕宗即位前年が筒城宮、武烈即位の時が磐余玉穂宮で、弟国の時は違いますが、調べると「皆下獄死」という不思議な記事がありました。 【本書予測に基づく本来の姿】
17.また、武烈天皇の姉たちが、継体と二人の息子、安閑と宣化に嫁ぐのは継体20年磐余玉穂宮に入城したときであり、その翌年に欽明がうまれたと推定できます。 【継体から敏達への系譜】
18.上記のことは、欽明天皇とほぼ同じに石姫も生まれ、後に二人が最初に結ばれ、欽明の第一子、箭田珠勝大兄皇子を生んでいることからもわかります。 安閑以降の各天皇の崩御年は古事記と日本書紀に、ほとんど差は見られません。それが継体崩御以前の天皇の在位年が一致しなくなっています。 特に、古事記が記す継体崩御が丁未527年、次の安閑崩御が乙卯534年なのは気になります。 安閑天皇の在位年を日本書紀と同じ2年と考えると、6年もの長い空位があったことになってしまいます。
継体在位は書かれていませんが、顕宗(顕宗+清寧)在位が8年、武烈が8年と日本書紀と同じです。 継体も日本書紀と同様に在位25年による崩御が4年早まったとすれば、21年間です。 531年−527年=4年 在位25年−4年=在位21年 紀崩御年 記崩御年 紀在位期間 記在位期間 すると、古事記が示す雄略崩御489年から継体崩御527年の間は38年ですから、顕宗、仁賢、継体の在位年が充当し、ぴったり一致し、武烈8年をこの間に入れる余裕がないのです。 527年−489年=38年間 8年+(11−1)年+(21−1)年=38年間 【古事記の天皇在位の位置推理】
注:古事記は当年称元法なので、崩御即位年がだぶる。黄色マーカーは古事記に記された年数。 古事記では、雄略、継体と安閑の崩御年がわかっています。 そこで、先ほどの継体崩御と安閑崩御の間は、武烈の8年間ではないかと思いました。 こうして、雄略崩御489年から安閑崩御535年の間は46年、清寧を含む顕宗(8年)+仁賢(11年)+継体(21年)+安閑(2年)となり、これもぴったりなのです。 535年−489年=46年間 46年間=8+(11−1)+(21−1)+(8−1)+(2−1) 【古事記が描く天皇在位の位置推理】
注:古事記は当年称元法に基づく為、崩御即位年がだぶる。 黄色マーカーは古事記に記された年数。 日本書紀に見慣れた我々には、継体と武烈が逆転した、「顕宗―仁賢―継体−武烈−安閑」は見慣れない配置です。しかし、この表から見えてくるように、実質、仁賢の後を支配したのは継体大王でした。奇行の多くなる武烈を粛正したのは安閑天皇と思われます。古事記は継体の位置を日本書紀のように武烈と安閑の間に挿入せずに、仁賢と武烈の間に継体在位21年を挿入していたのです。考えてみれば、実際にはなかった継体在位ですから、天皇序列に混ぜるとき、どちらでもよかったのです。 しかも、この図では武烈崩御は535年ですから本来の継体大王崩御年と同じです。これは2年間で3人が崩御したことになります。日本書紀の3年間で3人の天皇が次々崩御された以上に、古事記は厳しい数字を示していたのです。 このように、古事記と日本書紀はそれぞれ独自のアイデアを駆使して、武烈、継体、安閑が534年前後にそろって崩御した事実を隠蔽したのです。日本書紀は本来の崩御28年から3年引き下げ、古事記は7年も引き下げていました。 継体大王の年齢が引き延ばされた結果これ以外でも、さまざまな方々の年齢が引き延ばされました。 1.数字に現れたのは、二人の息子、安閑天皇70歳と宣化天皇73歳でした。 また、彼らの皇后となった女性達の年齢の定まらず、弟のはずの武烈が兄にされる有様です。 天皇数世代に仕えた大伴室屋、金村、物部木蓮子などの長寿と讃えられた近臣たちも同様です。 2.しかも、大伴室屋、物部麁鹿火、巨勢男人の継体を支えた3人は欽明天皇即位まで生き残ることはできませんでした。 3.仁賢の娘達3人は父継体と子安閑、宣化にそれぞれ嫁がされました。すべて、継体20年のときのことと推察されます。同時の婚礼かもしれません。 4.安閑皇后が歌った、悲しみ溢れた婚礼の歌も理解できます。婚礼は父、仁賢が亡くなられたすぐ後だったからです。 5.その後に継体皇后と宣化皇后から生まれた皇子と皇女の年齢が近く、その二人が成長して結ばれ、敏達天皇が生まれた理由もわかります。 6.海外の事例が年度を変更しない継体に集中した理由がわかります。清寧から武烈側では年度が27年ずれてしまうからです。 本書の疑問の始まりは、継体大王の息子、欽明天皇の年齢矛盾からです。 通説では、欽明天皇は63歳ですが、即位が32歳であるはずがないのです。 日本書紀には年が若く、未成年で即位したと思われる数々の伝承が記録されているからです。 欽明天皇の年齢を確定するために、その子供達、継体大王にとっての孫、敏達、用明、崇峻、推古4天皇の年齢が必要でした。 この説の最大の問題点は、継体以降の年号は同じですが、武烈天皇以前の在位年は同じでも年号が27年ずつずれることです。たぶん、編纂者たちにとって、この27年の修正作業が大変だったでしょう。修正ミスも見つかります。 特に、雄略天皇は倭王武として大陸の南宋に遣使を送っていますが、日本書紀では雄略崩御時ですが、実は雄略即位時のことだとわかります。よって、学界が無視する、その後の南斉、梁書に書かれた倭王武が正しいと判断できるのです。 さらに、允恭天皇の在位は本来10年程度の在位だったものを修正し42年としたのは、この27年を加えることで+60年のズレに合わせた結果と考えました。本来の干支だけは正確に一致させたのです。 (42+27)年−60年=10年−1年(なお1年は允恭、反正間の空位) その後を調べると、さらに、仁徳天皇在位87年でさらに60年ずれて、合計120年となり、年齢研究上の系譜を積み上げてみて問題なく説明できました。 本居宣長や那珂通世氏などが指摘していた「干支二運(120年)繰り上げ説」に同調できたと思っています。 87年−60年=27年(本来の仁徳在位年) 本書は、天皇序列に継体大王をはずしているだけで、他はいっさい変更していません。その後、日本書紀は允恭天皇で修正し、干支を合わせたのです。 一方、古事記は27年のずれをそのまま過去に渡ってずらし続けているようです。そのため、日本書紀の干支60年修正をすると、記紀間には27年の誤差が顕著にあらわれるのです。 参照:応神天皇の年齢 ずっと継体大王の年齢だけに焦点をあて、応神天皇の5世の孫の正当性を追求し続けた一つの結果です。血族のつながりには興味ありませんでした。日本書紀が5世の孫と書いた以上、時系列に何らかの根拠がある、もしくは5世の孫に相応しい年齢関係に造られたと思ったからに過ぎません。 参考文献 「継体大王の年齢研究」神谷政行 叢文社 2013/06/10 ©2006- Masayuki Kamiya All right reserved. |