天武天皇の年齢研究

kamiya1@mta.biglobe.ne.jp

 

−目次−

 ホーム−目次 

 概要 

 手法 

 史料調査 

 妻子の年齢 

 父母、兄弟の年齢 

 天武天皇の年齢 

 天武天皇の業績 

 天武天皇の行動 

 考察と課題 

 参考文献、リンク 

 

−拡大編−

 古代天皇の年齢 

 継体大王の年齢 

 古代氏族人物の年齢 

 暦法と紀年と年齢 

 

−メモ(資料編)−

 系図・妻子一覧

 歴代天皇の年齢

 動画・写真集

 年齢比較図

 

−本の紹介−詳細はクリック

2018年に第三段

「神武天皇の年齢研究」

 

2015年専門誌に投稿

『歴史研究』4月号

image007

 

2013年に第二段

「継体大王の年齢研究」

image008

 

2010年に初の書籍化

「天武天皇の年齢研究」

image009

 

 

 

武烈天皇の年齢 ぶれてんのう

First update 2010/09/23 Last update 2011/08/28

 

            506武烈 8年崩御     日本書紀

449允恭38年生 〜 506武烈 8年崩御 58年 神皇正統記

450允恭39年生 〜 506武烈 8年崩御 57歳 本朝後胤紹運録、帝王編年記など

489仁賢 2年生 〜 506武烈 8年崩御 18歳 扶桑略記、愚管抄

514継体 8年生 〜 533継体27年崩御 20歳 本稿

 

和風諡号 小泊瀬稚鷦鷯天皇 おはつせのわかさざきのすめらみこと

古事記は在位期間を8年としています。日本書紀と同じです。

 

父  仁賢天皇

母  春日大娘皇后 雄略天皇が娶った和珥臣深目の娘童女君が生んだ娘

   子 一、高橋大娘皇女(たかはしのおおいらつめのひめみこ)

     二、朝嬬皇女(あさづまのひめみこ)

     三、手白香皇女(たしらか) 継体天皇皇后

     四、樟氷皇女(くすひ)

     五、橘皇女(たちばな)   宣化天皇皇后

     六、武烈天皇

     七、眞稚皇女(まわか)

皇后 春日娘子(かすがのいらつめ) 系譜不明

子  なし

 

【武烈天皇関連系譜】

葛城蟻臣―――荑媛(はえ)

        ├―――――顕宗天皇(弟)

        ―――――仁賢天皇(兄)

履中天皇―――市辺押磐皇子   ―――高橋大娘皇女

                ――――朝嬬皇女

                ―――――手白香皇女(継体皇后)

                ――――――樟氷皇女

                ―――――――橘皇女(宣化皇后)

                ――――――――武烈天皇

允恭天皇―――雄略天皇     ―――――――――眞稚皇女

        ―――――春日大娘皇后

和珥臣深目――童女君

 

ここで彼自身の醜い性行を詳しく描写するつもりはありません。日本書紀が描く武烈天皇の業績内容が乏しいことから、その存在すら否定する向きもありますが、実在を信じて武烈の姿を浮き彫りにしてみようと試みました。

継体天皇とその息子たちをまとめていく過程で、この武烈天皇が意外なキーマンであることがわかってきました。年齢研究の立場から武烈天皇の存在位置がかなり特異なのです。

 

年齢根拠

日本書紀は宣化天皇からさかのぼる3代の天皇の年齢を唐突に示しています。

宣化天皇、安閑天皇、継体天皇です。

それぞれ、73歳、70歳、82歳とどれも高齢といえますが、継体天皇を中心とした親子の年齢関係は緊密に見えます。継体天皇17,18歳で安閑。宣化の子供を得たのです。

そこで、本稿では、継体天皇の親子の年齢差は日本書紀のとおり正しいと考えました。ただし、継体天皇の年齢が高すぎるため、何らかの理由により引き伸ばされたと考え、この息子たちの年齢も同じに同年齢をもちいて引き伸ばされたと仮定しました。その共通の値は39歳です。これは単純に、古事記が継体天皇の年齢を43歳とあることから逆算したものです。

 

つまり、簡単な算数の公式です。

宣化天皇の本来の年齢=73歳−39歳=34歳

安閑天皇の本来の年齢=70歳−39歳=31歳

継体天皇の本来の年齢=82歳−39歳=43歳

 

そして、武烈天皇の年齢にも通説の57歳を適用してみました。

武烈天皇の本来の年齢=57歳−39歳=18歳

 

武烈天皇のこの18歳は意外と多くの史書が採用しています。扶桑略記、水鏡、愚管抄、神皇正統録などです。実際に伝承があったのかもしれませんが、継体天皇と二人の息子の年齢を日本書紀の記述のまま比較すると武烈天皇が57歳では不自然でありえないことに中世の歴史家が気ついたからとも思われます。

武烈天皇は子供がなく妃も不詳なことから、まだ未成年であったとも考えられます。

 

継体天皇の皇后、手白香皇女は武烈天皇の同母姉です。

継体天皇の息子、宣化の皇后、橘皇女も武烈天皇の同母姉です。

ですから、この三姉弟はほとんど同じ年齢のはずです。

具体的に、同じ母から生まれたこの武烈天皇の姉妹は全員で7人です。2年おきに生まれたとします。

日本書紀の記述に従えば、継体天皇と武烈天皇の生年は同じです。

すると、507継体1年は継体58歳、皇后は64歳です。これはどう考えてもおかしい。

 

日本書紀に基づく

400   7888888888899999999990000000000 年

年     901234567890123456789012356789 齢

高橋大娘皇女――――――――――50―――――――――60―――――――――― 

朝嬬皇女――――40―――――――――50―――――――――60―――――――― 

手白香皇女―――――40―――――――――50―――――――――60―――64―― 

樟氷皇女――――――――40―――――――――50―――――――――60―――― 

橘皇女―30―――――――――40―――――――――50―――――――――60―― 

武烈天皇――30―――――――――40―――――――――50――――――57

眞稚皇女――――30―――――――――40―――――――――50―――――――― ?

継体天皇――30―――――――――40―――――――――50―――――――58―――82

宣化天皇―――――――――20―――――――――30―――――――――40――――73

                          ←武烈在位8年→←継体在位

 

そこで、中世の史書は武烈天皇の年齢を最低限にまで引き下げました。18歳としたのです。

すると、姉たちの年齢も下がり、継体皇后となった手白香皇女は25歳で、二年後に欽明天皇を出産しています。また、この欽明天皇の皇后となる石姫もこの頃生まれたことでしょう。しかし、対する男達はかなりの高齢のままです。

 

扶桑略記に基づく年齢表(高橋、朝嬬、樟氷の三皇女は省略)

400   7888888888899999999990000000000 年

年     901234567890123456789012356789 齢

手白香皇女     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――25―― ?

橘皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――― ?

武烈天皇            @ABCDEFGHIJKLMNOPQ    

継体天皇――30―――――――――40―――――――――50―――――――58―――82

宣化天皇―――――――――20―――――――――30―――――――――40――――73

                          ←武烈在位8年→←継体―25

 

そこで、最近の研究所では高橋修三氏のように、継体天皇の年齢を54歳などと引き下げていきます。

本稿もまた、継体天皇が82歳ではないとした一人として、古事記の43歳を前提して研究を重ねてきました。しかし、日本書紀の記述のように武烈天皇と継体天皇を同年齢と配置すると、手白香皇后は継体の6歳ほど年上となり、息子の宣化天皇の皇后となる橘皇女は夫より19歳も年上になってしまうのです。

 

400   7888888888899999999990000000000 年

年     901234567890123456789012356789 齢

手白香皇女     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――― ?

橘皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――― ?

武烈天皇            @ABCDEFGHIJKLMNOPQ    

継体天皇            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS― 43

宣化天皇                             @AB― 34

                          ←武烈在位8年→←継体―25

 

新たな二朝王朝並立説

武烈天皇と継体天皇は生年が同じであるはずがないのです。また手白香皇后や特に、橘皇后が出産適齢期に相応しい年齢にするためには、武烈天皇姉弟の生年を20歳前後引き下げる必要があるのです。武烈と継体は、生年ではなく没年が同じだったと考えたほうがわかりやすいと思いました。すると、そこで考えられることは一つしかありません。武烈天皇と継体天皇の二朝並立王朝説の適用です。

 

近年世間を騒がせた二朝並立王朝説は欽明天皇と安閑、宣化との並立ですが、ここに至り、継体天皇と武烈天皇の間に二朝並立王朝が存在していたのではないかと考えるようになったのです。

従来の二朝並立論は欽明天皇の在位期間を引き延ばすことで年代の動かす必要がない、すぐれたものです。本稿でこれから論じる並立説はその間27年の年号のずれが生じてしまいます。

「紀年法」の世界では応神天皇の時代、平気で120年のずれが議論されています。まさか、継体天皇の頃から日本書紀がこうした時間を歪めるような作為があったとは最初信じられませんでした。年齢設定が根本的に間違っていたかと何度も年齢設定をやり直してみましたが、系図を操作しないかぎり、異常な異世代婚は解決できません。

 

手法は従来のままにしました。

1.欽明天皇が生まれた年の母、手白香皇后の年齢を20歳としました。

その姉弟も2歳違いに配列していました。

2.すると、弟の武烈天皇が514継体8年生まれとなり、18歳の年が問題の531継体25年にぴったり当てはまったのです。

3.しかし本稿では日本書紀の継体、安閑の2年の空位期間はなかったと考えていましたから、武烈天皇も同様に2年後の533年に崩御され、これを安閑天皇が翌年534安閑1年として皇位を継承したとしました。つまり武烈天皇は20歳です。

安閑天皇は継体天皇から皇位を譲り受けたのではなく、武烈天皇から皇位を禅譲されたのです。だから、日本書紀は継体天皇が崩御されたこの年を厳格に越年承元法に基づき、安閑1年と継体28年を意識的にダブらせたのです。

4.さらに武烈在位8年をさかのぼります。仁賢在位11年間、顕宗在位3年間、清寧在位5年間。

すると、507年は清寧1年と継体1年とこれもぴたり一致します。

5.また、各天皇が入れ替わるタイミングと、継体大王が遷都を繰り返すタイミングが一致します。

詳細は継体天皇の項を参照。

 

500  000000011111111112222222222333333

年    345678901234567890123456789012345

高橋皇女  @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――――

朝嬬皇女    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――――

手白香皇女     @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――――

樟氷皇女        @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――――

橘皇女           @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS――――

武烈天皇            @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS  

眞稚皇女              @ABCDEFGHIJKLMNOPQ――

継体天皇MNOPQRS―――――――――30―――――――3840―――4446 

安閑天皇   @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS―22―――――2731

宣化天皇    @ABCDEFGHIJKLMNOPQRS21―――――26――34

    雄略在位→清寧5年→顕宗3← 仁賢在位11年 →←武烈在位8年→安閑

         ←――――――――継体大王在位期間28年―――――――→

 

【武烈天皇関連年表】 注:西暦と年齢は本稿の主旨に基づく武烈天皇年齢

514継体 8年=顕宗 3年  1歳 武烈天皇降誕。顕宗天皇崩御。

515継体 9年=仁賢 1年  2歳 武烈の父、仁賢天皇即位

521継体15年=仁賢 7年  8歳 武烈、皇太子となる。

525継体19年=仁賢11年 12歳 仁賢天皇崩御(8月正殿にて)

                   大伴金村は平群真鳥臣鮪親子を殺す。

                   大伴金村大連となる。

526継体20年=武烈 1年 13歳 武烈天皇即位   継体大王、大和磐余玉穂宮に移る。

528継体22年=武烈 3年 15歳 大伴室屋大連に城上(きのへ)に城形を造れと命じる。

533継体27年=武烈 8年 20歳 武烈天皇崩御、安閑天皇即位

534継体28年=安閑 1年     継体大王崩御

535      安閑 2年     安閑天皇崩御

 

武烈天皇、継体大王、安閑天皇が毎年、次々死んだのです。

こうなると、思い当たる事が次々に出てきました。

 

大連が多すぎる

大伴金村は武烈天皇から大連を拝命されますが、祖父の大伴室屋大連がまだ健在だったはずです。同じ大伴氏族から大連が二人も出るはずがなく、日本書紀の記述が間違っていないのなら、大伴金村大連や物部麁鹿火大連は継体大王の接待役としての当初指名された、いわば仮の大連職だったのかもしれません。

 

次々起こる天皇血筋消滅の危機

武烈天皇の崩御によって、血筋が途絶えたわけではなく、雄略天皇の後、清寧天皇の頃からすでに、継体を含めた王の候補探しは始まっていたと思われるのです。吉備から顕宗、仁賢兄弟の発見、丹波の倭彦王の擁立計画、そして近江の継体王の擁立と続きます。

また、内乱も続発しています。星川皇子の謀反、平群臣の専断、飯豊皇女の称制、そして筑紫君磐井の乱などです。

特に平群氏の専断に際しては、大伴金村が武烈天皇の軍を借りて滅ぼしたとありますが、継体大王が絡んでいたことは間違いないようです。平群氏をほとんど滅ぼすことで大和磐余宮に入京することができたのです。たぶん、その他の各地の部族反乱も一つ一つ継体大王が関係し鎮圧していったようにも見えてきます。大和磐余宮に入京するときには、周りの氏族はすべて、継体大王になびいていたのではないでしょうか。

平群真鳥が殺された際、四方の海に呪いをかけたが、敦賀の海へだけは呪いを忘れ、天皇の食物とされたとあります。平群氏も継体大王の勢力圏までは力が及ばなかったようです。

黒岩重吾の深い研究成果とその洞察力により、平群一族を継体天皇が滅ぼすとした筋書きは、黒岩氏の考え方は異なりますが、本稿と結論を同じくするものです。

 

朝鮮半島の出来事の正確な引用

日本に関係ないような、朝鮮の事象が「百済本記」を丸写ししたように事細かに記されているのも、この頃の日本書紀の特徴です。

日本書紀は502武烈4年 百済の東城王に代わり、武寧王が立つとあります。三国史記には501年東城王が薨じ、武寧王が立つとあります。ちなみに武寧王は523継体17年に薨じたと日本書紀は書いていますが、三国史記では522武寧22年に薨じたとあります。また、その一世代前、479雄略23年に東城王即位、三国史記も479年を東城1年としています。この傾向は雄略天皇まで続きます。

非常に精度の高い年号表示が日本書紀の内容と関係なく、正確に挿入されていきます。しかし、雄略以前に入ると、突然、海外の動向の年号が、日本書紀の記述と乖離しだすのです。確かに応神天皇あたりの朝鮮半島史の記述は120年のずれがあり、時間のずれを感じることができますが、武烈天皇から雄略天皇の頃までにはそれがありません。

本稿では継体大王を旧天皇たちとダブらせましたから、日本書紀とは27年のずれが生じてしまいました。この時点では朝鮮半島の記述が日本書紀の年号に完全に一致しているのです。だから本稿の説は間違いなのでしょうか。当て推量と言われるかもしれませんが、グループ編纂されたとされる日本書紀の雄略天皇以降の編纂グループは朝鮮半島の記述を出来上がった日本書紀に後から時を刻むように埋め込むことで、正当性を主張したかったのかもしれません。正確に朝鮮半島の歴史を添付すればするほど、日本書紀を正当化しているように見えてくるのです。

 

武烈天皇の列城(なみき)宮は大和磐余玉穂宮のすぐそばにある。

武烈天皇が即位してから崩御までの8年間、列城宮(なみきのみや)が彼の住居でした。現在まで場所はまだ正確にはわかっていませんが、奈良県桜井市出雲650十二柱神社が、武烈天皇社として泊瀬列城宮伝承地として有力な候補地としてあります。

これに対し、継体大王の大和磐余玉穂宮は奈良県桜井市池之内といいます。正確な位置はまだわかっていません。奈良盆地全体としては南東の端ですが、当時の中心地であり、各街道が交わる交通の要所です。

そこをさらに東の山の中へ、この間5〜6kmぐらいの位置が武烈天皇の列城宮です。初瀬街道の一本道です。こんなところへ武烈天皇は押し込められたのです。

そういえば、後に同族に弑逆されたという蘇我馬子の傀儡、崇峻天皇も、この大和磐余の南の山中に倉梯宮を築かされました。どちらも幽閉されていた形です。

 

人となり 

武烈天皇即位前紀

長好刑理。法令分明。  長じて裁きごとや処罰を好まれ、法令に詳しかった。

日晏坐朝、幽枉必達。  日暮れまで政務し、知られない無実の罪は必ず見抜いてはらした。

斷獄得情。       訴えを初段するのがうまかった。

又頻造諸惡。不脩一善。 また頻繁に悪事をなし、一善もなしえなかった。

凡諸酷刑、無不親覽。  凡そ極刑を好み、見ないことはなかった。

國内居人、咸皆震怖。  国内の人は皆、震え恐れた。

 

武烈天皇は決して愚かな人ではなかったことがわかります。

精神病理学的にどうこういえる立場にありませんが、私的経験則でいえば、刑罰に詳しい人はサディスト系の人が結びつきやすのではないでしょうか。映画に示される暴力団のボスや支配力ある人物は意外とマゾ的嗜好者として描かれています。むしろ、強い精神的な外的圧力を受けている人が武烈天皇のような性行に走るような気がします。

 

「酒池肉林」とは古代中国殷王朝の最後、紂(ちゅう)王の行動を批判した言葉です。武烈天皇を同列として単純に嫌ったり、日本ではこのようなことはなかった、これは中国古典籍の引用作文だとか、くさい物にふたをするように日本書紀の記述は誇張があり誤りだなど、いろいろな解釈があります。

本稿では、日本書紀の記述の通り、武烈天皇はこうした、ひどい行為をした人物と考えています。ただし、もう少し真正面から見つめ直そうと思いました。

 

滅びの心理学

一つの国が滅びるとき、その王やそこに住む人々の行動にはある共通点があります。

武烈天皇の奇行は決して特別なことだとは思いません。

 

例えば、日本では、戦国時代の豊臣秀次がいます。豊臣秀吉の甥の秀次は関白職を秀吉から譲られますが、秀吉に新たな子、秀頼が生まれると手のひらを返すようにその実権を奪われてしまいます。この頃より、酒色に溺れ、女狂いになり、側近を刀で斬りつけるなど奇行が目立ったといいます。最後には子供5人、正室、側室、侍女ら本人を合わせて40人が処刑されました。

よっぽど意志の強いものでないかぎり、名ばかりとはいえ権力を持ちながら、いつ崩れるともしれぬ砂上の楼閣に住む人の末路にはこんな例が多いのです。

 

東洋西洋の歴史のなかで一国の滅亡の表情はつくづくよく似ているように思えます。ここでは朝鮮の三国史記のなかから、新羅滅亡の状況を一例として掲げたいと思います。

歴史は繰り返すといいますが、決して同じものはひとつとしてありません。しかし、何かわかりませんが共通する底辺の人間性がそこに横たわっているのです。

 

ご承知のごとく、古代日本の隣国では百済、高句麗、新羅が覇権を争っていましたが、676年日本では天武5年の頃、朝鮮は新羅国により統一が果たされました。

その後250年頃、この新羅の反映が徐々に衰え、各地で軍閥が乱立し、国王を自称し始めるのです。その中でも力に勝る、北部の勢力、高麗の太祖によって、新羅が滅亡したという歴史です。

924年第55代景哀王が新羅王に即位しました。すでに国は疲弊していたようです。

兵隊や農民が次第に少なくなって、国家が日々に衰えていきました。こんなとき、「後百済王」と自称する甄萱(けんけん)が王都に迫って来たため、新羅国王は自力ではとても対抗できないと、北部の実力者、この高麗の太祖に救援を求めます。しかし、間に合いませんでした。

 

ところで、その間この新羅王は快楽におぼれ、宮廷の重臣とともに、近くの飽石邸というところで酒を飲み遊んでおり、甄萱の襲来を知らなかったといいます。王都門外では決死の戦いが繰り広げられていたはずなのです。

周囲の寵臣らが現状を国王に知らせなかった例は数多あり、そんな王も悲惨なことを聞きたがらないという性行はよく見られます。また、信じられないことには、周囲の官僚たちも、いざとなれば国王自身を敵国に差し出しさえすれば、自分たちは助かるぐらいの安易な妄想を抱いているようなのです。

 

でも現実は、王都の門は内通者などにより内側から開かれます。「王は王妃とともに後宮に逃げ込み、王の一族や公卿・大夫・士・女子たちは四方に散り散りに走り逃れた。賊軍のために捕らえられたものは、身分の上下もなく、すべてみな驚き冷や汗をかいて地に伏せ、奴隷になりたいと乞うたが殺害を免れなかった。甄萱は兵を放って公私の財貨をすっかり掠めとらせた。自らも宮殿に入り、左右の近臣に命じて王を探索させた。王は妃や妾数人とともに後宮にいたが軍中に引き出された。そこで甄萱は王に自殺を強要し、王妃を強淫。彼の部下たちに王の妃や妾を勝手にさせた。そして、王の一族のものを立て、仮に国政を行わせた。これが敬順王である。」

「三国史記1」金富軾著 井秀雄訳注 東洋文庫(平凡社)より

 

新羅最後の王、敬順王は文聖王の後裔とありますから直系ではないようです。それも在位9年にして滅亡しました。この頃までには、高麗の太祖に周囲の郡県のほとんどすべてが降っていました。甄萱もいつしか逃げ出していました。

三国史記の編者、金富軾(きんふしき)は言っています。

「敬順王が高麗の太祖に帰順したのは、やむおえないこととはいえ、また、よいことであったといえよう。もし、力戦し、死守して高麗軍と戦い、気力がくじけ、勢力がなくなるならば、必ずその王族は皆殺しにされ、その被害は、罪もない国民にまでおよんだことだろう。新羅は高麗の太祖の命令を受けるまでもなく、王宮の食庫を開き(封印し)、郡県の戸籍を奉じて高麗に帰順した。このことは高麗の朝廷にたいしては大きな功績であり、国民に対しては、はなはだ大きな徳を施した。」

 

最後の935年12月の記述によれば、高麗の太祖は新羅王を正承公とし、位を太子の上におき、俸禄を給し、旧侍従の貴族や将軍はみな登用したといいます。そして、高麗の太祖側からの要求により新羅王室との婚姻が成立したのです。

 

これは、海外の記録のほんの一例ですが、古代日本にはこんな残酷な例は一つもない国だったと主張するほうが、どうかしていると思います。上記の緑のラインは、この武烈天皇と継体天皇との間に繰り広げられた事象と同じであった想像できます。

 

誤解をまねきやすいのですが、シナリオとしてあらわすと次のとおりです。

 

大和朝廷の血筋が途絶えると、他国から直系ではありませんが後裔のものを探し出します。

これは、血筋の刷新とともに、その氏族の政治経済力の支援を期待してのことです。

それでも力は衰えるばかりで国の疲弊は収まらず、各地で軍閥が乱立し、国王を自称し始める始末です。

内乱まで勃発し、自力ではとても対抗できないと、とうとう北部の実力者、この継体大王に救援を求めます。なりふりかまわない行動といえます。

 

この頃までには、継体大王に周囲の郡県のほとんどすべてが降っていました。

とうとう、継体大王らは強大な軍事力を背景に、大和入りを果たします。

継体側からの要求により旧大和王朝との婚姻を成立させます。

旧天皇の三皇女に対し、継体天皇と二人の息子はほぼ同時の婚姻だったはずです。

 

さらに、三皇女の弟を立て、仮に国政を行わせました。これが武烈天皇です。

同時に旧侍従の貴族や連、臣などの豪族はみな登用されました。

 

しかし、武烈天皇は段々と酒色に溺れ、女狂いになり、側近を刀で斬りつけるなど奇行が目立つようになります。とうとう、安閑はこれを廃し、その皇位を病床の父に与えようとしますが、それがかなわず、自ら天皇となったのです。

 

その翌年、大王のまま継体が崩御、その翌年、安閑天皇が崩御、次々と3人の大王が続けて亡くなられたのです。そればかりか、継体と旧王朝との結び付けに奮闘した、三人の大連、大臣までも同時に亡くなり、政治生命を絶たれたりしているのです。

 

そして、もう一人の息子、帝位を引き継いだ宣化天皇も短命でなくなりました。彼らがどう亡くなったか、日本書紀は一言も書いていません。いくらでも想像は可能ですが、そこまで立ち入ることはできません。

これを引き継いだのか欽明天皇でした。継体の血を半分、旧朝廷の血を半分もつ天皇です。

両陣営にとって、彼は平和を生み出す希望の星だったはずです。欽明天皇はその期待に十分に応え、天才的なバランス感覚の持ち主として活躍していきます。

 

 

本章先頭へ       ホーム目次へ

©2006- Masayuki Kamiya All right reserved.